ためしよみ:魔法のアバンチュール

  • 第1話 潮騒祭りの夜  A ことのはじまり
  • 第1話 潮騒祭りの夜  B アリスロッテ始動
  • 第2話 庄屋の屋敷  A 滝の出る牢屋
  • 第2話 庄屋の屋敷  B 交換条件

第1話 潮騒祭りの夜

 A ことのはじまり

「指は入った?」 「わかんない。遠隔盗視クレアヴォイアンスだと、視界しか見えないし。いまどんな体勢?」 「キャバレーロが上。右手は胸のあたり。感じる?」 「だから視界が見えるだけなんだってば。あっ!」 「なに?」 「タケノコ見えたかも! 一瞬だけ!」 「えっ!? どんなだった? たってた?」 「いや、一瞬すぎて……」 「指は?」 「いきなりキッス来た! あっ! 目ぇ瞑った! 見えない!」 「ベルトはずしたよ! はじまるよ! いよいよ!」 「あーんもう! デネア姉さま、目ぇ瞑っちゃってるから見えないんだよう!」  春先。《潮騒祭り》の夜。  むらの主催で、成人を迎えた若者たちだけのパーティが開かれ、夕方になると成立したカップルがそこいらの木陰で『いとなみ』をじはじめる。今年から従姉妹のデネア姉さまが参加、憧れのキャバレーロ狙いでいくっていうから、わたしと親友のリズムリンツはもうワクワクが止まらなくて、こうしてこっそりと様子を見にきた。 「いわゆる出歯亀ですな」 「ちがうの。わたしたちは見守ってるの」 「魔法まで使って」 「使えるもんは使わないと」  わたしはアリスロッテ。魔法使い。  世界規模で発生した時間軸異常、フリークエンシー・カタストロフで14歳だか24歳だかわからなくなってしまったふつうの女の子。わたしが魔法を使えることは、リズムリンツとお母さんしか知らない。わたしは魔法で、リズムリンツは裸眼で、木陰から姉さまたちの『いとなみ』をのぞき見にきた。  キャバレーロがデネア姉さまのからだに触れてると聞いて、思わずじぶんの手もからだに這わせてみたけど、きっとリズムリンツも一緒。お互い目を合わせないようにしてるけど、まあ、やることは同じ。 「揉んでる?」 「キャバレーロは紳士だからいきなり揉んだりはしないよ」 「じゃあ、こんな感じ? 優しくふわっと撫でる感じで」 「左手は? 指はどこ?」  しきりに気にしているということは、彼女の指も股間でスタンバイしている。わたしもそう。焦らしに焦らされて、あたりは切ない匂いで溢れかえっている。 「紳士だけど指は入れるの?」 「そのための指でしょう?」 「エロい~キャバレーロエロい~」 「待って」  不意にリズムリンツが醒めた声をあげるけど、わたしはさっきから視界を遮られたまんま―― 「そろそろ目ぇあけてよ! デネア姉さま!」  真っ暗闇―― 「タケノコ見ようよぉーっ!」 「デネア姉さま、目ぇ開けてるよ。ねえ、アリスロッテ!」  ――って、えっ?  どういうこと?  いつの間にかリンクが切れていた。遠隔盗視クレアヴォイアンスは精神系の魔法、相手の気が緩んでないと効かない。これが途切れたということは、つまり……? 「キャバレーロもベルト締めてる。何か起きたみたい」 「ええっ!? 終わり!? どうして!?」  かんかんかんかんかん かんかんかんかんかん……  ふと5連打で続く鐘の音が耳に入った。 「5連打ってことは、警戒警報?」 「うん。いつから鳴ってた?」  リズムリンツとふたりで首を捻る。 「わかんない。のぞきに夢中で」 「まったく、わたしたちって」  集落の方から駆けてくる小さな影が見えた。 「おーい! 沖にクジラが来てる! それに――」  顔役の声。人影は砂浜に出て、今年の《潮騒祭り》のリーダーに声をかける。 「クジラ? クジラって言った?」 「クジラで警戒警報?」  クジラはいつものことだった。潮騒祭りだってクジラの神ケトゥスに捧げる祭り。慌てることじゃない。 「顔役はなんて言ってる?」 「よく聞こえないけど……幽鬼エニグマがどうこうって……」 「幽鬼エニグマ!?」  幽鬼エニグマは異界の……ええっと、いわゆる魔物。 「……って、それだっていつものことでしょう?」 「たくさん出てるってことじゃない?」 「たくさんって、どのくらいよ。んもう」  鐘の音はやまない。 「お祭り、終わっちゃうみたい。みんな引き上げてくる」  浜の方を見ながらリズムリンツがこぼす。 「帰るしかないかー。わたしたちもー」 「ええ~っ! こんなに盛り上がってるのに、生殺しはやだぁ~っ」 「なんでわたしたちが盛り上がってんの、って話よ。ほらほら。帰るよ」 「ええ~っ。うち、お母さんいるから。ここで最後までイッてから帰る~」 「ここ、ひと通るからね? 置いていくよ?」 「うえ~ん、置いていかないで~」  立ち上がって尻の砂を払うと、空気が変わっていた。リズムリンツは空を仰いで息を呑む。 「どうしたの?」  その視線の先、空には無数の幽鬼エニグマが舞っていた。  まるで羽虫の群れ。海岸からも悲鳴が上がる。裸のまま小舟から躍り出てくるものの姿もある。 「何か起きるの……?」 「わかんないけど……」  わたしたちの住む双子原ふたごばるは古いむらだった。水産物と農作物を特産とし、むらのはずれには城壁が築かれている。二本の小さな川に挟まれた豊かな城塞都市。魔物の襲来には備えを欠かさなかった。だけどこの数は…… 「観光客のなかに魔法院のひとがいたでしょう? そのひとがなんとかしてくれないかな」 「なんとかって……ひとりでしょ? この数をなんとか?」  じゃあ、どうすればいいんだろう。わたしのお母さんも魔法は使えるけど、戦ってるとこは見たことない。わたしだって同じ。それに逃げようにも、この数じゃ。 「君たちもいたんだ」  戸惑っていると、浜の方から戻ったキャバレーロが声をかけてきた。  彼の父は准爵ヴァイカウントリフト・クロワ。キャバレーロもとうぜん貴族、クロワ家の跡取りだった。彼をこの庶民の祭りに連れ出せた時点で、じつはデネア姉さまはもう勝利していたんだ。 「やだ、あなたたち、もしかしてのぞき?」  うしろからデネア姉さま。いきなり図星。 