- 第一章 デニスの弟子
- 第二章 魔法のラズベリー
- 第三章 シンセシス
- 第四章 悪党の意地
- 第五章 辺境警備
- 第六章 ビジョン・クエスト
- 第七章 地球、二〇二二年
- 第八章 進むべき道
- 第九章 幻想の向こう
- 第十章 新しい旅
- 第十一章 卒業文集の続き
- あとがき
第一章 デニスの弟子
飛行機の中で一瞬だけ十四歳になった。 だれも祝う人のいない誕生日、「お誕生日おめでとう」のメールは母から。日付変更線を越えて、ほんの一睡の眠りに落ちたあと、鳥はロサンゼルス国際空港へと降りた。三六六日目の十三歳。オマケの一日。ボーディングブリッジをくぐって、案内通りに進むと、出迎えの伯父の姿が目に留まった。写真で見たテンガロンハット。伯父は無精髭を生やし、髪は染めて、有名なハリウッド俳優に似てなくもなく、僕の母からは「ニセピ」と呼ばれていた。 伯父の後ろ、長いムービング・ウォークをいくつか乗り継いで、英語の案内を聞いた。英語は得意だった。手すりにつかまってください、左側をあけてください、それからたぶん、降りる時は足元に注意してください――実際聞いてみると中身は日本と変わらないんだよね、って、心のなかの日記に記す。 「ガイドを頼んである」と、ニセピはニセピらしい仕草でスマホを耳に当て、しばらくして「車も出してくれるそうだ」と、僕に振り返る。後ろからくる人の姿に気がついて、キャリーバッグを寄せる。エクスキューズミー、ユアウェルカム、小さく交わす。東京だったら無言で済ます場面。 ターミナルビルを出て、定規を当てた夏の陽射しを自由曲線の風がくぐると、乾いた土の匂いが鼻先に舞う。ニセピとの話題は、僕の学校のこと、母の近況、祖父母のこと、それが途切れる頃、肺活量のある白いピックアップトラックが眼の前に止まった。ニセピは降りてきた女の人とハグ、僕は握手して、何年か前にこちらで知り合った人だと紹介される。 たどたどしい日本語で、「こんにちわ、イザベル・マルティネスです」と、名乗ったあとは英語。ようこそ、ロサンゼルスへ。お会いできて嬉しいです。そこそこヒアリングはできた。イザベルさんはとある日本のアニメの、なかでも自分と同じ黒髪のキャラが好きだと話してくれて、それにうっかり乗ってしまったおかげで、「その歳で知ってるなんて凄い」などと言われて、こちらも相当なアニメ好きだと思われてしまった。 「母が好きなもので」 とりあえず、逃げは打っておいたけど。 その人がハンドルを握って、「せっかく来たんだから」と、三人でロスの街へ。車は日本のものより一回り大きく感じた。車だけではなく、すべてがそう。椅子も、食べ物も、風の密度も。 買ってもらったサングラス越しに、映画の街並み。映画で見た消火栓、映画で見たパトカー、同、信号機、空の色、雲の形、そこに溢れてる音も、空気の匂い、その肌触りも。伯父は僕の時差ボケのことを気にしていたけど、そんなものはもう、ぜんぜん。眠気? なにそれ。街を歩いてるだけでハイになってくる。 「それが睡眠不足の証だって言ってるんだ」 ニセピが口の端だけで笑う。 食事を取りに、チャイナタウンへ。横浜の中華街にも行ったことがあるけど、中国文化への解釈が違う。横浜の中華街は、日本の色と混じり合った部分があったが、こちらの中華街は東南アジア全域を含んだ極彩色のモザイク画だった。ベトナム料理、韓国料理、そして日本料理屋までもが渾然と立ち並ぶ。 夕食を終えて、「それじゃあ明日、現地で」と、ダウンタウンのホテルへ。ロスのホテルと聞いて、摩天楼の一角にそそり立つバカでっかいビルを想像してたけど、案内されたのは平屋かってくらいの横長なホテル。でもこれだけ土地があるんだし、こういう土地の使い方が正しい。買ってきたコーラとビール、それぞれ一ダースを冷蔵庫に突っ込んで、オマケの一日を乾杯で締めた。 寝て、起きて、遮光カーテンを一気に開いて深呼吸すると、チュンチュンとスズメの声を含ませた朝が染み込んでくる。今日からは正式に十四歳。母に聞いた話だと、十三歳と十四歳で法律が少し変わって、某テーマパークにも一人で入れるようになるらしい。ベッドの上でカブトムシの幼虫みたいになっている伯父を起こして、まずは腹ごしらえ。しなだれかかる巨大な幼虫の背中を押して、ダイナーへ。 「欲しい物を指して、ズィス、ズィス、ズィス、アンドズィス、最後にアンドズィスで、ここまでって意味になる。あとは日本語でいい」 いいのか? よくわからないまま注文したハンバーガーのバンズはヘロヘロで、肉もパサパサで、「安いから」と、多分それで我慢しろって意味で言ったんだろうけど、このニセピは初めて海外旅行した時の気持ちなんか忘れてる。 見てこの、バケツみたいなコーラ。 今年、高二の春から都心の私立中、御三家の下あたりの学校に編入して、そこではもうプレッシャーもない。気楽なもんだ。あそこでなら僕はもう凡人でいい。というか、凡人だったんだよ、今までも。勉強して、成績が上がって浮かれてるだけの。そしてトップ校の下の、そのなかでもトップでもない今の成績。笑えるよね。現実なんだってさ。これが。 去年は音楽だけ親友の田村に負けてて、まあ、悔しくて。それが新しい中学だと僕がトップを取れるのは音楽だけになってしまった。他はトップグループにつけてるかすら怪しい。面談どうしようかな――ってのがたまに脳裏をかすめる。 予約していたレンタカーを取りに行って、指定したものと色が違うだのなんだので三十分くらい待たされて、でも車に乗る前にコーラ始末しとけって言われてたし、神様が与えてくれたんだな、この時間も。なんて。しばらくしたらブロンドのお姉さんが呼びに来て、駐車場に向かうとそこには鼻息の荒いごっつい顔をした青いアメ車が待ち構えていた。車種はマスタング。ニセピにそう聞いた。その助手席に座って、日本だったらこっちが運転席だよなって、妙なとこに感動してたら屋根が開き出す。 抜けるような空が吹き込んでくる。 これだよ、これ。 面談は、「アメリカの大学に進学したいです!」だな。 エンジンを吹かすと、青いボンネットが空を加熱する。ギヤを入れて、通りへとその鼻先を向ける。日差しとサングラスと風とがロサンゼルスの夏だ。東京に淀んだ風のない八月には、まだ名前がない。 「夏は来ぬって、夏の歌じゃないよね」 卒業式の日に歌った季節外れの歌のことを思い出した。 「突然どうした?」 「いや、なんかあの歌、涼しげだし。日本の夏じゃありえないし、こことも違う。いったいどこの夏なんだよって」 「さあな。どっかの扉を開けたら、その先にでもあるんだろう」 話題作り定番の天気の話が秒であしらわれた。 「現地まで三時間かかる。少し寝てろ」って。そんなこと言われても。 ね・む・れ・る・わ・け・が・な・い。 カーナビと外の景色を見比べながら、いくつかの角を曲がると、青いマスタングは低く唸りながらアスファルトの大河へと飛び込む。鉄の獣の群れに分け入り、巨体を震わせる猛獣どもを右に、左にと追い越して、故郷をめざす獣のように、靭やかに駆ける。 「屋根って閉めなくていいの?」 大声で聞いてみるが、聞こえていない。 ちらりとこちらを見てニヤリとしてみせるだけで、スピードを上げる。 なんだろうな。たぶんこの人、たまに自分のこと本当にムービースターだと思ってる。 しばらく走るとそこはもう荒野、まわりはほぼグランドキャニオン。ハイウェイを降りてトラックストップと呼ばれるアメリカ版の「道の駅」みたいなとこに寄って、爆音になって消えた分のガソリンを入れて、ホットドッグを買って、スープには四、五枚のクラッカーをばりばりと砕いて入れる。 「この先は五百年前のアメリカだ」 ニセピは埃立つ空の足本を指差す。蜃気楼に揺れて地平線が見える。僕が距離だと思っていたものは、時間だった。これから僕は、僕のビジョン・クエストのサポートをしてくれるスピリチュアル・リーダーに会いに行く。大雑把な食事を終えて、トレーを戻して、それから電話でガイドの人と連絡を取り、また青い獣は走り出す。 ビジョン・クエストは昔からこの地に住む人たちの成人の儀式で、本来は僕が受けるような儀式じゃない。だけど、伯父が去年受けたときに僕のことを話したら、なぜか特別に受けさせるみたいな話になったらしい。 「なんかそれ、すごくない? 選ばれたなんとかみたいじゃない?」 と言うと、絶対にそれを口にするな、心の中にも思い描くなと注意された。 僕を指導してくれる人は学校で聞いた言葉で言えばネイティブ・アメリカンの人。だけど、伯父はそのネイティブ・アメリカンって言葉も使うなと言う。彼らはアメリカという国名が定まる前からそこにいて、侵略者の子孫と区別するために「ネイティブ」という修飾子を与えられた。たとえば叔母が山形に住んでいるが、殊更「山形県民」と言ったりはしない。「ネイティブ」はそれ以上に重い言葉だ。語りうるのは、その文脈を要する時、相応の覚悟を持ってだ、と、ニセピは言う。 「人それぞれ名前があり、一族にも名前がある。どう呼ぶべきかは自分の胸の中から探せ。人が決めた言葉を使うな」 と。一理ある。確かに、出会う前に決まっていることなんか何もない。 その彼らは夢をとても大切にしているらしく、ビジョン・クエストというのも極限状態の中で見る夢で、それは人生を示唆しているのだそうだ。そのビジョン・クエストを指導してくれる人、それがスピリチュアル・リーダーで、今回会う人。名はデニス・モナーク。伯父の名はさして重要ではないのでこのまま伯父、あるいはニセピで通す。 デニスは伯父を見ると固くハグを交わし、まだエンジンを止めたばかりのプスプス言っているマスタングを指して、「買ったのか?」「いいやレンタルだ」「買え。買って今度乗せろ」みたいな話をしていた。想像していたよりずいぶん気さくだ。家の前でこっちを見てるごっついマスティフ犬のほうがビビる。 「デニスさん」 と、僕は呼ぶことにした。 「日本から来たヒロキ・ムカイです」 ここまでは英語。あとは「どうせ通じない」と鼻で笑われた英語を諦めて、レイ――と、アニメのキャラ名で呼ぶと照れて喜ぶガイドさん――に通訳してもらってコミュニケイション。 曰く、デニスがビジョン・クエストで導いた人は世界中にいるという。それぞれなんらかの使命を持った人で、どうやら僕もその一人らしい。そしてこれは誰かに誇るべきことではなく、僕の課題であり、運命でもある。 「はい、わかっています」と、僕。 いや、本当にわかってるよ。僕はなんかヤバい団体に勧誘されてるんだって。 ニセピも僕が警戒してんのわかってそうな顔でニヤニヤしてるし。でもまあ、ここはアメリカだ。しかも五百年の時を遡ったんだ。そういう冒険なんだよ、これは。たぶん。 デニスは僕に、どこから来たのかと聞いてきた。 東京――と答えようとしたけども、それを思いとどまって、北海道、札幌市と答えた。そこに僕は二歳の時までしかいなかったし記憶もないけど、不意に赤ん坊の頃の僕を抱いた母の写真を思い出してそう答えた。そこにはきっと、「夏」があるのだと思う。 次に彼は、どこに行きたいのか、と聞いてきた。 僕はそう、実はもうここに来て、来るべきとこには来たなって思ってたから、そうだな――と少し考えて、 「木星に行ってみたいです」 と、答えた。 ニセピにも言ったかもしれないけど、本当に小学校の四、五年生の頃からずっと言ってる。あと、これをきっかけにレイが僕のことをアニメのキャラ名で「マコト」って呼び出したけど、まぁ、それは母への土産話として置いといて。 デニスは柔らかい瞳で、大きく頷いて、僕の顔を見ていた。そして部屋の奥へ行き、一冊の本を手に戻り、僕に差し出した。題字は「The Three Musketeers」。一瞬彼らに伝わる説話か何かかと思ったけど、表紙の絵に見覚えがあってすぐに、ああ、三銃士ね、みたいな気持ちになった。得意げに、ふふん、って。たぶんこういうところだと思う、伯父がたまに目を細めるのは。 「これを、お弟子さんに会ったら渡して欲しいそうです」 デニスはガイドを介して僕に伝える。 お弟子さん? 急に言われても。 「その人とはいつどうやって会うんですか?」 と訊ねたけど、答えは教えてくれなかった。 ただ、聖なる鳥の導きに従いなさい、とだけ。 ビジョン・クエストを行うには、プレイヤーズタイというものが必要になり、これは本人が作る必要がある。僕はデニスから材料を受け取り、手ほどきを受けて、ニセピのマスタングでロスのホテルに戻った。そう、伯父と。 人生の中で伯父の名前ほど意味を持たないものはない。人から聞いて一番役に立たない情報って伯父の名前だと思う。友だちの伯父の名前なんか、一人も知らないだろう? それは、無駄だからだよ。ペットの名前のほうがむしろ聞きたくなる。意味もなく。ちなみにデニスが飼っている犬の名前はクワオワ。犬の名前はオールOK。伯父の名前なんか、話の腰を折りたいときにしか口にしないよ。 ちなみに伯父とは苗字は一緒で、こっちでは親子って設定にしてある。そうしないといろいろ面倒臭いらしい。あと、ビジョン・クエストも本当は未成年に受けさせたら虐待に当たるとかで、「人に見つかったら『三十分ほど居眠りしてました』で躱せ、最悪俺が逮捕される」とかなんとか。どこまで本気で言ってんのかわかんないけど、やっぱりさあ、カルトかなんかだよね、これ。 あともう一つぼんやりと気がついたんだけど、ニセピの英語力って僕以下だよね? カッコつけてるけど。 でもまあとりあえず、ビジョン・クエストは数日後。それまでにプレイヤーズタイを完成させなければいけない。やっぱり寝てなんかいられない。 それにしてもなんで三銃士なんだ。 しげしげとその本を表、裏、と見返して、ぱらぱらとめくった。 けっこう長いよ。 三銃士の話。 プレイヤーズタイが完成した頃に、また僕の物語が始まる。第二章 魔法のラズベリー
マリナー暦一三〇年。 とある大陸の、とある国の、とある城、夜。 月明かり、城を眺める高台。 「暗くてよくわかりませんわ」 と、カトレイシア・トライバルは持ち手のついたオペラグラスを顔から離す。 仕立ての良い膝下丈のベルラインはまさにお姫様。瀟洒な帽子、これもお姫様。金色の波毛、しかり。その髪は美しい風紋の曲線を描き肩の上に渦を巻いて跳ねる。白いブーツには乗馬用の拍車が見える。 「そんなメガネ使わないほうがちゃんと見えるだろう?」 言い放つジュディ・ブラウン。見るからにガサツで大雑把。 擦れ跡だらけのガンベストはまさに小悪党、革のベルトには装飾のあるリボルバーとナイフ、これも小悪党。無造作に下げた短銃身のカービン、しかり。足のシルエットに沿った臙脂色のパンツに深めのブーツ。ストロベリーブロンドのショートヘアに褐色の肌。 「ざっと三十人ってとこだね。こっちは二十騎だけど銃がある。一気に行けば勝てるよ」 と、バレッタ・アッシュコート。 カーキのフロックコートはどことなくミリタリー系。帆布のショルダーバッグ、これもミリタリー。紐で編んだブーツ、しかり。暗褐色のロングヘア、銃器屋の娘のライフル使いで、ジュディとは親の代からの付き合いがある。身体を低くしてスコープを覗いたまま、「撃ってくるかな?」と、独り言のように続ける。 「連邦の監視もないし、夜で人目もない。撃ってくるさ」 「じゃあ、こっちのアドバンテージはなし、だね」木星の浮遊大陸に、三人の銃士がいた。 盗賊上がりのジュディ・ブラウンを筆頭に、武器屋のバレッタ・アッシュコート、品の良いお嬢様のカトレイシア・トライバル、どこからどう見ても地球人と同じ、今年のクリスマスに渋谷の街で見かけても何の違和感もない少女たちだったが、彼女たちは、人間ではなかった。 「でも、普通の人って言うのも変な話でさ――」 ほんの数時間前、ジュディとバレッタも、とあるカフェでちょうどそんな話をしていた。 「何が」と語尾を下げて聞くジュディ。 「普通じゃないものがあるってことでしょう? 普通じゃない人間って何?」と、やるせなく足を組み替えて、バレッタは問い返す。 彼女たちはラタノール。あるいはラタン人。ラタノールが他とどう違うかと言えば、何も違わない、ただ、住んでいる場所と、両親がラタノールであると言うだけで、「人間」の定義から漏れてしまった普通の人間だった。 「そんな面倒なこと、誰も考えてないよ」 というジュディに、バレッタは続ける。 「考えないとダメでしょ。私たちがなろうとしてるものが、その『普通』なんだから。私らなんて、どこの誰とも似てないのに、自分たちのこと普通だって言うでしょ? それはたぶん、普通だって思い込んで、それで自分の行いを正当化しようとしてるからなのよ。虐げられてるから、戦って、人をアレして、でもそれは普通のこと? どこがぁ? みたいな。普通のことを普通に繰り返して、何のためかってゆーと普通の人になりたいって。はあ? って感じじゃない?」 その理路は支離滅裂にも聞こえたが、つきあいも長いと、概ね雰囲気で通じる。 「真面目だよ、バレッタは。そういうとこ」 「真面目な人は盗賊なんてやんないよ。聞いたことないよ、真面目が取り柄の盗賊なんて。それなのに今更、普通の人間になりたいだなんて」 そもそもこの大陸では「人間」に当たる言葉が、「支配国側の国民」と言った意味で使われていた。 「お姫様まで巻き込んじゃってさ」 バレッタは口をとがらせる。 「巻き込んでやったんだよ、こっちから。ああ、あと関係ないけど、俺、ピーマンのヘタをこっち側に向けて切れないんだけど、それって普通?」 「ああ、それ、わからなくはない。切れなくはないけど、なんかイヤ」 法が制定される際の単純なミスだった。木星浮遊大陸群には少なくとも九つの主要言語があり、そのなかで連邦法で使用されるリオル語の「人間」には、当時戦争状態にあったラタノールは含まれていなかった。リオル語の辞書には明確にそう記され、ラタン他いくつかの種族は「亜人」と呼ばれていたが、首都に住む者がその「亜人」を見る機会はない。なかにはラタンを猿の一種だと信じるものまでいたほどだ。そこに生まれた法は、「力」により浮遊大陸群全体に広まり、様々な軋轢を生んだ。法は細かい修正を重ね、後に追加された「連邦人」にはラタノールも含まれ、彼らが生活する上での不便は解消されていったが、その後も基本法を動かすことは難しく、「人間を意思に反して使役することを禁ずる」、あるいは「すべての人間の火器の使用を禁ずる」などの条文には旧来の文言が残り、ラタノールはその適用からは外れたままだった。 バレッタは整備していた銃を、カフェのテーブルに置いた。 「ま、いいけどね、私らには銃があるし」 ラタン人は銃器も自由に扱え、人権もない。戦争に駆り出すにはもってこいの人材だった。
「弾は?」と、ジュディ。 「ざっと二〇〇」バックパックを示してバレッタが答える。「都合しようか?」 「いや、こっちも八〇はあるし、これでいい。カトレイシア、こないだの出入りから日がたってない。行けるか?」 カトレイシアはツンと顔をそむける。 彼女が持っているのは漆黒の銃。ほかのふたりが持つものとは異なり、銃身が金属かどうかすらも怪しい。ところどころに青白い光が揺らめいて見える。魔法銃だ。この手の銃には一丁ずつ名前があって、この銃はダルシーネイラと呼ばれている。 「二〇〇程度なら私のほうが撃てますわ。あなたたちの撃ち漏らしまで処理して差し上げましてよ?」 魔法銃は使用者の魔力によっていくらでも連射できる。トライバル家に生まれた者は幼い頃よりその訓練を受け、ことカトレイシアの才能は歴代の盟主のなかでも突出していた。並の人間ならば一〇発撃てるかどうか――これを25メートルのプールの一往復とするなら、カトレイシアは二〇キロの遠泳を優にこなせた。 ジュディはカトレイシアに微笑みだけを返す。 「それにあなた達と違って、私には頼れる家臣がいますの」 カトレイシアの後ろには「銃の乙女たち」と呼ばれる家臣――二十代から四十代、最年長は五十歳前後かと思われる強兵どもがずらりと控えている。 「そうだな。でも今日は銃の乙女たちは残していく」 「はあ?」「はあ?」 ジュディの言葉に、カトレイシアとバレッタは絶妙な時間差で声をあげる。 「ここは三人で乗り込む。乙女たちには城を包囲して銃を掲げさせるんだ」 「あなた、気は大丈夫ですの?」 「三人で飛び込めば死者は三人で済む。大勢で踏み込めばそのぶん死者も増えるさ。それに今までもそうしてきた」 「今まで? 今までって?」 不審に問いただすのはカトレイシア。 「ザフル峠の盗賊退治とか、切株亭討ち入りとか」 「敵は何人いましたの?」 「せいぜい七、八人だね」 バレッタは冷静にデータを返す。 「話になりませんわ」 「俺たちはラタンの貴族だ」と、ジュディが話しだしたところに、カトレイシアが「私だけでしょう、貴族は!」と口をはさむが、ジュディは意に介さず。 「正々堂々と戦って、俺たちの力を認めさせたい」と、ジュディは胸を張った。 「何を言い出すかと思えばのんきなことを」カトレイシアはあからさまに首を振って見せる。「同胞を救うと言うから協力してるんです」 「三人で三十人かー。無茶苦茶な人だなー」 バレッタは立ち上がり、バッグを持ち上げる。 裾の長いコートの下は飾り気のないカットソーの二枚重ね。ゆったりとしたパンツにごついブーツ。褐色の肩の下まで伸びた髪はベビーバング。すらりとした長身で、立つとほんの少し猫背。 「バッテリールームを落とすわ。メインを落とせば、サテライトは負荷が上がってぜんぶ落ちる。ブラック・アウトしたらひとりずつ確実に狙って仕留める。――それでいい?」 装弾を確認するバレッタ。ジュディもリボルバーを確認し、ホルスターに収める。 「前言撤回」と、カトレイシア。 「あなたたちの撃ち漏らしなんか処理しません。先行します」と、歩き出す。 「ちょ、待って! 家臣に指示を!」 ジュディが慌てて制する。 カトレイシアが「エリザベッタ!」と、声を上げると、 「はっ!」 どこからともなく執事が現われる。 「どこに潜んでたのよ」と、バレッタ。 「まったくだ。こーゆーの全部引き連れて乗り込む気だったんだぜ?」と、ジュディ。 「手はずは聞いていましたね。銃の乙女たちは全員で城を包囲、ポートアームズの姿勢を崩さずに待機させなさい。配置はあなたにまかせます」 彼女たちの国には男の兵士はもう残っていなかった。民の多くは連邦諸国に徴用され、残されたのは女子どもと老人。不当な収奪が繰り返されてはいたが、それも数十年続いたおかげで、すっかり普通のことになっていた。 ちなみに「銃の乙女たち」に、老人男性二名が混じっていた。もしこれを「ハーレム状態」と思えるとしたら、その人はたぶん、「収奪する側」だ。
とあるその城の名はクレムノス城という。 ミロウラ大陸の中央に位置するグライデン国、その一角トリアティクル地方を治めるアントン・ドレイクの居城、規模はそれほどでもなく、やや気の利いた地方領主の屋敷程度のものだ。 「固有名詞、覚えなきゃダメ?」と、ジュディ。 「そーだね、覚えたほうがいいけど、二時間で忘れていいよー」応じるバレッタ。 「じゃあ、覚えない」 二時間後、この城はジュディたちに攻められ陥落する。 その、執務室。 椅子には赤茶けた剛毛で口元を覆った男が深々と座り、グラスを揺らしている。普段はラタノールの召使を相手にもう少し下劣な享楽に耽っているが、今はただそれを反芻している。その隣には年老いた執事が、濡れたペンギンのように黒髪を前から後ろへとベッタリと流し、ペンギンのような服を着て、ペンギンのように立っている。 ノックの音がする。 「入れ」 髭の男が言うと、ひとりの兵士が背筋を伸ばしたまま部屋に入る。緊張に少し震え、男は声を発する。 「ラタンの兵に動きがあります。数は二十から三十。目的はおそらく同胞の奪還。この館を取り囲み、全員が魔法銃を所持、こちらの隙を伺い集中砲火を狙っているものと推測します」 早口で報告したのち、やや間をおいて「伯爵、銃の使用許可を」と続ける。 「銃か――」 伯爵と呼ばれた髭の男は少し考えるような素振りを見せる。その髭の生え際は不自然にくっきりと手入れされ、召使いたちはこの生え際を見ると怯え、吐き気をもよおした。 「連邦にバレたらやっかいなことになるぞ」 「伯爵。ここは一時的に当館の指揮権をわたくしにお譲りください。そうすれば責任はすべて私に。伯爵はすぐに外へ。ご迷惑はおかけいたしません」 血気盛んな兵は、その忠誠心と自信とを誇示する。 「ふうむ」 伯爵がグラスの中の赤い液体をゆらゆらとまわしていると、不意に扉が開け放たれ、大柄な男が入ってくる。そしてそのドアも閉まらぬうち、進言する。 「その必要はありませんぞ、ドレイク伯」 身なりは騎士であるが、無作法だ。屋敷のなかにあって甲冑を着込んでいる。 「ノックぐらいされたらどうだ、クラウス公」 年老いたペンギンが咎めるが、伯爵は手を上げて制し、騎士はそのまま三歩前に出る。 「三十なら俺ひとりでも討てる。銃を持たせたいならメイドにでも持たせておけ」 伯爵の口元にフッと漏れる笑みを見留め、クラウスと呼ばれた騎士は続ける。 「もともとそのために雇ったラタノールであろう? 客に振る舞うだけではもったいない。同胞同士、ここで撃ち合わせたら良い」 「出すぎるな、クラウス公」伯爵は悪戯な目で騎士を見やる。 「かわいいメイドたちだ。そうやすやすと死なせたくはない。それにこちらには契約がある。仮に奪還されたとしても、いつでも取り返せる。連邦の肝いりでな」 騎士クラウスは意図のつかめないニヤリとした笑みを浮かべる。 にわかに館の外が騒がしくなる。続き、屋敷内にも悲鳴があがり、将校たちの声。最初の銃声が響く。 「現場の指揮に戻ります」と、兵士は一礼して部屋を出る。 クラウスと呼ばれた巨体の騎士もそれに続こうとするが、「そなたは休暇中の身だ。この城でゆっくりと身体を休められたら良い」と、伯爵。 「心遣い、痛み入る――」 と、そこまでを言い残し、クラウスは部屋を後にする。 騎士クラウス・シーランを家臣にと願う領主は無数にいた。首都では名の通った剣闘士だ。その腕が認められ、あるいは仇となり、連邦政府のとある重要な任に就き、ここ5年は外に出ることもない。伯爵はその背中を見送り、おもむろに語りだす。 「トカゲには人権があることを知っていたか?」 ペンギンは少し首を傾げ、耳をそばだてている。 「いえ、伯爵。存じ上げません。果たしてなぜそのようなことが?」 「そもそもは第二大陸のクロコ族の要請によるものだ。彼らは古来より猛勇十二種族のひとつ、ミロウラ帝国時代にも多くの英雄を輩出した。『人間』の定義に『クロコ族』を加えるのは当然といえば当然の話だ。が、残念なことにノラ大陸人はクロコ族を知らなかった。それでやつらは『人間』の定義に、『クロコ族』ではなく『トカゲ』を書き加えた」 「なるほど、それで世間では『トカゲ殺しは人殺し』などと言われておるわけですな」 「ああ。トカゲとは結婚もできるし、なんなら一匹に一票の投票権すらある。だがそうやって法を運べば今度はクロコ族が怒り出す。『俺たちはトカゲと同じ扱いか』と。そんな面倒を避けるため、トカゲには触れない、というのが今の司法の常識よ」 伯爵は気持ちの悪い髭の生え際にグラスを寄せる。 「この城に紛れ込んでいるのは、そのトカゲ以下の連中だ」
その城の二階。 点々と明かりが灯る廊下。 すでに五、六体の兵士が転がっている。 物陰にひそみ、小声で話すジュディとバレッタ。 「バレッタ! 電源破壊する件、どうなった?」 「いや、ちょっと無理。だって、人多すぎない?」 「まあな」 「ところでジュディ、脱出ルートとか考えてる?」 「えっ? 玄関じゃないの?」 「うん、だからどうやって玄関から出るか、よ」 「全部殺す」 「いや、あんたバカだからそうじゃないかって気はしてた」 「うへへ」 「うへへじゃないでしょ。だいたい殺したりはしないわ。魔法のラズベリーの実でみんなお昼寝するだけよ」 「忘れてた。そう言えばメルヘンの世界だったね、ここ」 ふたりが立ち上がろうとしたところに銃声。直後、魔法弾に特有の炸裂音――榴弾のそれとは違う、一気に高温に熱せられた空気の膨張による雷鳴に似た音――が響いてくる。 「魔法弾……カトレイシア……?」 「あの子、どこで戦ってるの?」 廊下の角から兵士がふたり飛び出してきて、壁際に身体を寄せる。明確に聞こえるわけではないが、概ね「相手は銃弾だ、射線に入らなければ撃たれることはない」といった意味の言葉が聞き取れる。 兵が口にした矢先、廊下の向こうから二発の銃声が響く。そして二発の魔法弾は、飛来し、カーブを描き、曲がり、ふたりの兵士に着弾、炸裂。壁に穴を開けるほどの威力を受け、ふたりの兵は崩れる。 廊下の奥、姿は見えないがカトレシアの声が聞こえる。 「見くびらないでくださらない? 魔法弾は曲がりますの! 覚えておくとよろしいですわ!」 やれやれというジュディ。「なんか、楽しそうだよ」とバレッタ。 そこに三階からガラス窓が割れる音が聞こえる。 兵士たちのざわつく声。 「三階? もっと上? 誰か戦っててるの?」 「いや、カトレイシアもこの階でしょ? 今の声だと」 階段のほうから兵士が転がるようにして降りてくる。バレッタは銃を構えるが、兵士はよろめきながら、脇目もふらずに走り過ぎていく。 「どうしたの、あれ?」 バレッタがあっけにとられていると、階段から白い霧が這うように降りてくる。 「霧?」 窓の外、おそらく三階から落下しているであろう兵士の姿が見える。木の枝をゆすり、地面に叩きつけられる鈍い音。それが三人続く。バレッタはふと足元に冷気を感じる。見ると白い霧は足元に流れ込み、どんどん嵩を増していく。 「もしかして、ミスト?」バレッタが声を上げる。 「ミスト?」 「ジュディ! 窓から逃げるよ!」バレッタの声のトーンが変わる。 「なんなのいきなり!」 「ミスト、周囲三キロを巻き込んで、窒息や……疫病……睡眠……魔法の使い手によって何を引き起こすかもわからない最悪の呪文!」 「でも窓ったって……」 バレッタは立ち上がり、人の動き、霧の流れを確認する。 「味方ごとやる気よ! 兵士がパニックになって逃げ出してる!」 パニックになっているのはもはやバレッタも同じだった。廊下にはラズベリーとその果汁に塗れた兵士たちが転がり、それを月明かりに照らされた白い霧が生クリームのように覆っていく。 「三キロって、どこまで逃げればいいんだよ。それに銃の乙女たちまで巻き込んじまう」と、ジュディは呆れた表情で立ち上がる。 「確かにそうだけど逃げるしか――」とバレットは言いかけるが、ジュディは弾倉を確認、壁に身を寄せ、敵の気配を探る。バレッタは察し、「ってあんた、まさか、術者を、ああ? とめ、っていやいや、ああ?」混乱しながら続ける。「どこにいるかもわかんないのに?」 連続して打ち出される魔法弾の音が轟く。着弾、炸裂。その衝撃、壁に映る閃光。ガラスも照明も次々に破壊され、その音が館内の壁という壁に反響する。 「カトレイシア? まさか術者と交戦中?」バレッタが静かに問う。 「あの子はこんな無駄弾は撃たないよ。パニックになってるんじゃない?」 「あんたはなんでそんなに余裕なのよ!」 魔法の炸裂音にまぎれて金切り声が聞こえる。カトレイシアの声。「逃げて! ジュディ! バレッタ! 早く!」銃声の間、ぎりぎり聞き取れる。間に合わない、みんな死んじゃう。やがて銃声よりもその声のほうが大きくなる。逃げて。 「行ってくる。発動まで時間はある?」 「わからない。味方が逃げるのを待ってんだと思う。そのあとは予兆無しで発動するから、気をつけ――」と言いかけて、「――ようもないか」と、バレッタ。 「わかった」ジュディは臨戦態勢を崩さず。 「そうだ」バレッタは何かに気がつく。 「霧は上から下に流れてきたから、上の方だったら大丈夫かも――」 「そうか。じゃあ、術者も上ってことだな?」 「その可能性はあり。でも、まさか、行くの?」
