書きたいもの、書きたくないもの
「書きたいもの」と「書きたくないもの」があります。
仕事の場合は割り切らねばならないのですが、「どうしてこれは書くのに、こっちは書きたくないのか」について、書き記しておくことにしました。
その1 外見でキャラクターを表現したくない
「恋愛志向の人を性的に描く」
「貧乏な人には貧乏そうな服を着せる」
――ということをしたくありません。
現実がそうであったとしても、です。
他の例では「賢い子はメガネを掛ける」「乱暴者はガタイが大きい」なども、基本的には避けています。またこれと裏返しの、「体は大きいが臆病」や「パッとしないのにモテる」なども、基本的には書きません。よって、初登場時にキャラクターの外見について描写していない作品が多数あります。
小説に限らず漫画でもアニメでも、冒頭でキャラクターの外見を描写するのは定番で、避ける作品は多くないと思います。ゲームに至っては、「キャラクターの外見によって記号化する」というのがセオリーですが、外見と性格には一切の関連があってはならないと思っています。
『憧れの竹下さんに捧げる冒険』『憧れの秋山さんに捧げる冒険』では、キャラクターの外見をほぼ描写していません。『勇!! なるかな』でも、ヒロインに当たる人が2名登場するのですが、外見の描写は服装のみにとどめています。「この外見だから(この外見なのに)、この結末になった」と書きたくないからです。
その2 性別で役割を書き分けたくない
性別が物語上の意味を持たない場面で、性別による差を書いていません。
小説では、男は名字、女は下の名前でかき分けるセオリーがあるのですが、それも避けています。仕事で書いたものは校閲の指定でやむなくそうしましたが、『アニメーターの老後』や『うみねこまりな』では基本的にフルネームで書いています。そのぶん読んでいて情景を思い描き難くはなるのですが、男女で情景が変わるわけでもないものを、あえて書き分けたくないと思っています。「彼」「彼女」とすら言いたくないというのが本音ですが、「彼」で統一するとどうしても男で思い描いてしまうため、作品によっては許容しています。
これが最も端的に現れたのが『ボクたちが邪馬台国を探したときの話』『ボクがヒミコだったころの話』の2作で、主人公たち3人とそれに親しい1名の性別を書いておらず、どちらでも読めるようになっています。
性別を書くのであれば、必然それは脱構築されるべきだと考えています。ボーヴォワールの指摘にある通り性別は環境から与えられるものであり、たとえば「主人公の母」であっても、その物理的・精神的な役割は社会を内面化したもので、そこに描くべきは個人ではなく社会であると考えています。
その3 人種によって役割を負わせたくない
ほとんどの漫画やゲームで、黒人の役割は肉体派の強キャラ(ただしナンバー1ではない)と固定されています。日本人をモデルにしたキャラを主人公として描く以上、黒人が脇役になるのは仕方がないことですが、全体を見渡したときに「黒人は脇役」というメッセージが現れます。書きたくないものが結果として作品に現れるのは嫌です。
たとえば天使を思い浮かべて下さい。白人で思い浮かぶと思います。「それが伝統だ」と言う人もいるかもれませんが、キリスト教はもともと中東の発祥です。それを簒奪して、自分たちの伝統にしたんです。
近頃は「多様性」に配慮していろんな人種を作品に登場させることがひとつのセオリーとなっていますが、ほとんどの作品でステレオタイプに基づいた役割が与えられています。黒人=肉体が強い、ラテン=陽気、アジア人=計算高いなどがざらにあります。これらは「多様性」を出汁にした差別の再生産でしかありません。試しに、サイコロを転がしてランダムに人種と性格を決めればわかると思います。書き手はその結果を受け入れないはずです。その「なぜ受け入れないか」が、その作家が持つ差別性です。物語はそれを解体すべきです。それが物語の本来の使命だと考えています。
もちろん、そういった表現を通して描くべきテーマがあるならば別です。しかし、物語のギミックに含まれないのであれば、それらはランダムであるべきです。そして愚かなことに、そう主張すると、「描くべきテーマ探し」を始める人がいます。それは「◯◯人を奴隷として描きたいので、そのエクスキューズとなるエピソードを探す」という差別行為そのものです。プロデューサーはこの差別行為をライターに実行させます。ライターはそれが評価され、金になり、善事と思い違うことがあります。結果として表現されたものだけを見れば、「テーマに沿った役割を持った物語」ですが、その制作は差別行為そのものです。
その4 不用意な因果関係を描きたくない