「わ、わたしたちは、ついさっき」 「そう、雲行きが怪しくなってきたから……」  なんて取り繕ってはみたものの……デネア姉さまは白い目を向ける。 「はいはい。たまたま通りかかった、と」  呆れ顔のデネア姉さまの肩に、キャバレーロが優しく触れると、姉さまの顔は蕩けるように綻んだ。だれがどう見たってベッタベタの恋だ、これ。 「幽鬼エニグマは消防隊のほうで抑えるらしい。君たちは役所前の広場に行くといい。そこに結界を張る」  低く澄んだ声は清涼剤。これがデネア姉さまのものになってしまうのかー……と、ふとキャバレーロの頬にデネア姉さまの口紅がついてることに気がつく。 「け、結界って……?」  話は続けてみるものの、ちょっと目が泳ぐ。 「ティーサンができるはずだ。あいつは寺生まれだ。今日の祭りには来てないみたいだけど、やってくれるよ。探してくる」 「待って」 「まだ何か?」  ええっと、口紅つけたままだとアレかなぁ、というか、これ言ってもいいのかなぁと、デネア姉さまに目配せしたりして、ほら、あの、なんていうか、察してよ。 「あっ」 「どうした、デネア」 「口紅……わたしの……」  そう言われてキャバレーロは手の甲で口を拭った。 「口じゃなくて、頬っぺ……」  と、デネア姉さまが顔を赤くすると、キャバレーロは真っ赤になって頬を拭う。くーっ。もう、たまらんなこの男。ふだん見せない照れ顔がもう。 「ハンカチあるから!」  姉さまはポシェットからハンカチを取り出して、わたしとリズムリンツに「どうせぜんぶ見てたんでしょう?」と言わんばかりに眉を寄せて見せた。上背のあるキャバレーロの顔に腕を伸ばすと、柔らかなふくらみがたゆんたゆんしている。その姉さまの体をゆうゆうと包み込みそうなキャバレーロの肩幅。 「ごめん、ありがとう」  ハンカチで頬を拭く姉さまの左手がちょこんとキャバレーロの胸板に触れてるのは、狙ってやってんのか、素なのか。その手をキャバレーロは軽く握って―― 「ねえリズムリンツ、これってなんの罰ゲームなのかな」 「さっきの続きやっていく?」  ――って。  キャバレーロは、すぐに呆けているわたしたちに気がついて、 「君たちは早く広場へ!」  と、さっきまでデネア姉さまの甘い蜜を啜っていた長い指をのばした。 「うん、行こう!」  これ以上邪魔しちゃ悪いよ。  リズムリンツとふたりで駆け出すと、キャバレーロとデネア姉さまは石垣に沿って入江の方へと駆けていった。 「さっきの続きをやるつもりだよ! 追いかけよう!」  すぐに立ち止まって指さしてみるものの、 「あんた、バカなの?」  リズムリンツに肩をつかまれて、方向を変えられた。 「ひゃっほう!」  全速力で市場通りへ出ると息が切れた。 「なんで全力で走るのよ!」  髪を乱して追いかけてきたリズムリンツのくるくるの巻き毛。汗で頬に貼り付いて、王様ヒゲみたいになってて、思わず吹き出した。 「なに? どうしたの? わたしどこかおかしい?」  空には無数の幽鬼エニグマ。半鐘はずっと打ち鳴らされてる。だのにおかしくて、息が切れて、その場に膝をついて腕をたてた。リズムリンツも呆れて、 「どうなっちゃうんだろうね、このむら」  と、腰を降ろした。  虫の声が聞こえる。  四つん這いになると、シャツの隙間から華奢きゃしゃな胸がのぞいた。 「わたし、四つん這いになってやっと、デネア姉さまの半分だ」 「何の話よ」  リズムリンツは呆れる。 「キャバレーロはたぶん、気にしないと思うよ」 「じゃあデネア姉さまとくっつかないで、わたしとくっつけばいいんだ」 「そうだね」  しらけた顔でリズムリンツは吐き捨てるけど、わたしには魔法がある。じつは不可能じゃないんだ、いろんなことが。 「あのね、リズムリンツ。指、見て。じぶんの」 「指?」  リズムリンツは小さく聞き返すと、じぶんの指を見て息を呑んだ。  厳密に言うと指じゃない。指があるはずのじぶんの手。そこには何もない。 「なにやったの、あんた!」 「ここにある」  わたしは手のひらにリズムリンツの指をはやして見せる。リズムリンツはまた息を呑んだ。その指をくいくいっと動かして―― 「魔法ってこんなことまでできるの?」  やっと声にする。 「そう。ディメンション系の魔法。だから、キャバレーロがデネア姉さまにタケノコしたのをわたしのなかに横取りすることだってできるんだよ」  リズムリンツがさーっと引いたのがわかった。 「やんないけど」 「でも、ぜったいやんないって保証はある?」 「デネア姉さまを裏切ったりはしないよ。もちろん、リズムリンツも」  リズムリンツは露骨に嫌な顔をした。  魔法使いはなんでもできる。  嫌いなやつの大動脈中にムカデを発生させることも、尿道結石を急成長させることも、ウンコを口まで逆流させることも、頭で思い描けることはたいがいできる。  だから、わたしのような魔法使いは、たいがいどこに行っても忌み嫌われるし、ほとんどの場合、牢屋のなかで一生を終えるらしい。  そんな不幸な魔法使いを救うために設立されたのが、魔法院。  親元を離れて魔法院で3年学ぶと、魔法院の紋章の刻印をもらえる。そしてその刻印があると魔法院の掟を破れなくなる。強力な精神束縛の呪文で、掟に反したが最後、廃人になる。魔法使いはその刻印と引き換えに、ようやく社会に迎え入れられる。  お母さんの左手の甲にもその刻印がある。魔法院ではかなりの優等生だったと本人から聞いた。その話を聞いて、わたしは魔法院へのあこがれをつのらせたけど、お母さんはわたしを魔法院に通わせてはくれなかった。おかげでやりたい放題。  ――アリスロッテ。むらに悪い人がやってきたらどうする?  ――戦う!  ――もしその悪い人が、ただお腹をすかせてるだけのひとだったら?  ――うーん。ごはんを食べさせてあげる!  ――そこにもし、魔法院のひとがきて、『戦いなさい』って言ったら?  刻印を受けたら、魔法院の掟が絶対になる。そしてそれは、決して正しいとは言い切れない。  じゃあ、わたしが正しいのかなっていうと。それは。