廊下は白い霧に覆われ、腕を伸ばした指先すら白く霞んで見える。 足元には無造作に横たわる兵士、割れたガラス、散乱したラズベリー、その果肉の芳醇な香り、体重を乗せると絨毯から染み出す赤い果汁の泡立ちと、踏みつける指、その指に通した指輪の感触までがブーツ越しに伝わり、ときに足をとられ、よろめく。 少し先から、すすり泣くような声が聞こえる。 「カトレイシア!」 瓦礫に足を取られながら、ジュディはカトレイシアに駆け寄り、抱き留める。 「ジュディ……」 「霧は上から来た。上に行けば逃れられる。行こう」 「なんで逃げてないのですか……」 「俺が作戦を立てたんだ。地図は完全に頭に入ってる。大丈夫。行こう」
三階に上ると霧は晴れているが、足元にはうっすらと白い気体の瀬がある。 「この上はもう屋上だ。なんとか伯爵ってのはたぶんこの階だね」と、ジュディ。 「名前、覚えていませんの?」 カトレイシアは呆れ、力なく微笑む。おぼつかない足取り。パニックは収まったようだが、背中に背負っている漆黒銃の青白い光は消え、カトレイシアの魔力がもう枯れたことを示す。カトレイシアが戦えないことは、肩を貸したジュディには銃を見るまでもなく明らかだった。 ふたりの背後から低い男の声がする。 「ジュディ・ブラウン」 振り向くとそこに、長剣を携えた騎士の姿がある。騎士クラウス・シーラン――名乗りを上げるより早く、ジュディは銃を抜く。ほぼ同時に撃鉄を起こし引き金を引くが、弾丸は鎧にはじかれ、次の刹那クラウスの抜刀、同時に大きく足を踏み出し、その剣は伸びるようにジュディの胴を襲う。ジュディはこれを左手で抜いた短刀に当ててギリギリ躱す。が、直後飛び込んできたクラウスが体を浴びせ、ジュディはその場に転がる。クラウスの剣による追撃。幾人もの剣闘士の命を奪った白刃。ジュディはこれを躱し、至近距離からの銃撃。弾丸はヘルメットに弾かれるが、クラウスは体勢を崩す。 クラウスはすぐに体を立て直しジュディに迫り剣を振り上げるが、その背中に魔法弾が炸裂、ジュディは倒れかかってくるクラウスの巨体を避ける。 うっすらとした白い霧の中にカトレイシアが膝を付き肩で息をする姿が見える。漆黒銃ダルシーネイラに寄り添って身体を支え、銃には再び光が宿っている。彼女がダルシーネイラのレバーを操作すると、その先端が三つに別れ、青白く光っていた部分は赤く輝き、その光はうねるように銃身を包む。 「なにそれ……」 ジュディもこれははじめて目にした。 「ダルシーネイラは射撃モードのほかにも、砲撃、散弾、照射の3つのモードがありますの!」 銃口に燐光が収束する。 「死んでおしまいなさい!」 カトレイシアの銃は赤く輝く三条の光を放つ。光の先端は絨毯を焦がし、その光跡は黒煙を曳いて鎧の騎士へと走る。騎士はすぐに身を翻して避けるが、カトレイシアの銃口もそれを追う。光はカーテンを横切り、焼き切り、窓から漏れた光は空へと届き、その軌跡は雲を蒸発させる。 巨体の騎士は壁際に追い詰められている。すでに何度か光線に触れ、鎧の一部は溶け、こちらに手を上げて何か言おうとしているがあえぐばかりで声が出ない。ダルシーネイラの発する赤い光は時を追って弱まるが、カトレイシアが渾身の声を振り絞るとその光は一気に部屋を明るく輝らし上げる。 光がほとばしる。 カトレイシアにはもう銃を水平に抱える力はない。銃口を振ると光条はクラウスの足を横切る。騎士の絶叫、それを見届けるとカトレイシアも力を失い、その場に倒れる。
†
城の最上階。 バレッタは銃を構え、警戒しながら階段を上がってくる。 そこには広いテラスがあり、半分は温室、小さな池もあり庭園のようだ。池は月の丸い影を映し、風がそれを柔らかく、ゆらゆらと揺らし、温室の扉を開けるとかすかに、異国の言葉で歌う声が聞こえる。 うーのはなーの におーお か き ね にー ほーととぎーす は や も き な き てー しーのーびーね もーらーすー なつーはー きーぬー 一台の機械が花に水を撒いている。 気の利いたブリキ缶のような不格好な機械だが、自動で動いているところを見ると、「シンセシス」のようだ。この言葉は人工生命を指し、自立型のロボットがそう呼ばれる。 そのどこからとも知れぬ歌声。 耳慣れない異国の言葉。 他に誰かいるのかとバレッタは目を凝らすが、人間の姿は見えない。 「誰ですか?」 そう聞いてきたのはブリキ缶だった。不意に立ち止まる。性別を感じさせない若い声。バレッタは反射的に銃口を向ける。こいつが何者なのか、他に敵はいるのか、あるいはストレートに罠か、様々な可能性を思い巡らして、言葉をかける。 「私はバレッタ・アッシュコート。質問に答えられるか?」 顔は目の前のブリキ缶に向けているが、全神経を尖らせて周囲を警戒している。 「もちろんです。どんな質問ですか?」 「ここにいるのはお前だけか?」 「ええ。ここには私だけです」 「基本プログラムとメインアルゴリズムは?」 「第一世代ケロリーヌ・アルファ。三原則遵守、無段階深層学習型」 「第一世代……? 第一世代がこんなところに……? ところでさっきの歌は?」 「私の記憶にある、いちばん古い歌です。忘れないように。歌っているんです」 「お前が歌っていたのか……」†
視点は三階、執務室前へと戻る。 クリスマスにオーブンを開けたときの香ばしい薫りと、ほんのりと漂う熱。骨付きのローストされた肉だけが無造作に転がっているが、ゲストの姿はない。グレイビーソースを垂らしながら這いずった後が残る。 ジュディがカトレイシアの息を確認すると、カトレイシアはゆっくりとまぶたを開ける。 「ジュディ……生きていたんですね」 「そりゃこっちのセリフだよ」 力なく微笑むカトレイシアの唇に、ジュディは人差し指を当てる。 「まだ終わってない。何かあったらこれを使いな」 ジュディがカトレイシアの手にリボルバーを持たせると、少し微笑んで、またゆっくりと目を閉じる。 ジュディは慌てて首筋に手を当てるが、確かな脈拍を感じる。顔を寄せると静かな寝息が聞こえ、髪も、頬も、花の香に包まれ、それがジュディの胸に染み込んでくる。幾度か振り向いて、追いかけた残り香。その小さなオアシスの風が胸に満ちるのを待って、立ち上がる。執務室。 カービン銃を肩に掲げたジュディが扉を開け、入ってくる。 足で蹴り開けた扉はカトレイシアの放った熱線で焼け、開けた衝撃で崩れる。 明かりは消えている。正面に大きな机、脇には応接用のソファ。サイドボードには様々な工芸品、書籍、足を取られるほどの毛足の長いカーペット、壁にかけられた悪趣味な肖像画。奥にはまた別の扉がある。 足元には少しずつ白い霧が広がり、その濃度を上げていく。 誰もいない部屋をゆっくりと抜けて奥の扉を開けると、暗がりの中に十数名だろうか、おびえきったメイドたちの姿がある。 「こんなところに!」 駆け寄ろうとするジュディを、メイドたちは首を振って制する。彼女たちの視線は机の背後を指し示している。見ると白い霧はその机の下から吹き出している。銃口を机に向けると、メイドたちは一様に顔を曇らせる。口元をおさえ、涙を流す者までいる。 「何がいるんだ、そこには?」 問いかけても、メイドたちは涙を流すばかりで何も答えない。机の下の隙間からは白い霧がゆっくりと流れ出している。おそらくミストと呼ばれる魔法の使い手がそこにいる。 「止まらない……怖くて……」 机の向こうから、怯えきった子どもの声。震えながら、絞り出したような。 ジュディは戸惑いながらも、銃口を向けたまま動けない。 「助けてあげてください」 ひとりのメイドがこらえきれずに口にする。 「私たちと同じなんです」 「私たちももう少しで、銃を持たされて、あなたと戦わされるところでした」 ジュディはため息を吐いて銃を下ろす。 この城の城主の姿は見当たらない。おそらく隠し通路でも通って逃げたのだろうが、同胞の開放という目的は達成した。 「表にトライバル家の馬車を用意してある。みんな乗るといい。少年もな」 メイドたちはホッと胸をなでおろす。 机の下から少年が這い出してくる。歳は十二、三歳。 そのあどけない顔にジュディは言葉を詰まらせる。
メイドたちを開放して執務室を出ると、ちょうどカバンをぱんぱんに膨らませたバレッタが降りてきた。 「敵は?」と、バレッタが問う。 ジュディはただ肩をすくめて見せた。 「廊下にカトレイシアがいる。力を使い果たして眠ってると思う」 バレッタの目に、メイドたちに守られて歩く少年の姿が映る。 「あの子もメイド?」 「わかんね。でも、そうだったとしても今日までだ。関係ないよ」 「気楽なものね、あんたって」 廊下のカトレイシアの保護をバレッタにまかせ、ジュディは少年を保護してメイドたちの先頭に立ち、彼女らを誘導する。少年がどんな経緯でこの城に来たかはわからない。非公式な人買いか、誘拐か、その果てに魔力を認められてここにいたのだろう。 ジュディが言った通り、カトレイシアは廊下の隅で眠っていたが、バレッタが近づくと瞼を開き、朦朧としながらもゆらりと立ち上がる。 「同胞は全員保護したよ」と、バレッタ。 「よかった……ここの城主はどちらへ行かれました……?」 「さあ、姿は見なかったけど、逃げ出したんじゃない?」 「そうですか……」 「ジュディも無事みたいだし、こっちの損害はゼロ」 「それはよかった。でも、向こうの被害が心配です」 「大丈夫。誰も死んでない。私たちがこの城を出たら、みんな起き上がるよ」 何も答えないカトレイシアにバレッタは、 「弾はラズベリー。誰も死なない、魔法の弾だよ」 床一面に溢れた、赤い果汁を示した。
第三章 シンセシス
ジュディたちの故郷アネルーラは葡萄や小麦を産するのどかな小国で、先日押し入ったクレムノス城からは山ふたつほど離れた場所にあった。しかしラタノールの国は国とは認められず、近隣の国々からは領主の名で「トライバル領」と呼ばれている。襲撃メンバーのひとりカトレイシア・トライバルはこの国の領主の娘にあたる。幼くして父は他界、母も療養のため動けず、まだ十九歳の若さにして実質的な統治者の立場にあった。それでも、領主ではなく、総督と呼ばれた。領主となるのは、カトレイシアが婿を取り、その間に生まれた男子である。 そのトライバル家の屋敷はぱらぱらと森を散りばめたなだらかな丘の上にあった。歴史ある白い建物。小さな鳥が二羽、三羽と木々を渡ると、その玄関から正門へのゆるやかな坂、斜めに下る小径、石敷きを小さな森が囲い、虫の音と、梢を揺らす風、年老いた門番が守る粗末な門、抜けて川沿いの道を歩くと、やがて街道に合流する。川を挟んで二本の街道がすれ違い、その川に渡る石造りの橋を超えると旅人で賑わう目抜きへと続く。 だけどそこにも人の往来はない。 起きたばかりの野良猫と、つい最近閉鎖された飲み屋の前には、みすぼらしい老人がひとり座り、角に面したカフェで、スズメが跳ねる。 そのカフェのテラスのテーブルで、ジュディはぼんやりと黒くて苦い汁をすすっている。 「あっ、ジュディ、こんなとこにいたー」 どこからともなく現れたバレッタが向かいの椅子に座る。 「ああ、おはよ。朝から元気だね」 「こないだの件、問題になってるっぽいね」 「ああ。けっこう派手にやらかしたもんな」 「それに今までみたいに盗賊相手でもないし、普通の貴族だもんね。やっぱカトレイシア連れてったのまずかったんじゃない?」 「連れてったって、最終的にはあいつ率先してやってたし。それに家臣たちは外で待たせてたんだしさあ。っつーか盗賊なんかよりよっぽどタチ悪いだろ、あの伯爵」 「んっ、んんっ」 「なに?」 「咳払い」 「風邪?」 「ちがうのちがうの、発言に気をつけて、ってこと。あ、私もそれもらっていい? 奢ってくれるよね?」 「しょうがないなぁ」 「私にもニガジルひとつお願い! あとサンドイッチも!」 「サンドイッチもかー」 「一応ね、ドレイク伯爵って戦争してるじゃない? トリアティクルがじゃなくて、宗主国のなんとかって国が。で、相手はボーレイトって国なんだけど、わかる?」 「わかんね」 「ま、いいや。そこが私たちのこと保護してくれるんだって」 「いいよ、そんなことしなくって。おたずね者には慣れてんだから」 「あんたはいいけど、カトレイシアはそうはいかないよ。あっちはお姫様だよ? ほんでね、連邦の審議官が来てるの、この町に。仮にボーレイトって国の庇護を受けるとしても、こないだのが戦争犯罪にあたるかどうか、ってのが焦点になってくるらしくって、それで、よ」 バレッタは、「で」にアクセントをつけて釘を差したつもりが、きょとんとして話が飲み込めていない風のジュディに、 「発言には気をつけろ、って話よ」 と、念を押す。 「はあ」わかったような、わかってないような口ぶりで「じゃあ、何喋ればいいの?」 「こないだの討ち入りのことは、基本、話さない」 「はあ」 「カトレイシアが指揮していたってことにするんだって。だから公式発表はぜんぶ、彼女から」 「はあ? あの子を巻き込んだのって俺たちなんだよ?」 「でも、巻き込んだ以上もう戦争なのよ、戦争。あの子を助けるには無理矢理にでも大義を打ち立てるしか無い。コソ泥が作戦立てましたなんて言えるわけがない」 「あー、もう、わかった。わかったけど納得いかない。『押し込み』はダメだけど、『戦争』だったらいいってこと?」 「それは、あー、死んでるかどうかなんてわかんないじゃない? 撃たれた兵士が。たぶん死んでないと思うし」 「いや、死んでるでしょ」 「そういうのぜんぶ、審議官の人が決めるみたいよ。死んだとか、死んでない、とか。それで『何人死にましたー』って発表があるらしいんだけど、聞いた話じゃ、死者はゼロってことで話は進んでるらしい」 「きったねぇ」 「そうそう。汚い大人のやり口だねぇ。あ、ところで。あとで工房に来て。見せたいものがあるの」 「おっ。面白そうだねぇ。それ先に言いなよ。そーゆーの好きだなぁ、俺は」 バレッタの目の前に黒くて苦い汁が差し出される。 「あっ、ありがとう。お砂糖いらない。ミルクだけお願い」 バレッタは黒くて苦い汁にミルクを入れてスプーンで軽く混ぜて、口に運ぶ。 「あちっ」カフェを離れると、仕立屋、靴屋、眼鏡屋と並び、小さな教会、アパート。アパートの先には、またアパート。街路樹と、広場と、通りの片側に石垣、石垣、その高台に公園、手すり、鳩、鳩、手すり越しに町を眺める人影。また鳩。少し歩くと石垣は途切れ、通りは分岐、小径になって、石造りの家々の合間に吸い込まれる。崖線を登るゆるやかな階段に露天が並び、露天の間に水飲み場。階段は更に枝分かれして、上ったり、下ったり、下ったり、上ったり。アコーディオン弾きのおばさんは、通りかかる人の顔を見て演奏する曲を変える。たぶんその人の故郷の音楽を奏でている。往く人は足を止め、投げ銭を入れて、一言二言、故郷の話、あるいは曲の話。 「この町も変わったよ。男手はなくなるし。いかがわしい店はたいがいつぶれちゃったね」 「それなー」 カフェからの道、歩きながら語る。 「小さい頃はさあ、男が出稼ぎで戦争に行くのはあたり前のことだって思ってたんだよね。でもこうやって男がいなくなってしまうと、次は女が買われていくんだなーって」 「まあねー。戦争だったら、やってもいいんだけどねー。カラダはごめんだわー」 「あんた、気楽でいいわー。私は人としてちゃんと働いてさ、恋とかもしてみたいんだよ、人並みに」 「プッ」 「笑うな、アホ。カトレイシアだってそうだよ、きっと。国の未来のこととか考えて。だから、私たちと組んでるんじゃないの? あの子、この国のプリンセスなんだよ?」 「そりゃあねー。俺だって気を使ってはいるんだよ」 「気を使ってるねぇ……。じゃあ、ちょっと回想シーンね」 「はーい、回想シーンのはじまりはじまりー」 「今日はジュディとバレッタのふたりで、ザフル峠の盗賊のアジトに来ましたー!」 「来ましたー」 「目的は金貨十二枚の賞金首ー! さあ、アジトに乗り込むぞー!」 「おー」 「ところがところが、そこに荷馬車に押し込められた可憐な少女が運び込まれましたー! きゃー、どーするジュディ、たいへーん!」 「たいへんだー」 「壁に耳を押し当ててぇ、盗賊たちの話を聞いてみるとこれがびーっくり! どうやら運び込まれた少女は名門トライバル家のご令嬢!」 「カトレイシア姫だー」 「それであんた、何やったか覚えてる?」 「えっ? 華麗に盗賊を殺して助けてあげた?」 「そのあと」 「ええっと……ダチになった!」 「ぶっぶー! あんた、売ろうとしたの、彼女を! 別の盗賊に!」 「そうだっけ?」 「私が説得してなかったら、あんたあの子、別の盗賊に売ってたの。しかもその説得のしかたよ。『謝礼金のほうがぜーったい高いからー』って、私、ココロにもないこと言って説得したんだからね?」 「あー、そうだったっけー」 「イエース」 「でもそのあと、ちゃんと姫を送り届けて、今じゃあすっかりダチになりましたー、いえー」 「いえー」と、乗っておいて、「――って」素に戻るバレッタ。 「まー、あの時はさー、あれだけど。俺も変わっただろう、少しは」 バレッタはため息。呆れ顔でジュディの顔を覗く。 「うん。少しはね。あ、ついたよ、ここ」 「ここ?」 「入り口変えたの。審議官に見つかりにくいとこに」
暗い階段。 バレッタの工房。 代々銃器屋の看板を掲げていたが、二十年前、表向きは鍛冶屋の看板にかけかえた。銃の取締が厳しくなるとの噂を受けてのことだったが、銃の整備や製造は地道に続けている。 「それに、裏でやってたほうがヤバいもん扱えんのよ」と、バレッタ。 地下にはそれなりの設備があり、電動式の最新型の工作機械も用意されている。 明かりが消えた暗い階段をジュディとバレッタが降りてくる。 「見せたいものって?」 「うふっ、なんだと思う?」 声と足音は壁に跳ね返り、幾重かに響く。階段を下りきって、 「ラダレスー! 明かりをつけて!」 バレッタが声を響かせると、工房に明かりが灯る。 「ラダレス……って、誰?」 電灯のスイッチのところには小さな影が見えて、その影は振り返り、ジュディたちに近寄る。 「おかえりなさい、バレッタ」 バレッタとジュディの前には、ブリキ缶に手足が生えたような不格好なロボットがいる。 「これは?」 ジュディは驚いたような、やや呆れたような。 「こないだの討ち入りで見つけたの。第一世代のシンセシス」 「へぇー」 「うわっ、テンション低っ」 「いや、俺、わかんないからさ、こういうの」 「じゃあ、とっておきの秘密を教えてあげるわ。この子、こう見えても人間なのよ」 「へっ?」 「第一世代のシンセシス、つまりロボットのことね、これは私たちといっしょ。人間として扱うって連邦法に定義されてるの」 「マジか……」 「あ、私ら人間扱いじゃないじゃんってツッコミはナシね。で、それでさあ。計画があるんだけど、聞いてくれる?」 「聞くだけなら」 「この子を、ちゃんと人間らしい人間にしたいかなぁって」 「えっ?」
それから三ヵ月後、二人組の拳銃強盗がグレイパイン城を襲撃したとの情報が新聞に載った。奪われたのはシンセシスと呼ばれる自立型ロボット。人工知能部分を取り外し、ボディだけを持ち去られたとその記事にはあった。 その日のバレッタの工房。 手術台のようなベッドのような作業台の上に、人形が横たえられ、その体から無数のケーブルが伸びて怪しい装置につながっている。 「できた! 再起動したら完成!」 バレッタはせわしなく人形に刺さっているケーブルをはずしていく。 「ん、ああ」と、傍らで見守るジュディは、独り言のようにこたえる。 バレッタは作業台横の椅子にすとんと座り、くるりと一回転、床を足で蹴ってコンソールのそばへ、キーボードを操作、モニターに映されている図形がぜんぶグリーンになったことを確認して立ち上がり、身体はコンソールに向けたままジュディの方に振り返る。 「それじゃあ、カウントダウン、いくよーっ!」 「あ、これ、一回目は失敗するパターン」 「失敗なんか、しないよーーーーーーーだ!」 バレッタが起動スイッチの上に、右手人差し指を高く上げて、 「ごー! ……よん! ……さん!」 と、カウントダウンを始めると、「さん」のあたりで、 「おはようございます。作業完了したようですね、バレッタ。おめでとうございます」 ロボットがむくりと起き上がる。 「なんで動いてんのよっ!」 「えっ?」 「まだ、起動コード送信してなーい!」 「ああ、じゃあ、やってみてください」 「よーっし! ――って、あんたは寝てて」 「あ、はい」 と、ロボットは横になる。 「じゃあ最初からね――」と、バレッタ。 「ドキドキしますね」と、ロボット。 「リアクションいらない」 「すみません」 「ほんじゃあ、人工知能ケロリーヌ・アルファ搭載、バレッタ・アッシュコート・スペシャルぅ!」 バレッタはコンソールの赤いボタンを―― 「始動!」 ぐっと押し込む。 「はい! いま押したー!」 バレッタが告げると、作業台の上のロボットが上体を起こして、両手を上げる。 「じゃじゃーん」 「何この茶番……」と、ジュディは呆れる。 バレッタはケーブルの束を部屋の端に避け、工具箱にけつまずきながら書類の束を箱に押し込む。日誌をめくり、何かを書き込んで、別の書類を開き、書類とロボットとを見比べて各部位のチェックなどを始め、そのロボットを挟んだ作業台の反対側で、ジュディはしげしげとロボットをながめている。 「このロボット――」 言いかけたジュディに、バレッタが口を挟む。 「シンセシス。慣れて、この呼び方。厳密にはロボットとは別のものだから」 「――このシンセシス? ってなんていうか、ちゃんと男なんだな」 「男のボディがいいって言ったのあんたじゃない。私はどっちでもよかったんだけど」 「女ばっかりしか残ってないし、ここはやっぱり男でしょう」と、ジュディは笑いながら、「ほら、これ見て。やっばいよなぁこれ。かっちかちだよ、かっちかち。大丈夫かー、俺たちー」 「そこ触らないの!」呆れながらバレッタ、「あんたのアタマが大丈夫かだわ。ラダレス、気分はどう?」と、作業台に座るシンセシスに訊ねる。 「上々です」淀みない答え。 「ねぇ、これ、なんか芸とかやるかな?」バレッタに訊ねる。 「あ、ちょっとまってジュディ、何をやらせる気?」と、割り込むが、ジュディを止めることはできず。 「お手」 「はあ? ふざけんなこら」 ラダレスは抑揚のない声で予想外の塩対応。 「お座り」 「舐めんじゃねぇぞ、てめぇ」 二連続。 「何このリアクション……」 「言ってるでしょ、この子は人間だ、って。そもそも人間としての行動を深層学習してんだから、リアクションはぜんぶ人間といっしょなの」 「そのとおりです。気をつけてください」 そう言われてもジュディはやや釈然としない。ラダレスは構うことなく、 「ところでバレッタ。私だけ裸では恥ずかしいです」 「ああ、そうだね。お父さんの服しかないけど――」バレッタは部屋の隅の丸められた服を引きずり出して、バタバタと埃を払う。「とりあえずこれでいいよね?」と、広げた服には油のシミやツギハギがある。 「構いません」 「じゃあ、着替えてもらうんでジュディは後ろ向いてて」 「着替えるって、もとから裸じゃん。着るだけだし。だいいちロボットが着替えで照れんのおかしくない?」 「だから、ロボットじゃなくてシンセシスだってば! で、それは見た目だけの話であって、中身は私らと一緒、あんただってパンツ履いてるとこ他人に見られたくないでしょう?」 ラダレスが割り込んで、 「私は見られてもかまいませんが、照れたほうがよろしいですか?」 「別にわざと照れなくていい」 「そうですか。ではまずパンツをください。見せてはいけない部分が露出しています」 「下着は必要ないわ。ズボンから履いて」 「バレッタのお父さんのパンツはありませんか?」 「あーもううるさいなあ!」 服を叩きつけるバレッタ。 そのやり取りを見て笑い転げるジュディ。
「どう? 服を着たらほぼ人間でしょう?」 バレッタは服を着たラダレスを示して、誇らしげにジュディに問う。 「ああ……いいね。でもせっかくだったら、名前も変えたいな。もっとこう、シンセシスーみたいな感じの名前」 「あんたバカにしてるでしょ?」 「してないしてない、シンセシスだー、わーい」 「ロボットって呼びたきゃロボットって呼んでもいいけど、仮に、よ、こーゆーのが敵に混じって大挙して押しかけてきた時『ロボットが襲ってきたー』っつって逃げるの、嫌でしょ。めちゃカッコ悪いよ? 『正門前はロボットが守っている! 迂回するぞ!』なんて言いたい? 『敵の正体がわかった、ロボットだ』『はあ?』ってなるじゃん?」 「言いたいことはわかるけど、その動機はおかしい」 ラダレスは、かすかに聞こえる物音に耳を澄まし、階段を見上げている。 その様子がバレッタの目に留まる。 「――どうしたの?」 「お客様のようです、バレッタ」 「えっ?」 「一階にお客様がお見えになっています」 バレッタがコンソールに駆け寄り操作すると、一階の監視カメラ映像がモニターに映し出される。そこにはふたつ――画面から見切れてもうひとつ、三つの人影が映っている。 「この制服って、トライバル家の私兵?」 モニターを覗き込んでジュディが訊ねる。バレッタは端末を操作して別のいくつかのモニターの映像を順にチェック。 「全部で四人……でも、どうしてここに……?」 バレッタはスイッチを跳ね上げ、マイクを取る。 「『銃の乙女たち』が何の用? ここのことはカトレイシアに聞いてきたの?」 モニターのなかの人影があたりを見回す。バレッタの声は彼女らの耳にも届いているらしいが、どこから聞こえたかはわからず、どこへともなく答えを返す。 「ジュディ様、バレッタ様、カトレイシアお嬢様の命令であなたたちを逮捕しに来ました」 「逮捕?」 ジュディは声を上げるが、バレッタが制する。 「今朝の新聞の件?」 すなわち、グレイパイン城に乗り込んでシンセシスを強奪した件。 「いや、わかりませんが、おそらく」 「わかった。あの子とは揉めたくないし、すぐ上に行く」 「恐れ入ります」 「ああ、あと、城に連行されるんだったら、あの子に会いたい。例の襲撃以来もう三ヵ月も会ってないんだ」 「私からは約束できません」 「そっか……」 独り言のように言うと、バレッタはマイクのスイッチを下ろす。 トライバル家の私兵、すなわち「銃の乙女たち」は、もともと兵隊として雇われたわけでもなく、争いの無い日は和気あいあいと屋敷の雑務や世間話などしている。ジュディ、バレッタとも見知った仲だった。 「じゃあラダレス、ちょっとでかけてくる。やばくなったらホイッスル弾を上げるから、その音が聞こえたら助けに来てくれないかな? ありったけの武器を持って」 バレッタはホイッスル弾を二、三度振って音を聞かせ、肩に掛けたカバンに放り込む。 「わかりました」 「ハァ……本当にわかってんのかねぇ」と、肩をすくめるジュディ。 「そこは大丈夫よ。第一世代のシンセシスは人間の命令には絶対服従するから」 バレッタはラダレスの肩にポンと手を置く。 「ただし、人に危害を加える場合はその限りではありません」と、ラダレスが加える。 「わかってる。過度な期待はしてないわ。行きましょう、ジュディ」
町外れの小さな鍛冶屋からトライバル家の私兵がふたり、そのあとにジュディとバレッタ、そのあとにまたトライバル家の者がふたり、おたずね者は脇を抱えられるようにして、向かいに停められた四輪のワゴンタイプの馬車に連行される。 歩きながらジュディは通りの先に騎馬兵の隊列を見留める。騎兵の数は少なくとも十騎、中程には四頭立ての豪華なキャリッジ型の馬車も見える。バレッタももちろん気がついている様子だが、ジュディのようにあからさまに顔を向けたりはしない。ただこの場合は、物珍しげにじろじろと見ているジュディのほうが自然で、バレッタの様子は連行される凶悪犯のように人目を引いた。 「あれは?」荷台に上がるとともにジュディが訊ねる。サスペンションのない馬車は車輪のひとつが必ず浮いた状態で、重心が変わるたびにガタガタと揺れる。 「おそらく、ボーレイト皇太子マティアス殿下の騎馬隊かと――」 トライバル家の者が応える。 「ボーレイトの皇太子?」 「カトレイシアお嬢様のご結婚相手です」 「結婚? カトレイシアがぁ?」 ジュディは思わず大声を上げる。 「ええ、本日が契婚の儀、あとは二ヵ月後の婚姻の儀をもってご成婚となります」 「うっそ!」とジュディ。 「噂には聞いてた。第三婦人になるんだってさ」 バレッタは諦めたような口ぶり。 「第三婦人って? カトレイシアが?」 沈んでるバレッタと対象的に、ジュディはかなりヒートアップしてくる。 「もう四十過ぎてんだって、相手の皇太子……」 どうしてそんな重要な情報を今まで言ってくれなかったんだ、みたいなことをジュディはわめいているが、気にも留めず一瞥もせずにバレッタは続ける。 「それも第一夫人ならともかくねー、第三って……。しかもそれでも身分が釣り合わないからって、西の領地一帯を差し出すように言われてんだよね?」 銃の乙女は答えをためらい、目をそらす。 「そこがボーレイト領になって、形式上カトレイシアがそこの子爵になるんだってさ」 「いや、詳しいことはわかんねぇけど、西って、鉱山があるほうだろう? そんな、爵位を金で買うような真似してまで……?」 「そこまでして守りたいんだよ、カトレイシアは。この国を」 「そんなバカな……」 「私たち、なんなんだろうね。あの子にばっかり背負わせて。そこまでの覚悟なんてしてなかったよ、私」 バレッタが少し涙ぐんでいるのを、ジュディは横目で見留める。 「馬車を出してくれ。すぐにカトレイシアに会いたい」 身を乗り出すジュディ。 「今は無理です。マティアス殿下の馬車を横切るわけにはいきません」 「クソッ……」 不機嫌に腰を落とす。 「ねぇ、ジュディ」 バレッタが訊ねる。 「私たち、なんで逮捕されるんだと思う?」 「そりゃ決まってんだろ――」 グレイパイン城でシンセシスを盗んだ件。新聞にも載った。それを言おうとしたが、戸惑う。身元がバレたわけでもないのに逮捕は性急だ。 「俺たちが騒がないように、拘束しておきたいとか?」 逆に聞き返してバレッタの顔を伺う。 「うん。それで私たちが、そのマティアスって皇太子が来る日に、たまたま城に連行される……。クレムノス城襲撃以来、三ヵ月も顔を合わせていないのに、今日、たまたま……。本当に偶然なのかなぁ……」 「たまたま……」 「もしかしたらさあ、助けてほしいから呼んだんじゃないかな。カトレイシア。鉱山を差し出すんだって、彼女の意志だとは限らないじゃない。ボーレイトがこの国を利用したいだけで、本当は嫌なんじゃないかな」 ジュディはハッとする。その脇できゅうきゅうに座ってるトライバルの使者たちも、その言葉を聞いて戸惑う。 「そうなのか?」 ジュディが隣の私兵の顔を見ても、戸惑い以外は見て取れない。「私どもはただ、離れの納屋に拘束しろと言われただけで……」と目を伏せる。カトレイシアの意図は、連邦査察官からの保護だった。逮捕はその口実だが、乙女たちに知らされてはいない。 「じゃあ!」 と、ジュディは馬車の中で立ち上がり、ガンベルトに触れるがホルスターには何もない。 「かーっ、銃なんか持ってきてねぇよ」 と嘆くジュディに、バレッタは自分のかばんを目配せる。 「まさか?」 「カトレイシアを取り戻すんだったら、今日しかない。トリアティクルにケンカ売った上に、ボーレイトまで敵に回すことになるけどね」 「ハッ、おもしろそうじゃねぇか」 「ハァ……。あなたに相談しても、どーせゴーサインしか出ないの、わかってたけどね」 「あのさあ、あの話知ってる?」 「あの話って?」 「村の美しい娘に求婚した男が次々と死んでしまう話、あるだろう? 神様がその娘に惚れてて、犬をよこして恋敵をぜんぶ殺してしまうって奴」 「知ってるけど」 「俺たちその、神様の犬なんだよ。きっと」 「バカバカしい」 「クソみたいな男にあの子は渡さない」 ようやくマティアスの騎馬隊が視界から消え、ゆっくりと馬車は動き出す。 「ねえ」 バレッタは銃の乙女に問う。 「なんであんな悪い噂ばっかりある男を受け入れようとするわけ?」 戸惑いながら乙女は答える。 「ええ、でも、お嬢様は、噂は噂、会ってみなければわかりません、と」 「会ってみるのと結婚って、ずいぶん開きがあると思うけどな」 「あと、お気を悪くせずに聞いてくださいね?」 「なあに?」 「これは、カトレイシアお嬢様が、あなた方おふたりのことをちゃんと認めているからおっしゃってることで――」 「だから、なあに?」 「例の名うての盗賊二人組も、会う前はなんというか、いろいろでしたけど、会ってみたら良い方々でした、と」 ため息。「まったくお姫様ったら」と、呆れるバレッタと、鼻で笑うジュディ。 「俺達の評判のほうがクソ皇太子なんかよりずっと悪かったもんな」 「悪党の意地、見せてあげるわよ」と、幌の外を見ながら、バレッタ。