「◯◯したからこうなった」というようなこと、たとえば、「勉強したから試験に合格した」というような話を描きたくありません。物語全体を通した話だけでなく、「美しいから人に好かれる」や「正しいことをしたから救われた」なども含みます。
「物語」は作家の意図とは関係なく「万人が手本にできるサンプルケース」として受け取られます。そこで、「努力すれば報われる」と教えるのが物語です。もちろん、確率的に考えれば嘘ではありません。「多くの場合、努力すれば、報われる確率は上がる」は事実です。
物語の多くは三幕構成を取るのですが、これはヘーゲル弁証法の定立(テーゼ)、反定立(アンチテーゼ)、総合(ジンテーゼ)と対比しうる経緯を通ります。つまり第一幕で主要な問題が提起され、第二幕でそれと対立する問題が立ちふさがり、第三幕は双方の問題を昇華し解決します。これがほとんどの物語に共通する黄金律です。例えば、王国の騎士がドラゴンを討伐する場合、このドラゴンは王国の歴史や社会のアンチテーゼとして存在し、その問題を解くことでドラゴンの討伐が可能になるのです。これはストーリーを書く際に必ず通る道です。それで書けるようになってようやく一人前だと言っても過言ではないでしょう。
別の例では、少年野球の物語で、「個人技に優れる」敵が立ちふさがったとしたら、それは主人公チームの持つ「チームワーク」へのアンチテーゼなのです。チームワークだけでは太刀打ちできないが、個人技では叶わない、ならばどうするか――というところを探り、克服し、勝利≒ジンテーゼに至るのです。IT用語を使って言えば、「物語は弁証法クラスのインスタンスである」と考える事ができます。
物語は、大半の読者には有益なのです。「努力すれば報われる」と教えれば、多くの人が努力し、確率的に報われる者も輩出されるでしょう。しかし、物語の構造がこれに偏っているために、そこには「物語(弁証法)で解けない問題はない」というメッセージが生じてしまっています。「物語」は、「例外」を透明化させるのです。
例えば、「生活保護を受けられない困窮者がいる」場合に、「こうやって助けることができた」という物語を描くことができます。多くの人がその方法で救われるでしょう。しかし、もっと重要なのは、「それでも助けることのできない人たち」です。このようなケースでは、「みんな幸せになりました」と、感動的に幕を閉じてはいけないのです。物語よりも、物語の例外、物語では解決できない部分こそが重要だと伝えるべきです。
なので、安易に「こうして解決しました」とは描きたくないのです。しかし、このあとで述べる「自然主義・写実主義から逃れたい」にも書きますが、「解決しないのが現実である」とも書きたくありません。この、「自然主義で書きたいけど、理想主義に帰着したい」という悩みは、潜在的に多くの作家が持っているようで、「異世界に行って抽象的な敵を倒して現実に戻って来る」という物語の流行は、これによるものだと思っています。
弊レーベルの場合は、異世界に行って解決したフリをしたくもないので(度々そうしているのも事実ですが)、物語の解決には常に頭を悩ませています。
ちなみに、ゲームでは「努力した(レベルを上げた)からボスを倒せた」という構造がありますが、そこをどう捉えるかは今後の課題だと考えています。
その5 キャラを立てたくない
これは前節の「因果関係を描きたくない」と関連しているのですが、「こんなキャラだからこうなった」と書きたくないのです。
たとえば物語の冒頭で、「おてんば姫の冒険」と題した場合、読者はおてんば故の失敗や、最終的におてんばがどう矯正されたか、あるいはどう許容されたかという展開を期待します。この場合は、おてんば姫がどんなことをしでかすかを冒頭で印象付けるためにキャラを盛るのがセオリーです。書き手の側からしたら「おてんば姫」と書いた段階で、その懲罰を描きますという宣言に等しく、物語を書く動機そのものに疑問を感じます。
ゲームでも漫画でも「キャラを立てよう」という話が出るたびにうんざりしていますが、僕の作風を知っている人には奇異に聞こえるかもしれません。僕の書くキャラクターは概ね立っていると評されているように思います。
とあるゲームの制作で、こう言われたことがあります。
「中国人の料理人は、ナマズ髭でアイヤ~ハ~とか言いながら口から火ぃ吹いて中華鍋を振るキャラにしてください」
このようなキャラの立て方には大反対です。いまだったらその場でプロジェクトを降ります。僕がそもそも「キャラを立てるべきではない」と言い出したきっかけがこれです。キャラ立て全般というよりは、わかりやすく戯画化することに反対です。この戯画化にはナマズ髭の中国人だけではなく、「一本気な剣道少年」なども含みます。現実の人物の取り柄や欠点を抽象化して描くのが嫌です。
キャラを立てることで、象徴的な意味が生まれることを懸念しています。