第1話 潮騒祭りの夜

 B アリスロッテ始動

 広場ではすでに寺生まれのティーサンが結界を張って、今年成人した仲間たちがむらのひとを誘導したり、励ましたりしていた。  若者たちが中心になって企画して運営する《潮騒祭り》――設営に、料理に、出し物――まるでその続きのような光景。わたしたちはこうして、このむらを支える『おとな』になっていく。感慨にふけっていると、どよめきの声があがる。皆一様に、海の方を見ている。 「どうしたの?」 「あれ……幽鬼エニグマが集まってる……」  海の上空には幽鬼エニグマの群れが暗雲を成していた。 「まさか……真鬼トゥルクになるのか……?」  ――幽鬼エニグマが集まり、真鬼トゥルクとなって世界を滅ぼす――それはわたしたちの国……いや、この世界に広くつたわる伝承だった。その真鬼トゥルクが姿を現そうとしている。 「そういえば魔法使いがひとり滞在していただろう?」 「関係があるんじゃないのか?」  まるで責任をなすりつけるかのような声に、リズムリンツが苛立つ。 「関係があるって、それは良い意味で? 悪い意味で?」  さっき、魔法使いになんとかしてもらおうとか言ってたのに、ひとの口から聞くのは癇に障ったらしい。 「わざわざ東の果てのこんなところまで来るんだ。良い意味なわけがない」  魔法院の予言では、世界の寿命はあと3年。3年後には一斉に目を覚ました真鬼トゥルクたちによって世界は滅ぼされてしまう。その端緒が大陸の東端、このむらで始まったのかもしれない。  リズムリンツが不安げな顔でわたしの顔を見る。がちがちと歯を震わせて。  も、もしかしてわたしに魔法でなんとかしろと? 「そんな顔で見られても困る」  わたしに魔法が使えると言っても、敵は世界を滅ぼすようなやつでしょう? キャバレーロのとは違う。同じだったら嫌だけど。 「いままでありがとう」  気持ちのやり場をさがしていたら、リズムリンツの口に漏れた。わたしにしてみたら意外な言葉。目からは涙がこぼれはじめる。 「えっ?」 「成人して、おとなになって、結婚して、このむらで家族を持つのが夢だった」  途切れ途切れにやっとの思いで言葉にして、しゃくりだす。それに釣られたのか、まわりからもすすり泣く声が上がり始める。 「これで、最後だね……」  涙でボロボロ。 「待って! まだ死ぬって決まったわけじゃない!」 「死ぬ……?」  あ、しまった。その言葉を聞いて、子どもたちがわんわん泣き始めた。死ぬなんて言っちゃいけなかった。あーもう。こうなったらもう、わたしがなんとかするしかないじゃない。 「わかった。わたしがなんとかする。リズムリンツはここにいて」  なんとかってー? じぶんでもわかんないけどー。 「アリスロッテが……?」 「そう。わたしが。だけど、わたしがなんとかする姿を、決してみんなは見ないようにして!」  って、わたしは恩返しに来た鶴か。  結界を出る。 「ちょっ! どこに!」  今年成人したひとたちが止める。 「お母さんがいないの! 探してくる!」  リズムリンツに魔法のことが知られたのは、悪い大人から庇ってあげたときだった。まだ12歳だったと思う。お寺の賽銭をくすねたのがバレて、それでつけこまれるようになって、エロいという言葉では済まないあれこれの仕打ちを受けて、「復讐しよう」って、わたしから持ちかけた。  その数日後、幼いリズムリンツを犯していた男は水牛に犯されて、直腸破裂で死んだ。 「なんでもじぶんから菊の花冠を差し出したそうだ」 「それで欲情する水牛も水牛だ」  と、影で囁かれたが、わたしの仕業だ。魔法院の魔法しか知らないものには、それが魔法によるものだとは想像もつかなかった。  同じように、水牛に交尾されて死んだ男がほかにもふたりいる。うちひとりは、最後まで反省の色が見えなかったので、生き返らせて2回殺した。2回目はさすがに反省の色が見えたが、殺した。  おかげでその水牛は『水牛様』として祀られるようになったが、 「祀られてしかるべきはわたしたちじゃない?」  と、リズムリンツは口を尖らせた。  わたしでしょ、祀られるのは。  夕陽が燃え落ち、浜が宵闇に包まれるころ、積層した雲に間断なき幾筋もの雷光、その光が周囲を照らした。その空には無数の幽鬼エニグマ。  浜へ出ると……お母さん、エレイン・ビサーチェの姿があった。 「お母さん!?」 「なんだ、おまえまで来たのか?」  お母さんは浮遊している。わたしも苦手な浮遊魔法で体を浮かせてみると、海の一部が波立っているのがわかる。 「クジラがいる。幽鬼エニグマが動きを封じているんだろう」 「このクジラがケトゥス?」 「どうだろうな。だが、ケトゥスの使いには違いない。クジラへの攻撃は、わたしたちのむら双子原ふたごばるへの攻撃だ」  上空に無数の幽鬼エニグマが飛び回り、そのシルエットはなにかを形作ろうとしている。 「真鬼トゥルクが生まれるの?」 「ああ、おそらくな」  周囲にはお母さんが召喚したであろう光の球が20個ほど浮かんでいた。 「攻撃しないの?」 「いまはまだ無駄だ。実体化したら一気にフレームランスを浴びせる」 「これぜんぶ魔法球スフィア?」  魔法球スフィアは攻撃魔法の基準となるエネルギー体。ここから様々な形の魔法を生み出すことができる。 「いや。異界点エミッターだ。それぞれが13発のフレームランスを放つ」  異界点エミッター……魔法球スフィアを生み出す力の源……13発のフレームランス掛ける20として、260発……。  お母さんはその横で更に光球を生み出している。 「わたしも」  異界点エミッターは無理だったけど、魔法球スフィアだったらわたしにも出せる。だけど7つが限界。8つ目を出すとどれかひとつが消える。 「来るぞ」  眼の前には巨大な鬼の躯体が出来上がりつつある。