第四章 悪党の意地
城に入るのは半年ぶりだった。 古い木の扉を開くと、こじんまりとしたホール。複雑な文様の入った絨毯。踊り場の肖像画。ここでカトレイシアの姿を見たのは一年前、彼女を盗賊から救出した一週間後。キラキラと光を散りばめたドレスで階段を降りる姿にふたりは心を奪われた。 それまでは、男は強く、女は美しくなどと聞いても「ケッ」っと言ってあしらい、おそらく今もそう言われたら「ケッ」っと返すには違いないが、その日の会食を終えてアジト、すなわちバレッタの工房に戻ってふたりで協議した結果、カトレイシアだけは例外だってことになった。 あの日、目の前に現れた少女は光で咲く花。この城にはいつも、カトレイシアにまとわる花の香がやわらかく満ちているはずだった。 だが今日の匂いは違う。広間の方からはガチャガチャと小煩い物音が聞こえる。おそらくボーレイトから来た兵士たち。たまに大きな笑い声が聞こえてきて、ガサツなジュディが、そのガサツさに苛立つ。嫌な汗臭さと、土埃、男たちの肺に汚された煙の匂い。ジュディの中で、何かが乱雑に踏みつけられ、砕かれる。苛立ちに任せて広間に向かおうとするがバレッタが制する。 「部屋の見取り図はある?」 バレッタが乙女に問うと、乙女は黙って頷く。 「それから正確な人数が知りたい」 ふと扉が開く音がして、広間の音がはっきりと抜けてくる。そこに届く兵士の声から、城の見学が始まるのだとわかる。 乙女はジュディとバレッタを促して、脇の通路に誘導する。少し暗く、よく音が響く廊下。抜けて扉、開けると地下への階段。扉の向こうはいきなり階段になっていて踊り場がない。向こう側から開けることは考慮されていない雑な作り。 「この下は倉庫ですが、いったんはそちらでお待ち下さい」 申し訳無さそうに乙女が告げる。 ホールの方に、乙女たちを呼ぶ鈴の音が響き、乙女は会釈してその場を離れる。 その背中を見送り、バレッタが先行し、地下へ向かう。二、三歩下りたところでバレッタは振り返り、口に人差し指を当てる。廊下も、この階段も、音がよく響く。ふたりは足音を忍ばせて地下に降りる。 階段は埃っぽい倉庫へとふたりを導く。壁高くの窓に射す光がいくつかの乱反射を経て、地下室の隅々まで仄かな明度を運んでいる。淡い光のコントラストの中、ミシンや作業台、本棚、樽、よくわからないもの、ガラス瓶。扉をはさんで、古い本の束、わからないもの、わからないものが埃をかぶる。少し視線を戻して、扉――光を吸い込むような――暗い扉が目に入る。その扉はどこか、普通ではなかった。 具体的に何が違うというわけではない。その怪しさは肌に伝う何か。胸の中に直接手を伸ばし入れる何か。目を閉じていてもわかるほどの異様さと不可解さを放っている。 バレッタは何も言わずに手だけで合図、ジュディに沈黙をうながし、扉の向こうに何かあることを示す。その違和はジュディも感じている。何か魔法的なもの、魔法のカンは鈍いふたりだったが、全身に鳥肌が立ち、胸の中を言い知れぬ恐怖がのたうつ。扉一枚隔てた向こうに、「何か」がある。 バレッタはコートの内からリボルバーを取り出し、ゆっくりと扉に向ける。 「誰かいるの?」 返事はない。 少し焦れながら撃鉄を起こした瞬間、扉の下の隙間から一気に白い霧が噴き出し、地下室を真っ白に覆う。 「ミスト?」 バレッタは思わず声を上げるが、ジュディは、「待って! 敵じゃない!」バレッタを制し、続けて扉に向かって語りかける。 「あのときの少年だろう? ここにいたのか! もしかして、閉じ込められてんのか?」 霧がふわりと晴れて行く。 目の前の扉がゆっくりと開いて、中に小さな人影、少年の姿がある。囚われているかにも見えるが、その足に枷はない。胸のざわつきも少しずつ晴れてくる。 「びっくりしたぁー、いるならいるって言ってくれればいいのによう」と、胸をなでおろすジュディ、「いや、さっき案内してもらったんだけど、先客がいるなんて一言も聞いてなくって」 「この子って、クレムノス城で会った少年?」バレッタが訊ねる。 「そう。覚えてるだろう?」とバレッタの方を見ると、まだ銃を構えている。 「お前、銃降ろせよ」 「あっ……ごめんなさい、緊張して……」 バレッタはようやく銃を下ろす。 「名前、聞いてなかったよな。あ、そうだそうだ、俺はジュディ。で、こいつがバレッタ。銃を作ったり改造したりするスペル……シャ……」 「スペシャリスト」 「そう、スペシャリスト」 少年は少し困惑した表情を浮かべる。自分よりも年上の「大人の人」が自分に気を使っている。返すべき言葉を探し、そのプレッシャーから逃れようと、ジュディたちの顔を伺い、目をそらし、頭の中に自分が言うべき言葉を積み木のように組み立てている。 「あ、いいよ、無理して話さなくて。俺もメシとか寝るとかそーゆー話以外は苦手だしさ。すぐ出ていくから、もうちょい我慢してて」 階段を静かに降りてくる人の気配がある。バレッタはその足音に気が付くが、少年に質問を続ける。 「閉じ込められてるの? もし嫌だったら館の主にかけあってあげるけど……もしかして、どうしてここにいるかは聞かないほうがいいのかな?」 少年は小さく頷く。 「ん。どういう意味の頷きかはわかんないけど、とりあえず――大丈夫?」 同じようにまた、少年は頷く。 銃の乙女が姿を現し、バレッタの会話が途切れるのを待って切り出す。 「見取り図を持ってまいりました」 「ありがとう」 「それから、城の中の兵は十二人です。外には四、五人いるようですが、はっきりとは……。それから、お嬢様と皇太子はすでに西棟の礼拝堂に向かわれました」 「西棟か……他のボーレイト兵も一緒?」 「いえ、礼拝堂へは一族の者と、位のある者しか入れません。他の兵は城の中を見学していると思います」 「わかった。礼拝堂へ向かい、まずはマティアスを殺す、その間に邪魔者がいたらそれも殺す」 「殺すって言わないで。引き金、引けなくなるから」 「へいへい。魔法のラズベリーで夢の世界へご案内しまーす」 「ん。OK」 「で、そのあとのことは知ーらない、っと」 「ハァ……」と、バレッタはため息を吐く。 「大丈夫です、この城には私たち銃の乙女がいます。私たちでこの城を守ってみせます」 「おおっ! 力強いねぇ! そうでなくっちゃ!」 ジュディと乙女が話している間も、少年はジュディたちの方をしきりに気にしている。もう少しで何か言い出しそうなところまで来てそれを飲み込む。バレッタはそんな少年の様子を横目で眺めている。 「バレッタ、俺の銃は?」 不意に話を振られて、 「えっ? 銃って? 自分のぶんは隠し持ってきたけど……」と、懐に忍ばせている小さめの拳銃をジュディに見せる。 「いやいや、さっき車のなかでー、カバンの中に用意してきてるぜー、って顔してたじゃーん」 「あ、それはなんてゆーか、銃じゃなくて、これ」 バレッタはカバンから奇妙な形をしたものを取り出し、「ホイッスル弾」セミのようにミンミンと鳴かせて、その尻を見せて「ここんとこを擦ると、勝手に火が点いて飛んでいくから――」バレッタはジュディと銃の乙女の顔を見比べて、銃の乙女に渡す。 「これを外で空に向けて打ち上げてくれない?」 「え、ええ、そのくらいなら構いませんが――」 「この音を聞いたらラダレスがありったけの武器を持って駆けつけてくれるはずよ」 「えーっ? じゃあそれまでは丸腰なのーっ?」 「あのう……」銃の乙女はおずおずと自分の腰から拳銃を取り出し、「もしよかったらこれを……」と、ジュディに渡す。 「おおっ? いいのっ?」 「ええ、これでお嬢様をお救いください。あっ、それとスピードローダーも……」 乙女は装填用の補助器具を取り出すが、「いらないいらない。慣れてるから」と、ジュディは断る。 「弾は剥き身でちょうだい。ポケットに入るだけ」 「ああ、はい……」 銃の乙女はジュディのポケットに弾丸をジャラジャラと入れる。 バレッタはジュディの顔の前に城の見取り図を広げる。 「ルートはこれ」赤く描かれたルートを指し示す。「すぐに出るよ!」 「おっけー!」 ジュディとバレッタは階段を駆け上がる。 西棟の方からだろうか、パイプオルガンの音が聞こえてくる。よく足音が響く廊下。 そこを勢いよく走るものだから、すぐにボーレイトの兵士たちが気がつく。 もちろん彼らはそれが侵入者の足音だとは思わず、銃の乙女――この城の使用人が慌てて走ってきたのだと思い、何事かと廊下の奥を覗き込む。が、覗き込むと同時に相手は立ち止まり、銃を構える。褐色のロングヘア。バレッタ。 兵士は足を滑らし、よろめき、倒れるように射線から逃れ、影に隠れる。が、そこに体を翻してストロベリーブロンドが飛び込み、顔面に拳銃を突きつけ、引き金を引く。 銃声。 その銃声が戦いの火蓋を切って落とす。 「まずいね。何人来るかな」遅れてバレッタがホールに駆け込んで来る。 「そんなことより、なんちゃら皇太子に逃げられたら」 「先に行って。ルートは確認したよね?」 「わかった。ここはまかせた」と、駆け出すジュディ。 「逆!」 と背後から声をかけられ華麗にUターン。西棟へと向かう。 広間からどよめきの声が聞こえる。兵士たちの声に混じって女たちの声も。兵士はまだ事態を把握できていない。 バレッタは周囲を一瞥して階段近くの壁に身体を寄せ、カバンを置き、外套の襟を立てて髪を隠す。ほどなくして二名の兵士が階段の上に現れる。兵士は欄干から覗き込んで、階下に人が倒れているのを確認。バレッタは兵士たちからは死角に入っている。広間の方にはこちらの様子を伺う兵士が目視で三人。階段を降りてくる兵士がふたり。 階段が軋む。 あと二段。 ふたりが降りきったところに躍り出て、至近距離から銃弾を浴びせる。 続けざまに二発。ふたりの兵は声もなく倒れ、広間にいた兵士三人はとっさに物陰に身を隠す。刹那、バレッタはホールを横切り、視界から消える。赤い果汁と硝煙を浴びたコートを脱ぎ捨て、ひとつ息を吐いて、金切り声を上げる。 「きゃーーーーーーーーっ!」 シャツは着ていない。肌を顕にし、息を切らせるように途切れながら続ける。 広間から三人の兵士が駆け寄り、裸で叫ぶバレッタの姿に戸惑う。 「どうした? だいじょうぶか?」 バレッタは狂乱した様子で叫び続ける。 「落ち着け! 何が起きたんだ!」 裸の女の前では、男は判断力を失う。うめき声をあげながら少しずつ息を整えるバレッタの背中を兵士のひとりが支え、大丈夫だ、大丈夫だと励ますと、バレッタは肩と唇を震わせ、憔悴の表情を浮かべ、涙をこぼしながらジュディが行った方向と反対の方を指差す。 「わかった」背中を支えていた兵士が頷き、他のふたりにそちらへ向かうように指示する。 「大丈夫だ。賊は我々がすぐに捕まえる。なにか着るものを」 声をかけた男には隊長と思しき階級章が見える。倒れている三人の顔を確認し、祈りを捧げている。その隙にバレッタは脱ぎ捨てたコートの中から、音もなく銃を拾い上げる。西棟の方から聞こえていたパイプオルガンの音は止んでいる。一発目の銃声を聞いてのことか、ジュディがすでに乗り込んだのかはわからない。隊長らしき男は、その西棟の方を向いて少し考え、振り向きながら「すまんが、君を保護している時間はない」と言いかけるが、言い終えぬうちに額に赤いラズベリーの実が弾ける。兵士もこの一瞬で剣を鞘から抜いている。凄腕なのであろうが、ほんの一瞬だけ間に合わなかった。 「ごめんね。こういうズルしないと生き延びてこれなかったんだ、私たち」 バレッタは脱ぎ捨てたコートを羽織り、銃をベルトに差し、カバンを拾い上げる。 その頃、玄関の外では銃の乙女がホイッスル弾を打ち上げていた。 乙女はホイッスル弾が打ち上がると、「ほう」と、その軌跡を見守った。 空の眩しさに片目を細め、手のひらで影を作る。
†
ステンドグラスからの光が砂時計の砂のように真っ直ぐにこぼれる白い礼拝堂。 抜ける空に天使たちが描かれただまし絵の天井。 パイプオルガンからは古い旋律が流れ、その中で司祭を前にして、カトレイシアとマティアス皇太子が正装し、並んでいる。 遠くに銃声が聞こえる。 パイプオルガンの音に紛れてはいたが、カトレイシアにもマティアスにもすぐにそれとわかる。司祭はふたりが同時に何かに気を取られたことを不審に思うが、契約の義はそのまま続ける。 「では、儀に従いて、各々の始祖の霊の許しをもちて――」 「少々待たれよ、司祭殿」 マティアスが制する。 司祭の言葉が止まり、マティアス皇太子はカトレイシアを横目で見るが、カトレイシアは微動だにせず。パイプオルガンの曲は続いている。 「何が起きておりますのかな?」マティアスは慇懃にカトレイシアに問う。 「わかりませんわ。式を中断しても構わないのでしたら、私が確認してまいりますが」 「さて。それはどうしたものか」 話していると、背後の扉が開く。 カトレイシアとマティアス皇太子が振り返ると、そこにはジュディの姿があり、無表情のまままっすぐ歩いてくる。動いている相手に対して拳銃弾丸の命中率は至近距離でも五〇%。この距離で銃を見せれば、二分の一の確率で死ぬ。 「止まりなさい、ジュディ」呆れたようにカトレイシアが叫ぶ。その声は礼拝堂に響き、パイプオルガンの音が止む。 「ここはあなたが立ち入って良い場所ではありません!」 だがその制止も聞かずジュディは歩を進める。 「カトレイシア。あんたを助けに来た」 ジュディはマティアス皇太子の目の前まで来ると銃を抜き、銃口を上げる。撃鉄を起こす間もなくカトレイシアは儀礼用の笏でジュディの銃を叩き落とし、ジュディはこれを避けようとして倒れる。 「おやめなさい! いったいなんのおつもりなんですか?」 外から更に二発の銃声が響く。 カトレイシアは外を見やり、表情はみるみる青ざめていく。 「あれは、バレッタの銃声ですか?」 続いてバレッタの悲鳴が聞こえてくる。 「これは? いったい何が起きているんですか……?」 ジュディは起き上がり、床の上に転がされた銃を拾い上げようとするが、いち早くマティアスが飛び込んで銃を蹴り飛ばす。同時にレイピアを抜きジュディを斬りつける。が、ジュディはこれを椅子の陰に隠れて躱す。椅子の背を切りつけたレイピアは少し曲がり、マティアスは忌々しそうにレイピアを睨み、「儀礼用かっ」と、それを椅子に叩きつけて折り、残った柄をジュディに向かって投げつけ、服の首を緩め、上着を脱ぎ捨てる。 「いったい何のつもりだ! 貴様は――」 四発目の銃声。マティアスは続けて何か問いただそうとしていたが、「クソッ」と吐き捨て、質問を変える。 「表ではいったい何が起きているんだ!」 「言ったはずだ、おっさん。カトレイシアを助けに来たって。すぐにお前の部下は全滅するよ」 「なんてことをしてくれたの……あなたは……なんてことを……」 カトレイシアは狼狽している。 「大丈夫。この城は俺たちと銃の乙女たちで守る。そんな汚い男の手は借りなくていいんだ」 「汚い……? 汚いのはどちらですか!」と、カトレイシアは笏を投げつける。渾身の声を絞り出すように、「恥を知りなさい! 恥を!」 笏が床を跳ねる。その音がだまし絵の天使の間を跳ね回る。 「えっ……」 本気で怒り、涙を流しているカトレイシアを見て、ようやくジュディは戸惑う。その後ろから、 「どうしたの?」 と、バレッタの声。 見ると扉の方でバレッタが銃を構えてこちらを見てる。 「早くやらないと、まだ十人くらい残ってるよ、カトレイシア。もう始まっちゃったんだ。やるしかないよ」 バレッタのいつものおどけた表情はない。まるで心を殺したかのような青白い顔で銃口を向ける。 「弾はラズベリー。夢の世界に行くだけよ。あなたが避けないと当たっちゃうの。嫌なら、避けて――」 カトレイシアはマティアスの前に立ち、両腕を広げる。 「だったら私をお撃ちなさい! 撃てばいいでしょう! さあ!」 マティアスはその様子を眉ひとつ動かすことなくじっと見ている。 バレッタの顔に少し血の気が戻る。同時にそこには後悔の念が浮かぶ。 「ハァ……」 銃を下げため息をついて、握っていた銃を叩きつけるように捨てて、頭を振る。 「やっちまったね。ジュディ」 肺の中の空気をすべて絞り出すように大きく息を吐くが、それでもまだ吐き出しきれてない何かを胸に残したまま、握りしめた拳の震えを、もうひとつの手で覆った。†
一方その頃、玄関。 ラダレスが現われる。 銃の乙女がそれを出迎える。 「あのう、あなたは?」 「私はラダレスです。バレッタの命令によってこちらに参りました。至急案内を願います」 「ああ! ちょうどよかった! 今ね、ホールの方でドンパチが始まっちゃって……でもちょうど終わったところかしら? まだ生きていたらいいんですけど……とにかくすぐに案内しますわ!」 「ありがとうございます」 と、話しているところにボーレイト兵四人が現われる。 「何者だ、お前は!」 「人工知能ケロリーヌ・アルファ搭載シンセシス、タイプ名バレッタ・アッシュコート・スペシャル、個体名ラダレスです」 「はあ?」と訝しがる兵士に、もうひとりの兵が耳打ちする。 「ああ、ロボットか――」と、ラダレスを横目でちらりと見やって吐き捨てた。 「どうしますか?」 「面倒は増やしたくない。追い返せ」 その話を聞いていたラダレスは、「追い返されるわけにはいきません」と、強行突破を試みるが、行く手を塞がれる。 「ちょっ! ここに入れるわけにはいかんのだ!」 兵士三人で立ちふさがるが、それでもラダレスのほうが押す。 「メイド! 縄を持ってこい! 縛り上げて地下に放り込んでおけ!」 「は、はい! ただいま!」†
トライバルの屋敷の大応接室。 上座にはマティアス皇太子が座り、そこにジュディとバレッタが通され、皇太子は控えていたカトレイシアを呼び寄せる。カトレイシアは沈痛な面持ちのまま、ゆっくりと卓に近づき、ジュディの隣に掛けようとするが、「そちらではない。私の隣だ」と促され、皇太子の隣に。 ジュディとバレッタは押し黙っている。カトレイシアも含め、三人はお互いの視線を避けるように、ただじっとうつむいている。刺すような沈黙の後、マティアスが切り出す。 「お前たちの素性はカトレイシアから聞いた。しかし、解せん。仮に貴公らが我が兵を殲滅し、カトレイシアを奪ったとして、そうなればこの国は滅びるしかないと思うが、それでいったいどうするつもりだったんだ?」 「どうするって……」と、言葉に詰まるジュディ。 しばし間をおいて、言葉ではまともな答は得られぬと悟ったか皇太子は、「こいつらの銃を持ってこい」と、部下に命じ、用意された銃をテーブルに置く。 「ふたりのうち、どちらでもいい。その銃でこの女を――」と、カトレイシアを顎で示し、「撃て」 「撃てば開放してやる」と、マティアスは言うが、 「なんでだよ!」「責任は私たちに!」と、ふたりは声を荒げる。 「誰も死なない魔法の弾丸――だったよな? だったら撃てるはずだ」 カトレイシアは微動だにせず、皇太子は「あるいは私を撃ってもいい」と続け、ジュディとバレッタの表情が変わる。バレッタがゆっくりと、震えながら銃に手をのばすと、カトレイシアは立ち上がり、皇太子の前に身体を入れる。 「撃つなら私を」 バレッタの銃を取ろうとした手が止まり、涙がポロポロと溢れてくる。手の震えは肩まで伝わり、肺に降りて、その呼吸を不規則にする。 「ごめん……。カトレイシア……」 と、バレッタは改めて銃を取ろうとするが、ジュディが銃を奪い、 「ちょっと待てよ、何するつもりだよ」と、背後に投げ捨てる。 バレッタがカトレイシアを避けて皇太子を撃つつもりだったのか、あるいは自らの第五章 辺境警備
タイタンの肩と セントールの背を借りて ふたりのマリナーが飛来した 小さき星の 人々の声を 金のディスクに刻み込み 遠き星の まだ見ぬ人に 生きることの意味を 問うために 「なにそれ?」 少年が問う。 「ノラ大陸からの移民が伝えた詩です」 シンセシスの男が答える。 「過去、三人のマリナーがこの星を訪れました。最初の二人は巨人と人馬の導きで訪れ、飛び去り、最後に訪れた一人は聖なる鳥に導かれて訪れて、まだこの星に留まっているのだそうです」 地下室では少年とラダレスが意気投合していた。ラダレスの傍らには解かれた縄が落ちている。 「私たちの文明は、このミロウラ大陸で一万二千年、最も古い隣のノラ大陸には十数万年の歴史があると言われています。だけど年を数えるときはそれでは大きすぎて不便なので、マリナーが訪れた年をマリナー暦一年として数えるんです」 「ふーん。三人目を導いた聖なる鳥って何?」 「ノラ大陸に生息している鳥ですが、この場合は魔法の力を用いて来たことを現していると考えられています」 「なるほど。ラダレスは何でも知ってるね」 「私はもともとネットワーク型の人工知能です。この世界に収められたさまざまなデータにアクセスすると同時に、それを記憶しておくのも私の仕事のひとつ――」 あなたは、とてもとても大切な仕事をしています。たぶん。 私がそんなあなたのね、人生の中の、えーっと、二十二年? の中の、四年を教えたの。凄いことだと思わない? 「どうしたの?」 「――いえ、ちょっと誰の言葉かわからない記憶が再生されていました。なんでもありません。質問を続けてください」 「じゃあ――」と、少年。「一年はどうして三六五日なの?」 「それはマリナーが定めたものです」 「それって、何人目のマリナー?」 「三人目です。今から四十三年前、浮遊大陸ノラの魔道士たちが、悪魔を召喚する術を使って呼び出したと言われています。最初のふたりのマリナーは姿が見えませんでしたが、三人目は人の姿をしていたと言われています。今の科学技術も、知識も、連邦法も、すべて三人目のマリナーによってもたらされました。マリナーが顕現して、この大陸の景色が一変したと言われています」 「マリナーって悪魔なの?」 「わかりません――」 ラダレスはためらい、慎重に言い直す。 「――ノラ大陸に伝わる秘教に口伝された召喚術で呼び出されたと言われていますが、口伝故に私のデータベースにありません」 「ふーん」と、少年は幾度ともなく相槌を打った。 「この星では人間が住める物質世界は第八レゾナンスにあります。第七レゾナンスにはケイ素系生物、すなわち悪魔と呼ばれる者たちが棲んでいます。マリナーは第六レゾナンスに文明を持つ星から召喚されました。第六レゾナンスはここ木星では、ゲルマニウム系生物が棲む世界ですが、その星では第六レゾナンスに私たちと同じ炭素系生物の世界があります」 「レゾナンスって?」 「この世界の階層のようなものです。詳しく理解するのはパドルにはまだ早いと思います」 「歳は関係ないと思うけどな……」 とつぶやいて、ラダレスを仰ぎ見る。 「僕らが二年に一回だけ歳を取るのもマリナーが決めたの?」 「ええ、連邦法も、紀年法も、すべてマリナーにより定められました」 連邦法によって暦が定められる前は、年齢、あるいは年という概念はなかった。一日の長さは四四六八〇秒、一年は三六五日と定められたのはわずか四十三年ほど昔のことで、それよりも古くに生まれた者には年齢や誕生日というものはなく、「成人」も年齢ではなく、能力によって定められていた。そしてこの暦が設定されることによって、ようやく連邦法は成文化されていった。 暦そのものは、四つの主要衛星の位置より求められたものが各大陸ごとに存在したが、そもそも年という概念には当てはまらず、一般の者が目にするような形では広まってはいなかった。1日もまたしかり。太陽光のない木星では、大気の励起サイクルが人々の生活を支配したが、時間に支配されぬ者も多かった。その中で連邦は時間を設定――自分たちが使っている時計をすべての民に行き渡らせ、三六五日というほぼ何も意味をなさない数字を一年と数えることで法の支配を有効にした。立法の前提としては必要なことだったが、多くの軋轢を生んだのもまた事実だった。 暦が制定され、二年に一つだけ歳を取る年齢制が生まれ、偶数年に生まれたものをイーブン、奇数年に生まれたものをオッドと区別する習慣が生まれていたが、近頃は簡単に一二・五歳、一七・五歳と言ったように、〇・五歳単位で歳を言うようになっていた。ちなみに四四六八〇秒は地球の一二時間よりやや長く、地球の二十歳と木星の二十歳との間にはわずかな誤差があった。 少年の年齢は一二・五歳。マリナー暦一〇五年生まれで、正式な表記では一二歳のオッドとなる。が、公式な記録はなく、彼自身自分の年令を知らなかったし、知る必要もなかった。この頃、戦争孤児は少なくなかったし、人買い、人攫いも横行していた。少年が自分自身のことを語る日は来るだろうが、それは今ではない。「ラダレスー。元気かー」 バレッタの声が聞こえる。 階段を降りると少年とラダレスが一つの明かりを挟んで話し込んでいた。立ち止まったバレッタの後ろにはジュディがつかえて、肩越しにその様子を覗き込む。そのふたつの視線に弾かれるように少年はそそくさとラダレスの後ろに隠れる。 大気は基底状態に入り、地下室はすっかり暗くなっていた。 「こんにちは、バレッタ、ジュディ。命令を果たせなくてすみませんでした。荷物はいまお渡しいたします」 「いや、荷物はあとでいいけど、何してたの?」 「パドルにいろんなことを教えていました」 「パドルって、その少年の名前?」 「ええ。パドルは女の人が苦手だそうです」 パドル、背後からラダレスの背中を殴る。 「いてっ」 バレッタはくすくすと笑い出す。 「でも女と言ってもさあ」バレッタはジュディを指差して、「コイツはこんな感じだし、私だってそんなに女の子っぽくはないでしょ? 手なんかほら、オイルで真黒だよ」と、手のひらを表裏と返して見せる。 「違うのはこことここだけだろう?」と、ジュディは自分の体の二箇所を示して見せる。「あとは変わんねーよ、そんなに」 バレッタは呆れながらパドルの横に背をかがませて顔を寄せ、「近くにいたらすぐ慣れるって。それにあんただってすぐ私たちがドキッとするようないい男になるよ」と囁く。 「バレッタ、急に狼の目になりましたね」 と、突っ込みを入れるラダレス。その二の腕をバレッタは殴る。 「いてっ」 「これからアルラ峠にドンパチしに行くんだけど、少年も来るか?」 あっけらかんとジュディは声をかける。 「いや、まずいでしょ。激戦地なのよ? 連れて行けないよ」 と、バレッタは否定するが、少年は立ち上がって、「ラダレスは行くの?」と、小声でラダレスに訊ねる。 「私も行くのかと訊ねています」と、ラダレス。 「もちろん連れて行くよ。でも少年はセットじゃないよ。よく考えて。本当にいいの? 死ぬかもしれないのよ?」 「自分の命くらい守れる」と、同じくラダレスに伝える。 「あ、待って、命を守るってそれもしかして、やばいヤツじゃない? ミスト以外で何かできることないの?」 少年は大きく胸を張って、自信有りげに頷く。そこにカトレイシアの声が聞こえる。少年は、カトレイシアの存在だけはメイドたちの口から聞き知っていた。ただ、メイドたちの間にもミスト魔法を忌避し、カトレイシアに引き合わせることを躊躇うものがあった。少年にしても、そうやって隔離されることに慣れ、互いに噂でしかその存在を知ることはなかった。 「ここに入るのも久しぶりですわ。灯りはついていませんの?」 その声は、ちょうど階段の途中に聞こえる。 それを聞き留めて、少年はここぞとばかり魔法の詠唱を始め、詠唱を終えると、両手のひらを合わせ、広げる。すると部屋中のトーチやランタン、放置されたキャンドルにまで火が灯る。 「わーお。あんた普通に魔法使えるんだ」 ジュディとバレッタは目を輝かせ、そこに降りてくるカトレイシア。揺らめく炎に照らされて、その姿が浮かび上がる。 「なんですの、これ。物置にしてはあまりにもロマンチックではありませんこと?」 カトレイシアはほほえみながら両手を広げ、壁の灯りにをぐるりと見渡す。ベルラインのスカートの裾が遅れて揺れて、花の香を広げる。 パドルはその姿に息を呑んで、頬を赤くしてうつむいて、ちらちらとカトレイシアの顔を覗く。絵に描いたような一目惚れの瞬間だった。それを目の当たりにしたバレッタが、「あーあ」と、顔を覆う。 「エリザベッタより聞いています。あなたは、ミスト使いの少年ですね?」 カトレイシアが少年の顔を見据える。 「この屋敷の主、カトレイシア・トライバルです。人を嫌っていると聞いていましたが、打ち解けているようですね」 カトレイシアは少年の前に出て右手を差し出す。 少年はその意味がわからず、真っ赤になったまま戸惑っている。 小声でバレッタが「跪くの」と、助け舟を出すと、少年はぎこちなく跪いて、バレッタの方を伺う。バレッタは手を取ってキスをするジェスチャー。少年は更に真っ赤になるが、おずおずと手を取ってキスす……キスする……? キスを…… した、ちゃんとキスをした。 「こいつもアルラ峠攻めに加わるってよ」と、ジュディ。 カトレイシアは少年の目をまっすぐに見つめる。少し間をおいて。 「承知いたしました。少年、名をなんと申す?」 「パ……パドル・ファスール……です……」 「パドル。良き名です。私、カトレイシア・トライバルに戦士として仕えることを認めます。互いに互いを守る盾とならんことを」 「は、はい……。喜んで……」 カトレイシアはくすりと笑う。 ふと見るとラダレスまでカトレイシアに見惚れている。 「なんであんたまで見惚れてんのよ」と、バレッタはその二の腕を殴る。 「カトレイシア……」 ラダレスはずっとカトレイシアの方を見たまま動かない。 「どこかでお会いしませんでしたか?」 「あーもう、男性型シンセシスってナンパもするわけ?」 と、苛立つバレッタをクスクスと笑って、カトレイシアは、 「いいえ、シンセシスの知り合いはあなたが初めてです」 と、その手をラダレスにも伸ばす。 カトレイシアがこうして自ら従者を任命したのは今日が初めてだった。 まだ幼い頃に父と死別し、貴族としての立ち居振る舞いはすべて母から受け継いだ。その母も今とある事情があって湖のほとりの小さな家で一人で暮らしている。 パドルを戦場へ連れて行くことにバレッタはすぐには賛成しなかったが、「いずれにしても私の身の回りの世話をする者は必要ですわ」とカトレイシアが押し切った。ただバレッタにしても、少年の同行が決まったら嬉しそうに笑ってはいた。
†