たとえば、「推しの聖地巡礼に五体投地で向かう」というエピソードは(ギリギリで)OKです。しかし、「推しの聖地巡礼を五体投地で行うキャラ」はNGです。単発のエピソードであれば、話の内容でどうにでも書けるのですが、キャラにしてしまうと、そのキャラがチベット仏教を象徴してしまいます。書いた本人は、意図してチベット仏教を戯画化したわけではないでしょうが、無意識の差別が顕在化したものだと思います。
ゲームではよく見られますが、田舎者の記号として東北弁を使うことにも大反対です。
では、逆に何ならばOKかというと、
・ニュートラルとトップしか使ったことがない究極の走り屋
・ラッコの剣士
・カッパの像を部長と仰ぎ、たまにカッパに憑依されて喋るオカルト部員
・ウンコから魔法で作り出された姫
などは作品に登場させたので、ダメとは言えません。
要はステレオタイプに基づくキャラ立てが嫌なのです。たとえば「オタク」のキャラを描く場合「フィギュアを集めて、現実とアニメを混同して、陰キャでモテない」としたら、ただの悪口でしかありません。それよりも、「ミカンやマヨネーズなど、なんにでも顔を描く」などにしたほうがぜんせん良いです。しかし、前者のような、「一般大衆が共有する差別意識の顕在化」をキャラ立てだと考える人が少なくありません。「フィギュアを愛でる陰キャオタク」は誰もが共有したイメージで、それが「わかりやすい」とされるからです。繰り返しになりますが、そのようなキャラ立てには反対です。
その6 大衆が共感するための物語を書きたくない
一般的にどんなメディア、どんなジャンルでも「大衆が共感できるものこそ至高」という考え方があります。それによってその商品は多く売れ、制作費が回収され、書き手の食い扶持になるので、致し方ない話ではあります。しかし、そちらは商業作品に任せて、自分で書くものに関しては共感性などに囚われずに書きたいと思っています。
よく例に出すのは遠足の話です。「学生時代にみんなで遠足に行って楽しかった」という遠足あるあるのような話は確かにマスに受けるのですが、本来書くべきは遠足に行けなかった子の物語だと思います。ただし、物語にしてしまえば、大衆がそれを読んで感動を消費して終わるだけのものになり、遠足に行けなかった子には永遠に届くことがありません。
共感が求められるのは、エピソードよりもキャラクターに顕著です。漫画でも小説でも「万人が共感できる主人公」は大前提として求められるし、共感できなかったら読むのも辛いし、買ってももらえないと思います。そうなるとまた食い扶持を失うので致し方なしとも言えるのですが、そうやって誰かを踏みつけなければ食っていけないとしたら、物語など書かなきゃ良いのです。
また、ゲームで顕著なのですが、敵がとても論理的で誰にでも理解できる理屈をこねる点に不自然さを感じています。昨今の選挙戦やネットの炎上事案などを見る限り、理屈の通ったことを言う人は極めて稀です。あるいは悪党が己の行為に対してあれこれ理屈をこねて、主人公側が丁寧に応戦するのも状態化していますが、たとえば100万人を殺した悪党ならば、どんな理屈をこねようが聞くべきではないのです。どんな理屈があるかは問題ではなく、100万人を殺したことが問題なのです。100万人殺していなくとも、たとえば村を襲撃したのであれば、問題は村を襲撃し、どんな被害が出たか、です。
「敵側の理屈」を明確にするのはゲームでは必須の要素ですが、それも大衆が「現実で出会う理不尽な問題を理解して溜飲を下げたい」という欲求に応えたもので、その思考停止を手助けしているのです。物語というのは、思考停止を促すためのものでしょうか。逆に、思考を促すべきものではないでしょうか。物語を読んで、「なぜ敵が侵略してきたかわからない」という評価がなされるとしたら、それで正しいのです。そんなものを理解する必要もないし、簡単に理解した気になってはならないのです。
その7 自然主義・写実主義から逃れたい
自然主義・写実主義からの逃走は、「ニヒリズムからの脱却」と、「自然主義的表現からの脱却」の、ふたつの意味があります。
まず最初に、ニヒリズムからの脱却について。
自然主義と理想主義とでは書ける内容が異なります。理想主義の作品には教訓や主張が含まれているものとして受け取られますが、他方、自然主義・写実主義はそこにあるものをありのままに描写したのだから、教訓も主張も含まないと強弁することができます。たとえば、お盆の法事に集まった親戚一同が、女は家事仕事をして、男はテレビを見ている、という描写があったとしたら、理想主義的な物語ではそこに良し悪しの価値判断を含み、とくに断りもなければ良いものとして提示されます。自然主義・写実主義の場合は価値判断はなく、客観的に描写したのみです。