雷光が走り、その照り返しが鬼の全身を舐めて、その体に脈動を始めた闘気を映す。お母さんの顔をのぞくとひとつうなずく。いよいよだ。その刹那、上空から光の剣が降り注ぎ光球を消滅させる。 「魔法!?」  見たこともない魔法。射点を見上げても、術者らしき姿はない。 「ライトソード。硬化光の魔法。ランク20階位以上か」  視界の隅を小さな影が光を曳航する。 「来たか」  線に見えた光は無数のライトソード。すべてがこちらへと向かってくる。お母さんはフォノ・プレッシャーを展開、ライトソードを霧散させる。続いて―― 「プリズミック・ウォールを貼る。敵を見失うな」  と、言われても、すでに見失ってる。  透明な三角柱がわたしたちの周囲に立ち上がり、視界は垂直のラインで分割される。ミラーハウス効果。その視界のなかに空中を過る影があるけど、無数のプリズムに反射されてどこにいるかはつかめない。 「マリウスか」  マリウス? もしかしてむらで見られたという魔法使い?  顔を上げるとお母さんはすでに4つの魔法球スフィアを展開している。闇、炎、雷、凍気……更に追加して、光。球には目があり、敵を追尾している。 「アルケイン・レーザー?」  そう尋ねるとお母さんは頷いて、光球からレーザーを打ち出す。  5色のレーザーはプリズミック・ウォールに屈折し、蜘蛛の巣のようにあたりを駆け巡る。マリウスと呼ばれた魔法使いはその光の先端から逃げ回る。そしてこぼれた光のいくつかは真鬼トゥルクの躯体へと走り、表皮を焼き焦がす。煮え立つ体液と、その焦げる匂い。真鬼トゥルクが呻き声をあげる。だけどこちらに振り返ることはない。 「クジラを捕獲する気だ」 「クジラを? どうして?」  ふと地上を見るとデネア姉さまの姿が見えた。こっちを見上げている。もしかして、わたしを追ってきた!?  マリウスからの攻撃、ディスク状の光が不規則な軌跡を描いて迫ってくる。お母さんはアルケイン・レーザーの一本を防御にまわしながら、更にマリウスを追い回す。プリズミック・ウォールを再配置、円筒状に、その先端を真鬼トゥルクへと向ける。 「ここから離れろ、アリスロッテ!」 「離れるって? どうして?」  言い終わらないうちにわたしのからだは市場通りまではじき出された。ディメンション!? アルケイン・レーザー5本とプリズミック・ウォールを維持しながら、同時にディメンションまで?  浜辺に舞う5色のレーザー光が見える。 「お母さん!」  呼んで聞こえる距離じゃない。  そういえば、デネア姉さまが取り残されている。  わたしのことが気がかりで追いかけてきたんだ! わたしのせいだ!  駆け寄ろうとした次の瞬間、エクスプロージョン。巨大な爆風がプリズミック・ウォールの突端から真鬼トゥルクへと吹き出し、その爆風がわたしの体を圧す。真鬼トゥルクの鼻先で小さな影がシールドを貼って攻撃を防いでいる。マリウスと呼ばれた魔法使いがいるんだ、あそこに。  凄まじい熱が放出され、頭上の雲が晴れ上がっていく。爆煙でできた柱が小刻みに震え始める。  マリウスまで距離180メートル……コンセントレーションの魔法を使えば、ディメンションが届く……足元の石を拾い上げる。  この石をあいつの胸のなかにディメンションアウトさせる!  プリズミック・ウォールの一本が砕ける。お母さんは再度プリズミック・ウォールを展開、エクスプロージョンの出力を上げるが安定しない。大気が震えている。  コンセントレーション! コンセントレーション!! コンセントレーション!!!  3つ重ねがけだ!  これで届く!  行けぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ!  ディメンション!!! ハイ・ドラァァァァァァイヴ!!!  手のひらの上の石が消え、代わりに脈打つ心臓が現れる。  それはわたしの手のひらの上で大量の血液を噴き出す。  それを!  叩きつけて!!  踏み潰す!!!  マリウスのシールドがゆらぎ、お母さんのエクスプロージョンが圧す!  わたしたちの勝ちだっ!  お母さんのエクスプロージョンの光圧が一気に上がり、臨界を超え爆発を巻き起こす。巻き上がる砂塵、水柱、海面に沸き立つ蒸気が闇をかき消す。遅れて轟音が大地を舐めると、更に遅れて爆風が木の葉を散らした。
 立ち上がると、お母さんの姿はなかった。  マリウスと呼ばれていた魔法使いの姿も、それに、デネア姉さまの姿もない。  ふと踏みつけにしたあいつの心臓に視線を落とすが、もとの石に置き換わっている。  真鬼トゥルクの姿が見える。  ……倒したと思ったのに……!  ぐったりとしているようにも見えるが、両手にクジラを抱えている。  どうしよう。まだ何か手はあるはず。あいつにだって心臓はあるだろうし、石と入れ替えれば……でも、小石じゃ駄目っぽい。岩を? そんなの無理でしょ。やったことないよ。  そうだ! 水牛! 水牛を……っていうか、デネア姉さまは!? 「デネア姉さまっ! いたら返事してぇっ!」  あたりを見回していると、真鬼トゥルクを中心として大きな光の柱が立ちのぼった。  まぶしくて直視できないほどの光。  目を細めて見ていると、光の柱は上部からさらさらと光の粒になって流れていく……金切り声が空を切り裂く……これは……次元振動波だ……まさか、ディメンション?  こんな巨大な?  立ち上る光のなかで、真鬼トゥルクが転送されていく……  ……目を細めていると、目の前に見たことのない景色が映し出される……  まさか、転送先が見えてる……?  お城? なんだこれ?  転送されてくる真鬼トゥルク、石の壁、木の扉、……そしてその扉には、魔法院の紋章がある。  魔法院!? どうして見えてるの!?