「扉はパドルが開けて差し上げるんだぞ? ちゃんとできるか?」 アルラ峠へは四人乗りの馬車二台、カトレイシアとパドル、その他三人で別れて乗った。カトレイシアとふたりで馬車に乗ると聞いてパドルは相当緊張した面持ちで、何を聞いてもコクコクと頷くだけで一言も発しない。 「ガッチガチだなぁ」と、ジュディ。 「ま、別にあれはあれでいいんだよ」と、バレッタがフォロー。 「ちゃんとお姫様の話し相手になってあげないとダメだぞ、パドルー!」 「ハードル上げないの!」 ラダレスは人間らしい身体を手に入れてまだ馴染んでいないせいか、椅子の上に足を持ち上げてちょこんと座ろうとしたところをバレッタに「おい」と突っ込まれる。 バレッタに足を抱えられながら、 「カブリオレですね。以前、乗ったことがあります。初めて旅をした時です。あの日は青いカブリオレでした」 「いや、これは――」と、バレッタは椅子に上げたラダレスの足を抱えて、「四人乗りのキャリッジ。あてにならないね、あんたの情報も」と、その足を床に降ろして大きく息を吐く。 「そうですか。屋根が開くタイプはカブリオレだと記憶していました」 ラダレスの言葉を聞いて、バレッタは改めて屋根のあたりに触れて確かめる。 「あ、ほんとだ。この馬車、メタルトップなのに屋根が開くんだ」 「開けていきませんか?」 ラダレスの提案に、「いいね、それ」とジュディ。 「あんたは髪短いからいいけどさー」などと言いながら、バレッタは屋根を開ける。特に御者に断ることもなく、御者もまた身じろぎもせず。 馬車はボーレイト国自慢の電動アシスト付き高速馬車で、それぞれ二頭立て。高速とは言え電動アシストでしかないので馬の持つ物理的な限界以上の速度は出なかったが、カーブや加減速時の制動性が高く、たとえ坂道でも馬が止まればピタリと止まり、乗り心地も快適な上に高いパフォーマンスを長く持続することができた。 「夏、という言葉をご存知ですか?」 流れる景色を眺めながら、ラダレスが訊ねる。 「ナツ? なにそれ」 「雨期のあとにくる気温が高い季節のことです」 「へぇー。どこの大陸の話?」 「忘れました。夏が来たら、セミを捕まえて、大きな篝火を焚いて、その周りで踊り、裸になって、水に入って騒ぎます」 「何その奇習。蛮族?」 「セミは? セミはどうなったの?」 馬車は温帯の広葉樹林を走る。森と呼ぶには少し躊躇うくらいのまばらな木々の間を街道が縫う。小さな小川をまたぎ、離れて、また横切る。 ラダレスとパドルまで含めて五人、休憩の時はみんなで話した。 これから行く先はたぶん地獄だ。 ――だけど、銃がある。と。†
たどりついたボーレイト軍の前哨基地は木造の急ごしらえの砦で、小屋とテントしかないが、そこそこの数の兵舎を擁している。電動アシスト付きの馬車も配備され、武器庫、シャワールーム、簡易的な医療設備と、監視用の高い塔。男たちの洗いざらしのシャツの万国旗と、いくつかの篝火、配膳室。入り口の柵は三重で、屈強で汗臭い兵士が三重にそこを守っていた。 アルラ峠で敵対していたのは、ジュディたちにとっても因縁のあるトリアティクルの宗主国グライデン。二年前から膠着状態が続いていると、バウドロと名乗る老兵が教えた。 「固有名詞覚えなきゃダメ?」と、ジュディ。もはや定番の質問と化している。 「あんたは別にいい。敵がいるぞーくらいわかってりゃじゅーぶん」と、バレッタ。 「わーい」 と、そんな会話を聞いてバウドロは目線を泳がせる。今まで使えない新兵はいくらでも目にしてきたが、あからさまに話を聞かないのは初めてだった。が、任務であるので、と思い直して説明を続ける。 この峠は貿易の要所であることからボーレイトがその覇権を狙っているが、数の上ではグライデンが圧倒、この半年でボーレイトの軍勢は半分にまで減り、現在の戦力差は四対一、グライデン軍の圧倒的優勢。ボーレイト軍の士気は下がり、敗走は目前とされていた。 「かなり困難な状況のようですわね」 「敗戦の責任を取らせるのが目的だよ、これじゃ」 「士気を上げたいんじゃない? ここ入ってからずっとそんな目で見られてるよ」 などと話しながらも、カトレイシアが作戦地図を広げると三人の目は真剣になる。 圧倒的な不利の中、限られた戦力でどう覆していくか、冷静で論理的な議論が進む。作戦会議はその日の夜遅くまで続き、最終的には老兵バウドロも納得した様子で、 「作戦の遂行には私が入り、指揮の乱れがないよう全力を尽くそう」 と、全面的な信頼を得るに至った。 その作戦は翌日より開始される。 早朝。 ジュディはボロをまとって、グライデン軍の前哨近くへ来ていた。傍らにはボロをまとったパドル。棒を持たせ、近くの畑から盗んだトマトをかじらせ、水量の少なくなった川のほとりを上流へと移動した。小汚い少年に棒というのは、鬼に金棒にも優る。「更にバナナでもあれば」と、ジュディは嬉々としてパドルの顔に炭を塗ったが、残念ながらバナナはなく、トマトしか手に入らなかった。パドルのメイクを終えたジュディは、「これでどうだ」と、鏡を見せたが、いつもコクコクと頷くだけだったパドルが今日は無反応だった。 棒とトマトを持った薄汚れた少年とその姉は、敵軍の前哨近くでスリープの効果のあるミストを発生させ、一帯の兵士たちを眠らせる。そこにバレッタ率いる十数名の部隊が入り、眠っている兵士の首に赤い顔料で、自分たちがいつでも殺せる立場にいることを示すための線を引いた。 この作戦を発案した時、「なぜチョークを使わん?」とバウドロが聞いた。 チョーク、即ち、窒息。 ミスト魔法は術者以外、範囲にいるもの全てに効果を及ぼす。そのため、窒息のチョーク、凍結のフリーズといった致死性の高い魔法を使うにはパドルひとりで戦場に潜入する必要がある。そう説明すると、バウドロは「ならば俺が――」と、パドルの付添役に名乗りを上げた。 「いやいや、死なせたら恐怖は広まらないよ。その手前にいるから怖いんだよ」 と、バレッタ。 「そういうものだろうか」と訝しがるバウドロに、まだ幼いパドルにそれほどの業を背負わせたくない、と、カトレイシアが吐露してその場を収めた。 実際この作戦の難点はパドルを連れて行ったジュディも寝込んでしまうことで、そこを襲われないよう入念に計画を立てて回収に行くのだが、その後幾度となく繰り返される作戦の中で計画通りの場所で発見されたことはなかった。 幾日か過ぎて。 いつものようにジュディとパドルは、敵の懐に侵入していた。 ぱらぱらと落ちる雨の粒が頭上の木の葉を騒がせて、雨の日の匂いを連れてくる。 「しばらく眠りこけるんだったら、雨に濡れない場所がいいな」 と、あたりを見渡して選んだのは、物置小屋を改造したような大きな鳥小屋。中へ入ると、寸詰まりの黒くてむっくりしたオレンジ色のくちばしをした鳥たちが十数羽。 「じゃあ、今日はここで!」とむせ返る鳥臭さの中で作戦が決行された。 白い霧の魔法を使ったパドルはバレッタが探しに来るまでの短い時間、眠りこけたジュディのお腹を枕に、たゆとう船に揺られるように、この見慣れない鳥たちの間で、ゆっくりと、ゆっくりと眠りに落ちていった。 雨上がりの鳥小屋は壁板の隙間から光を零して、鳥たちがふるふると舞い上げる埃を浮き立たせる。 しばしの眠りのあと、「回収に来たよ、パドル」と、バレッタの声。 パドルはぼんやりと目を覚まして、はっとジュディのお腹から飛び退く。 「ごめんね、枕もらっていくね」 バレッタが言うと、脇に控えていたラダレスがそれを担ぎ上げる。 傍にはガンベルトが置かれていて、パドルがそれを拾い上げる。 「ベルト、あなたが外してあげたの?」 バレッタに聞かれて、パドルは赤くなってコクコクと頷く。年下の少年を、女たちは惑わせる。だけど命令は常に「待て」。 「ありがとう。さ、早く戻らなきゃ。そろそろ目覚める頃よ」 パドルはコクコクと頷く。 「ジュディのお腹はどんな寝心地でしたか?」 ラダレスが訊ねると、パドルは赤くなって背中を殴る。 もともと霧が発生しやすい土地で、狙い通りに敵軍をパニックに陥れていったが、三、四回繰り返すうちに、ボーレイト軍にはグライデン軍を殺傷する気がないのではないかと勘ぐられるようになった。 このため作戦の六回目、事前にミストの範囲を通告、退却か死かの選択を迫る。その日の作戦にはパドルは出さず、自然の霧が出るのを待ち、ジュディとバレッタとカトレイシアで乗り込み、範囲内に残った三十五名の兵にラズベリーの実を撃ち込んだ。兵士は果汁の詰まった革袋だった。どこを撃っても赤い果汁が噴き出して、溢れた果汁を眺めるのはただただやるせなかった。 この作戦は地道ではあるが効果は高く、傭兵や農兵たちから脱落者が出始め、敗走と、追撃とで、最初の二週間で敵勢力の三割を削るに至った。ある夜、ひとりの娘が捕らえられ、作戦室に通された。 バレッタは奥の簡易ベッドに横になってラダレスに腰を揉ませ、ジュディはコッヘルとポータブルストーブで何かを煮て食べ、パドルもその隣でスープを抱えて座っている。 兵士は娘をカトレイシアの前に座らせる。 「この方が、いったい何をされたというんですか?」 「ハッ!」と、敬礼する兵士。 「鉄条網を破壊したかどにて逮捕してまいりました! 処分の決定をお願いいたします!」 兵士の敬礼で束縛が緩んだ娘はすかさず、叫ぶ。 「戦争をやめてください! いますぐに!」 「貴様っ!」すぐに兵士が取り押さえようとするが、カトレイシアがこれを制する。兵士は「しかし」と、物申すが、カトレイシアは毅然と立ち上がり、犬を払うように出口を差し、戸惑う兵士を睨みつけ、引き取らせる。 「戦争、やめたいのはやまやまだけどねー」 と、コッヘルをストーブの上で揺すりながらジュディ。 「そうそう、そーゆー話って平行線にしかならないし、無駄だからやめない?」 と、バレッタは簡易ベッドで横になったまま、カトレイシアだけが娘に向き合っている。 「その者、名をなんと申す」 「フレアベル・キャナル。八十六年生まれ――二十一歳、イーブン」 「どうして鉄条網を破壊なさるのですか? 鉄条網を破壊したところで戦争は終わりませんよ?」 との問に、 「ココピリカが怪我をするから……」と、フレアベル。 この奇妙な響きの単語にはバレッタが反応し、問い返す。 「ココピリカ?」 フレアベルと名乗った娘は物憂げに答える。 「鳥」 「そなたは、鳥ごときのために戦争をやめよと申すのですか?」 「鳥ごときって……」疲労と呆れの色を濃くしながら、半笑いで漏らす。 パドルはコッヘルを置いてバレッタの簡易ベッドに駆け寄り、ラダレスの袖をつまんで、何か伝える。 「そのココピリカという鳥はニワトリに似た黒いずんぐりとした鳥ですか?」 パドルの代わりにラダレスが問いかける。 「知ってるの?」 フレアベルがパドルに問い返すと、パドルはラダレスに何か告げる。 「ココココという鳴き声で――」とパドルの言葉を伝言しながらラダレスも気がつく。「ああ、ジュディが眠りこけていた鳥小屋にいた鳥ですね!」 「鳥小屋に入ったんだ……」 パドルは小さく頷く。 「あの鳥、この大陸にはもうこのあたりにしかいないの。昔から聖なる鳥って言われてて、私たちの幸せを祈ってくれてる。死んだ人の魂が迷子にならないように、天国に導いてくれるのよ」 勢いづいてフレアベルは語る。パドルは聖なる鳥の話に釘付けになる、が、 「そんな迷信を語られても困りますわ」 不機嫌そうに言い放つカトレイシアの言葉を聞いて、フレアベルは力なく座り込む。 「うん。わかってた。いつもこうなんだ」 この時、カトレイシアはフレアベルの様子がおかしいことに気がつく。フレアベルに一歩近寄りその袖をまくり上げると、袖の下にはたくさんの傷がある。何らかの肉体的な「責め」を負わされた傷だ。髪をかきあげてみると、顔にも、脚に目を移せば脚にも。 「その傷は誰にやられたものですか? 我が軍の兵ですか? それともグライデン軍の兵ですか?」 フレアベルは力なく倒れ、カトレイシアが支える。 「カトレイシア! こっちに!」 バレッタがベッドを空ける。 一夜明けて。 ベッドに寝かされたフレアベル。 ゆっくりと開く目に朝日が眩しい。 「気がついたね」 フレアベルは部屋を見渡す。 「医療班につきっきりで診てもらったからね。傷はもう全部治ったんじゃない? ちゃんと栄養とったらすぐに元気になるよ」 フレアベルは袖をめくって傷を確かめる。顔を指で確かめ、手のひらを表、裏と眺める。 「フレアベルとやら。ココピリカの生息範囲を教えなさい。敵を殲滅し、そこを非戦区域といたします」 カトレイシアが傷のことを問うことはなかった。 「えっ……?」と、フレアベルは顔を上げる。 他のふたりに事前の相談はない。バレッタは「敵を殲滅して非戦区域にって、あんた戦争の意味わかってる?」と、問い糾すが、カトレイシアは意に介さず、 「地図があります。指し示してもらえませんこと?」 と、机の上の地図をとんとんと示す。 「本当ですか――」 フレアベルは立ち上がろうとするが、立ち眩み、よろける。 「あーもう、あなたも無理しないの! その様子だと何も食べてないんでしょう?」 心配するバレッタの隣に「ん」とコッヘルを差し出すパドルがいる。 「ほら、まずは腹ごしらえ!」と、ジュディ。 臨時の軽食タイムとなるが、腹が減っていたのはむしろジュディとパドルで、フレアベルの食は進まなかった。それでも時間をかけて咀嚼すれば、体は生への意欲を取り戻す。一通りの食事を終えた後、フレアベルが範囲を記した地図を囲んで、カトレイシアたちは話し込む。 「案外広いね」 「そうね、グライデン軍の前哨三つと、こっちの監視塔ひとつが含まれてる。ミストを使えば殲滅できるけど、そんなことしたら非戦協定なんて結べなくなる」 「ミストで殲滅する気はありませんわ。パドル・ファスールの負担になるような作戦は断じて許可いたしません」 その言葉を聞いてジュディとバレッタは嬉しそうに顔を見合わせる。そしていたずらに地図の上に頬杖をついてジュディが訊ねる。 「じゃあ、どうする気だよ」 「こちらの監視塔を向こうに差し出します。そのうえで、相手の指揮官と協議し、一帯を非戦地域といたします」 「うひー。大胆だねぇ。本国の意向など知ったことかって感じっすな」 「でもやばくない? ここを落とさないと、責任取らされるんでしょう?」 というジュディ、バレッタの言葉に、カトレイシアは大きくため息を吐く。 その思案の表情を見てバレッタ。 「あ、ちょっと待って。あなた、『こんなときマティアス皇太子殿下だったらどんな作戦を――』とか、考えてないでしょうね?」 「そんなこと考えていませんわ。私には私の考えがありますもの」 「『あの方なら、きっとわかってくれますわー』とか――」と、重ねるジュディ。 「あなたたち」カトレイシアの目が鋭くなる。「少々失礼がすぎませんこと?」 「あはは、ごめんごめーん」ジュディは戯ける。 「作戦には反対じゃないわ。でもあの皇太子のこと気にしすぎてると、変なことになると思うから釘刺しただけ」 バレッタはテーブルの上の食器を足元のトレーに乗せながら、カトレイシアの顔を覗く。 「はあ? でもあなた、あの時、泣いてましたよね? 勝手に屋敷に侵入して、勝手に暴れて、挙げ句――泣いてましたよね?」 「あの時は雰囲気に飲まれてただけじゃない。それに泣いたのは違うよ、あんたのこと思ってたからじゃん。ていうか、私たちの問題でしょう? なんであいつがいろいろと指図するのよ。会ったばっかの他人が図々しすぎんのよ」 「図々しいも何もあなた方がしたことは、重犯罪ですよ? そこをちゃんと理解されてないのでしたら、あなた方との関係は考え直さないといけませんわ」 押されて萎んでいくバレッタの後を、ジュディが引き取る。 「まぁ、要はあれよ。あんたが決めたら、俺たちは従う。でもあの皇太子に尻尾振るんだったら乗らない」 「わかりました。あなた方があの方をどう見てるかも、よーくわかりました」 「あーもう、そうやって拗ねるしー」 「拗ねていません!」
その翌日、まずは現地視察、と、ココピリカの小屋を訪れる。フレアベルとパドルとジュディが背を屈めて小屋の中に入る。パドルは今日も棒と、もう一方の手にはキュウリを持たされている。 「ふー、見つかるかと思った」 小屋に入り安堵するフレアベル。その視線はすぐココピリカたちに向けられる。 「見つかっても二、三人だったらなんとかなるよ」とジュディ。 「でもその後……」とパドルはぼそりと呟く。 フレアベルはココピリカに駆け寄り、すり寄ってきた一羽の首筋を撫でる。 その後ろで、「ああ、そうね、私が処理したら目立ちすぎるね」というジュディのセリフ。パドルはコクコクと頷いて、「いや、だから、そろそろ慣れろよお前もー。俺を枕にしてんの聞いてんだぞ?」のようなじゃれ合いをしている。前景では、そんなことは構いもせずフレアベルは棚から新しい豆を降ろし、餌箱に入れて、水入れを瓶の水で洗い、水を換えて――忙しなくココピリカの世話をしている。 パドルは「あっ」っと、フレアベルだけを働かせていたことに気がついて、きゅうりを棚に置いて、駆け寄る。だけど何を手伝って良いかわからず、まだ使っている瓶の蓋を閉めたり、ふと気がついてまた開けたり。そして、フレアベルから、 「ありがとう、パドル。優しいのね」 と言われて、真っ赤になる。 遅れてラダレスが小屋に入ってくる。 「よう、ラダレス。監視塔のほうはどうだった?」 「第四監視塔の退去準備は順調に進んでいるようです。カトレイシアとバレッタが護衛する予定だったのですが、それも必要がないとのこと」 そんな話を聞いて、「みなさん、お強いんですね」と、フレアベルが振り返る。 「まあな」と、ジュディが得意げな顔をしていると、「邪魔するよー」と、バレッタが入ってくる。 「雨が降りそうなので、私もお邪魔させてもらいますわ」と、カトレイシアも続き、「これがココピリカですか」と、珍しそうに鳥を眺める。 三人の銃士を見て、フレアベルは嬉しそうに語りだす。 「三銃士っていう物語があるんですけど、あなたたちを見てるとそれを思い出します」 この言葉に、ラダレスの動きが立ち止まるが、気に留めるものはいない。 「実を言うと最後まで読んでいなくて、最後に戦争に向かうんだけど、どうなったか知らないんです。だからあなたたちが、もしかしたらその続きかもしれないって」 話はひと段落。 「私たちの銃、マスケット銃とは違うんだけどね」と、バレッタ。 「詳しいことはわからないけど、あなたたちだとさしずめ
八月二日 土曜日
ロサンゼルス国際空港に到着しました。
羽田からの深夜便に乗ったので飛行機の中で一瞬だけ十四歳になって、
ロスについた時はまた十三歳に戻っていました。
そこで僕は、木星の大赤斑を目にしました。
木星の厚い雲の下には、知られているだけで七つの浮遊大陸があり、
大陸ごとにさまざまな文明が栄えています。
そこには悪い法律があって、人々は苦しみ、
それは今も木星に残酷な歴史を刻み続けているそうです。
†
朝からの雨。 散発的な戦闘が続いていた。 戦力差ではまだこちらが押されていたが、敵方に明らかな動揺が見られる。それまでとは攻撃の質も頻度も違っているとベテラン兵バウドロが教える。 老兵曰く、一気に畳み掛けるなら今。敵もそれを警戒している。逆に今を逃せば敵は戦力を増強、あるいは全く違う戦略を持ち出してくるだろう、と。当然バウドロの頭の中には「ミスト魔法のチョークを使えば」という思いはあったが、あえて口には出さなかった。 朝方、協定申し入れの親書を持たせたメッセンジャーは、昼前には返事を携えて戻った。曰く、先方は急な申し入れを警戒しており、こちらから協議の席に出るのは指揮官カトレイシアを含め三名、フレアベルを同席させること、武器は砦内持ち込み禁止、これは当然として他にもいくつかの条件が記されていた。が、協議は取り付けた。 至急調整し、第一要塞と呼ばれる相手方の砦に乗り込む。こちらからの出席者は、カトレイシア、フレアベル、ジュディの三名。バレッタとラダレスは三人を送ったあと砦の外の馬車で待機。そしてその協議は予想通り、予想外に難航する。 相手方はアルラ峠方面指揮官のプラット・トーピー以下七名。将校のひとりがフレアベルに目配せしたようにも見えたが、紹介はされず、本人たちも何も言わなかった。 トーピーは老練の指揮官でカトレイシアに対する口ぶりには見下したところも見受けられる。「ココピリカの保護のために非戦地域を設定する」という申し出の裏になにかあると踏んで、こちらに対して様々な譲歩を求め、更に向こうが勝手に設定した戦犯の引き渡しを要求してくる。狙いはこちらの真意を探ることにあり、真相を引き出すために無理な注文を投げかけて来た。 トーピー指揮官は問う。 「これは皇太子マティアスの策略によるものか?」 「いいえ、ここの指揮官である私が決めたものです。この者――」とフレアベルを示し、フレアベルは一礼「フレアベル・キャナルのココピリカ保護を、この土地の覇権争いよりも優先するべきと判断いたしました」 「それは先程も聞いた。私が聞いているのは、このことにマティアス公がどうかかわっているかだ。貴公の独断なわけがあるまい」 「貴公らこそ、何を迷われておるのかわかりませんわ。こちらは条件面では理不尽なほどに譲歩しております。独断であろうがあるまいが関係なくはありませんこと?」 「端的に申そう。マティアス公であれ、その婚約者であるそなたであれ、その言葉、信ずるに値わぬと言っておる。卑劣なボーレイト人が約束を守るなど、信じるほうがおかしかろう」 卑劣と言われ、カトレイシアは首を捻る。 「納得いたしかねますわ。少々お聞きしてよろしいかしら」 「なんだ!」 トーピーはかなり苛立っている。 「マティアス皇太子殿下は、この土地でそれほどの非道を働いておられるのですか?」 「だから、そもそもが!」声を上げるが、隣に座る書記官になだめられ、「わかっておる」と払った上で続ける。 「この土地での争いに、そなたらの国はなんの大義もないのだ。ここにいる者たちの土地を奪い、そのなんとかという鳥を焼き鳥にして食っているのも、そちらの国ではないか!」 カトレイシアは、正当な話であれば通ると思っている。そしてまた、マティアスが語った正当らしい「理屈」も、言葉として口に出た以上は真実で、マティアスはその信念に従って行動していると解釈している。 「そうなのですか?」 カトレイシアはフレアベルに訊ねる。 「ええ、申し上げにくいのですが、その通りです」と、フレアベル。 「そうでしたの。三銃姫などと持ち上げるから。その気になったではありませんか」 「すみません……」 「それで、どうするおつもりだ、カトレイシア殿」 カトレイシアは暫し考えるが、 「そちらの条件、すべて飲ませていただきますわ」 と、顔を上げる。 即ち、トーピー指揮官の主張もカトレイシアには正当で、マティアスを説得するに足るものだった。 「はあ?」と、想定外の返事に顔を歪ませるトーピー指揮官。 「よろしいのですか?」と、フレアベル。 「そうすることでしかこの協定、結べないのでしょう?」 と、カトレイシアは書類にサインする。 「まあ良い。これで、交渉成立だ。二枚目の紙が引き渡しを要求する戦犯のリストだ。心配はいらん。こちらも法治国家だ。連邦立ち会いの正当な裁判を受けさせる」 カトレイシアは改めてそのリストを眺めるが、その表情は一気に曇っていく。 「それからフレアベル、土地が戻ったらそなたにも管理を手伝ってもらうことになる。諸々の準備もある、こちらへの通行証を発行しよう」と、指揮官。 「ありがとうございます」というフレアベルの返事を聞いて、「あー、なんならこちらに残ってもかまわんぞ」と、わざわざカトレイシアたちにも聞こえるように付け足す。フレアベルはちらりとカトレイシアの顔を伺うが、カトレイシアはリストから目を離さずに、「少々お待ちになってください、指揮官殿」と、静かに申し出る。 「どうしたの?」 ジュディが問いかけると、カトレイシアは戦犯リストを指で示す。配属に「皇太子親衛隊」と書かれたものを指して、小声で「死んでる」と伝える。 「えっ? そうなの?」と小声で返すジュディ。 カトレイシアはジュディにジェスチャーする。 ジュディを指をさし(あなたが)、 手で拳銃を作り(銃で)、 その銃を自分の頭に向けて舌を出して白目を剥く(殺した)。 「うっそ……」 「トーピー指揮官殿、リストにすでに戦死したものが混じっております。引き渡しは不可能かと――」カトレイシアはトーピーにリストを示す。 「フッ、そう来たか。忌々しい」と、トーピー指揮官。 「いま、なんとおっしゃいました?」 カトレイシアはトーピーを睨み上げる。 「いいえ、なんでもございませぬ。引き渡しの期日は五日。履行されない場合は、あー、ここ、四条第三項、ここに書いてある通り、『乙は全軍を引き上げるものとする』それからここ、『この停戦協定は連邦国家の名誉のもと、滞りなく実行されるものとする』ここに書いてある通りです」 トーピーは書類をとんとんとんと叩いて示す。 「よろしく頼みましたぞ」†
砦の外郭に停められた馬車。 フレアベルとジュディとカトレイシアが話している。 「フレアベル、こちらの軍はもうこの地域には入れなくなる。トーピーのおっちゃんも言ってたし、ここに残ったほうがいいな」と、ジュディ。 「ありがとうございます。では、お言葉に甘えて……。またいつか」 「そうですね。いつかまた、機会があれば」 虚ろに言うカトレイシアに、 「嘘はダメだよ、カトレイシア。本当のことを言ってあげな」と、ジュディ。 「そうですね。これが最後です、フレアベル。あなたに会えて良かった」 「えっ? どうして……?」 「契約が不履行となれば、連邦軍が介入してきます。そうなったらボーレイトは引かざるを得ません。ここは名実ともにグライデン国に返されることになりますわ」 「えっ? それでカトレイシア様は?」 カトレイシアに返事はない。やんでいた雨が、またぽつりぽつりと降り出す。ジュディはカトレイシアに馬車に乗るよう促し、忌々しそうに天を見上げる。 「お元気で、フレアベル・キャナル」 カトレイシア、ジュディ、と、馬車に乗り込む。 フレアベルも一礼し、雨を避けるようにグライデンの砦へと駆け込む。 「つまり、どういうことなの?」 御者台で傘を差したバレッタが、振り返り訊ねる。 ジュディとカトレイシアは駆け足で説明する。 内容を精査せずに契約を結んでしまった。戦犯の中にはジュディたちが殺した将校が含まれ、しかもその将校はこの戦場で部隊の指揮を取っていることになっている。契約は成立させようがない。五日後にはここを放棄せざるを得なくなり、さもなければ連邦軍が介入し、力ずくで排除される。そして、いずれにしてもカトレイシアは失脚。指揮官退任は必至で、そのうえなんらかの責任を取らされる。 ハッ、と笑って、「逃げ出そうか? カトレイシア」と、バレッタ。 「それとも、ボーレイトを襲撃に行くかい?」と、ジュディがかぶせる。 カトレイシアは何も答えないまま、バレッタは傘を閉じて後ろの席に放り、手綱を取る。馬車は雨に打たれ、峠の街道を走る。翌日、カトレイシアは全軍に帰還命令を出すが、多くの者がこれに反対。またその翌日、ボーレイト本国からカトレイシアに帰還命令が出るが、それはなぜかすぐに撤回される。 「どういうことだろうね」 「混乱してんだよ。何もかも予想外で」 最初の協議のあとすぐ、協定運用のための二度目の協議を求めていたが、撤退期限前日にようやく認められ、カトレイシアたちとトーピー指揮官は再度話し合った。その席にはバレッタも同席、彼女たちの出自からトライバル家とボーレイト国との間で起きたこと、戦犯として引き渡すべき人物を彼女たちがすでに殺害していること、ジュディたちには戦果と引き換えに恩赦の内約があること、すべてを話した。 向こうからの返事は、仮にそれが事実であったとしても、期限の前日に契約を変更することは難しいとのことだった。 指揮官自身、個人的には彼女らの言い分を信頼するとは言ったが、客観的に真実であるという保証がない。そもそもマティウスが信頼に値する人物ではないし、事実関係の調査にも時間を要する。 トーピー指揮官はこうも言った。 「カトレイシア殿、あなたがこの戦争で勝っても、負けても、生きて帰っても、死んで帰っても、いずれにしてもそなたらの国はマティウス公に乗っ取られる。相手は無傷で、合法的に、なんなら英雄、あるいは悲劇の主人公にもなろう。まんまと嵌められたのだよ、あなた方は」 そしてこう付け加える。 「こちらではそなたらの亡命を受け入れることもできる」 しかしカトレイシアはこれを断る。 この日、カトレイシアはエリザベッタへ無線で連絡、使用人を全員解雇し、城を放棄せよと伝えた。私の財産はもはや城ではない、あなたたちだ。ひとりたりともマティウスに蹂躙させてはならない、自分たちが戻るまでなんとか生き延びるように、と。
そうして、戦犯引き渡し期限の日を迎えた。 この日の正午、自動的に協定違反が確定し、ボーレイト軍の駐留が連邦法違反となる。 「ジュディ、バレッタ、あなたたちはパドルを連れて街へ戻ってください。あとであなたたちのアジトで落ち合いましょう」 「もういいよ、カトレイシア。私たちも引き上げよう」 「私はフレアベルのために停戦を見届けないと……」 と、言いかけて気がつく。 「パドルはどこですか?」 ラダレスが走ってくる。 「パドルがいません。どこを探しても」 「もしかしてバウドロが!」 バウドロは、パドルの魔法を使って敵を殲滅すべきだと幾度か直言していた。そのためになら自らパドルを敵陣の奥まで案内する、死などはいとわぬと。 「あいつが……」 「すぐにバウドロを探して!」 「待って、カトレイシア! もし本当に致死性のミストを使わせる気なら、うっかり踏み込めない!」 「でも止めないと! 停戦どころか、連邦の監視下でそんなことをされたら……」 「私とジュディで探してくる。あなたはここにいて。何が起きるかわからないから、兵士たちの暴走を食い止めて!」 バレッタとジュディは陣を離れる。 カトレイシアは急いで前哨基地の監視塔に上り、街道にふたりの姿を探す。あたりにはぼんやりと霧がかかってくる。
街道。 パドルの姿を探すバレッタとジュディ。 霧が出てきたことに気がつく。 「これは……?」 「大丈夫、自然の霧だ」 「それにしてもバウドロはどこに行ったんだ!」 「たぶん、最も効果的にミストを使える場所……」 「第一要塞?」 「そう。だとすると侵入ルートはふたつ。手分けして探そう」 「わかった!」 二手に分かれる。 ジュディの背中を見送った後、バレッタは白い霧の壁の前に出る。 明らかに密度が違う濃白の空気。自然の霧ではない。今まで何人もの敵を白い霧で眠らせてきたが、目の前の霧はそれとも違う。見ているだけで視界が歪んでいく。色彩が消える。不気味な低い唸り。吐き気。森を賑わせる鳥の声が、眼の前の霧の向こうには聞こえない。 「まさか……」と、後ずさるが全身の力が抜けてその場に座り込む。 霧がすべての生命活動を停止させている。目の前にあるのは、白い死の塊。霧の範囲からは外れているのに、身動きが取れない。正気を保っているだけでやっとの状況だったが、五分ほどで霧は晴れていった。 霧が晴れると同時に、ボーレイトの前哨基地からサイレンが鳴り始めた。他のボーレイトの数々の監視塔からもサイレンの音が響く。 一斉攻撃の合図だ。 バレッタは立ち上がり、意を決して霧があった場所に飛び込む。すぐに嘔吐する。が、それでも下草を踏み分け、ほんの数十メートル入ると、ふたつの人影がある。横たわる老人のとなりに、小さい少年の影が座り込み、じっとしている。ここが霧の中心だとしたら、さっきの霧はそんなに広い範囲じゃない。三キロと言われる通常のミストの範囲なら砦にも届いただろうが、先ほどの霧ではおそらく掠ってもいないだろう。それでもサイレンは鳴り響き、一斉攻撃はおそらくもう始まっている。パドルはただじっと座っている。倒れたバウドロの体には、青黒い痣が無数に浮かんでいる。使った魔法はチョークでもない、もっと致死性の高いヴェノム、あるいはデスか。 バレッタがパドルに近寄ると、顔も合わせずに言う。 「大丈夫。初めてじゃないから」 かけるべき言葉が出てこない。 胸の底から湧き上がる感情の一つ一つを飲み込んで、そこに浮かぶ苦い表情を掻きむしるように顔から剥がし、胸の中の一滴の清水を絞り出し、笑顔にして貼り付ける。 「パドル、よくやった。えらいよ。どうする? このことカトレイシアには報告する?」 しばらく考えて、少年は遠くを見たまま、コクリと頷いた。