とは言え、作家が現実の酷い有様を描いても、それが作品として評価されたら、それをモデルケースとして受け取る人は少なくありません。例えばドラッグを扱った作品で、作者が「現実を切り取った」と言ったところで、それがクールな作品と評価されたら、ドラッグまでもクールに受け取られます。作家が自然主義だろうが、作品は理想として独り歩きするのです。
これは学校の国語教育にも原因があると思います。私達は、まず幼い頃に、「物語には教訓がある」と教えられ、次に「物語にはテーマ、訴えたいことがある」と教えられます。教わるのは飽くまでも「解釈」の方法です。「作品を批判する」ということを高校までの国語教育では学びません。最も重要なことを多くの人が学ばないのです。
昨今のアニメや漫画作品は自然主義的な描写をベースにするものが多いと思います。高年齢向けで、社会の構造を描こうとすれば、必然そうなるのだと思います。そして行き着くのがニヒリズムです。戦争ものや、社会問題系は、真面目に書けば書くほど主人公は何もできずに終わる虚無的な結末を迎えます。そうでなければ、属人的にそれを解決した古い理想主義となり、それはそれでナンセンスです。
余談となりますが、ニヒリズムという言葉には、それを超越した「超人」が写像として含まれています。それを前提とするなら、人間の無力さを喝破してみせるのも作品の醍醐味ではあります。
出口のないニヒリズムに陥らず、かつ、属人的な英雄譚(理想主義)にもせず、デウス・エクス・マキナ(神様的な力で解決)でもなく、異世界に行って何かした気持ちになるでもなく解決したいというのが弊レーベルの理想ですが、いまのところ異世界優勢、次点デウス・エクス・マキナになっています。
次に表現の問題についてです。
残酷な場面や救われないお話を書くことがありますが、それを「自然主義だから」という口実で肯定的に描くことに反対します。作家はどんな内容の作品であっても自然主義かそれ以外かの表現手段を選ぶことができます。どの表現手段を選ぶかは、作家自らが決めたことで、それに対して「自然主義だからこの表現で良い」という弁解は通用しません。
たとえば時代性を踏まえたうえで「この時代の女性は、男性のあとを静々とついて歩くのが普通だった」として、古き日本の様子を書いたとします。そこには価値判断はなく、歴史上の事実が擬えてあるだけです。しかし、作品として書いて、こともあろうか感動的なラストシーンで結ぼうものなら、読者は「古き日本」を肯定的に受け入れます。作者は「これは私の価値観ではありません」と言うでしょうが、それは「殺すつもりはなかったのに、死んでた」と言うのと同じです。「良い物語を書いた」のも事実ではあるのでしょうが、「害悪を振り撒いた」のも事実です。
弊社作品で言えば、『勇!! なるかな』の主人公は家の手伝いもするし、祖父母の面倒もよく見るとてもできた少年で、「そんなやつぁいねぇよ」と言われるかもしれません。場合によっては、登場人物が理想化されていると捕らえられるかもしれませんが、これを読んだ者に「それがあたりまえだ」と伝えたいのです。5年後、10年後に読んだときには誰も違和感を持たない世界になっていると信じています。
結び
長々と書きましたが、仕事で書くものは「以上の理由で、絶対に書けません」というわけでもありません。物語によって伝えられるプラスの部分もありますので、そこは天秤にかけることになると思います。
概ね50代以上の人は「指輪物語の指輪が何を象徴しているか」「ゲド戦記の影は何を表しているか」などの議論を経験していると思います。年寄りはみな象徴主義なのです。象徴主義の人に言わせれば、「世の中の作品すべてが象徴主義で読み解ける」と言いますが、これを「意図して書く」のと、「意図せずに書く」のは違うと思います。
たとえば、「神話に出てくる物事や人物が何を象徴しているかを読み解く象徴主義」と、「桃太郎と鬼に世相を映して書く象徴主義」は別のもので、「すべての作品は象徴主義で読み解ける」というのは前者で、書き手自らが「私は象徴主義です」という場合は後者であろうと思います。つまり、「すべての作品は象徴主義である」は「作品はすべて象徴主義で書かなければならない」ではないのです。もちろん、弊レーベルにしても、すべてを象徴主義として書いているつもりはないのですが、一方で、象徴主義で読み解けてしまいます。なので、その点には留意しているつもりです。
簡単に弊レーベルの執筆方針をまとめますと、
自由に読むことができる。だけど、間違った解釈を成立させない。
ということでしょうか。
普通に読んでると気にならないだろうし、「キャラ立ってんなー」という感想まで持たれるかもしれませんが、「だからと言ってナマズ髭の中国料理人を書くと思ったら大間違いだぞ」という点だけでも覚えておいていただけたら幸いです。