第2話 庄屋の屋敷

 A 滝の出る牢屋

 庄屋様の屋敷の薄暗い地下室。窓もない。  そうか。魔法使いだってバレるとこんなところに幽閉されるんだ。  庄屋様の屋敷には最新式のモックストイレがあるって聞いたのに、ここでは床に穴が空いてるだけ。それに柄杓ひしゃく水瓶みずがめ。ウンコしたあとは柄杓ひしゃくで水をかけて、指で洗い流して……まあ、普段と同じだけど、それが部屋にあるもんだから、臭い。  でもまあ、じぶんのウンコだもんな。文句は言えないな。  とは思うものの、飲水と手洗い用の水を同じかめに入れるのはどうだろう。  疲れすぎたせいか、あるいはフリークエンシー・カタストロフのせいか、時間の感覚がない。事件から百年くらい経って、リズムリンツが面会に来てくれた。 「やあ、リズムリンツー。百年ぶりー」 「二日しか経ってないよ」  鉄の扉の小さな小窓越しに、相変わらずの顔が見えた。 「こっちでは百年経ったの」 「はいはい、寂しかったね、アリスロッテ。そんなことより、あなたのお母さん、エレイン・ビサーチェは大丈夫だったみたい。いまここの離れの棟で療養中だって」  ここで? お母さんもここにいるんだ…… 「デネア姉さまは?」 「みつからない。爆発に巻き込まれたんじゃないかって」 「そうか……」  だとしたらお母さんのせいだ。あんなに苦労したのに、クジラは連れて行かれたし、被害が広がっただけ。いっそ何もしないほうが良かったのかもしれない。 「考えすぎないでね、アリスロッテ。デネア姉さまだって、じぶんから結界から出たんだし、あなたのせいじゃないよ」  リズムリンツがわたしを庇ってくれる。 「うん……」  わたしは目の焦点も定まらない。 「だから、元気だして」 「じゃあ、キャバレーロはいまフリーなんだ」  無意識に口にしていた。 「はあ?」  リズムリンツの声のトーンが変わる。それがわかってても、 「わたしにもチャンスが巡ってきた……」  わたしの口は、わたしを無視して好きなことを喋りだす。 「あんた、デネア姉さまが死んだかもしれないってときになに言ってるの?」  思考が定まらない。 「ごめん。実感がないの」  涙がポロポロ溢れてきた。ああ、そうか、悲しいんだ。悲しいから泣いているんだ、わたし。そう気がついて遅れて悲しみがやってきて、止まらなくなる。 「わかった。今回だけは疲れてたからってことで許してあげる。あんたには実感ないかもしれないけど、みんな必死になって亡骸を探してんだからね。表ではぜったいそんなこと言わないでね」  亡骸……デネア姉さまの…… 「見つかってないの?」 「うん。大爆発だったから、砂に埋れてるかもしれないし、波にさらわれたかもしれない」 「そうか……でも見つかってないってことは、生きてるかもしれないってことだよね?」 「うん。可能性で言えばね。ていうか、魔法で探せないの?」 「いまは無理」 「なんで?」 「あのね、魔法を使うと滝のように水が流れ込む仕掛けがあるの……」 「そんな仕掛けが……」 「水が流れてくると、トイレのウンコが全部浮き上がってくるの……うっうっ……」 「それは辛い……」  わたしだって、ここから出たいのはやまやま。だけど、そうもいかない。トイレの穴が外に通じてるかもしれないと思って手を入れてみたけど駄目だった。 「しかももうウンコしちゃったから、二度と試せない……うっうっ……」 「あー。しちゃったかぁ」 「庄屋の家はモックストイレだっていうから、楽しみにしてたのに」 「投獄されてんのに、そんなに高級なトイレ使えるわけ無いでしょ」 「真鬼トゥルクを倒したヒーローとして招かれるんだと思ってた……うっうっ……」 「それねー。わたしも誇らしかったけどねー。けっこういろんなひとが目撃してたんだよ、あなたの活躍」 「キャバレーロも?」  キャバレーロもわたしの魔法、見てくれてたの? 「彼は別。デネア姉さまのこと探してて、それどころじゃなかった」 「ああ……」  肩をすぼめてるとリズムリンツは鼻でフッとため息を吐いてみせた。 「わたしが庄屋に掛け合ってあげるよ。魔法で悪いことしたわけじゃないし、アリスロッテはいい子ですって」 「ありがとう!」 「あんまり期待しないでね? 庄屋は石頭だから」  翌日。 「駄目だったぁー! 庄屋、ほんっと、わからずや! ……ていうか、臭い! 昨日よりすごい臭い!」  あー、やっぱりか。庄屋イズわからずや。あー、やっぱり。昨日より臭い。あー、それもやっぱり。そう。そうなのよ。ぜんぶ予想通り。わたしここで死ぬの。 「てか、なんでこんなことに?」 「庄屋の息子が鍵あけて入ってきた」 「はあ?」 「魔法使って滝で流してやった……」 「それでウンコ水に浸かってた、と?」 「あたり」 「庄屋の息子は?」 「泣いて出ていった」 「ええっと……キャバレーロも来てるんだけど……どうする?」 「えっ!?」 「ねえ、キャバレーロ! アリスロッテ、ウンコまみれだけどどうする?」 「み、見ないでっ! 匂いも嗅いじゃ駄目!」 「ああ、うん。アリスロッテが見てほしくないって言うんだったら。匂いも嗅がない。口で息をするよ」  鉄の扉の向こうから声が聞こえる。  ああ……キャバレーロ、ほんといいひと……。 「……なんかもう、いっそ嗅がせたいくらい」 「いまなんつった?」 「あ、ええっと、なにも」  うっかり口に出してた。  キャバレーロはデネア姉さまのことを聞きに来たんだと思う。それなのにわたしを気遣って、どんな魔法を使うの? 何歳の頃に気がついた? いままで気づいてあげられなくてごめん。って、そんな話を振ってくる。 「滝が出るとちょうど、ヘソくらいまで水が貯まるの」 「それは災難だね」 「だから、滝の出てくるところにぶら下がって、足をあげておけば、滝で綺麗になって、あとは水が引くのを待ってれば良いはずだったの」 「はずだった? 試したの?」 「うん」 「で?」 「滝の勢いが凄かった」 「流された、と」 「うん」  キャバレーロは口で息をしながら鼻声で話した。