一方、前哨基地。 カトレイシアのいる監視塔から、火の手が見えた。八つあるグライデン軍の前哨すべてから火の手が上がっている。次々と上がる。反撃の狼煙。ボーレイト軍の監視塔も例外ではなく、こちらも次々と炎に包まれていく。カトレイシアは自軍正門にバレッタとパドルらしき姿を見留め、監視塔を降りる。バレッタが息を切らして前哨基地にたどり着くと、上空に浮遊戦艦が見える。 「ミロウラ連邦の船……」 トーピーの手配だろう。ガレー船ほどもあるずんぐりとした金属の巨大な船が、不可思議な低い音を響かせて宙空にとどまっている。舷側に六つ並ぶ砲門は順に前哨基地の方に向けられる。バレッタはパドルの手を引いてその場に伏せる。同時に榴弾砲が連続して打ち込まれ、前哨基地の六箇所で連続的に爆発。次の装填、更に六発。 カトレイシアが砲撃の間を縫って走ってくる。 「馬車を出せますか?」 「無理、馬が怯えてる」 カトレイシアは馬車の方をちらりと確認して、「私が先行します!」と、馬車へ走り、馬を離し、その背にまたがりバレッタの元に戻ってくる。 「ココピリカの小屋から火の手が上がっています! パドル・ファスール!」 カトレイシアはパドルに手を伸ばし、戸惑いながらその手を取るパドルを片手で馬の背に引き上げる。 「あなたもすぐに来てください!」 バレッタに言い残し、カトレイシアは馬を駆り、街道を走り去る。 バレッタもすぐにもう一頭の馬に飛び乗ろうとするが、馬が暴れてそれどころではない。戦艦は他の監視塔へと移動している。ちょうどそこに現れたラダレスとともにココピリカの小屋に向かって走る。
カトレイシアとパドルが小屋にたどり着くと、小屋は火の手に包まれている。 「そんな……」 呆然としていると、中から人影が現われる。 フレアベルが一羽のココピリカを抱えている。 カトレイシアの姿を見留めると、よろめきながら駆け寄ってココピリカを渡し、また小屋の中に走っていく。 「お待ちなさい!」 カトレイシアもその後を追おうとするが、パドルが袖を掴んでいて倒れる。 上体を起こし振り返り、「お離しなさい、パドル・ファスール!」と、平手を高く上げるが、パドルは離さない。パドルは呪文を詠唱している。カトレイシアはその手を振り下ろすことなく、ゆっくりと小屋を振り返る。 火の手は増している。 パドルが詠唱を終え片手で印を結ぶと、小屋の周囲にだけ雨が降り注ぐ。 そこにラダレスが駆けつけ、カトレイシアに漆黒銃ダルシーネイラを渡し、近くに投げ出されていたココピリカを保護する。 背後には先程の連邦の戦艦が見える。 カトレイシアはダルシーネイラに魔力を注ぎ込み、出力ゲインを最大まで上げる。レバーを操作し、緑色の光を放つ砲撃モードに変更、銃床を地面に固定し、戦艦に向けて連続して砲撃を浴びせる。大地の震え、音の圧力。一発ごとに巨大なエネルギーが打ち出されている。 七発目あたりからカトレイシアの足元はぐらつき始める。 船体に穴こそ開かなかったが、搭載されている砲門には十分なダメージを与えている。が、片側の砲門を潰した時点で力を使い果たし、倒れる。 すかさずラダレスが駆けつけてその体を支える。 戦艦は巨体を傾け、カトレイシアに主砲を向けてくる。 「まさか……」 パドルが振り返る。 パドルはカトレイシアの危機を悟り、雨の魔法を中断し、駆け寄り、駆け抜け、戦艦の下に入り円筒型の白い霧を立上らせる。 次の瞬間、霧全体が爆発を起こす。 ミスト魔法、エクスプロージョン。 船は大破して瓦礫が降り注ぐ。 ラダレスはカトレイシアを瓦礫から庇う。 戦艦は前半分を失い、後ろ半分はゆっくりと落ちながら、二、三箇所で連続して誘爆、黒い煙を吐きながら、加速度をあげて地上へと落ちる。 この様子をバレッタはココピリカ小屋に向かう街道の途中、息を切らしながら、ジュディは巻き込まれて戦うしかなくなった敵の第一要塞で、敵に突き刺した剣に手を掛けたまま見上げていた。
第六章 ビジョン・クエスト
ベッドで目を覚ますカトレイシア。 バレッタがすぐそれに気がつく。 「おはよう。おなかすいてるでしょ? あれから四日眠ってたんだよ」 「四日……?」 「パドルが戦艦を落としたところは見てた?」 「パドルが……」 カトレイシアはまだ混乱していた。 ふと、自分が民家のベッドに寝かされているのに気がつく。 木の壁、木の天井、粗末だけど手入れされたクローゼット、そこに置かれたランタン、隣にはドレッサー、窓にガラスはなく、跳ね上げ式の鎧戸、カーテンもない。白とピンクの大きな花束。小さな文机にガラスの花瓶。 「ここは?」 「アルラ峠から一山越えたとこ。メルサって村だけど、知ってる? 知らないか。すぐに食べるもの用意するよ。スープくらいしか受け付けないと思うけど」 バレッタは文机の上の鈴を鳴らす。 「フレアベルは?」 不意に思い出して訊ねるが、バレッタは何も言わず首を横に振る。フレアベルは多くのココピリカたちとともに、燃え盛る炎の中から、新しい世界へと旅立っていた。カトレイシアは言葉を失って、ただぼんやりと机の上の花を眺める。 「それ、フレアベルの婚約者が持ってきたの」 カトレイシアはゆっくりと、その視線をバレッタへと移す。 「その花。あのあと、例の皇太子の部下があなたのこと探してて、連邦への引き渡しがどうとか言うから、あなたは死んだってことにしたの。それで、この宿を借りるとき、フレアベル・キャナルの名義で泊まってたら、昨日、婚約者が訪ねて来てね――」 「そうでしたの……」 「いろいろ事情話したら、『良くしてくれてありがとう』って……。覚えてないと思うけど、その人停戦協議のとき、後ろに並んでた将校のひとりだったんだって」 「そう……。言ってくれたらよろしかったのに……」 「だよね」 カトレイシアは言葉を探すが、いくつかの言葉が見つからなかった。 「婚約者の方には、変な期待を持たせてしまいましたね……」 「うん。見てられないくらい泣いてたよ。でも、あなたの手を握って、何度も、何度も、ありがとうって。それで、しばらくフレアベルを名乗ることになるって言ったらね……声をつまらせて、あなたのこと『フレアベル』って呼んで、何度も頷いてた」 そこに―― 「あっ!」 廊下からパドルの声。駆け込んでくる。が、ベッドの近くまで来ると、掛ける言葉に戸惑い、ゆっくりと立ち止まる。パドルは両手で一羽だけ助けたココピリカを抱えている。 「おはよう、パドル・ファスール。あのときは手を上げたりして申し訳ありませんでした」 「だ、大丈夫です!」 「パドル、そこあけて。食事が来たよ」 バレッタは部屋口で受け取ったワゴンを押して、カトレイシアのそばに寄せる。 「ねぇ、カトレイシア。食べながらでいいから聞いて」 「話ならいつも聞いてます。言って下さい」 「あ、私からじゃないの。パドルから」 バレッタはパドルを前に出し、 「ほら、カトレイシアが起きたら言うって言ってたでしょ?」 「あなたがラダレス以外と口を開くとは珍しい。なんでも申してみなさい」 「あ、あのね……」 パドルはおずおずと語り始めた。 ラダレスから聞いたこの世界のこと、召喚されたマリナーのこと、そのマリナーが作った法、もたらした厄災、聖なる鳥。ところどころ後ろで聞いていたラダレスが言葉を補いながら、フレアベルが言っていた「ビジョン・クエスト」にも触れ、そこにきっと秘密が隠されていると、カトレイシアに伝えた。 聞き終える頃には、カトレイシアは涙をこぼしていた。 「私はそれを、『迷信を語られても困る』と切って捨てたんですよね」 バレッタはカトレイシアの頭を自分の胸に抱きとめる。 「あんたは立派だったよ、カトレイシア」 廊下ではジュディが部屋に入るタイミングを伺っていたが、完全に見逃してしまっていた。 「それでね、浮遊大陸ノラに行ってみない?」と、バレッタ。 「フレアベルが言ってた『アゼオールの司書』って覚えてる? それって、ノラにある図書館みたいなんだわ で、三日後、あんたの葬式が開かれるらしいんだけど――」 「えっ? 私の?」 「そこに見栄っ張りのあんたの旦那は――」 「旦那?」 「飛空船で乗り付けるって話だから、それを奪ってさ」 「はあ?」二日後、城下町へ潜り込み、アジトに降りて、城へ潜り込むための算段を立てた。カトレイシアは庶民的な装いでフレアベルを名乗っていたが、問題はそのカトレイシア改めフレアベルがそれでも目立ちすぎてしまうこと。 「もう少し猫背にできないの?」 と、ジュディは求め、カトレイシアも「こうですか?」と応じるが、不自然に不自然を重ねるとそれは二乗される。そんな話に割り込んで、監視モニターを見ていたラダレス。 「残念ですがみなさん。ボーレイト国の飛空船では浮遊大陸ノラへは行けないようです」 「えっ?」 バレッタが驚いてモニターを覗き込むと、城の上空にはボーレイト国の飛空船の勇姿が見えた。細長い糸巻きのような、いわゆる紡錘形の巨大な船体が、城の尖塔にタラップをかけて停泊している。 「なるほど、あそこに停泊されたら奪えないか……」 と、バレッタ。 「いや、それで諦めるような私たちじゃないでしょ?」 と、ジュディは前向きにモニターに食い入る。が、 「たとえ奪えたとしても、あの船では浮遊大陸へは渡れません。他の手を考えましょう」 と、ラダレスは言い放つ。 「ちょっと待って、それってどうして?」 今度はバレッタが食い下がる。 「あの飛空艇はヘリウムで浮くタイプの船です。酸素と窒素を主とする浮遊大陸では浮いていられますが、浮遊大陸の外に行くと、大気の成分はヘリウムと水素になり、比重の関係で浮くことができません」 わかったかわからないかで言えば、わからない。だけど、ラダレスの「続けますか?」という質問には「続けてください」と、カトレイシアが答え、あとのふたりは頷くしかない。 「浮遊大陸の外縁に巨大な風車が並んでいるのをご存知ですか?」 「聞いたことはある」と、バレッタ。 「大陸岩盤下の気流を動力とし、シャフトを介して地上の風車を回転させ、地表をぐるっととりまく酸素の気流を作り出しています。この気流によって浮遊大陸には酸素と窒素が固定されていますが、そこを出るとバルーンタイプの飛空船は浮くことができませんし、人間は呼吸すらできません」 ジュディにもバレッタにも何が、どう、なぜそうなるのかまったくわからない。カトレイシアに至っては、これはもう自分が理解する話ではない、バレッタたちが理解して判断すべき問題だと感じて、余裕すら持ち始めている。 「一方、連邦軍が使用している戦艦は光学レクテナ――」 「光学レクテナ?」と、ジュディ。 「そうです。光学レクテナ。周囲にあふれている光を電気に変換する微細なアンテナパターンです。それによって電気を起こし、光圧管を使用し、光圧によって浮揚します」 「なるほど、光圧でぴかー、ですな」 と、理解もできていないのに合いの手を入れるジュディ。 「光圧は通常の光とは違い空間そのものと相互作用するため、その輝度は距離の三乗に反比例して減衰します。このためぴかーっと言えるほどの輝きはありません。光圧によって空間は擬似的に物質としての属性を獲得し、周辺物質、空間双方に対し排他的に座標を専有するようになります。これを高速にスイッチすることで推進力を――」 と、ラダレスは解説するが、割り込んで、 「まぁとにかく、よ。つまり連邦の船を奪えばいいんだな?」 そろそろこの話から逃げ出したいジュディ。 「いや、無理でしょ。連邦の船なんて。そもそもどこにあるのよ」 バレッタに突っ込まれる。 「じゃあ、他の手段は?」 「あとは、魔力駆動の船があります。おそらく、浮遊大陸ノラに残されているはずです。こちらは魔力によって励起する結晶タンパク質によって電気を発生させ光圧管を駆動します。この原理はカトレイシアが使用している漆黒銃と同じものですが、多くは物理的インバータによる周波数制御で――」 「じゃあ、それだ!」と、タイミングを見計らっていたジュディが割り込んで、強引に話を打ち切る。 「でも、そんな船どこにあるってのよ」 「サテライト〇四に浮遊大陸ノラに由来する城があり、そこに一隻存在します。小型の船ですが、それならおそらく――」 「そんなのあるんだ」 「ていうか、なに? そのサテライト〇四って?」 「この浮遊大陸の西の外縁部にある独立した浮遊岩石群です。気流の関係で四千年ほど前から接続していた陸橋部分の崩落が始まり、現在では大陸から完全に独立しています。つまり、こうですね」 「こう?」 「つまり、何?」 「あ……すみません、模式図を表示したつもりですが――」 「どこに?」 「外部モニターが接続されていないため、お見せすることができませんでした」 「バカじゃねぇの、お前」 「しかし独立した浮遊岩石群ということは、そこまで行く船が必要になるのではありませんの?」 「いえ、崩落は四千年かけて進行しました。その間に吊橋などがかけられています。天候次第では今も渡るのは不可能ではないはずです」 「不可能ではない……と言うと……?」 「気流次第では酸素がほとんどない日があります。その日を避ければ」 ここまでの話をバレッタがまとめる。 ・船はある。 ・だけど手に入れるのはとても難しい。 「みじかっ!」 「それだけ伝われば十分です」 「マジかっ!」 「ちなみに浮遊大陸ノラは、ここ数十年の開発によって酸素が流出、面積にして四割程度が無酸素地域とされています」 追加。 ・行った先も地獄。 情報は三つになった。 「完璧です」と、ラダレス。 「どういたしますの? 決行いたしますの?」 「まあ、たいへんそうだけど、やらないってなると、ここで銃作って地道に商売して、結婚して……子ども生んで……ってことだよね」 「ないわー。俺の人生に子どもはないわー」 「ないよねー」 と、最後には割と気楽な感じで地獄への旅立ちが決定した。 話が終わった後、パドルはラダレスを独占、質問を浴びせて、バレッタとジュディは浮遊大陸の西の外縁部を目指すべく馬車の略奪計画を練り始めた。
馬車は簡単に手に入った。 ボーレイト軍が使っている電動アシスト付きの馬車で、通常は二頭立てで使っているが、とくに見栄を張る必要さえなければ一頭、あるいは人が引いて使うこともできた。 浮遊大陸の果までとなると、気流も乱れ、ところどころでは街道も途切れ悪路が続く。それも馬を一頭にして、馬術に長けたカトレイシアが御することで乗り越えることができた。サテライト〇四までの旅程は二十日、走破した距離は一二〇〇キロ、国境超えは三回。 その最後の国境をつい今しがた越え、人目の多いラベスタの首都ボドルラベスタを避けて、はずれにある寒村、イナンに入った。ラベスタはミロウラ連邦政府の主要三国に位置づけられる国で、この一年で急激に存在感を増しており、イナンの村からも首都ボドルラベスタに建築中の巨大な塔が見えた。
その二日後、大陸の端に到達する。 陸が途切れた先は白濁した、あるいはところどころ赤茶けた濁流となったヘリウムの海が広がり、その先に浮遊する巨大な岩塊が見える。 岩塊と岩塊との間は、そこに架けられた長い吊橋を渡るしかなく、馬車はここに残して行くことになる。 「これさあ、絶対途中で途切れてるよね」 と、吊橋を前にしてジュディ。 「あと板が腐ってて踏み抜いたり」 「ロープが切れそうにぴぴぴぴってなったり」 バレッタも乗って、吊橋あるある談義。 「そうそう、ぴぴぴぴって」 「ぴぴぴぴ」で何かがちゃんと通じている。 「それでぎりぎり向こう側に飛び移ると足場がどんどん崩れて行く」 「足をすべらせて、ぎりぎりでガッと手をつかんで踏みとどまる」 「こうやって」と、バレッタは手を伸ばして「片手でジュディを――」もう片方の手を反対に伸ばして「こっちで木の枝をガッっと掴んで――大丈夫かジュディ!」 「俺のことはいいから、手を離すんだバレッタ! お前まで死んでしまったら、なんとかかんとかはどうなるだぁっ!」 「ダメよ! なんとかかんとかは、みんなで手に入れなきゃ意味ないじゃない!」 「とか言ってたら、木の枝が抜ける!」 「抜ける!」 「岩棚があって助かったと思ったら、穴から巨大な獣が出てくる!」 「出てくる!」 「狭い道に逃げ込んで、ここなら大丈夫と思ってたら、壁を破壊しながら向かってくる!」 「ズガガガガ! ズギャーン! バギャーン!」 「あと、翼竜出るよねー」 「ああ、出る出る。カトレイシアがさらわれていくやつ」 「わたくしがですか?」 などと秘境あるあるでひとしきり盛り上がった後で和気あいあいと吊橋へ踏み込んだ五人だったが、あるあるで言ってたことがたいがい現実に起こり、目的地の古城にたどり着く頃には五人ともボロボロになっていた。
ノラ文明の城は、見慣れた城とは違っていた。 カトレイシアたちが持つ漆黒銃の意匠に近い。 入り口には大きな扉があったが、朽ち果て、瓦礫をどかして中へ入り、その地下に魔法駆動の船を発見する。おそらく地下ドックだったのだろう。天井は一部崩落し、不気味に渦巻くヘリウムの空が見えた。 船の操作方法はラダレスが知っていた。システムを起動させると、船は自ら「ウァプラ」と名乗った。 「しゃべったぞ、おい! 船が!」 「起動メッセージです。しゃべったわけではありません」 魔法を感知して動くということで、カトレイシアがまずコクピットに立ってシステムを起動、必要に応じパドルと交代して浮遊大陸ノラを目指すことにした。 船は内装外装ともに、ノラ文明の城よりも更に漆黒銃の意匠に似通い、魔力を感知するとそれに応じて各部位に青白い光が浮かび、床や壁を光のラインとなって駆け回った。 空へと飛び立つ感動はあったが、五人の疲労は限界に来ていた。起動後いったんイナンの近くまで戻り馬車を回収、一同は船の中で仮眠を取り、浮遊大陸ノラを目指したのはその翌日だった。
ウァプラはプレジャーボートで、もともと浮遊岩石群と陸との渡しに使われていたのだろう、外洋への適性は低かった。大陸の端、酸素の大気からヘリウムの大気へ出る時、比重の関係でがくんと高度が下がる。高度が下がりすぎるとヘリウムの渦に舵を取られ、脱出が遅れると気密性の低いキャビンの酸素はどんどん抜けていく。 出力を上げてそれなりの高度を維持し、気流まで考慮しながら、最短距離で大陸ノラへと渡る。ノラに着いてからも酸素濃度の高い場所を速やかに探す必要があった。 ノラでは動物の多くが死に絶えていた。植物は低酸素に強い群がなんとか残り、一部は人が消えた民家に繁茂して勢いを増しているようにも見えたが、一面に広がる畑に作物はない。大陸はゆっくりと死へと向かっていた。しばらく行くとこの大陸特有の内郭風車群がある。その壁を越えれば幾分酸素は残っていた。そこにはわずかだが、生活の痕跡も見られる。 大陸の中央には古く巨大な城があった。ラダレスがその隣を指し示す。 「建築途中で放棄された立法府です」 そこには更に巨大な塔が建設中のまま放置されている。その塔はボドルラベスタに建造されている塔と似ている。 「内燃機関の発達によって巨大な構造物の建造が可能になったのですが、そのせいで気流が変化し、ある日急に酸素が大陸の外へ流れ出し始めました」 ラダレスによると、酸素が失われたのはこの一年だという。住んでいた者のうち、自由に動ける足を持っていた者はミロウラ大陸に移り住んだが、多くの者はここに残り死んでいった。 建築中の塔の周囲には多くの工作機械が放置されていた。完成したら隣にある古い城を遥かに凌ぐ巨大建造物になっていただろうとラダレスは語る。 「ここがほぼ大陸の中央です。酸素濃度は一番濃いはずです。上空に行くほど酸素濃度は低くなりますので、できるだけ低地を探して着陸しましょう」 酸素濃度計を見ながら魔法船ウァプラを降ろす。 室内の二酸化炭素濃度はかなり上がっており、内郭を越えたあたりから風防を開放していた。船を下ろすと地表近くの新鮮な空気が流れ込む。そこには、死にゆく大陸の異臭が含まれていた。 徒歩で目的地へと向かう。 アゼオールの図書館は大陸の中心部から少し離れた場所にあった。 扉は開け放たれ、人気がない。 屋根が高く、 「もしもーし」 と叫んだバレッタの声がよく響く。 どこかにあるはずのフレアベルの足跡を求めて、奥に踏み込む。カトレイシアの手にはココピリカが抱えられている。フレアベルが一羽だけ助け出したココピリカには、パドルが「プチベル」という名前をつけていた。 「三銃士ってのはどこにあるんだ?」 と、ジュディがぐるっと見渡す。 「一般の蔵書としては存在しないはずです。フレアベルがビジョン・クエストを行った部屋を探す必要があります。そこに記録として残っているかもしれません」 ラダレスが教唆し、手分けして建物の中を調べる。入り口から入ってすぐのホールには円柱状の書架が林立する塔のように佇んでいた。回廊が宙空に二段に渡って巡り、それぞれの階にいくつもの扉があった。カトレイシアが眺めているとそのうちのひとつ、二階の奥の部屋だけ明るく光っているように見えた。 木の階段、木の手すり、ところどころ大きく軋む床板。二階の回廊にも、一階ホールのジュディ、バレッタの声が反響して届く。――この部屋はなに? そこ、さっき見たけど、なんもないよ。印つけてないとわかんなくなるね、と。 カトレイシアが気に留めた部屋に入ると、中央にある囲炉裏に目が留まる。 囲炉裏を囲んで粗末な草で編んだマットが置かれ、その隣にはちょっとした窪みがある。窪みの表面は真鍮で、草で編んだカバーがかかり、鳥の足跡のような文様。他には香炉、その横の箱には乾燥したハーブ、文机、いくつかの儀礼道具、側面の古びた書架は紐で綴じたノートで埋め尽くされ、不思議な文様のタペストリー、欄間には絢爛なココピリカのレリーフがある。ここがフレアベルが言っていたアゼオールの司書の部屋だと、カトレイシアは確信を持った。 囲炉裏と香炉に火を入れ、マットに腰を下ろす。 香炉から出る煙は白く部屋を覆っていくが、煙たさはない。むしろ心地よかった。 クッションに座るとちょうど左手のあたりにくぼみがあり、囲炉裏の暖を受けて、ほんのりと暖かくなる。 部屋は白く霞んでいく。 ココピリカはカトレイシアの膝に乗っていたが、まるでくぼみが温まるのを待っていたかのように、おもむろに立ち上がり、ふるふると身体を震わせて、くぼみに移動して座り込む。 そのココピリカの背に手を置いた瞬間、カトレイシアが感じていた星の重力が消えた。次いで目の前にあったはずの図書館が消え、カトレイシアの身体は天井も、上階のフロアも屋根も、雲をも貫いて、どんどん高くへと舞い上がっていった。 眼下にはノラの浮遊大陸が見える。 地平線が丸みを帯びる。 自分たちが住んでいる星が見える。 その星には巨大な赤い渦がある。 気持ちがどんどん高揚する一方、一抹の不安を感じ、 「ジュディ! バレッタ!」 呼んでみるが返事はない。 「ラダレス!」 そう呼ぶと、その気配を感じる。 ただそれはここではない。 星々の中に放り出され、見ているはずのない様々な景色が目の前を通り過ぎる。夢でしか訪れることのない場所、いつか見た夢、これから見る夢が層となって、そのなかを駆け抜ける。 その中にラダレスの気配だけは確かなものを感じる。 「ラダレス!」 もう一度呼ぶと、目の前に青い星が見えた。 カトレイシアの身体はその青い星にどんどん吸い寄せられていく。 恐怖はなく、ときめきが胸の中を満たす。 気がつくと、荒野にいた。
†
八月二日 土曜日
ロサンゼルス国際空港に到着しました。
羽田からの深夜便に乗ったので飛行機の中で一瞬だけ十四歳になって、ロスについた時はまた十三歳に戻っていました。午前中について、その日はロサンゼルスの街を観光して、本当の目的地を目指したのは翌日。長髪で無精ひげの伯父が借りたレンタカーで向かいました。
目的地につくと、去年伯父が仲良くなったガイドの人から、スピリチュアルリーダーのデニス氏を紹介されました。彼は古くからその土地に住み、伝統を守っている家系の人で、顔つきは少し僕らに似た感じで、瞳にはどこかしら深みのようなものを感じました。伯父から失礼があってはいけないといろいろと脅されて緊張していたんですが、話してみるとことのほかフレンドリーな人でした。
ビジョン・クエストは荒野の真っ只中でするらしいと聞いて少し不安でしたが、現地ではみんな親切にしてくれたし、ちゃんとした説明ももらえて、リラックスできて、これなら今すぐでもチャレンジできる、と感じました。
ただ、僕はまだ十四歳と若いので、正式なビジョン・クエストではないらしいです。
期間も短く二日二晩だけだと、伯父が言っていました。
その日はプレイヤーズタイという、ビジョン・クエスト中に自分を守ってくれる結界の材料を渡されました。これはビジョン・クエストを行う人が自分で作る必要があるということで、その作り方を教えてもらってホテルに戻りました。
八月七日 木曜日
いよいよ、その日がやってきました。
今日から明後日の朝まで、ビジョン・クエストです。
でも早起きすぎて、正直、かなり眠いです。
プレイヤーズタイはホテルの部屋にこもって、火曜日に完成させていました。
まずはテントでスウェット・ロッジという儀式を行って、そのあと荒野で二日二晩の飲まず食わずの業が始まります。
そこで体験したことは明後日の日記に書こうと思います。
†
夜中の一時。 伯父に頬をはたかれて起こされて、「さあ、行くぞ」と車に乗せられた。今日は車の屋根が開いてない。車体が青だったのは見えたけど同じマスタングを借りたのかどうかはわからず。助手席に座ると僕はすぐ寝てしまった。 朝というか、まだ夜明け前の四時くらいにデニスの家についた。 今日からビジョン・クエストが始まる。 ガイドの人が訊ねる。 「この前説明した通り、まずはスウェット・ロッジから、次にビジョン・クエストに移ります。同意書は頂いていますが、念の為に確認します。初めてよろしいですね?」 「はい」少し寝ぼけてぼんやりはしていたけど、首を縦に振ってはっきりと答えた。 ガイドはデニスにそれを伝える。 「よろしくおねがいします」 と、その後ろから僕は頭を下げた。 バスタオルを渡され、服を脱いで、脱いだ服は祭壇のようなところに捧げて、タオル一枚を纏って外に出ると、あたりはまだ砂漠の夜の冷たい空気を漂わせていた。スウェット・ロッジは伯父も受けるらしく、露天風呂に向かう親子のようにしてふたり歩いた。伯父は前を隠しもしない。僕にはあれは無理だ。 家の裏手を少し行くと、獣の皮で張られたテントがある。 デニスを先頭にテントの周りを回る。その間デニスは呪文を唱えている。夜明けの低い太陽が見える。太陽の反対側はまだ夜。昼と夜をぐるっと回って、そうか、真ん中のこのテントは地球そのものなんだって思った。 入り口でハーブを焚いた煙を掛けられ、聖水を掛けられ、僕の中ではこれは雲で、これは雨で、あるいは火山が吹き上げる噴煙と、岩に砕ける波の雫と、そんなことを思いながらテントの中へ。基本的に伯父の見様見真似でいいかと思っていたけど、中は真っ暗で人の姿はシルエットさえわからなかった。 デニスが座る場所を指定する。そこには厚手のゴワゴワとした布が敷かれていたけど、とりあえずバスタオルを取って四つに折り、床において、そこにあぐらをかいて座った。 女の人が受ける時はどうするんだろう。でもどうせ暗いし、僕のあの部分がそれでああなったとしても……と頭を過ぎったが、もし心を読まれていたりしたらと思って、雑念を追い払おうと九九を反対に繰り返してみたりした。反対から読み上げる九九なんて、雑念そのものと言ってしまえばその通りなんだけど。 座ったあと、デニスが呪文を唱えて、水のようなものを頭にかける。 続いて焼けた石を持って来てテントの中央に並べる。そこから噴き上がる熱量が、何かが始まる予感になって肌に伝わってくる。デニスは呪文を唱えながら、葉がついた枝で石に水を掛ける。するとそこに猛烈な熱気が立ち上る。 小学五年のキャンプのときのキャンプファイアーで、係の人がときどき炎に灯油を足して燃え上がって、みんなきゃあきゃあ言って逃げるとこを、僕ととなりの、あれ、だれだったかな、ふたりだけ踏ん張って「ファイアー!」と叫んでたのを思い出した。 テントの中の温度はどんどん上がっていく。湿度もまたそれを追いかける。とくに焼け石に水を掛けた時の熱量が半端ない。汗がダラダラと流れていく。このあと飲まず食わずの修行に挑むのに、大丈夫なのか、僕は。 夜明けから始まったスウェット・ロッジは昼前に終わり、僕と伯父はバスタオルを巻いて、あるいは肩に掛けてテントから出てきた。とにかく熱かった。でも心地よい。 とりあえず服を着て、続いてビジョン・クエストへ。 場所は断崖が少し窪んだ、洞窟になり損なったような穴。そこに毛布を持って入る。ぎりぎり雨はしのげるけど風には完全にオープンな場所。普通だったらここで四日四晩過ごすらしいけど、僕は二日二晩。 そこに座って瞑想みたいなことをするらしい。 デニスはそれをただ一言、「感謝」と言い表した。 感謝ってそんな滅多矢鱈にしないと思うんだ。そんなに感謝しまくってたら有り難みもクソもなくなる。二日間も感謝って具体的に何をどうするんだろうって思ったけど、伯父がくれたアドバイスはただ「呼吸を数えろ」だった。いい加減な人だと薄々感じてはいたけど、感謝ってのはもっとこう、心の底から感じる、なんだろうな。もっと精神的な何かであって、呼吸なんて物理的なものじゃないよ。 なんて思いながらプレイヤーズタイで結界みたいなものを作って、そこに座って、試しに呼吸を数え始めてみたんだけど、二十も数えたら、もう、笑った。不思議なことに呼吸そのものが楽しくなってしまっている。呼吸を数えるだけで無駄に嬉しくなって、意識が飛んでいって、いつの間にか呼吸を数えるという些細な課題ですら忘れてしまう。確かにこの気持は「感謝」に近いかもしれない。何に感謝しているのかわからないけど、息をしているだけでどうしてこんなにも喜びが満ちて来るんだろう。泣けてきちゃうんだよ、なぜか。自分でも知らなかった自分の機能が暴走してる感じ。 ビジョン・クエストで二日二晩、本当だったら四日四晩飲まず食わずって、いったいどうやって凌げるんだろうって思ったけど、呼吸だけでいい。空気はごちそうだった。みんなにも教えたい。バカだって言われるかもしれないけど、何もいらない。よくわかんないけど僕、たぶん息をするために生まれてきて、息以外はオマケだ。 ――なんて感動も、さすがに二日は続かず、気がつくとそのまま寝ちゃってたり、ぼんやりと目が覚めて自分がいる場所がわからなくなっていたり。確かに苦行。このゴツゴツした場所で二日過ごすのは辛い。感謝しててもお腹はすくし、足は痛いし、なんて思っててもしょうがないから呼吸を数えてみると、いやあほんと、呼吸、やばい。 呼吸だけでこんなに嬉しくなるなんて思ってもいなかった。 でも二十までしか数えらんない。 十七、十八、十九、二十、空気うめぇ何これわけわかんない、になってしまう。 伯父さん。あとそれとデニスさん。 はたして僕はこんな「空気うめぇ」を堪能するためにここに来たのでしょうか。 世界中にいるデニスさんのお弟子さんの使命、運命の中で、僕の使命は「空気うめぇ」なんでしょうか。あるいは世界中にいるデニスさんのお弟子さんの使命はみなさん「空気うめぇ」なんでしょうか。あるいは――ちょっと冷静になって――心を無にして、こんなことも考えないほうがいいのかな、とか。あるいはもっと真剣に、友達のことや家族のことを思って、祈りを捧げたほうがいいのかな、とか。 考えるための箱がない、ここには。 宿題や課題で与えられるような、ここからここまでっていう決まりがない。 どんどん拡散していく。 拡散した思考はもう思考じゃない。 もう二日目の夜。 かなり朦朧としてるんだと思う。 「ラダレス?」 誰かに呼ばれた気がした。 「私が見えますか?」 誰? 「カトレイシア・トライバル。ラダレス――ではないのですか?」 と、目に見えない誰かが語りかけてくる。 幻聴はもっと、聞こえたかどうかわからないようなものだと思っていたのに、誰かが確かに、ちゃんと空気を震わせて、おそらくちゃんと横隔膜で肺を膨らませて摂り入れた空気を、肺を収縮させて吐き出し、声帯でその気流に疎密波を作り出して喋っている。 慌てて僕も、 「僕は
八月九日土曜日
木星から来た人に遭いました!