話題はあちこちに寄り道しながら、本題に触れる頃には、ふつうの声に戻っていった。 「デネアは、最後はどうだったの?」  って、不安げな声を、少し震わせて。 「ごめんなさい。見てないの」  鉄の扉の向こう。姿は見えなかったけど、キャバレーロが声を殺して泣いているのがわかった。 「いいんだよ。アリスロッテが謝ることじゃないから」  わたしが渾身のウンコネタを語ってるときも、ずっと声は震えてた。 「わたしがもっと機転を効かせていれば……」 「いいんだって。もう終わったことだし」  せめてあのとき……遠隔盗視クレアヴォイアンスを使ってたらデネア姉さまの視点がわかったのに……なんでわたしってば肝心なとき、真鬼トゥルクの視点で魔法院の様子なんか……見て……?  真鬼トゥルクの……?  視点……?  あれ……? 「どうしたの?」  真鬼トゥルクの視点で真鬼トゥルクが見えるわけない……じゃあ、あの景色は…… 「もしもーし! アリスロッテ聞こえてるー?」 「わかった!」  思わず鉄の扉の格子窓に飛びついた。 「わたし……デネア姉さまの視点で見てたんだ!」 「デネアの? どういうこと?」 「真鬼トゥルクがディメンションするとき、魔法院が見えたの! 紋章があったから間違いない!」 「まってまって、わかるように言って! 結論だけ教えて!」 「デネア姉さまの視点で、魔法院が見えた! だからデネア姉さまは魔法院にいる!」 「それは確かなのか?」  翌日もリズムリンツは来てくれた。 「ごめんね、力になれなくて」  わたしは今日もウンコまみれ。もう慣れた。 「キャバレーロのお父さんからも庄屋様に相談してくれたみたいだけど、駄目だったって」 「彼のお父さんって准爵ヴァイカウントでしょう? 貴族でも駄目なんだ……」  庄屋は領主様に任命されてむらの運営を預かるひと。偉そうにしてるけど、身分はあくまでも庶民。 「領主様の命令で、この件は庄屋一任。お上は魔法院とは関わりたくないんだよ」 「なんで魔法院が。関係なくない?」 「そんな気はするんだけどねぇ。キャバレーロはキャバレーロで魔法院に行くって言ってるけど、親に反対されてる」  デネア姉さまを助けにいく気なんだ…… 「わたしはどうすればいいんだろう」  リズムリンツは扉の向こう、うずくまったまま寂しそうにこぼす。 「どうすればって?」 「わたし、アリスロッテが魔法で助けてくれるから生きてこれたんだよ」 「大げさだなぁ、リズムリンツはー。わたしなんか、一生この牢屋だよ? それに比べりゃあ、あなたは天国だよ」 「うん」  という彼女の返事も虚ろ。 「でもさあ、あなたのお母さんも悪いと思うのよ。ちゃんと魔法院に通わせてたらこうはなってなかったわけでしょう?」  それは…… 「いろいろあるんだよ、きっと」 「いろいろって、便利な逃げ言葉」 「魔法院に行きたいと思ったことはあったよ。ちっちゃい頃。でも、刻印をもらったら規律でがんじがらめだよ。わたし、耐えられると思う?」 「わたしは、まともなアリスロッテとも話がしてみたいよ」 「まとも!? いまのわたしがまともではないと!?」 「逆に聞くよ。どのへんがまともだと思う?」 「まともだよ。世間がおかしいんだよ。恋だってしたいし」  リズムリンツは鼻で笑った。恋は苦手なんだと思う。きれいだし、背も高いのに。ああ見えて、お見合いして結婚するタイプ。 「だから、リズムリンツはわたしの代わりに、ちゃんと恋をして」 「無理。わたし、お見合いでいい」 「だめ。ちゃんとじぶんから恋をして、人生楽しんで。わたしがやりたいこと言うから、ちゃんと覚えておいて、わたしの代わりに叶えて」  扉の向こう、ため息だけでリズムリンツは呆れてみせた。 「わかった。言うだけ言ってみて」 「まず、恋をして。それから、タケノコして。したら報告に来て。もちろんキッスも、あとお互いの股間ペロペロ舐めたりとか、フルコースで。それから子ども生んで。家族を作って。浮気もして、浮気相手の子どもも生んで――」 「難易度高いわ」 「あとは裸エプロンと――」 「裸エプロンの順番、違うくない?」 「夫さんには裸ネクタイさせて、お花畑で追いかけっこするの」 「裸エプロンと裸ネクタイで?」 「つかまえてごらんなさい、うふふ、うふふふ~」 「まてまて~、あはは、あははは~」  リズムリンツは臆病な子。じぶんから恋をして、告白したりなんてしない。だれかに言い寄られて、半ばしょうがなく家庭を持って、そのなかに幸せを見つけるんだと思う。 「恋もタケノコも美味しいんだよ、ぜったい。だから。ね」 「うん。でも、女なんか知らない無垢な少年とじゃないと、わたし、恋愛無理」 「なにが無理なのよ」  経験でひとは大きくなるなんて嘘だ。経験の半分はひとを萎縮させる。 「あ、そうだ。それからモックストイレ」 「ああ、それならもうクリア」 「えっ? モックストイレ使ったことあるの?」 「うん。支援者の家にあった」  リズムリンツは12歳から施設にいた。その施設の支援者の家に招かれることがたびたびあった。 「マジで!? どうだった?」 「うーん。くすぐったいっていうか、恥ずかしいっていうか」  モックスってのは、ゴブリンやコボルトみたいな小型の亜人。亜人のなかでは圧倒的に人懐っこく、優しくて、何でも食べる。そのモックスを調教して、用を足したあとに綺麗にしてくれるよう躾けたのがモックストイレ。金持ちの家のトイレはほとんどがそう。 「モックスが舐めてくれるってことは、柄杓ひしゃくで流さなくていいんだよね?」 「そう。あれねー。便利すぎてくせになりそう」 「じゃあ、爪の間にウンコ詰まることもないんだー」 「うちは海綿で洗ってる。あんたんとこ指なの?」 「うん。指のほうが綺麗に落とせるって、お母さんが」 「そういうのこそ、魔法でなんとかならないの?」 「だよねー。でも、そのためのモックスでしょう? モックスってそういう生き物だと思う。人類を幸せにするために生まれてきた」