ちょっといま、なんて言って良いかわからないくらい興奮しています。
ビジョン・クエスト二日目の朝方、木星から来た人に遭ったんです。
女の人で、光のようにきれいなドレスを着て、全身が輝いて、透き通っていました。
その人と話し始めると、ぼくの身体は宇宙へと舞い上がって、気がつくと木星のすぐ側にいました。
そこで僕は、木星の大赤斑を目にしました。
木星の厚い雲の下には、知られているだけで七つの浮遊大陸があり、大陸ごとにさまざまな文明が栄えています。
そこでは戦争が繰り広げられていて、人々は苦しみ、それは今も木星に悲惨な歴史を刻み続けているそうです。
小学校の頃、江藤先生に夢を聞かれて、木星の大赤斑を見に行きたいって言ったのが、こんな形でかなってしまいました。
その中で僕は、彼女が見てきた地獄のような戦争の様子を体験しました。
僕はいつか、木星に行って、その残酷な歴史を終わらせたいと思いました。
第七章 地球、二〇二二年
先生に会ったのは偶然だよ、代々木の駅の近くで。一ヵ月前。 十二年卒だから、ちょうど十年ぶり。 ああ、そうそう、プラナリアの分子配列スキャンの直後。 いや、だから、ちょうど小谷が隣の部屋で飼ってたし、それにタンパク質のシミュレーションが完全だったら、バーチャル上でもちゃんと二つに割ったら二匹に再生するはずなんだよ。夢あるじゃん。 ……ってね。そーゆー話をしたんだ、先生とも。 そしたら、羨ましいって。 俺らが卒業したあと先生、担任持ってなくて、結局俺たちの代だけしか教えてないんだよ。詳しくは聞いてないけど。その後はなんか、どっかの事務員やったり、市役所の臨時職員やったりとか。 それで先生、覚えてたんだ。 俺が木星の大赤斑見に行きたいって言ってたの。 あと、お前が駅前のコーヒーショップで江藤先生の姿を見つけた時、ちょっと驚いて、言葉が出なかった。 顔を見てはっきりそうだと勘付いたわけじゃないけど、コーヒーを受け取って、奥の席に歩いていく後ろ姿を見て、ふわっと胸の中に湧き上がってきた。 名前で呼ぶのは躊躇われて 「先生」 って声をかけると、丸っこい肩は少しびくっと跳ね上がって、おずおずと振り向く。 「向井くん?」 笑ったような、困ったような顔で訊ねた後、 「だよねぇ?」 と、一〇〇%の笑みに変わる。 懐かしくて、懐かしすぎて、まるで宿題を忘れてきた朝みたいな声で、 「はい、先生、僕です」って。 六年生のあの頃、椅子に座ってるときの先生はちょうどこんな感じで見上げて、「はぁ? またなの、もう」って顔を歪ませていたけど、今日の先生の顔はほころんだまま、あの日の、僕と先生の黄金の角度のまま、笑って俺のことを見上げている。 先生が二十三歳、俺が三年のときに担任になって、それから四年ずっと俺に教えてくれた。四年生だか五年生だかのときに、たぶんNHKかなんかの番組で見たんだと思う。木星の大赤斑に探査に行きたいって言ったら、「じゃあ、その時は先生も連れて行きなさいね」って。 「大学行ってるんだよね? いま何してるの?」 「タンパク質の構造分析をやってます」 「ふーん。向井くんは宇宙関係の研究者になると思ってた」 「いや、宇宙もタンパク質も変わらんすよ」 「あー、わからんではない。わからんではないけど、ふつーはわからん。ていうか、わからん」 「なんすか、先生。コーヒーで酔ってんすか」 「違うよ。十年ぶりに教え子に会えて舞い上がってるんだよ。いま、大学は四年?」 「です。一応院まで行こうかなって」 「お金持ちだもんね。向井くんちは。私も院進して、ずーっと勉強していたかった」 「あー、先生はそういう人ですよね。でも、教育学科ですよね? 小学校ってことは」 「法学部」 「法学部で小学校教諭って取れるんですか?」 「取れます。ちゃんとお勉強しなさい?」 「ひぃー」 「ま、一年余計にかかっちゃったけどね」 「でも、なんでそこまでして先生に?」 「向井くん」 と、先生は急に十年前の顔に戻る。 「あなたはいま、何をやっていますか?」 「あー」 俺の胸の中に、十年前のセミが飛び回りはじめる。そっと近づいて、網をかぶせる。が、 「正直よくわかりません」 逃げられた。 「あなたは、とてもとても大切な仕事をしています。たぶん。私がそんなあなたのね、人生の中の、えーっと、二十二年? の中の、四年を教えたの。凄いことだと思わない?」 「そっすね。正直、ありがたいっす」 本当に言葉にならないくらい。大切な先生だ。 「そうだ」と、江藤先生。 「前田さんって覚えてる?」 前髪ぱっつんの。 「彼女がね、中学の卒業文集送ってくれたんだけど、そこにもあなた、確か木星のこと書いてたよね?」 と、ちょっと待って、さすがにそれはバツが悪い。数ある卒業文集の中で中学の卒業文集ほど恥ずかしいものはない。少年期を終えて自己探求期の真っ只中だ。 「読み返してみよーっと」 先生の悪戯で嬉しそうな顔。 「持ってんすか!」 「それじゃ、今日はこれで。ここ、私のおごりでいいから」 「いや、先に払ってますって!」
その夜、電話がかかってきた。 固定電話の受話器を上げるのは随分久しぶり、たぶん先生からだ。 「もしもし、向井さんのお宅でしょうか? わたくし裕貴さんが小学生の頃に担任させていただいた江藤茉里奈と――」と、早口で上品な声。 遮って、「あ、先生、俺っす」 「あっ! 向井くん?」 急に上気した声でまくしたてる。改めて卒業文集を読み直したらしく、ビジョン・クエストのことを根掘り葉掘り聞いてきた。 「もしかして先生も、ビジョン・クエスト、興味あります?」 「いや、興味持つでしょう。興味持たせる文章だったよ、向井くん、文章うまいよ」 「またまた」 いや、でもなんで前田が俺の学校の卒業文集持ってんだよ。 「てゆーかさあ、タンパク質の構造分析って、向井くんすごく還元主義的な研究してるわけでしょう? 科学的っていうか、ミクロな視点で。それとビジョン・クエストみたいな、科学で説明できないものって、向井くんの中でどう整合性取ってるわけ?」 「あー、それはー。なんっつーか、ココロってどっかにあるんじゃないかなーとか、そーゆーのと一緒っていうか――」 「ああ、そっち系?」 他にどういう系があるかはわからなかったが、先生の中では俺が属するカテゴリーが決まったらしい。 「それでビジョン・クエスト、私もやりたいんだけど、向井くん、スピリチュアル・リーダーやってくれない?」 江藤先生って、こんな人だったんだな、なんて思いながら。 「できるわけないじゃないっすか」 「えぇーっ、やってみようよ」 「いや、こういうの中途半端な気持ちでやるのよくないっすよ。ほかの人達の文化に根ざすものなので、ちゃんと敬意を払って接しないと」 「あうううう」 いま、先生が「あうううう」って言った。 ロスへ行ったのは中学二年の夏。小学校の卒業から数えると一年ちょい。あれから八年経って、自分でもいろんなことを信じられなくなっていた。 木星から来たっていう女の人のことも、それも自分の脳内で作り出された幻だと考えれば辻褄が合う。でもだからって、あの体験が本当に単なる幻だったと信じられるわけでもない。そう考えると、いま改めて試すのも悪くないような気もしてくる。プレイヤーズタイの作り方はちゃんとメモしてあるし。材料も今ならほとんど自力で手に入る。 「先生、じゃ、やりましょうか、ふたりで」 「えっ?」 俺が考えあぐねているうちに、どうやら話題は別のところに行っていたらしい。 強引に戻して、一週間後、ビジョン・クエストを行うことに決定。 「先生は立会人になってください」 「いいけど、二回目は私もやるよ?」 「そうですね、俺がやってみて安全を確かめてから」
その一週間後。 場所は大学の研究室。ま、場所はそんなに重要じゃないと思う。 端的に言うとビジョン・クエストにおける先生の役割は、三日後の朝に訪れて、俺の生存を確認することだった。 「死んでたら、私、捕まるよね?」 と言うので、捕まったときの言い訳を考える、というのも先生の課題。 これはまぁ「私の課題だね」と、先生の方から言った冗談なんだけど、この課題のクリアは、私たちにとっては小さな一歩でも、全国の在宅ビジョン・クエスト愛好家にとっては大きな一歩となるだろう。とも。 とりあえず加湿器を二種類四個買ってきたので、それでガンガンに部屋に蒸気を焚いて、あとはあの日と同じように、気持ちを集中させて――蒸気はとりあえずあの時の雰囲気を思い出したかったってだけで、実際にはサウナで汗かいてきたらそれでいいのかも知れないけど――っつーか、白い煙は出てるのに、もっとこう、霧のように、ぶわーっと。ぶわーっ。ぶわ……。あれ? なんだこれ。買う意味あったか? 加湿器は止めた。 荒野に比べると、集中しにくい環境ではあった。 いや、集中なんかいらない。むしろ拡散するんだ。ただ胃袋を空にして、眠るでもなく、起きるでもなく、己の精神と向かい合えばいい。そうすると、睡眠に落ちる瞬間、ほんの一瞬だけ現実でも夢でもない世界を覗くことができる。 そこには何か現実にはないものがある。 言葉だったり、匂いだったり、景色だったり。 捕まえようとすると逃げ出して、目を覚ましたら、忘れてしまう。 それを繰り返し、繰り返し、繰り返して。 三日目。 寸詰まりの、ニワトリのようなエトピリカが現れた。 「何やってるの?」と、訊ねてくる。 鳥が聞いてくる、これだよ。 やっと来た。夢と現実の間。 幻覚にしてはずいぶんとしっかり、それはそこにある。 「幻覚じゃないよ」 鳥は俺の思考に先回りして答える。 いや、厳密に言うとここではもう思考のための回路は閉ざされて、ただいくつかのまだ思い出せる言葉を追いかけているに過ぎないのかもしれない。思考を少し巻き戻そうとしただけで、もうわからなくなる。意識が前にしか進まない。そして、足元を過ぎた思考はすべて消えていく。 鳥はすぐに精霊のような、黒いチャドルを纏った姿に変わる。 性別不明。ただその姿は少し幼い。 「それはあなたが幼いからだよ」 まずいな。心が完全に筒抜けだ。 でも心が紡ぎ出した虚像だとしたら、それも当然なのか? て言うか、そもそも心ってなんだろう…… 「えっ? そこから?」 鳥が問い返す。 「あ、ああ、まあ、お恥ずかしい限りで」 考えていてもしょうがないしと、口を突いて出てくる言葉に身を委ねる。 「人に心なんてないよ」 ええっと…… 「あ、いや、そういう道徳的な『心』ではなく、『意識』みたいなもの、あるじゃないっすか」 「ないよ」 「えっ?」 「人間が意識だって思ってるのは全部物理現象。頭の中に物理的に存在するものなの」 「ああ、それはあれっすね、聞いたことあるっす。意識はすべて脳の中の電気信号で、それによって生み出されたものがココロだ、って」 「バカなの? こっちの話聞く気ないなら話すのやめるよ?」 「違うんだ」 俺はこういう幻覚みたいなものは、自分の心が生み出してるんだと思ってた。 「違うよ」 だけど目の前の鳥はいままで考えてもみなかったことを口にする。 まるで俺の知らない異世界から訪れたように…… 「だからそうなんだってば」 混乱。 だいたいこの鳥は言葉にもしていない思いに、なんで逐一反応してくるんだ? 「人間が考えてると思っているもの、脳の中で作り出してると思ってるもの、意識だとか言ってるもの、ぜんぶ、物理的に、あるの」 「物理的に、ある」 「そ。あ・る・の」 「あ、いや、ちょっとわからないっす」 「あなたの頭の中にあるものはすべて、物理的な実体として取り出せる」 「いや、嘘でしょ」 「人間の脳に限らず、すべての生体、この密度域におけるタンパク質はすべてとなりあったレゾナンスとの共鳴によって合成されてる」 ちょっと待って、密度域とかレゾナンスとか、説明ないんですけど。 「あなたがたとえばドラゴンを――」 「あ、はい、ドラゴンを……」 「思い浮かべてみて」 「えー、思い浮かべました」 こないだ読んだやつ。洞窟を走ってると勝手に翼が開いて、壁にぶつかって痛い痛いって言って、仲間に呆れられるっていう、情けないドラゴン。 「思い浮かべたとしたら、それはすなわち、近接したレゾナンスに物理的に存在し、その間で共鳴関係が生じている、ということ。あなたは何も考えていないし、何の想像もしていない。ただそれが見えてるだけ」 「えっ? この、いま俺が適当に思い浮かべたドラゴン、どこかに実在するの?」 しかもオリジナルは誰かの小説だよ? ドラゴンになった青年、ゴードン・R・ディクスン、ハヤカワ文庫。と、引用元も提示。一応大学生なんで、このへんはちゃんと。 「だから、適当に、とか、自分の意志で、とかはないから。すべて、物理現象」 「いま頭の中でドラゴンに角を生やしてみた」 「それが自分の意志によるものだって言いたいんだろうけど、それも、あなたの意志じゃない。あなたは『角が生えたドラゴンを想像し、それが脳内に現れた』と思ってるけど、間違い。私の言葉を聞いて、あれぇ、なんか違うなぁ、っていうその矛盾を最小にする状態に向かって、あなたの脳が別のドラゴンへと共鳴状態を変えたの。それをあなたは、自分が、自発的に考えたって思い込んでるだけ」 頭の中がNOW LOADING・・・ 「私の言葉によって、あなたの中の状態と、現実の状態とが食い違った。不安定な状態があなたの脳の中に生み出された。だからあなたの脳は安定する共鳴状態へと遷移した。万有引力と同じ。転がり落ちただけなんだって、あなたは」 人類初、エトピリカにドヤられる俺。 「いやちょっと待って。つまり、俺の脳の中は別の世界? 考えたものは、すべてどこかに現実として存在する?」 「そうよ」 「いやでも、あまりにもナンセンスな……頭の中に描いたドラゴンが本当にいるだなんて」 「いや、いないものが頭の中に存在するほうがおかしいでしょ。私は物理的に存在するものの話をしてるの。あなたはずっと脳内にしか存在しない、どこにもありえないオカルトな話してんの。おかしくない? 存在しないものの話してて、違和感なかった?」 「違和感ですか……あ、でもその、違和感ってのは俺の意志っすよね? やっぱり俺の意志っていうか、気持ちみたいなものってあるんじゃないっすか?」 「ないよ」 またそれだ。 「生命体は違和感を最小限にすべく、身の回りの環境を変えるか、頭の中身を書き換えるかするけど、それはただエネルギー状態を低くして安定しようとしてるだけ」 「で、も、ですよ」と割り込む。「で」と「も」をそれぞれ強く区切って。 「俺は俺っすよね? 違和感を感じている、俺、は、いるっすよね?」 「あえて言うなら、あなたに、あなたの意志が存在すると錯覚させる『力』というのはある」 「ああ、なんだ。やっぱあるじゃないっすか、もう。そのことを言ってたんすよ俺は。最初から」 さすがに自分でも、こういう論法に逃げたのは恥だと思う。わかってる。まだそのくらいのことは。 「私が、私である、という力。あなたという三次元の量を持つ物理的存在を、点、あるいは時間軸のみを持つ意識という線に収束させる力」 「俺が、俺であるという、力?」 「そう。『地球に重心を存在させてる力』と同じもの」 地球に重心を存在させてる力……重力ではなくて……? 「あなたは自分のことを『点』だと思ってるでしょう? どこかに焦点がある、それが命だ、って。でも現実のあなたは、髪の先までぜんぶあなたなの。あなたという点が、髪の毛の先ではなく、あなたの胸の中、あるいは脳の中にあると錯覚させる力。わかる? 地球の重心は、地球の重心であると同時に、地球と月との重心でもあるけど、あなたはどう? あなたとあなたの恋人が並んでる場合、呼吸を合わせてる場合、あなたの物理的実態の中に収束している意識って、何だと思う?」 「いや、わからないけど」、マジでちょっと、質問の意味からしてわかんないんだけど、「重心を存在させてる力なんてないでしょ。重心なんて数学上の便宜的なものなんだから。それは力とは言わないでしょ」 「あなたが求めてた答えはそれなのよ? 『俺は俺だって感じるから、それが命』、だなんて『地球には重心があるから、それが惑星』みたいなこと。ないのよ、本当は、どこにも。自分の問いのナンセンスさがわかった?」 あれえ? 俺の問いってそうだったっけ? 「でもねぇ、本当はあるの、それが。もっと高いレゾナンスでは。『俺は俺だ』を成立させる、純粋に数理的に世界を構成させる力が。それは思考じゃない、思考を成り立たせる力。数学じゃない、数学を成り立たせる力」 はい、もう理解を通り過ぎました。 「物質存在の根本原理。この宇宙を存在させている力。その力があなた個人に備わっているという幻想を持つ限り、あなたはあなたの殻から出ることはない。だけど、その力が宇宙そのものであることを悟り、それにすべてを委ねたら、あなたはこの密度界から開放される」 「ええっと……」 「使いこなせたら、頭の中にあるものはすべて取り出せるようになるよ」 「そうなんだ……」 戸惑い。 「難しく考えるから難しいんだよ」 いや、そうは言っても…… 「そろそろ行くね」 「待って! 最後にひとつだけ! さっき出たレゾナンスって何?」 「レゾナンスは生命の波長。あなたたち地球人は第六レゾナンスの住人。あなたたちが行けるのは第六レゾナンスの世界だけ。火星と水星は第三レゾナンスに文明があって、金星は第五、木星は第八レゾナンス。まずはそこを超えないとね」
しばらくして、ノックの音。 放心状態。 「おじゃましますー」と、先生が入ってくる。 コンビニ袋にイオン飲料とパックのゼリー。 先生は何が起きたか知りたがった様子だったが、俺が「まだ完全には理解できてないから待って」というと、カバンからノートとシャープペンシルを、「メモだけでも残しておきな」と差し出して、俺が横になれるようにとカウチの上の荷物をどかして、クッションを並べて、「夕方、電話するね」と、研究室を出ていった。
翌々日、先生のセッション。 俺は三日間の自宅待機。 三日後の朝、イオン飲料とパックのゼリーを持って研究室のドアを開けると、放心状態の先生が俺にノートを見せた。 「木星に行ってきた」 いま書いたばかりのとりとめのないメモと、木星の四つの月の場所を示した図。 「どれがイオでどれがガニメデかとかはわからないけど、これがいまの木星の衛星と同じ位置にあるとしたら、私が本当に木星に行った証拠になる」 「借りていってもいいですか?」 俺はすぐに図書室に向かい、天文学関連の本を漁り、ノートを出し、PCを広げ、現在の木星の衛星の位置を調べる。 木星の四大衛星は内から順に、イオ、エウロパ、ガニメデ、カリスト、今の位置を調べて先生のノートと比較するが合わない。記憶違いでどこかの星が入れ替わってるかもしれないけど、それでも合わない。 違う。ふと気がついた。 これは、今じゃない。 過去、あるいは未来の木星だ。
それから研究室には天文学関連の書籍が積み上がるようになった。それと先生は案外読書好きで、天文とは関係ないものまで積み上がっていく。目立つのはSF。まあ、やってることからしたら当然だろうけど。 先生はもう幾度となく読んだであろう本を広げ、斜めにぱらぱらと目を通しながら、 「私の名前、どうして茉里奈ってつけられたかわかる?」って。 言われて気がついた。 「もしかして、マリナー計画ですか?」 「あったりー」 「良かったですね、ボイジャーじゃなくて」 「だよねー。私、誕生日一月二十四日なんだけど、ちょうどボイジャー二号が天王星を通過した日なの。あ、これただの偶然で、私が学生の頃に調べて知ったんだけど。お父さん、そのこと語ってくれなかったし、今思うと後付の理由だったのかもしれないけどね。いーかげんな人だったし。おとーさん」 「でも、いいっすね。そのお父さん。夢があって」 先生三回目、通算六回目のセッションからバイノーラル録音の音源を利用した。 左右の耳に五ヘルツの周波数差がある音を聞かせて、頭の中に五ヘルツのうねりを作り出す。これによってシータ波が誘発され、変性意識に入りやすくなる。 オカルト好きな古谷
「法律がひどいっぽいね、木星」 カップ麺を食べながら江藤先生。 俺たちはよく研究室に泊まり込むようになって、先生も冷房が効きすぎるなんて言って赤い半纏なんか持ち込んで、自宅のようにくつろいでいた。湯呑も、スリッパも、歯ブラシも、先生の持ち物は俺たちのものよりちょっとずつ小ぶりだったけど、本体の持つポテンシャルやエネルギーは俺たちをちょっと斜め上に凌いでいた。 「あれじゃダメだよ、戦争にもなるよ。ルール聞いてると、ほんっとひどい。誰が作ったんだっつーの」 だっつーの、に合わせて先生はカップ麺のフチを箸でとんとんとんと叩く。 「なんとか助けてあげられないもんかな」と、ノリ。シーフード派。 「難しいよねー。私、宇宙もののSFとか見てると、法律どうなってんだろうって思うのね。緑色のちっこい師匠とか、ちゃんと住民票あるの? とかさあ。大きいお猿さんのクルーとか法的にはどう保護されてるの? とかさあ。っていうか、裁判とかあるの? ……って」 ああ、わかった。目の前の赤い半纏を着たこの人が、ちっこい緑色の師匠だ。有名なSF映画に出てくるやつ。俺、緑色の師匠と話してるんだ。 「どこまでの種族に人権を認めるか、ってのが難しいと思うのよ。ああゆう世界は。たとえば『会話が可能な種族は知的生命だと認める』とすると、音声以外のコミュニケーション手段を持った種族がそこから漏れるでしょう? 『コミュニケーション可能』だと犬猫牛、あるいはハムスターまで含まれるし、じゃあ、『交易が可能かどうか』にしたら――私、ペンギンとは交易が可能だと思うのね」 「はあ? ちょっと待って」 「ペンギンのコロニーに、卵一個と引き換えにサバ十本あげるよーって教えたら、彼らそれ、覚えると思うの。鳥って頭いいし。でもそれやったらペンギンは絶滅するでしょう?」 「まあ、確かに」 「実際にこれ仮定の話じゃなくて、同様にして滅んでる文化はあるわけ。まずはそこだと思うのね、宇宙連邦って。そういうとこをちゃんと検証してルール付けできてないから、銀河連邦みたいな連中って戦争ばっかやってんだろうけどさ。ダメだよ、そんなんじゃ。行って説教してあげないと」と、ため息。 というか、説教と来たか。 「先生は、厳しかったっすからね、小学校の頃から」 「あんたたちにはね。あ、でも言っとくけど、それと法律は違うよ。法は厳しければいいわけじゃない」 「ええっ? 先生の口からそれは意外!」 「本当は懲罰なんていらないのよ、法には」 「ほう!」 ――ノリの発言と、二秒ほどのツッコミ待ちのストップモーション。流して、 「私たちは、なんで人を殺してはいけないんだと思う? はい、向井くん」 「あ、ええっと、それは、納税者が減るからですか?」 「バッカ、てめぇ、しばくぞ」と先生、言ってすぐに笑顔を繕う。 「暴力を為政者が独占するためだよ。法によってのみ暴力が許される。それが体系付けられて誰も疑問を挟めないようなシステムが作り上げられて、すなわちそれが国家となる」 ここで軽いドヤ顔。 「だから『どうして人を殺してはいけないか』に答えられる人がいないのよ。法は暴力を独占しながら、それを暴力だとは感じさせない。誰も『法が暴力である』とも、『いま自分は法という暴力を振るっている』とも考えない。でも本来法って言うのはね――」 「でも国家が暴力を独占することで秩序が維持されてるわけですよね」と、ノリが口をはさむが「こらノリ! 人の話は黙って最後まで聞きなさい!」と、先生。すっかり先生に戻ってる。 「法って言うのは、懲罰とは分けて設定されるべきだと、私は思う。法は法、懲罰は懲罰。第一に理念がある。そして第二に、その実装としての懲罰、あるいは報奨、あるいは死後の世界での約束がある。これは別であっていいし、そうあるべきなのよ」 「うぉー。先生素晴らしぃー」と、半分も理解してなさそうなノリが拍手で囃し立て、「ありがとう。ご清聴、まことにありがとう」と、先生が両手を上げて挨拶する。 「ノリ、『史記』とか好きだったよね?」 それでも先生の話は止まらなかった。 「もちろん。嬴政になる男ですから」 「その嬴政だけど、どうして皇帝になって焚書坑儒なんてことをしたんだと思う?」 「それはあれですよ。始皇帝の思想的背景は法家だから、儒家は敵なんすよ」 「まあ、単純に言えばそうだけど、端的にいうとバカの意見だわ」 「ひっでぇ。そりゃねぇっす、先生」 「儒家は道徳的、法家は契約的、前者は地縁血縁、あるいは人情を重んじる思想で、後者は契約や法規を重んじる思想でしょう?」 「言われてみるとそうですね」 「言われるまで気づかねーのかよ、バーカ」 「先生って、そんなキャラでした?」 先生はわりと何を言っても許される。自分でもそれをわかっていて、雑言のあとにはいつも満面の笑みを浮かべる。 「で、儒家と法家。後者から見たら、前者がどんなにいいこと言ってても、自分たちの掟の話でしかないのよ。具体的にどう成文化し、どう裁くか、そこを抜きに道徳だけ語られても、究極的には『俺の言い分が正しい』のぶつかりあいにしかならないじゃない? でも、それじゃあ中国全土を統治できない」 「なるほど。そこに目をつけるとは、さすがオレっすね」 根拠なくドヤるノリ。 「お前、関係ないだろうが」 ここは俺がつっこんだ。 「中国の歴史は、そのあともぐるぐると儒家と法家の思想で揺れるんだけど、言い換えるとそれは『理想』と『懲罰』だし、『地縁社会』と『契約社会』だし、『感情』と『論理』なの」 「本当ですか? 俺ら知らないと思ってテキトウ言ってませんか?」 「本当よ、何言ってんのよ。法の本質は『暴力』だよ。デリダもフーコーもバトラーも指摘してる」 「誰っすか、それ」 「リンキン・パークのPVで宙吊りになって踊ってる人。覚えておきな」 「ああ、詳しいすね、先生」 「たとえば古い因習に縛られてガチガチの村で、生贄にされそうな少女がいる。それを打ち砕くヒーローが現れる」 「定番っすね」 「前者は地縁社会の『掟としての暴力』――従わないと村八分にされたり、白い目で見られたりする。後者はそれを批判し、打ち砕く『正しい』暴力」 「正しい暴力のほうが、むしろ破壊的っすね」 「前者を法維持的暴力、後者を法措定的暴力と言います」 「難しいのパス。ヒーローで説明して下さい」 「その新しくやってきた『正しい暴力』はやがて新しい法を生み出し、見えざる暴力になって、そしてまた、少女が生贄になり、ヒーローがそれを救う」 「茶番ですね。まったく」 「そう。世界は茶番なのかもしれない」 この頃ノリは、セッション中の被験者の脳の全原子配列をスナップショットすることを提案するようになる。それを通常時と比較すれば、セッション中に何が起きているか解明できるはずだ、と。とは言え、現実的にはその手段がない。 「MRIの出力を一万テスラくらいまで上げればなんとかなんじゃねぇの?」 なぜそう発想したかも不明。 「一万テスラって。研究室が爆縮するわ」 「まあ、その程度は覚悟するとして」 「どこにそのデータ保存すんだよ」 「そのための Amazon じゃね?」 三重くらいに無理な提案。
ノリの初めてのセッションは通算九回目。続いて、十一回目、十四回目、十六回目をノリが担当。途中ちょっとやばげな祭壇の上に出たり、いろいろと経過して、通算十八回目は先生のセッション。 自然にすんなりとセッションに入って、穏やかに進んで、目が覚めてひと言目の先生の言葉。 「天使かもしんない」 「えっ? どこの誰とコンタクトしたんすか?」 「こないだ向井くんがコンタクトしたっていう、カトレイシアっていうすんごい美人さん。天使だわ、あの子」 「でしょう?」 「そんな可愛いんすか!」 「いや、可愛いのなんのって、すごいしっかりしてるし、はっきりと争いを終わらせたい、そのためにはなんだってやる、って、私、泣いちゃうかと思ったもん」 「うわー、俺も会いてぇー」 「もう、やっばいよ、こっち髪とかテキトウなんですけどみたいな。もう、こう。こんなして自分の体臭確認したりして。もう、あの子、やっば。ほんともう、男子ずるい。私もあんな子と恋がしたい」 カトレイシアが可愛すぎて、先生の中の妙なスイッチが押されていた。 「彼女、貴族みたいで、上流階級のこといろいろ知ってますよね?」 「ああそうそう。それでやっぱ、法律よ、法律」 「あ、出た、お得意の」 「いや、もう、マジでこれだから。ほんともう、助けに行ってあげたい」 「俺も俺も」 「それでもう、か・さ・ね・て・言・う・け・ど、すんごい美人さん」 「やっぱそこっすかー」 ノリが羨ましそうに訊ねる。 「そこっすよー」 先生はおどけて人差し指二本をノリに向けて、口を8の字に曲げて目を細める。 法律と言えばと、ふと思い出して、 「ねぇ、先生、将来AIが発達したら、犯罪の取り締りって、ロボットがするようになると思いますか?」 前々から気になってたことを聞いてみた。もちろん、さっきの流れでおどけた冗談まじりの返事が返ってくると思って。 でも、 「うーん。AIの発展度合いに応じて役割は見直さないといけないとは思うけど、まずは無いと思う。AIの設計も結局は誰かの恣意的なものだし、その裏をかく人が必ず出て来る。そこを逐一つぎはぎして対応するのは、法の趣旨に合わないし、管理コストが割に合わなくなる」 と、今度は別のスイッチが押されてしまったらしい。 「じゃあ、もんのすごくAIが賢くなったら? 人間と同じくらい。そうしたら裁判官も任せられるんじゃないですか?」 「うーん。例えばね、すごいデザインが得意なAIが開発されたとしてね、このAIが唯一無二の究極的なデザインができるかっていうと、そうじゃないよね。例えば乗用車のデザインをしました、したとします。でも、その車が欲しい? このデザイン、この色がいいって選ぶのが人間だと思うの。どんなに計算能力が高くても、個人の嗜好は個人が決めるしかない。裁判もたとえば、この家族はものすごく貧乏で、それでしょうがなく窃盗しました、という案件に対して、厳罰で臨むか、情状を汲み取るかは人が決める以外にない。それは、どんな未来を選択するか、ということなのよ」 「なるほど。AIには否定的っすね」 「でも、逆に、AIが法を作る、あるいはAIが法の運用をサポートする、というのはあり得る。というか、そっちのほうがありだと思う」 「えっ? どういうことっすか?」 「人間は、法によって何を実現するか、というのを定義すれば良いの。犯罪を減らす、とか、貧困をなくす、とか。そのための最適なオペレーションはAIの方が恣意性がないぶん、正確にはじき出せる」 「どういう罰則を作れば、もっとも犯罪が減らせるか、AIが考える、ってことっすか?」 「ハズレ。それは人間の考え方。統計的に判断して例えば『街灯の数を増やしたら犯罪が減った』あるいは『牛乳の供給量を上げたら犯罪が減った』なんていう、人間に想像もできないことだってあるかもしれないでしょう? まあ、そこまで行っちゃうと法律の話でもなくなっちゃうけどね」 「わかった、ビッグデータ的なアレだ」 「そうかもしれない。まぁ、何をやるにしても、AIが選んだ中でどれを取るかを決めるのは人間、ってことだけは忘れたらいけない」 「なるほどね」 そんな考えもあるんだ。 「でもそれって、怖い考え方じゃないんですか? AIが法を作るなんて」 と、ノリ。ちゃんと話聞いてたのかな。 「うん、そもそもね、法で人を管理するってのが怖い考え方なんだよ。本当は。みんな無自覚になってるだけで」先生は寂しそうな目をする。 「法律が裁いてくれる。悪い人を殺してくれる。目の前じゃ誰も死なない。ただ身の回りの幸せに浸るだけで。メルヘン世界の住民でいられる」 俺たちはこの時、木星にいるバレッタたちがたくさんの罪に手を染めて、それで彼女ら自身が悩み、傷ついていることを知っていた。先生もそれがわかっていて言ったのだと思う。俺は、先生だったら木星を救えるかもしれないって思った。木星どころか、銀河連邦だってこの人とだったら作れるって。そう、この時思ったって、何十年後かに俺は述懐したい。 「だったらさあ、迷いながらでも自分の手で何か為したほうがマシなんだよ。無自覚に決められた法の中で、何も見ないで生きるよりは。それで何か失敗したってさぁ、それが間違ってるだなんて、本当は誰にも言えないんだよ」 先生はずっと真剣な目をしている。確かに俺たちには足りないところはあるけど、それはなんとかすればいい。俺たちはちゃんと、未来を見てるんだって、そんな実感が胸の中に湧き上がって来る。しばらく間をおいて、 「私なら、彼女たちを救ってあげられる」と締める。 わかります、先生。先生はいつもそうしてきましたよね。 「木星に行きましょうね、先生」 俺が傍にいますから。この先も、必ず。 「もちろんそのつもりよ」 先生は言いたいことを言い尽くすと、優しい目に戻った。 この先はもう、俺もちょっと言葉には出来なかった。 先生、先生が木星に行く時は、俺も連れて行ってください。 あと、ハグしたいです。先生。……なんて言うかな。そんなことしたら。 「おお、おお、おお、先生だぞ。大丈夫か向井。変なこと考えんなよ。はは。ははは」
以降も木星側の情報は少しずつ蓄積し、通算十九回目のセッションは俺が担当、出てきたのは例の鳥。セッションから覚めると「誰と接触した?」がとりあえずひと言目の質問だったが、俺とノリはがぜんこの鳥、ノリが言うところの「ケッケちゃん」との接触が盛り上がった。他の連中は、俺達が鳥の話を半分も理解できていないように、俺達の話の半分も理解できていないようだった。 鳥とは今回もまたレゾナンスと密度界の話。それから、 「あなたたちはもうすぐ、自分たちの手で『細胞』を作り出すわ」 と、そんな話。 「次は何をすると思う?」 「次……次は……命?」 「その次は?」 「その次……? なんだろう……」 「それじゃあ、ここで問題。とある文明は、銀河団一個ぶんのエネルギーを使って、原子間に働く新しい力を作り出しました。さて、その文明があった場所は?」 「原子間に働く新しい力?」いや、そんなもん作ったら……でも……まさか…… 「宇宙の中心?」 「そう。何年前?」 「一三〇億年前? この宇宙を作ったってこと?」 「正解。あなたたちは宇宙はこのまま拡張していくか、あるいは縮小に転じて圧縮されて、またビッグバンが起きるか、なんて考えてるでしょう? 違うの。あなたたちは、新しい宇宙を作る」 セッションから覚めると早速ノリが聞いてきた。 「誰と接触した?」 「鳥」 「ケッケちゃん!」 聞いた話をノートに書きながら共有する。 「これムーに投稿できるねぇ」 「ペンパル募集しようかな」 まぁ、ムーの記事は信用できないけど、ムーを読んでるやつって信用できるよな。 あれ? 逆かな? でも、一三〇億年前に宇宙を作り出した種族がいるとしてさ、そいつらはそれまでの宇宙を滅ぼしたってことだろう? いや、でも他のレゾナンスに移って自分たちに害はなかったのかもしれないし……と、いつの間にか俺も、というか俺たちも、鳥が言うレゾナンス宇宙を前提として物事を考えるようになっていた。 でも銀河団一個ぶんのエネルギーで宇宙作り出せるって、エネルギー収支おかしくない? それだったらマッチ一本で宇宙作り出せても理屈には合うわけで……ああ、しまった、「よく気がついたね」って言われそう。あの鳥なら言う。ドヤ顔で。