第2話 庄屋の屋敷

 B 交換条件

 地下室は離れの倉のなかにあった。  何日ぶりかに陽の光のなかに引きずり出されて、勝手口から屋敷へと通された。メイドがルームシューズを差し出す。廊下へ出て、中庭をぐるっと回って、奥の棟へ。その一室、壁には豪華な絵が掛かっている。趣味は悪い。庄屋の趣味。庄屋は嫌い。笑っているときも困り顔に見えるハの字の眉毛が嫌い。庄屋は小間使を廊下に待たせて、部屋に入った。 「アリスロッテ。投獄して済まなかった。しかし、野良の魔法使いを野放しにしたと魔法院に知れたら、こっちが恨みを買う。許してくれ」  ええっと。許しますっていうのも変だし、ありがとうって気持ちでもないし。 「ああ、はい」  これでいいのかな? 「おまえに非がないのはわかっている。むしろむらのために戦ってくれたこと、誇りにすら思っている。だがこちらにもいろいろと事情がある」  いろいろと……便利な逃げ言葉。続けてしばらく言い訳がましいゴタクを並べたあと、 「牢から出すのにはひとつだけ条件がある」  と切り出した。 「条件? 条件とは?」  庄屋は部屋の前に控える小間使に、 「エレインをここに」  と、伝えた。 「お母さん、もう大丈夫なの?」 「ああ。大事な話だからな。いっしょに聞いてもらうよ」  すぐにノックの音、お母さんが部屋に通された。 「四日ぶりだな、アリスロッテ」  顔を見たら涙が溢れてきた。わたし、24歳なのに……。これじゃ14歳の子どもみたい。 「お母さん……」 「泣くな、アリスロッテ。庄屋様の前だ。恥ずかしいぞ」 「ああ、わたしなら構わん。落ち着いてから話そう」 「いや、わたしから話す。アリスロッテ。おまえには魔法院に行ってもらう」 「魔法院に?」 「そこで刻印を受けてくることが、おまえを開放する条件だ。庄屋様と話し合って決めた」  お母さんが庄屋を指し示すと、続きを庄屋が引き取る。 「エレインも小さい頃に預けられて学んだ場所だ。エレインだけではない。まっとうな魔法使いはみなそうしている。アリスロッテにしても悪い話ではないだろう?」 「でも……」  魔法院は全寮制の学校。お金がかかるはず。 「金のことか? それなら心配するな。わたしが支援する」  庄屋も庄屋の息子も大嫌いだった。狩りのときによくお母さんをお供に指名してくれたけど、いつもお母さんに馴れ馴れしくベタベタしてくる。奥さんに先立たれて長い。それ以来ずっと。ずっとだ。こんな奴に借りを作りたくない。 「お母さんはいいの?」 「アリスロッテ。わたしはエレイン・ビサーチェだ。『エレイン・ビサーチェはそれでもいいのか』と聞いてくれ」  お母さんの声は凛としていた。 「わかんない。どういう意味?」 「おまえの母としての決意ではない、アリスロッテ。おまえというひとりの未熟な魔法使いをどうするか、双子原ふたごばるの運営に関わるひとりの人間としての決意だ。母と娘だということは忘れろ。ひとりの魔法使いとしてどう生きるか、答えを出すんだ」  急にそんなことを言われても…… 「もう少し考えちゃ駄目?」 「それはデネアを救い出せるチャンスを引き伸ばしてまで考えることか?」  そっちもあった。 「デネア姉さまのこと、聞いたの?」 「ああ、リフト准爵ヴァイカウントからな。あとで詳しく聞かせてくれ」  お母さんの言葉を待って、庄屋様が続ける。 「魔法院は大陸の西の外れ、テルル精王国にある。街道をイルガヤの街まで行けば、そこのポータルからワープできる」 「イルガヤって、名前は聞いたことあるけど、じゅうぶん遠いんじゃない?」 「ああ。女の一人旅では不安があるが、キャバレーロ殿を同行させる」  マジでっ!? 「生真面目が立って歩いているような男だ。あの男なら間違いはあるまい」 「行きます!」  って、それを最初に行ってよ! 「決意してくれたか!」 「わたし、魔法院に行ってデネア姉さまを探し出して、それから優秀な成績を修めて刻印を受けて帰って参ります!」  デネア姉さま! わたし、デネア姉さまを助けに行きます! だけどそれには条件があります。それは! キャバレーロのはじめてのひとの座をいただくこと! 心配ご無用、お姉さま。男というのは、女のひとりやふたり知ってこそ輝くのです! わたし、アリスロッテ・ビサーチェが、一皮剥いたキャバレーロをお届けに上がります!  モックストイレは廊下に出て突き当り、暖簾の先にあった。  なかに入ると、入り口付近の小さい椅子にモックスが座っていた。  うちのトイレよりぜんぜん広い。さっきまで入れられてた牢屋と同じくらいの広さ。  モックスと目が合うと、向こうもじっとこっち見てる。なんとなくニコニコしてるように見える。便座に座って用を足している間もずっとこっち見ていて、音が途切れると、おっ、出番ですね、みたいな顔になる。  じょろ。  おやおや続きがありましたか。  じょ。  3回目ですか。たまにいらっしゃるんです。 「そんな顔で見るなぁーっ!」  終わって立ち上がると、椅子から降りててこてこ歩いてくる。  お尻のほうに回り込んで…… 「んーっ。んーっ」  なんか訴えてる。  腰を曲げて……? 前かがみになれって? 「こう?」 「ん。ん」  言われたとおりにしてみると、いよいよはじまる。  後ろからスカートをめくって、両手で太ももをつかんで、顔を押し当てて…… 「ひやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ~~~~~っ!」  舐めてる! モックス、舐めてる! わ、わたしの、な、舐めてる!  こ、これは素晴らしいですよ、みなさん、ゴブリンの舌ではザラザラしてるし、コボルトは鼻の周りの剛毛でお尻に優しくない、モックスならではの肌触りとフィット感。このラグジュアリーな体験、お金持ちがこぞってモックストイレ導入する気持ちがよーくわかりますわよ。  最後に菊の花冠を指で広げて確認する。 「ん。ん」  終わったらしい。  首輪に名札がある。 「コタロウ」 「ん。