通算二十回目のセッションをノリが担当、相手はラダレスと名乗る冷静で知的な人物。自身を人工知能であると自己紹介したらしい。 なんかこれもう、シビレルしかないじゃんっていう展開になってきた。 俺たちはこのセッションで、高効率の光学レクテナ――つまり太陽光発電の切り札――のプリントパターン、磁力線コントロール技術、人工知能に関する未知のアルゴリズム、光圧管原理、ホログラフ転写技術を獲得する。 そして、ここが地獄の始まりだった。 後にこれらの技術は、俺が研究していたタンパク質構造解析に応用され、一年後には人間の全原子配列のスナップショット撮影を可能とし、テレビや雑誌の知るところとなる。 精度は低かったが、人間の意識を原子配列から読み取ってAIに移すこともできるようになった。それまでは意識を言語化して、あるいは反応パターンをデータ化して入力することでしか実現できなかったことを考えると、革命的な進歩だった。それは「生命の完全データ化」「永遠の生命の第一歩」として連日テレビや雑誌を賑わわせた。 自然光を九五%の精度でエネルギーに変換する光学レクテナのプリントパターンは、パテント取得前に三社に流出、事実上無限のエネルギーを生み出す装置として世界中で利用され始める。 「永遠の生命」と「無限エネルギー」 そんな言葉が一人歩きを始める。 もっとちゃんとした研究者、ムーなんか読んでないまともなヤツだったらこんなヘマはしなかっただろう。 ただ俺たちはそれでも淡々と、本来の目的である木星探査を続けた。いつか自在にビジョン・クエストを発生させ、好きな時、好きなだけ、好きな星を旅することができるように。俺達にとっては永遠の生命なんかよりずっと大事な話だった。俺と、ノリと、先生は代わる代わるに全原子情報を記録しながらセッションを繰り返し、木星外の様々な文明にも触れ、そんな中、
二〇二三年、十月十日、核磁気共鳴機の中の江藤先生の姿が消滅。
そこから何もかもが壊れていった。人々は永遠の生命を得るために、自分自身を復元するためのスナップショットを撮る。その精度は磁束を強くすればするほど上がった。解析して記録するためにも大量の計算能力が必要となる。もちろんそうやって復元した自分とオリジナルの自分との間に意識の連続性はない。それでも人はすがった。 二〇三〇年代に光学レクテナの量産が始まり、量産そのものが自動化され、電力によって電力源が作られ、それがまた電力を生む、そのサイクルは恐ろしいほどに加速した。多くの人がただただ大量の電力を求めるようになった。人間にとって、電力とはすなわち、命だった。 一面の光学レクテナで地球アルベドがほんのわずか下がり、人類の出す排熱量はほんのわずか増え、海洋から放出される二酸化炭素量のわずかな変化、気候の変化、地磁気の減少、様々な小さな要因が重なり、二〇三六年、大気の減少が観測され始めてからわずか一二〇時間後の出来事だった。地球大気は完全に消滅した。 その時俺とノリは、この地球を破滅に追いやった技術の開発が評価され、官民共同のプロジェクトの上級研究員の職を得ていた。 俺は――俺とノリは、先生を探し続けた。 木星とのリンクは弱まったのか、あるいは所詮幻想に過ぎなかったのか、カトレイシアと名乗った者たちとの接触は途切れたが、先生を救うため、ありとあらゆる手段を講じた。 そして今年、二〇四六年。 二十三年前の俺たちが木星とコンタクトしていた、その年になった。 東京の八月。まだ名前のない季節。それすらもいまは懐かしい。 もう二度とこの地球に夏が来ることはない。
第八章 進むべき道
ビジョン・クエストをはじめて二週間も経つと、他の者はともかくジュディだけはすっかり飽きてしまっていた。この大陸にうっすらと漂う死臭から逃れたくてひとりで彷徨ってはいたものの、不思議なものでどうしても死臭に惹きつけられる。それで図書館から少し離れたところに武器庫のような場所をみつけていたけども、そこもまたなかなかに強烈な死臭が漂っていた。 そして不幸なことに、そこにバレッタも連れてこられる。 ドアをくぐり、今日はそれほどでもない、と思っていたら不意に抜ける風が鼻にツンと異臭を翻していく。 エントランスを抜けてひとつはいると、魔法細工のような、工芸品のような、カトレイシアが持っているエキゾチックなデザインと似た銃が数多く散乱し、そのラック、予備のパーツ、装備品の数々を見て、バレッタはひと目でここが軍の関連施設だと直感する。が、 「ていうか、この匂い、なに?」 ジュディに伝えているとどうしても話題は匂いになる。 「しょうがないよ、死んだ大陸なんだから。大陸が腐った匂いだよ」 多くの銃はラックから降ろされ、封印が施され、その上箱詰めされていたようだが、その箱は再度開かれ、封を破られて急ぎ前線に出されたかの形跡があった。みたいなことを検証しながら、 「……ってことだよね、これ」 「うん。要は、混乱していた、と」 「それな」 と、奥を目指す。 バレッタは自然とあたりを警戒した動きになるが、何度か探索しているジュディは平然と部屋を案内する。 ある部屋には服やカバンが大量に放置されているが、その多くは何者かに荒らされている。ある部屋はロッカールームで、すべてのロッカーが破壊され、略奪の形跡がある。ある部屋には大小様々な銃が積み上がっている。更にある部屋には火器以外の武器、剣や盾、斧、棒、その他諸々が保管されている。 「トータルで考えるとここ、兵士の詰め所かなんかだね。武器はたぶん押収したものだよ。しかも大量に。あとたぶん、どこかに監獄がある」 「おっ、さすがだねぇ! よくわかったね。監獄のほうも案内しようか?」 「いや、今はいい。大量の死体があるんでしょ、どうせ」 「正解」 「カトレイシアにも言ったほうがいい。略奪の形跡があるから、生存者もそれなりにいると思う。どっかに」 「それ、後にしない? 言うとあいつ、ここに残って何が起きたか調べるとか言い出すぜ」 「そうね……。何丁か持っていこうか? 私たちもカトレイシアみたいに魔力で連射できるようになるよ」 「いいよ、俺は、この銃で。いっこずつ弾を込めるのが好きなんだよ」 「あんたって、そーゆーとこあるよねー。こんど戦艦がやってきたらどう戦うのよ」 「逃げるよ。そりゃ」 「ひど」 「ひどくないよ、なんで俺が戦艦と戦わなきゃいけないのさ」 「そんなこと言ってると、カトレイシアとパドルに活躍持っていかれちゃうよ?」 「いいよ、そういうの。俺、寝る係で」 「私は何丁か持っていくけど、かまわない?」 「うん、それはもちろん。そのために連れて来たんだし」 浮遊大陸ノラは全体的に空気が薄く、特に外縁部に行くのは命がけだった。息苦しいと感じたらすぐに引き返さないと、風向きの関係であっさりと酸素がなくなることがある。そこで死体となったら、酸素濃度に合わせて腐敗が進行し、死臭を放つ。皮肉なことに、死臭がある場所でなら生きていける。そこには酸素があるから。 アゼオールの図書館のあたりはそれなりの酸素濃度があり、そこまで戻るとふっと安堵のため息が出た。それでも気圧は低く、図書館内の階段の上り下りは息が上がる。 深呼吸。埃の匂い。 幾度となく通ったエントランスに、耳慣れない音楽が響いていた。 不思議な音階。たどたどしく、とぎれとぎれに、響く。 「そういえば、オルガンあったね。カトレイシアが弾いてるんじゃないかな?」と、ジュディ。 音と記憶をたどって、オルガンの部屋にたどり着くと、そこではジュディが言った通りカトレイシアがオルガンを弾いていた。ふたりの姿を横目で見留めて、「音階が今のものとは違うようです」とカトレイシア。 「楽譜の書き方も五線譜ではなく、特殊な記号で書かれています。おそらくこれが、この大陸の本来の音なんでしょうね」 演奏を終え、別の楽譜に替える。 また違う曲が流れ始める。 「最初は慣れなかったんですが、だいぶ弾けるようになりました」 ビジョン・クエストを行っている部屋はいつの間にか「瞑想室」と呼ばれるようになっていた。 ラダレス二回目のセッション。 一回目はそもそも、シンセシスがビジョン・クエストを成功させるとは思っていなかった。そのうえ誰か無関係な人物と勘違いされたこととで、ほとんど情報は得られなかった。なので今回のテーマは「明確に名乗りを上げる」こと。なのだけど、前回同様あまり多くは期待されていない。 「どうだった?」と、バレッタ。 「はい。いろんなことがわかりました」 こちらではなんとなくバレッタが、エンジニア気質で、指示がはっきりしていたこともあって、リーダーみたいなポジションに落ち着いていた。 「相手は誰?」 「ノリです」 セッションの相手は、ノリ、ヒロキ、エトウの三人いるらしいことはもう確定している。たまに雑音的に他のところにつながることもあったが、その日はセッション失敗扱い。 「どうやら私たちがコンタクトしている相手が、第三惑星地球の住人であることは九九%確定のようです」 と、聞いてバレッタは首をひねる。 セッションに入る時と出る時、相手方の惑星は見える。だけどその星は青くてきれいな星。間違っても地球のような赤茶けた星じゃない。 「地球って、赤茶けた不毛の星じゃないっけ?」 「地球から水がなくなったのは、ほんの二十年ほど前です。それ以前の地球とコンタクトしていると考えられませんか?」 「えっ! セッションって時間を超えるの?」 「今回、水星と金星らしき星が確認できました。その座標から推測すると四十五年前の地球と考えれば辻褄が合います」 「四十五年!」 パドルが驚く。 「そうです。悪魔がこの星に訪れる二年前です」 「それって、どういうこと?」 バレッタもラダレスから悪魔の話を聞かされたことはあった。だけど、己の手で生み出したロボットから「悪魔召喚」の話を聞かされてもまともに取り合う人間はいない。バレッタにしても、ろくに耳を貸さなかった。 「悪魔、三代目マリナーは四十三年前に地球の第六レゾナンスから来たと言われています。その二年前の地球と私たちはコンタクトしているんです。もしかしたら私たちのコンタクトそのものが、悪魔の召喚と関係があるのかもしれません」 「うそ……」と息を呑むバレッタ。 「私たち、本当にこれを続けてもいいのですか?」と、黙って聞いていたカトレイシアも思わず口を挟んでしまう。 「要点をまとめるとね――」 ・現在の木星と、四十五年前の地球の間で交信している ・四十三年前、地球から悪魔マリナーがやってきた ・その直後に地球は滅亡、木星には連邦法ができた 「つまり、私たちがやってるビジョン・クエストが、地球滅亡に関係してる可能性があるかもしれないってこと。あと、連邦法ができたのも」 「なるほど……」 バレッタの説明にジュディは頷く。翌日。 船での寝心地の悪さが、日々の不安に拍車をかける。 骨の音が鳴るほどに固くなった身体をほぐしながら、瞑想室に入る。 ふぅ、と息を整えて、セッションに入る。 普段通り、目を閉じて作り出した闇は、ココピリカの背に手を置くと同時に白い光で打ち消される。 何もない暗闇から、何もない白い世界へ。 その日、バレッタの目の前に現れたのはヒロキだった。向こうのメンバー三人の中ではリーダーと目されている。 「たすけて……」 その様子は普段と違い、弱々しい。こちらの様子が見えていないかのように、闇雲にどこに向かうともなく、たすけて、を繰り返す。 「ヒロキ、バレッタです。こちらの声が聞こえますか?」 問いかけながらヒロキに近づいていく。 声は聞こえているようで、「バレッタ?」と、あたりを見渡す。 「どうしたんですか? 大丈夫ですか?」 「先生が……先生がいなくなった……」 先生というのは…… 「先生というのは、エトウ?」 「そう……昨日のセッションで、急に……」 昨日は確か、ラダレスとノリのセッションだったはず。バレッタは聞き返す。 「こちらでは、昨日はラダレス――人工知能の男が、そちらのノリとコンタクトしました。その日からそちらでは何日経っていますか?」 「ああ……あの日……あれからもうおかしいんだ、何もかも……」 「ヒロキ、だいたいで構いません、それはいつのことですか?」 「一年ほど前かな……」 地球の一年は木星と同じく三六五日だったが、一日の長さが違う。地球の一日は二十四時間、木星の一日は十二時間二十四分四〇秒。そのつじつまを合わせるかのように木星の人は二年に一度しか歳を取らないという不思議なルールまである。すなわち、地球の一年は木星のおよそ二年。つまり、バレッタたちがコンタクトしていたエトウはちょうど、木星に悪魔が召喚されたときに地球から消えた。 バレッタの顔から血の気が引いていく。 「まさか……エトウがマリナー?」 「そう……だけど……何か……?」 ヒロキが動揺する。 「マリナ・エトウ、先生の名前だけど、それが……」 間をおいて、恐る恐る、 「何か……?」 バレッタは自分自身混乱していたが、迷いながらも伝える。 「ヒロキ……大事なことだから落ち着いて聞いて。木星には四十三年前に――地球時間ではちょうど今のあなたたちが暮らしてる時間のはずだけど、その年、悪魔が召喚されたの。大陸ノラってとこの魔道士の手で。その名前はマリナー。あなたが先生って呼んでる人と同じ名前。今の木星の惨状はその悪魔によってもたらされているの」 「先生が……悪魔……? あの木星の戦争の原因……? そんなの、嘘だ……、そんなわけないじゃないか……」 ヒロキの姿が薄れていく。 「ヒロキ! ヒロキ! 行かないで! もう少し話を聞いて!」 ヒロキの姿はどんどん薄れていく。 「ヒロキたちが住んでる地球は、あと十年ほどで破局を迎えるの! ねぇ、聞いて! こちらから見える地球は赤い星、いまあなた達が住んでるような星じゃない! まだ少し時間はあるから、それに備えて! ヒロキ!」 涙を流しながら、遠ざかるヒロキに向かって手をのばす。 そしてその姿のままビジョン・クエストより覚める。 ジュディも、カトレイシアも、ラダレスも、パドルも、セッション中に泣きながら叫んで立ち上がるバレッタを目の当たりにしていた。 異様な事態が起きたことだけは確かだった。 情報を確認しようと、この後、カトレイシア、ジュディ、ラダレスとセッションに入るが、地球の人たちはもう誰も呼びかけに反応しなかった。
引き上げの時が迫っていた。 フレアベルの遺志を継ぐためにここに来て、今までになかった貴重な体験はしたものの、彼女の気持ちは一ミリもわからなかった。地球の人たちが困っているのはわかったし、四十三年前にこの星に来た悪魔の正体もわかった。だけどそこから自分たちのやるべきことは導き出せなかった。 魔法船は図書館の裏手に停泊している。 バレッタはその前に武器庫から持ってきた銃を積み上げて、黙々と試し打ちを重ねていた。 「それ全部持って帰るの?」と、ジュディが来て訊ねる。 「そだね。一応コレクションとして全部」 取り繕ったような笑顔でバレッタは答える。 ジュディは「どんな感じ?」と、なんだかんだ言っても、銃には興味を示す。 「ちょっと癖があるけど、慣れれば大丈夫かな」 「俺も一発撃っていい?」 「いいよー。がっかりすると思うけど」 「え? 何が?」 バレッタはサブマシンガンタイプの銃をジュディに渡す。 ジュディはそれを半壊した壁に向けて連射する。 「何これ……スッカスカ……」 「でしょう? でも、威力はすごいんだよ」 「いや、威力じゃないよ。こんなのはヤだよ」 「だよねー。撃った後の心臓に抜けるようなビリビリもないし、硝煙の匂いもない。あとねぇ、カトレイシア、弾道曲げてたじゃない?」 「ああ、曲げてた曲げてた」 「曲がんない」 「あ、そうなの?」 「あと、ここ。出力ゲイン調整できるんだけど、カトレイシアが使ってるのがこのレベル。このレベルだとさすがに衝撃バスンバスン来るよ。持ってみて」 銃を渡されただけで、ジュディの体から力が抜けるのがわかった。 「なんじゃこりゃ……」 ジュディは露骨にげっそりとした顔を作って見せる。 「なんか持っただけで体力ごっそり持っていかれるんですけど……」 「そうなのよ。こりゃあ毎度フラフラにもなるわー」 「あいつ、凄かったんだな、実は」 と、そこにカトレイシアがやってくる。 「あら、これ全部漆黒銃ですの?」 「そみたい」 「わたくしにも試し撃ちさせて頂けますかしら?」 「ああ、どうぞどうぞ」 カトレイシアは銃の山からライフルタイプのものを一丁拾い上げるが、それだけでその銃は輝き出す。 「なにそれ……」 カトレイシアは銃口を右から左へと移動させながら十二発を連射。全弾が美しくカーブを描いて一点に命中する。 「かーっ、さすがは大陸一の漆黒銃の使い手ってか。さすがだわ。声も出ねぇ」 感心するジュディを一瞥し、カトレイシアは不審な目で手元の銃を眺める。そして集められた銃の山の前にしゃがみこんで、ゆっくりと銃の上に手をかざす。 「これをどこで手に入れました?」 何かを感じ取ったらしく、表情が曇っていく。 「あのね、カトレイシア」 バレッタが割り込む。
監獄を訪れ、奥に踏み込むと、床を埋め尽くす無数のネズミたちが一斉に壁際に走る。その足元、無数の白骨。カトレイシアは息を飲んだ。 「暴動を起こして捕まった連中じゃないかって、バレッタ言ってたよ」と、ジュディが言うと、「想像だけどね」と、バレッタが加える。 「生存者はいるんですか?」 「ここにはいないけど、どこかに隠れ住んでると思う。低地には酸素があるらしいから、こことは別の地下じゃないかな」 「助けに行くの?」 「見殺しにできますか?」 「違うよ、そういうことじゃないよ。助けることができるの? ってことだよ」 「全員は無理でも、助けられるだけ」 カトレイシアがこう答えることはわかっていたが、ジュディは食い下がる。 「反対はしない。だけど少なくとも、助けてどうするかだけ決めておこうよ。ミロウラ大陸のどこかに放置する? それともアネルーラに連れてって、ボーレイトを入植させるつもりだったとこに住ませる? こう言うの悪いとは思うけど、あんたもうお姫様じゃないんだよ。俺たちがアジトにこもってコソコソやってたことと同じくらいのことしかできないんだよ」 ジュディの訴えをカトレイシアは静かに聞いている。 「アネルーラに連れて行きますわ」 「はあ?」 「皇太子には私から頼んでみます」 「あんたマジでそれ言ってんの?」さすがにバレッタも口をはさむ。 「私はカトレイシア・トライバルとしてできることをやるしかないんです。カトレイシア・トライバルが浴してきた栄光で、この地位で、この身でできることだったら何でもやりますわ」 力強い意志を感じて、一瞬ジュディも返す言葉を失いかけ、取り直し、 「あーそうですか、クソ皇太子の第三婦人になってガキ産まされて、連邦に逮捕されて、それでも人を救いたい、と」と言ったところで、バレッタが割って入る。文字通り、カトレイシアとジュディの間に身体を割り込ませて、 「まあまあふたりとも、こんなとこで喧嘩しないの。まずは私たちに何ができるかってこと、みんなでちゃんと話し合って、それから決めようよ」 「私は私が思ったことを述べたまでで、喧嘩なんかしていませんわ」 「俺もこの程度の言い争いを喧嘩だなんて言われたくないね」 「はいはい、もうわかったから」 と、三人は白骨の部屋を後にする。
言葉もないまま、船に戻る。 ラダレスに経緯を話すと、「それなら」と、全員を魔法船のコクピットに案内した。 ラダレスはコンソールに向かって座り、キーボードを操作する。 三人の頭上にあるモニターが「我々の任務」という文字を映し出す。 「何これ……」 と、バレッタが数歩下がって、モニター全体を視界に収めると、カトレイシア、ジュディも同様に後退、次々と表示される文字列を目で追った。
【我々の任務】
①フレアベルの遺志を継ぐ
②ラタノールの開放
③トライバル城を奪還する
④ノラ大陸の生存者を救出する
【我々の任務】
①フレアベルの遺志を継ぐ
・ビジョン・クエストの体験 混乱中
・ココピリカの保護 → 私たちの問題ではない
②ラタノールの開放
・連邦政府の殲滅が必要 → 無理
③トライバル城を奪還する
・ボーレイトとの戦闘が必要
・連邦政府との戦争不可避 → 無理
④ノラ大陸の生存者を救出する
【我々の任務】
①フレアベルの遺志を継ぐ
・ビジョン・クエストの体験 混乱中
・ココピリカの保護 → 私たちの問題ではない
②ラタノールの開放
・連邦政府の殲滅が必要 → 無理
③トライバル城を奪還する
・ボーレイトとの戦闘が必要
・連邦政府との戦争不可避 → 無理
④ノラ大陸の生存者を救出する
・アネルーラへの入植 → 無理(③と同じ理由)
・連邦支配地域への入植 → 無理(人道的理由)
⑤悪魔をやっつける NEW
⑤悪魔をやっつける ← 目的不明
「連邦は悪魔が作った『連邦法』で動いているんだろう? 今も連邦はその悪魔によって動かされている。だったらそれは、倒す理由になるんじゃないかな?」と、ジュディ。 ラダレスはモニター上の文字を修正する。⑤悪魔(連邦法を作成)をやっつける
そしてこの「連邦法」を赤い円で囲って、項目②、③、④、にある「連邦」とラインで結びつける。 バレッタは「ほほう」と関心を示すが、カトレイシアはモニターから顔を背け、 「何を言うかと思えば……。法はたとえ国王が変わっても残るものですわ」 ジュディは被せ気味に、「でもその悪魔をつかまえて、ハクジツの元にさらせば、誰だって『これは違う!』って思うんじゃないの?」 カトレイシアは少し考えて、そうかもしれませんわね、と静かに頷いてみせる。 「それでみんなで立ち上がって、連邦法なんて全部なくせばいいんだよ。連邦法なんてなかった時代に戻ればいいんだ」 「マリナーの居場所に関して補足いたします」 と、ラダレス 「マリナーを召喚した魔道士たちは破滅した大陸ノラを捨てて、ミロウラ大陸に移り、その覇権を握るべくラベスタの国に取り入り、高官の座に収まっていると言われています」 ラダレスはモニターに地図を表示し、流れるように説明する。 「こうです」 「今回はちゃんと図を示せるんだな」 「現在ボドルラベスタに建造中の塔は、ノラに建築されていた立法府の塔と同じ機能を持ち、ゆくゆくはノラの魔道士はここから連邦を指揮すると目されています」 「じゃあ、マリナーもそこに?」 「可能性はありますが、塔はまだ建造中です。ボドルラベスタの近隣の政府施設にいる可能性のほうが高いでしょう」 とんとんびょうしで「悪魔をやっつける」実現の方向で動き出す中、バレッタが手を挙げる。 「待って! マリナーって、私たちがビジョン・クエストで会ってたうちのひとりなのよ?」 「それがどうかいたしまして?」 「いや、やっつけるっていう話だったら、ちょっと違うんじゃないかな、って……」 バレッタが声を絞り出すと、 「でも今は悪魔なんだろう?」 ジュディが言い放つ。 ここまでの話を聞いて、今まで議論そのものには参加してなかったラダレスが普段と同じ抑揚のない口調で意見を述べる。 「先生を助けてあげてください」 「ああ、それをどうするか今話し合ってんじゃないか」と、ジュディ。 「私は、先生を助けるために、ここに来た気がします」 「はあ? どういうこと?」と、バレッタは少し苛立ち気味に問いかける。 「わかりません」 カトレイシアが何かに思い当たる。 「ずっと感じていたことがあります。ラダレス」 それを口に出すことを、ずっと躊躇ってきた。だけど―― 「あなた、ヒロキの記憶が紛れてるのではありませんこと?」 初めてヒロキに会ったとき、カトレイシアは確かにラダレスを感じた。その後も、セッションでヒロキに会うたびに、同じ波動を感じ取った。 「わかりません」 「いいえ、きっとそうですわ。あの、思い出せませんか? 私に呼吸を数えて、って言ってくれましたよね?」 「呼吸ですか。知っている気がします。とても懐かしい感じがします」 「やっぱりそうですよね?」 「だけど今、私は呼吸ができません。それがどんなものかもわかりません。でも――助けてください。先生を。お願いします」 短い沈黙ののち、「わかりました」と、カトレイシアは大きく息をする。ラダレスの手を取り、その瞳を見つめて、「そこにいるんですよね? 会いに来たんですよね?」と、ヒロキに語りかける。 「どういうこと?」と、ジュディはバレッタに問う。 「ラダレスにヒロキの記憶が紛れ込んでるってことみたい。なんでかって聞かないで。わかんないから」 「屋敷の地下室で初めて会ったときのことを覚えていますか? あなたは『どこかでお会いしませんでしたか?』って聞きましたよね? 会ってたんですよ、私たち」 ラダレスが戸惑っているところ、カトレイシアは軽く微笑んで、 「会うしかないですわね、そのマリナーという女性に」と、切り出す。 「会う?」 「私たち、フレアベルの遺志に沿ってここに来ました。そしてここで、悪魔となる前のマリナーと接触しました。連邦の動きの鍵を握っているのはすべてその、マリナーです」 ラダレスは「⑤悪魔をやっつける」を「⑤悪魔に会ってみる」に書き換える。 「それなら賛成」とバレッタ。 「ま、会ってみて決めればいいか。その後のことは」と、ジュディ。 「その前に。ラベスタで食料を入手して、ここに残された者たちを探して、届けておきましょう」 カトレイシアの言葉にジュディは気持ちを折られる。 「またそんな無茶を言う……。俺たちお金持ってないんだぜ?」 「ラベスタにだって賞金首はいるよ。そのくらいは役に立とうよ、ジュディ」 「へいへい。すっかり役立たずポジションですみませんねぇ」カトレイシアたちはすぐに魔法船でミロウラ大陸に戻り、馬車を降ろし、バレッタとジュディは賞金首を探しに行った。 その間ラダレスは船のデータを精査、リンクされた情報から他に使える船を探す。現在の魔法船はプレジャーボートで、荷物の積載量も少なく気密性もない。この先、他の陸間にも移動するとなれば、乗り換える必要がある。 調査の結果、ノラ大陸外縁部に相当数の気密型クルーザーが放置されていることがわかった。船の大きさは様々で、中には戦艦クラス、それ以上のものもある。昔からの様式として、武装されたものが多い。多くは資産家や貴族の屋敷、あるいは外縁部の港にあり、他の大陸への移動に用いられていたのだろうが、突然の気流の変化がその持ち主の命を奪っていた。そのほとんどが魔法浮揚型で、連邦が使用している光学型と比べたら旧式で、回収されることもなく放置されている。 「そうは言ってもだよ」と、ジュディ。 「これだけ財産を連邦府が放置するの、おかしくない?」 「連邦府のデータベースは、人工知能との連携前提で設計されてるし、そのせいじゃない?」と、バレッタ。 「それが本来の人工知能の使い方でしょうね」と、カトレイシア。 ラダレスとカトレイシアはその放置された船の一隻、気流の変化で現在ではぎりぎり酸素がある地区から大陸間クルーザーを回収する。新しい船の名は「エリゴス」。 新たに入手したエリゴスをパドルとラダレスで、従来のウァプラをカトレイシアが操舵しミロウラに戻る。 同様に回収が可能なクルーザーは大陸全体で数十隻が確認された。中でも北方のサミュエル・ベイには外洋船が数多く残されている。これを用いればノラの難民の救出にも目処が立つ。幸いサミュエル・ベイには酸素の気流が戻っている。 翌日、馬車を食料でいっぱいにしてジュディとバレッタが戻ってくる。 すぐに新旧二隻の船で浮遊大陸ノラに渡る。 大陸間クルーザー・エリゴス号から音楽が奏でられる。 この大陸に古くから伝わる音階で、優しく、どこか物悲しい曲が響く。 やがて地上に、その船を見上げる人影を見つける。 船を降ろし、食料を配り始めると、人影が少しずつ増えていく。 カトレイシアたちは魔法船ウェプラと、食料と、放置されたクルーザーの場所を示す地図を置いて、その地を後にした。
第九章 幻想の向こう
夜。 イナンの宿。 ココピリカを抱えたパドルが寝ぼけながらジュディの部屋に入ってくる。 ベッドの上は空っぽ。床を見ると無造作に転がったジュディの姿がある。 「枕」 寝ぼけた声で一言。パドルは横になってジュディのお腹を枕に、眠りに落ちていく。その手ではしっかりとココピリカを抱きしめたまま。 その寝息が聞こえはじめるとパドルが手にしたココピリカから、透き通った人影がゆっくりと立ち上がる。その姿はフレアベルに少し似て、窓を仰ぎ、月を見上げる。 「いやだ……」 と不意に聞こえたのはパドルの寝言。ううう、と唸って身体を縮こめる。 その人はパドルの額に手を当てる。 そしてすうっとパドルの意識の中に入って消える。窓から差す月の光を、寝息が吸い込むように。 パドルの夢は一面の白い霧。 月の光はその中にうずくまる小さな人影をみつけ、ゆっくりと歩いていく。 人影はパドルだった。その顔に表情はなく、うわ言のようにつぶやく。 「また殺しちゃった」 その足元にバウドロの遺体が横たわっている。 人影にはパドルが今まで主人に命じられて、同様に人の命を奪って来た数多の場面が見えた。 この白い霧の中で多くの者が命を落とし、その感触は裸足で歩く沼の底のように、この世界の土という土に張り付き、断末魔の声は風という風の中に木霊となって、長くその苦しみを響かせていた。 身じろぎもしないパドルの視界の隅、人影はバウドロの遺体に手を当てて、「あなたを開放しに来ました」と一言。するとバウドロの遺体は光になり、立ち上がり、天を見上げ、空へと浮かんでいった。 「えっ?」 パドルは不思議そうに天へと登っていくバウドロを見送る。 その人が周囲を見渡すように促すと、白い影の中から同じように多くの者たちが光となって天へと昇る姿が見えた。 「誰?」 ようやくパドルがその人に問う。 「私は私だよ。だよ」 だよだよ? 「フレアベル?」 「彼女と一緒にいた鳥」 「プチベル?」 「そう。火を消そうとしてくれてありがとう」 パドルはすぐに夢だと気がついた。 だけどそれを口に出す前に人影は言った。 「どうして普段はそれに気が付かないの?」 言っている意味がわからない。 「そりゃそうだよ、意味なんてないもの」 意味なんてない? 「どうして僕に会いに来たの?」 「ありがとうを言いに」 「そう」 それだけ? そんなはずはないよね? 「それから?」 「ありがとうを言いに」 それはさっき…… 「何度でも言いたい。ずっとずっと。あなたが生きている限り、何度でも現れて、何度でも言いたい。ありがとうって」 パドルは嬉しくなると同時に涙がこぼれてきた。 そして足元に花があることに気がつく。 「花だ。君が咲かせたの?」 「いいえ、あなたが」 えっ? っと一瞬不思議そうな顔をして、「ん」っと。 パドルが他の一点を見て少し集中すると、そこにもまた花が咲く。 「あ、ほんとだ」 パドルはうれしくなって、クスクスと笑う。 すると一面に花が咲きはじめ、やがてそれは地面を覆い尽くす。 だけどその喜びもすぐに褪せていく。 「でも、夢なんだよね」 「そう。でも、夢と、幻覚と、現実と、死は、どれも一緒だから」 「一緒?」 「私だけがレゾナンスを飛び越える」 「君だけが?」 「違う、私」 「私……」 「言ってみて。私だけが、レゾナンスを、飛び越える」 「私だけが、レゾナンスを、飛び越える」 次の瞬間、パドルは燃え盛る炎に包まれた鳥小屋の中にいた。 その姿は光のように透き通り、空中に浮かんでいる。 フレアベルがココピリカたちを抱きかかえて炎を避けている。 「フレアベル……?」 パドルが漏らすとフレアベルがあたりを見渡す。 「だれ?」 「こっち! レゾナンスを超える!」 パドルが手を伸ばすと、フレアベルもおずおずと手を伸ばす。パドルがその手を取ると、フレアベルとココピリカたち、そしてパドル、全員の姿がそこから消える。 そして夢から覚める。 枕にしていたジュディはいない。 パドルはベッドに寝かされて、毛布が掛けられている。イナンの宿を後にしてラベスタの首都、ボドルラベスタの街へ入る。 緑多い周辺地域とうってかわって、黒を基調としたシックなデザイン。 幅広い幹線道路には昔ながらの馬車と、最近増えてきた完全自動化の車とが走り、双方とも色は黒く、街の中を流れる川に浮かんだ水上バスの屋根も黒い。 「黒いわけではありませんね。光学レクテナパターンをプリントしているため、可視光の九五%を吸収して電気に変えています。そのため光を反射せず、黒く見えるのです」 「ちょっと待って、黒く見えるものと黒いものって違うの?」 川べりには街灯が並び、その間ごとにベンチがふたつ、人と犬とが三々五々に走り、休み、レンガ敷の道路は古く、路面は大きく凹凸しながらところどころ割れたレンガの隙間を芝草が覆う。川面に面して咲く花は不揃いな背丈の白い花と、ひょろひょろ伸びるオレンジ色のポピー。ところどころに残る古い木造の家、板を打った鎧戸、その庭木は赤い小さな実をたくわえて、傾いた道、停められた馬車と、目隠しされた馬、いくつかの露天、背伸びして焼き菓子を受け取る子どもの姿と、その後ろに並ぶ、鳩、鳩、鳩。 土手を越えて通りひとつ渡った大通りのカフェ。 五人で入ろうとして、席が見つからず、三人と二人、別れて座り、カトレイシアはバイオリンケースを足元に置く。 「パドルは率先してラダレスの隣に行くよね」 「ラダレスの隣だとふたりぶん食べられるからな」 パドルとラダレスの席にはケーキがふたつ運ばれて、ラダレスの前のケーキもパドルが引き寄せる。 「でも良かった」 「良かったって、何が?」 「あの子には聞かせたくないんだ、作戦の話」 「それな」 バレッタはジュディに目配せする。 「黒いコートのほとんどはシンセシスだね。光学レクテナだ」 なるほど、と通りを見やるジュディとカトレイシア。 「第二世代だから、襲ってくるよ」 と、ここでバレッタのうんちくが始まる。 「ラダレスは第一世代だから人は襲わないんだけど、それが認められてなのか、人間として扱われることになってる。だけど第二世代は人も襲う、単に命令に忠実なマッスィーン。人工知能の性能も第二世代の方が上だけど、でもラダレスの人工知能はじゅーぶん訓練されてるし、第一世代特有のフレーム問題もクリアしてる」 「フレーム問題?」 「そう。人間を傷つけちゃいけないっていう条件判断が案外面倒で、パニクってよく停止してたって。昔のシンセシスは。で、シンセシスってもともと法の管理のために作られたらしいんだけど、フレーム問題のせいでほとんどが悪党に捕獲されて、いいように利用されてたんだって」 「法の番人が悪党に利用されるだなんて、なんの寓話かしら」 「まったくだ。それで改良して生まれた第二世代は殺人マッスィーンなんだろう?」 「そのとーり。第一世代で今も残ってるのってあの子くらいなんじゃないかな。あの子はお城でずっとお花に水やりしてたんだけど、そうやって人工知能を訓練し直してたんだと思う」 「あいつたまに、他人の記憶とか紛れ込んでるっぽいけど、あれはなんなの?」 「はっきりとはわかんないけど、人工知能を鍛える前の、最初にプリセットされた記憶じゃないかな。システムが継ぎ足しだから混乱してんだと思う」 「ふーん。聞いてもよくわかんねぇや。それよりも、どうする。マリナーの件」 バレッタは口の前に人差し指を立てる。 「その名称は使わないでって言ったでしょ? 私たちお尋ねもんだし、ヤバいワードは避けて」 「はいはい。『江藤先生』の件、どうする?」 ジュディと話しながら、バレッタは紙で