ん」  そうか。コタロウっていうのか。  コタロウは柄杓ひしゃくかめの水をすくって口を濯いでいる。 「そうかそうか。ちゃんと口をきれいにするんだな」  なんて合理的な。  あ、そうだ。前もやってくれるんだろうか。 「コタロウ、こっち」  ちょっと便座に片足あげて、前から舐めさせてみる。  が、コタロウ拒否!  前足をつっぱって全力で拒否! 「コ~タ~ロ~ッ! 後ろは舐めても前は舐められんと言うのかっ!」  ちょっと時間がかかった。  時間がかかった言い訳を考えながら部屋に戻ると、お母さんと庄屋様の声が聞こえた。 「だから、わたしにだけは正直に教えてくれと言っているのだ。アリスロッテの父親は魔法使いなのかどうかだけでも!」 「何度も言ってるだろう? あの子はわたしがひとりで生んだんだって」 「またそのような話を。そなたの遍歴を責めようというわけではないのだ。魔法院への書類には必要になる情報だ」 「タネの知れぬ私生児などざらにいる。『不明』でいい」 「あの子の蒼銀の髪は、北のガンフ峡では多く見られるという。父親はガンフ人だともっぱらの噂だ。そこまでわかってるんだ。隠すことはないじゃないか」  こりゃあ、タイミングがまずいことになった。  廊下に使用人が控えているけど、シカト。助け舟くらい出してよ。目配せもなんもなし。しょうがないので、トイレまで戻って、歌いながら部屋まで戻ってきた。 「たっだいまーっ!」 「よう、アリスロッテ。ご機嫌だな」 「牢から抜けられるのがよほど嬉しいと見える」  うるせぇ、クソ庄屋。
「キャバレーロとふたりで!?」  というのが、リズムリンツのリアクション。 「心配。キャバレーロが汚されちゃう。デネア姉さまのフィアンセが……あああ……」 「でもさあ、男の人ってタケノコたたなきゃ汚されるも何もないと思うの」 「ま、それはそうか」 「キャバレーロはデネア姉さまに夢中だし、わたしのことなんて眼中にないもん」 「だったらいいんだけど。テルルの魔法院まで何日かかるの?」 「テルルまでは二十日くらいだけど、イルガヤからポータルがあるって」 「イルガヤってことは、途中二泊かな……」 「ふっふっふっふ……たった二泊だけど、ふたりきりだ」 「あー、やっぱダメ! わかった、わたしも行く!」 「やったあ! 3Pだ!」 「喜ぶなぁっ!」 「でもさあ、リズムリンツはわたしが襲うこと前提で話すけどさあ、向こうから誘ってきて何かあったらどうするわけ? わたし、キャバレーロに誘われたら無理。断れない」 「その心配はないよ」 「万が一の話よ。デネア姉さまに話す? それとも何事もなかったような顔する?」 「それは、いま心配してもしょうがなくない?」 「いや、心配なんかしてないけど」 「しろよ」 「どっちなのよ」 「たった二泊っていうけど、まかりまちがえば子どもを授かったりするわけじゃない? ちゃんと考えてる?」 「ディメンション魔法でタケノコするときにタケノコ汁捨てたらいいんじゃない?」 「はあ? そんなことできるの?」 「原理的には」 「タケノコ汁はどこに飛んでいくの?」 「いちばんMP消費しないのは、ワープ用のポータルに飛ばしちゃうことかなぁ」 「あ、まって。それ、テレポート魔法とかでワープクリスタルに飛んだら、知らないひとのタケノコ汁がぴゅって飛んでくる可能性もあるってこと?」 「ああ、あるある。それ、顔とか服とかにかかるならまだしも、体内にテレポートしてくる可能性があるよね」 「マジかーっ!」 「やっばー」 「あーあ、もう! アリスロッテのせい! わたしワープクリスタル見るたびこのこと思い出しちゃう!」  うん、わたしも言わなきゃよかったって思った。  旅立ちを控えた夜。  バックパックを詰め終えると、お母さんが部屋の扉をノックした。 「アリスロッテ」 「あ、お母さん。荷物はもう詰めたよ」 「ああ。明日から3年、会えなくなるな」 「うん。寂しい?」 「そうだな。寂しいかもしれないな」 「えへっ。わたしは平気。ともだちできると思うし」  お母さんは部屋の壁に手を置いて感慨に耽ってる。まるでお母さんが引っ越すかのように。そして不意に顔を向けて、切り出した。 「アリスロッテ。君が旅立つ前に大切な話がある」  お母さんはそう言うと、ベッド脇のスツールに腰掛けた。 「大切な話って?」 「結婚することになった」 「えっ?」  何を言われているのかわからなかった。男嫌いのお母さん、わたしのお父さんのことも一言も教えてくれなかったお母さんが、結婚? 「相手はバスラウ・ビッフェブラン。庄屋だ」  思わずその場に立ち上がった。 「それってもしかして、わたしの開放の条件!?」  お母さんはゆっくりと噛みしめるようにして口を開いた。 「いや。以前からあった話だ。君のために受けたわけじゃない」 「いやだぁ! よりにもよって庄屋はいやだぁ! 結婚するにしても庄屋だけはいやだぁ! しかもわたしを利用するなんて卑怯だぁ!」 「真鬼トゥルクを見ただろう? アリスロッテ。わたしたちは、あれと戦うんだ。負ければ3年後に世界は滅びる」 「だからってお母さんが犠牲になることじゃない! 庄屋なんか爆発すればいい! お母さんが無理ならわたしが殺してあげる! 結婚なんかしちゃダメだぁっ!」 「お母さんと呼ぶな! アリスロッテ!」 「……」 「それに犠牲になるのとも違う。わたしの意志、決断を信じてくれ」 「そんなこと言ったって……」 「デネアはまだ生きているか? 今日は生きているとして、明日は生きているか?」 「わかんない。わかんないけど」 「フルト・グレイド魔法院第28階位魔法使い、エレイン・ビサーチェとしての決断だ。このむらを指揮し、このむらを守ると決めた。アリスロッテ、君は君の決断をするんだ」 「決断……わたしの……?」

ここまでで全体(第一巻)の13分の2になります。続きはKindleでご購入し、お楽しみください。

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