気がつくとカトレイシアは厳重に施錠された部屋の前にいた。 部屋の隅には先程の、クラウスと名乗った鎧の男がいる。 男は仮面を外し、壁際に座り、その背中をべったりと背後の壁に委ねている。 男の足元にはダルシーネイラがある。 カトレイシアには手錠も足枷もない。隙あらばあの銃を奪える。ゆっくりと部屋を見渡すと、背後に扉。その外は廊下だろう。目の前には巨大な鉄の扉。おそらくノラの様式。円環状に並んだ八本の鋼鉄の閂で閉ざされている。今いる部屋は扉と扉に挟まれた小さな部屋。閂の扉の前には水晶球のようなものがある。台座はノラの工芸品特有の文様。水晶球は不思議な色彩を放っている。 「ノラから来た預言者共は、その水晶球を通して中の悪魔とコンタクトを取っている」 水晶玉に気を取られていると、クラウスが語りかけてきた。 「悪魔……もしかして……?」 男の顔を覗くと、その表情は穏やかだ。 「悪魔が考えたこと、今まで見知ったことのすべてを、その水晶球で見ることができるそうだ。それでガソリンエンジン、発電機、電子計算機、数々の薬、娯楽、暦、歌、あらゆるものをその水晶球から得て、再現し、それを世に広めた。数々の連邦法もそうだ――」 男は息をつき、 「すべてはその扉の向こうにいる『悪魔』が魔道士たちにもたらした」 壁にもたれていた背中をゆっくりと起こす。 「悪魔は食事も、水も摂らず、魔力だけでもう四十年以上生かされている。俺は、その悪魔の正体を知りたい」 男はくっと苦痛に顔をゆがめて立ち上がる。その手は脇腹を押さえている。 「あの時、お前にやられた傷だ」 男はダルシーネイラを取ってカトレイシアに渡す。 「内臓がやられている。もう長くはない。どうせ死ぬんだ。俺がいま守っているものの正体を知って死にたい」 館内にアラートが鳴り響く。同時に館内放送。 「不審者二名第一管理棟に侵入。両名とも銃を所持。警備兵は直ちにこれを排除せよ。スタッフは警備兵の指示に従ってください。繰り返します。不審者二名第一管理棟に侵入。両名とも銃を所持――」 カトレイシアは、館内放送に耳をそばだてる。 「フッ……。お仲間は無事たどり着けるかな?」 扉は固く封印されているが、鎧の男が着ているような耐魔法のコーティングはない、普通の金属のように思える。カトレイシアはダルシーネイラを光熱モードに変える。引き金を引くと一条の激しい光が放たれ、カトレイシアはその光線で扉を封じている鋼鉄の巨大なボルト八本を焼き切る。 アラートはずっと続いている。館内放送も断続的に入り、ジュディとバレッタの様子を伝える。時折爆発音、振動、まだふたりが捕まったという情報はない。
扉を開くと、そこは粗末な小部屋だった。 小さな文机の上に小さな灯り、椅子、寝台、本棚。 ひとりの老女が椅子に座り、本を読んでいる。 老女は顔を向けることもなく、 「そうですか。立法府の塔、ついに完成しましたか」 とつぶやいては振り向いて、カトレイシアの顔を見つめて、動きが止まる。 カトレイシアは、ゆっくりと切り出す。 「エトウ先生ですか?」 老女の視線が泳ぐ。 笑みにならぬ笑み。 「え、ええ……。あなたは……?」 「カトレイシア・トライバル。ヒロキ・ムカイをご存知ですよね?」 老女の目から涙が溢れる、が、すぐにそれを手で払い、取り繕って、 「お引取りください。すみません。私に、あなたに会う資格なんかありませんから。どうぞ、お引取りください」 視線を合わせず、何度か頭を下げながら閉じた書を開き、身体を机に向ける。 「そうは行きません。ヒロキ・ムカイの強い要請があってここに来ましたの。どうか私と……」 「向井くんは――」 少し声のトーンを上げて割り込んで、 「あの、ヒロキ・ムカイはここにいるのですか?」 思わず向井くんと呼んだ呼称を言い換える。 「ここには――」カトレイシアは少し戸惑い。「いません。地球にいるかもしれないし、いないかもしれません……」 「死んでるんですよね? 地球の大気は消えたと聞きました」 「その件は私にはわかりません……」 巨漢のクラウスが背後で聞き耳を立てている。表情はない。己が半生をかけて守ってきたものを、彼は初めてその目で見た。 「それも、私のせいですよね?」 老女は聞き返す。悲しいときに出てくる楽しくもない笑いが涙を堰き止めるように溢れては、顔を引きつらせる。 背後で爆発音が連続する。振動と、アラート。緊急を告げる館内放送。アラートに重なるアラート。 「侵入者二名、至高体に接近中。侵入者二名、至高体に接近中」 外の扉が開いて、武装した衛兵がふたりなだれ込み、破壊され開け放たれた奥の扉を見留め、 「すでに侵入されていたか!」 と中へ入ろうとするが、鎧の男が剣を抜き、その行く手を阻む。 「邪魔をするな。俺が初めて、自ら選んで手にした時間だ」 館内放送の声はもはやパニックの域にある。 「ただちに至高体を立法府の塔へ移送してください。二分後に爆撃が開始されます」 そう繰り返して、不意に途切れ、「すぐに至高体を保護しろ! 侵入者は後でいい!」と別の声が割り込む。 カトレイシアのすぐ後ろでは、鎧の男と衛兵が対峙する。 「クラウス殿! ここに来て裏切られるとはいったい!」 困惑する兵士の声に続いて、鎧の男の抜刀、衛兵の逃げる足音、斬撃、そしてどこかから響く爆発音、振動。 「東第四エリア閉鎖。侵入者のいる区画に砲撃を行います。東第四エリア閉鎖。侵入者のいる区画に砲撃を行います」 アナウンスに続いて爆発音。 更に大きな振動。 窓の外には巨大な戦艦の光圧管が放つ異音がかすめ飛ぶ。 「エトウ先生! ここにいたら死んでしまいます!」 と、カトレイシアは老女の手を取ろうとするが、老女はその手を胸の前に結び、首を振る。 「ここで死なせてください」 細く、か細い声でつぶやく。その頬を涙が伝っている。 砲撃が始まる。 建屋を揺さぶる轟音が連続で上がると、天上からパラパラとモルタルの欠片が降ってくる。 「先生!」 カトレイシアは強引に手を取る、と、その足元、白い霧の気流に気がつく。 「ミスト……? パドル、何をする気なの? スリープ? ……違う、この霧は……何?」 そこにジュディとバレッタが飛び込んでくる。 「カトレイシア! 先に来てたんだ」 声に振り返るカトレイシア。 「そんなことよりこの霧は?」 言われて足元を見るジュディとバレッタ。 「おおっと!」 「パドルはどこにいるの?」と、カトレイシア。 「地下倉庫に置いてきた。まさか連れてくるわけにはいかないし……」 「この霧は?」 「いや、こっちからは指示してない」と言ったあと、「この人がエトウ先生?」とカトレイシアの顔を見るバレッタ。カトレイシアは頷く。 「挨拶してる暇はない、逃げないと!」とジュディ。 外は砲撃の雨、足元には白い霧、扉の外には多数の兵士たちの足音が響く。 「先生!」と、カトレイシアは促すが、先生は身体をこわばらせる。 背後の扉が開き多数の魔装兵がなだれ込んでくる。 「チッ、追い詰められた」と、バレッタ。 同時に、部屋は白い霧で満たされる。 ミスト。 何もかもが白くかき消される。 次の瞬間。 「ハルシネーション――」 パドルの声が聞こえた気がした。 途端、足元に花が咲き乱れる。 足元から咲き広がる花は、そこにあるはずの壁を越えて無限の遠くまで広がっていく。白いキャンバスに緩やかに畝る斜面が描き出され、すぐにそこを立木が覆い、鳥が歌い、風が吹き始める。 「これは?」 「ハルシネーション? って言った?」 「何が起きているんだ?」 ジュディが振り返るが、そこにいたバレッタがいない。 ジュディはひとり、咲き乱れる花の中に立ち尽くしている。 一方、カトレイシアもひとり孤立していた。 どこまでも続く花畑を駆け抜ける風が、そのドレスの裾を翻す。 日差し、花の香、草の先が触れる足の感触。 「カトレイシア」 誰かの声に振り返るけど、そこには誰もいない。視線を落とすとそこに一羽のココピリカがいるのを見留める。 「ここには長く留まれないよ」 ココピリカが話しかけてくる。 「これは……幻覚……?」 「パドルが私をここに送ってくれたんだ」 「あの少年が?」 ココピリカは身体をふるふると振るわせる。 「もうすぐ貴族院のビルは陥落する。あなたがここにいられる時間は長くない。安全な場所まで案内してあげる」 一方、ラダレス。 ラダレスは捕縛され、地下の牢獄に倒れ伏していた。 白い霧はその牢獄をも真白に染め上げ、やがて、花で覆い尽くす。 鳥の声にラダレスは目覚める。 草の上に手を付き、起き上がり、その手の感触に気がつく。 両手を胸の前にかざすと、それは人間の手をしている。 ふと二の腕に視線を移す。服の襟を引いて、足を、靴を確かめ、両手で顔を触る。 研究室にいた頃の向井裕貴の姿だ。 喉には冷たい空気が流れている。改めて深く息を吸う。もう何年も忘れていた呼吸、空気の味。 「俺……そうだ……人間だったんだ……」 はっとして。 「先生を探さないと!」 一方、江藤茉里奈。 一人立ち尽くす花畑の中、誰かの呼び声を聞いた気がして、 「向井くん?」 振り向くとそこに、向井裕貴の姿があった。 江藤先生は研究室にいたときの赤い半纏姿、あの時の歳。笑みがこぼれる。 「先生……!」 「来てくれたんだね!」 「ずっと探してました、先生!」 「どうやって来たの? ここって木星でしょう? 私みたいに魔術師に召喚されたの?」 「いえ、先生はそうだったんですか? 僕はあのあと何度もセッションを繰り返して……そうしたらロボットを見つけて、そのロボットに意識パターンをコピーしたんです。先生が作ったんですよね? ロボット三原則に忠実で……これはきっと先生が作ったんだって……」 「えっ? じゃあ、あなた、本物じゃなくて――」 「ごめんなさい! 僕、ただのロボットなんです! 本体は地球に置いてきちゃいました!」 「そっか」 ほんの少し言葉は途切れる。 「でも、それも向井くんらしいか」 「そんなんでいいっすか、先生!」 「心は向井くんなんでしょう? じゅーぶんだよ、それで」先生はポロポロと涙をこぼし始める。 「体ごと来いなんて、そこまでは言わないわよ」 声を上げて泣いていないのがおかしいくらいの泣き顔。 「帰りましょう、先生、地球へ」 裕貴は先生の手を取ろうと手を伸ばすが―― 「無理でしょうそれ」 江藤先生は視線を下げる。 「先生もいろいろ聞いたんだから。レゾナンスってのが違うんでしょう? それに地球だって、一度は滅んだって――」 「みたいですね」 「ごめんね、私のせいで」 「なに言ってんすか! 悪いの僕じゃないっすか!」 「木星の人を助けようと思って、いろいろやったんだけど、全部裏目に出ちゃって――」 地鳴りと地響きを伴う大きな振動、鳥たちは怯え、遠くに雷鳴が聞こえる。 「行きましょう、先生! ここから出ないと!」 大地が揺れる。 「行くってどこへ?」 空からはぱらぱらと、モルタルの礫が火山岩となり降り注ぐ。 裕貴は先生に手を伸ばす。 「六年一組の教室へ……」 先生は涙をいっぱいに浮かべ、口元を震わせる。
「うん」 僕が手を伸ばすと、先生ははにかんだような笑顔を見せてその手を取った。 先生の手は柔らかかった。 「ところで向井くん、出口はわかるの?」 わからない。 わからないけど、この手を離したくない、この瓦礫の雨から逃げて、ほんの一秒でも長く僕のそばにいてくれたら、それだけでほんの一ミリでも地球の近くへ行くことができる。できると信じて。 「僕にまかせてください!」 駆け出す足元の花は舞い上がり、土の香り、草の匂いを振りまいて、背後から吹き寄せる風はいくらでも、いくらでも不安を連れてくるけど、僕がその手に握っている「希望」を誰にも奪わせたりはしない。 空は瓦礫の雨を降らせる。 花で覆われた世界に亀裂が入る。 瓦礫は幾度も僕を打ち据える。 それでも。 「先生! こっち!」 落ちてくる空に、先生を奪わせない。 割れる大地に、先生を奪わせない。 「そこまでしないで! 私なんかのために! そこまでしなくていいから!」 「先生を助けるために来たんです」 運動会の、万国旗の後ろの青い空。 自転車で走った川原の土の匂い。 本当の僕はたぶんそこにいる。 そこで先生を待っている。 「向井くん!」 瓦礫は僕の腕を奪う。 腹を打ち据え、頭蓋を砕く。 「向井くん!」 扉が見えた。 僕は装甲を失い、脚部を失い、気がつくとみすぼらしいブリキ缶に戻っている。 だけど先生、先生は走って下さい。あの扉の向こうに、地球があります。 地球で待ってます、先生。 だから走って! 先生! 走って!
カトレイシアがふと顔をあげると、そこは貴族院の屋上だった。 なぜそこにいるのかはわからない。 すぐそばで齢六十を超える女が一人、ボロボロになったブリキ缶を抱いて大声で泣いていた。向井くん、向井くん、向井くんと、何度も呼びかけて大粒の涙をボロボロと零している。 バレッタ、ジュディ、遅れてパドルも駆けつける。 「何だったんだ、今のは」 と、小声でジュディ。 「わかんない。そういう魔法が使える気がして……」と、パドル カトレイシアは泣いている老女に寄り添って、優しく抱きとめている。 ほっと一安心したところだったが、ジュディたちを黒く巨大な影が覆う。 見上げると連邦の戦艦十隻が上空に待機していた。 「やばっ」っと、ジュディ。 カトレイシアも戦艦を見上げ、ダルシーネイラに魔力をチャージ、砲撃モードへと変更するが、輝きは淡い。カトレイシアの表情には悲壮だけ。 「ここまで来たのに……」 と、バレッタ。 十隻の戦艦は円陣を組んでカトレイシアたちを取り囲み、主砲を向ける。 これでお終いか――と、肩を落としたときだった。戦艦は回頭し、その照準を変える。 「どうしたんだろう」 バレッタが空を見上げる。次の瞬間、一隻の戦艦が雲間より放たれる同時多数の砲撃を受けて大破。 続けざまに雲の中より二隻目の戦艦にも砲撃が浴びせられ、それらの砲撃の余波で雲が晴れ、その中からノラの魔法艦隊が姿を表す。 「あれって……?」 「ノラで助けた連中だ。きっと」 「おお! あの時の!」 カトレイシアも事態を把握、ダルシーネイラの銃床を床に固定して戦艦の一隻を砲撃、先程の砲撃で中破していた戦艦はその攻撃で黒煙を噴き始め、やがて誘爆を引き起こし、撃沈していく。 パドルは上空を見渡し、一隻の戦艦を見繕い、屋上の端まで走っていってミスト魔法の霧を立ち上げ、 「エクスプロージョン!」 と、円筒状の爆発を発生させ、一隻を沈める。 更に地上より銃の乙女たちの攻撃が始まる。 連邦の戦艦に交戦の意志を感じ取れたのは最初だけだった。四隻目が沈んだところで戦意喪失、ばらばらと敗走を初める。地上はほぼ銃の乙女たちが制圧し、ボドルラベスタの持つ戦力を沈黙させていた。
第十章 新しい旅
三十を超える魔法艦隊だった。たまに同型艦がある他は、基本的には形も大きさもそれぞれで、すべての艦に多数の乗組員が搭乗していることが貴族院の屋上から見てもわかった。 そのうちの一隻が貴族院屋上に舷側を寄せる。接近と同時に折りたたみ式のタラップが伸び、それが貴族院の屋上に接続すると船も完全に制止する。 その操縦の手腕を見せた艦長らしき人物が艦橋から手を振っている。 「ドヤってんなぁ」 「ドヤってるよねぇ」 なんてことをジュディとバレッタがいつものように言ってると、タラップの向こう、舷側のハッチから、「乗船のお手伝いをします!」とひとりの乗員が降りてくる。 カトレイシアはずっと先生を支えている。 まずはこのふたりから船に乗り込み、パドル、ジュディ、バレッタと続く。 ラダレスは元のブリキ缶に戻って先生の手に抱かれているが、もう呼んでも反応しなかった。 中に入るとノラの難民の姿も見えたが、驚いたのはココピリカの数。船の中はそこはかとなく鳥臭い。水を向けると、 「聖なる鳥なんで、置いてはいけなくて」 「僕が集めてきたんだよ!」 「他の船にもいっぱい乗ってる!」 ここぞとばかりにみんな語りだした。 カトレイシアも慈しむような目でココピリカを見ている。そこに、 「カトレイシアさん!」 と呼びかけてくる声がある。 「ああ、あのときの!」 名前は聞いていないが、ノラに食料を置いてきた時、率先して仲間を集めてくれた者だとわかった。 「僕、クレイと言います。初めてじゃありませんが、改めてはじめまして」 たどたどしく、恐縮しながら頭を下げる。 「ありがとうございます。助けに来ていただいて」 カトレイシアは静かな口調で応じる。ただ、喜びでは覆い尽くせない何かをまだ胸の中にくすぶらせたままだった。 「いいえ、お礼を言うのはこちらの方です。それよりも、たぶんまだ追っ手が来ると思います。ここは離れた方が良いと思うんですが……」 「ええ、わかっています。私たちは――」と、続けて何か語ろうとしているカトレイシアを遮って、「俺達の船は別にあるから、そっちまで送ってくれよ!」と、ジュディ。 「任せてください!」 と、クレイと名乗った青年は、操舵席に座る女性に手で合図する。 「この艦、名前なんてゆーの?」と、バレッタが訊ねる。 「フォカロルです。他の艦のリストも後ほどご用意いたします! 全艦大陸間飛行、いいえ、宇宙飛行まで可能な優秀な船を選びました」 「ほう! なかなかの目利きじゃーん」 「ありがとうございます!」 「ちなみに私たちの船はエリゴスと申します。よろしければ覚えておいてください」 と、カトレイシアに言われ、「はっ!」と、敬礼するクレイ。その敬礼を崩さず、 「そ、それでですね、トライバル領総督、カトレイシア姫! 折り入ってお願いがあります!」と、続ける。 「ほう。どんな願いですか?」 「わが艦隊の、艦隊長になっていただきたく存じます!」 「艦隊長? 私がですか?」 「はい! 私たちの多くはノラ大陸を離れたのは初めてで、この先どこへ行って良いものやら、まったく見当がつきません! どうか私たちをお導きください!」 この申し出をほかの乗組員も固唾を呑んで見ている。 遠巻きに見ていたバレッタは「あー。なんか面倒くさそうな事になってきたよ」と、眉をしかめるが、表情はにこやかで、隣に立つジュディはバレッタと肩を組んでヒヒヒと笑う。 「その笑いの意味、ちょっとわかんない」 カトレイシアは少し考えた後、笑みを湛え、ゆっくり、しっかりと、 「わかりました。お受けいたします」 と応じ、しかしそれを言い終わらぬうちにもう館内からは歓声が上がる。 オペレーターはすぐにマイクを取り、 「カトレイシア姫に艦隊長就任の件、受けていただきました! 繰り返します! カトレイシア姫に艦隊長就任の件、受けていただきました!」 と全艦に発信する。 コクピットのメインモニターには次々と各艦の艦長が現れ、艦の名前、自分の名前ののち、感謝の辞を伝え、その背後の様子から、すべての船で歓声が上がっているのがわかる。 カトレイシアは顔を上げて全艦に伝える。 「すみやかに入植できる土地を探し、そこを第二の故郷としましょう!」 艦隊の乗組員たちすべての口に歓声が沸き起こる。 そこに、「待機中のエリゴス上空まで到達しました!」の、オペレーターの声。 フォカロルはエリゴスのとなりに着陸する。カトレイシアがフォカロルを降りると、銃の乙女たちが息を切らして現われる。クルーザーを追って走って付いてきたらしい。 「お嬢様ー、私たちのこと、お忘れになっておりませんかー!」 と愚痴る乙女たちに、 「ええい、この程度、訓練と思え、訓練と!」 とハッパをかけるエリザベッタ。 カトレイシア、ジュディ、バレッタとエリゴスへ乗り換えるなか、呆然と立ち尽くしている江藤先生をパドルが見つける。 「おばあさん! おばあさんもこっちに!」 パドルは先生の手を握り、エリゴスに連れてくる。 この他に、銃の乙女たち、エリザベッタ、壊れて動かなくなったラダレス、それとフレアベルに託されたココピリカを乗せてエリゴスは浮上する。 ただ、行く宛はなかった。 「トライバル領を取り戻さないと!」と、血気に逸るジュディに、 「ゆくゆくはそうしたいと思います」と、カトレイシアは返す。 「ゆくゆくは?」 「マティアス皇太子とは話をしないといけません。まずはそれが先決です。戦争という選択は自ら選ぶものではありません」 「たしかにね」 とりあえず故郷のトライバル領を目指してはいたが、そこでボーレイトの兵とやりあう気持ちは今はない。 「連邦はどうなると思う?」 ジュディがバレッタに問う。 「何も変わらないよ。江藤先生がいなくなったって、できちゃった法律は変わんないし、それを盾にしてまた好き勝手やるだけだよ」 そんなバレッタの言葉を聞いて先生は恐縮している。 「ごめんなさい。本当にごめんなさい」 「あっ! いいのいいの! そんなつもりで言ったわけじゃないから!」 そのとなりで、 「新しい法を作ろうぜ! ラタノールがこの宇宙の覇者になるような!」 何も考えずにはしゃぐジュディを、バレッタは肘で突く。 「なんてことを言うの、アホ」 先生はずっと顔を伏せ、それでもジュディたちの声は耳に入っている。 その様子を気にしながら、カトレイシアは先生の近くに立ち、みんなの方を振り返る。 「法律はよくわかりませんけど、私たちで同盟を作りませんか?」 ジュディたち全員に、通る声で切り出す。 「同盟?」 「連邦政府に変わる新しい同盟です。この星には七つの浮遊大陸と四つの月があります。それぞれにいろんな種族がいて、いろんな文化を持っていると聞いています。連邦の傘下に入って不幸なことになる種族も少なくないはずです。そういう者たちを守ってあげられませんか? 私たちで」 しばし、沈黙が訪れ、ジュディが口を開く。 「つまりそれは……この先も連邦軍とドンパチやるってことだね?」 「まあ、そうなるね」答えたのはバレッタ。 「だったら大賛成」 艦内がざわつく。銃の乙女たちは顔を見合わせ、エリザベッタは静かに腕組みをしている。 カトレイシアは先生の方に振り返る。 「先生、この件は先生にも協力を」 「私……、私にできることなんか……」 「できます。私が先生に会ったのは、ほんのふた月前です。あの日の先生だったら、それができるはずです。もう先生を利用する悪い魔道士はいません。私たちの力で、先生がやろうとしてできなかったことを、やるんです」 カトレイシアは「悪い魔道士」と言ったが、実際には悪い魔道士ではなかった。戦争状態の諸大陸をひとつにまとめるべく、地球の法を参照するために呼び寄せたのだ。それはノリが言っていた嬴政――すなわち始皇帝が為したことと変わりはない。明確な成文法のない世界に初めての法をもたらす、今後千年はかかろう事業の一歩であり、その結果には成功も、失敗もない。 先生は戸惑って、「少し、考えさせてください」と、言葉を濁す。 「かまいません。その前にやることがありますから」と、カトレイシア。 「やること?」とバレッタが問い返す。 「地球へ行きます」 「はあ?」 「地球へ行けばきっと、ヒロキ、ノリにも会えるはずです。ヒロキは私を助けてくれると言いました。だったら私も、助けなければいけません」 「でも、生きているとは……」と、難色を示すジュディ。 「可能性はゼロですか?」 「ゼロじゃないけど……」 「では、見捨てるわけにはいきません」 「そう来るかー」 先生はおろおろと会話の成り行きを見守っている。 「でもそもそも無理な話だよ」と、ため息をつくバレッタ。「せめて地球文明がここと同じ第八レゾナンスにあれば良かったんだけど……」と肩を落とすと、そこにすかさず、 「行けるよ!」 と、パドル。 「うん、物理的にはね。でも地球文明とはレゾナンスが違うから――」と、あしらうバレッタに、パドルはキッとした目を向ける。 「そのレゾナンスを超える!」 「超えるって? どうやって?」 「ココピリカが導いてくれる」 「ちょっと意味わかんない」 「カトレイシア姫! お願いします!」 と、パドルはカトレイシアに向き直る。 「えっ? ちょっとお待ちなさい、あなた何を言ってるのですか? 私は何をお願いされたんですか?」 「ふんっ!」と、パドルはミストを展開、艦内は真っ白い霧に包まれる。 白い霧は隣の艦も、後ろの艦も、すべてを包んでいる。 「ちょ、ちょっと待って、何をする気? 二分待って! 二分!」 バレッタは通信機のマイクを取り、スイッチを跳ね上げる。 「全艦隊、レゾナンスジャンプに備えて!」 「レゾナンスジャンプ?」 「それって……?」 カトレイシアがマイクを奪って割り込む。 「艦隊長カトレイシア・トライバルより全艦に命令! 全艦、レゾナンスジャンプに備えよ!」 と、命令した後、バレッタの顔を覗き込んで、「レゾナンスジャンプとは何なのですか?」と、確認。 「わかんないけど、とにかく全艦甲板に出てる人を中に入れて、全ハッチをロック!」 「言えばいいのですね?」 頷くバレッタ。スイッチを操作、艦内にアラートが鳴り響く。 「全艦、甲板に出ている者は船の中へ! 全ハッチをロックせよ! ただちに!」 他の艦でもアラートが鳴る。 パドルが叫ぶ。 「ハルシネーション!」 光に満ちた真っ白い空間の足元から無数の花が波紋のように咲き広がる。 それはやがて小さな部屋を越えて壁の向こうへとどこまでも連なるなだらかな丘の起伏を折り重ね描き、そこはやがて木立に覆われて、やがて鳥のさえずりと、やがて舞い重なる風の運ぶ花の香と、ほんの五秒の時も待たぬうちに視界のすべてを緑の野辺に覆い尽くす。 「これ……、あのときの……」 「幻覚……?」 カトレイシアがつぶやくと、後ろから声が聞こえる。 「幻覚は隣接したレゾナンスの現実だよ」 振り返るとそこにフレアベルの姿を見つける。 「フレアベル!」といち早く声をかけるパドル。 フレアベルはその声に、「久しぶりだねパドル」と微笑む。 「フレアベル、あ、あのね、僕ね、僕……」 うまく言葉が見つからない。 「わかってる、地球に行くんでしょう?」 「そう!」 「地球はもうひとつとなりのレゾナンス。もう一度ジャンプすれば行けるよ」 「ええっ……まだ続くの……?」 「大丈夫。心配しないで。ガイドが来てる」 「ガイド?」 「目を閉じてみて」 パドルが目を閉じると、自分たちを乗せた船は光だった。 その向こうには果てしない星々の海が広がる。 そこには光輝く騎士の姿、光を放ち透き通った精霊の姿が見える。 長い尾を引く精霊たちは、舞うように船のまわりを飛び回り、光は光に触れて新しい光となり、そこに音が生まれ、互いに響き合って音楽が生まれる。 「天王星第七レゾナンス、金星第五レゾナンス、太陽第十六レゾナンスから、星間を守る騎士たちと、精霊と、至高の霊たちが来て、この船団を見守っているわ。はじめてレゾナンスを超えて旅する私たちを祝福して」 誰もがその姿に見とれた。 中でも江藤先生は、特に心を奪われているようだった。 パドルは意を決し、 「じゃあ、もう一段、行くよ?」 「おう!」と、ジュディ。 「なんだかよくわかんないけど、やっちゃって!」と、バレッタ。 「おまかせいたしますわ、パドル・ファスール」と、カトレイシア。 ココピリカたちは精霊となって歌い始める。光を振りまきながら、すべての乗組員ひとりひとりを導くように寄り添っている。 「ハルシネーション!」 パドルの発声とともに、そこにあるものすべて、人も、精霊も、宇宙船も、外に見えていた宇宙までも、光になって消えていった。 恒星を飛び出した光の粒のように、何もない宇宙空間を、前に、前にと進んでいく。 死の静寂の中を、生の喜びが音もなく飛翔する。 この世界に生まれ落ちた時のはじめて空気を口に含んだ時の喜びが、幾重にも、幾重にも、幾重にも蘇る。 命を得た日のこと。宇宙が与えてくれる本当の経験の中を、光は駆けた。 生のすべての瞬間は誕生だった。 そこから切り離されたことは一度たりとなかった。 やがて赤茶けた星が見えて、そこら中に広がっていた光がまた集まって、そこに三十の船団が姿を表す。 「地球だ」 「地球……これが……?」 一面の死んだ大地。 海もほとんど蒸発し、かつての海溝部にだけ青い水をたたえ、周囲一面は塩の荒野。 地上だったはずのところには、ところどころ建物のあとが見えるが、その大部分は薄っすらと砂に覆われ、かつて動いていたであろう、車、電車など、すべて完全に停止している。 「大気はちゃんとあるみたい」 「メッセージを送ってみるかい?」 「メッセージ?」 「ああ、そうだ、ノラの集落に降りた時みたいに、音楽はどうかな?」 「先生!」 「江藤先生!」 「彼らに何か、心に響く音楽を!」
第十一章 卒業文集の続き
部屋に通されると、目の前にあったのはあの日の教室にあったオルガンだった。 合唱コンクールの練習で何度も弾いたオルガン。 これを見たらもう、胸の中に浮かんだ曲は、その曲しかなかった。 ――はーい、それじゃあ、最初からあわせまーす―― 卒業式の日、クラスに戻って、みんなのリクエストで小学生最後の思い出にと弾いた、季節外れの曲。 向井くん。 生きてるのか死んでるのかわからないけど。 聞いて。 ――オルガンの音、ちゃんと聞くんだよ? 最初の音は「ソ」。 外さないようにね。 それじゃー、いくよー。 さん、はい。 卯の花の 匂う垣根に†
警報が鳴る。 男はベッドから身体を起こして、読みかけていた古い本を持ったまま部屋を出る。 研究室らしき薄暗い部屋のドアは自動で開こうとしたが、半分のところで止まる。舌打ちをしてドアの下のはしを蹴ると、思い出したように動き出し、部屋に入るとまた、たどたどしく、つかえながら、閉まる。 もうひとり別の男がモニターを見ている。 「このアラームは?」 「わからん。†
旗艦エリゴス、そのコクピット。 江藤先生は両手を胸の前に結び、その手を震わせながらモニターを見ている。 バレッタはヘッドホンを片耳に当て、しばらく端末を操作して 「カトレイシア、応答があったよ。向こうも音楽で答えてきた」 と振り返る。 ハッとする江藤先生。 「地球の音楽……とうとう来たんですね」 カトレイシアは感慨深くつぶやく。 「船内に流せますか、バレッタ」 「はいよ。ループの先頭から流すね」 江藤先生は結んでいた手を顔の前まで上げる。 スピーカー起動のポップノイズ―― さっき弾いたオルガンの曲がそのまま流れ始め、先生は少し戸惑った顔をするが、やがておもむろに、そこに男の歌声がかぶさる―― うーのはなーの におーお か き ね にー ほーととぎーす は や も き な き てー しーのーびーね もーらーす なつーはー きーぬー 「向井くん……」 先生の目から涙が溢れ出して、止まらなくなる。 「どういうこと?」 「生きているの! 向井くんが、生きているの!」 「わかるのか?」と、ジュディ。 「冒険した甲斐がありましたね」と、カトレイシアは先生のそばに寄り添う。 先生もまた、涙声で歌声を重ね、ふたりの歌声がオクターブユニゾンを奏でる。 さーみだれーの そ そ ぐ や ま だ にー しーずのめーが も す そ ぬ ら し てー たーまーなーえ うーうーるー なつーはーきーぬー たーちばなーの か お る の き ば のー まーどちかーく ほ た る と び か いー おーこーたーり いさむーるー なつーはーきーぬー おーうちちーる か わ べ の や ど のー かーどとおーく く い な こ え し てー ゆーうーづーき すーずしきー なつーはーきーぬー さーつきやーみ ほ た る と び か いー くーいななーき う の は な さ き てー さーなーえー うえーえわたすー なつーはーきーぬー 「パドルのおかげだな」とバレッタはパドルにサムズアップを送る。 パドルはドヤ顔でコクコクと首を振る。 カトレイシアがマイクを取る。 「これより、地球に着艦する! 着艦完了まで、友好の証として江藤先生演奏によるこの曲を奏でる!」 カトレイシアは言い終えると、 「先生、もう一度シンセサイザールームへ」 「はいっ!」 江藤先生は涙をふいて、シンセサイザールーム、先程のオルガンの部屋に駆け戻る。 「全艦隊、音声出力用意!」 ジュディが声を上げる。 「全艦隊、音声出力用意!」 バレッタが繰り返すと、その手元のスピーカーがまたそれを繰り返す。艦隊のそれぞれの船から、同じ言葉が次々に返ってくる。モニターに示された三十の船のアイコンが次々と緑色に光りだす。 「全艦隊、データソースを旗艦に同期!」 「データソースを旗艦に同期、完了!」 「データソースを旗艦に同期、完了!」 「行くぜお前らぁーーーーっ! 三銃姫さまの上陸だぁーーーーっ! ミュージックーーーーッ! スタートォォォォォォォッ!」 西暦二〇四七年、夏。 宇宙から飛来した三十隻のクルーザーが、一斉に夏は来ぬを奏でる。