うみねこまりな(5)傀儡の再生

第五章 傀儡の再生
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第五章 傀儡の再生

 父に連れられて至聖所に来たことがあった。まだ十二の頃、傍らにはヤギがいた。厚い雲に散乱した柔らかな太陽が風に揺れる。手入れされた下草は青々と茂り、ヤギの背中越しに鳥の声が響く。カトレイシアにはまだ名がなかった。  ヤギの背にもたれてまどろんで、ゆっくりと息を吸うと、木星の白い大気は、尾骶から大地へと根を張っていった。  このまま根を伝ってどこへでも行ける。  この大地の続くところ、どこにでも咲くことができる。  雲の流れを追いかけていると、やがて雨になった。白濁したアルカリのしずくは皮膚の上で熱に変わる。濡れた白い袖に肌を透かせて、雨が流れる。濡れそぼつ悲しげなヤギの声を聞きながら、カトレイシアは空を見ていた。  この雨で、ヤギが孕めばいい。  バレッタは牢獄で目を覚ました。床には踝までの濁った水があり、ベッドらしきものはなく、横たわった体の半分は水に浸っていた。傍らにはジュディが横たわる。明かりもない小さな部屋にふたり、水には異臭があり、記憶は朧だった。記憶の大半は頭に受けた銃弾が吹き飛ばしていた。新しい記憶は脳の新皮質とともに消え、古くから浸透した景色だけがぼんやりと残っていた。腕を見ると、銃撃で吹き飛ばされていた皮膚が斑に再生している。入江の衆は長年塗り込めた獣脂で皮膚に濃い褐色が沈着していたが、こうして継ぎ接ぎに再生された白い肌は弱々しく見えた。濃い色の肌を延ばすように擦ると、皮膚の奥に痛みがあった。  あれから何日経ったかはわからなかったが、無意識のうちに垂れたであろう排泄物が服を汚し、それが水に染み出していた。ひとり目を覚ましたバレッタは服を脱ぎ、汚れた水で洗い、体を拭いて、ジュディの体を同様に洗いでいると、その鼻先にうめき声が聞こえた。 「虚ろ。大丈夫?」  声をかけてみるが、ジュディは柔らかな寝言を言って、またふにゃふにゃと眠りについた。  ジュディの服を脱がせ、ふたりの服で牢屋の隅に小さな堰を作ってその角に座った。ジュディの体も寄せたが、やっと作った干潟は小さく、ジュディの足元は堰の外に出た。むしろジュディの背中から足先までが、服よりも巧く堰の機能を果たした。  それから数日するうちにジュディも目覚め、その頃には獣脂の染みていた肌も角質化してポロポロと崩れ、やがて全身が白い肌に置き換わっていった。褐色の皮膚が崩れるのは不安があった。それでも痒みに耐えきれず、気がつけば掻き崩していた。痒みとともに肌が落ちると、皮膚の奥にあった痛みは消え、やわらかな皮膚と熱だけが残った。  食事は与えられなかった。それでも不思議と飢えることがなく、やがてふたりは足元の水が培養液のようなものだと気がついた。海羚国には古来の魔法が伝わっている。これもまたそのひとつかもしれない。  ジュディとバレッタは牢屋の隅で身を寄せて、おそらく三ヶ月ほどの月日が流れた。  カトレイシアのもとに戻った王家のヤギは、仔ヤギを身籠っていた。 「ジュディ・クラムラン」  獄吏のその声を聞いてジュディは、幼い頃に傍にあった母の名だと思った。  あらためて、「虚ろの暗がり・迷い猫・ジュディ・クラムラン」と呼ばれてようやく自分の名だとわかった。細胞が修復され、その糸がつながり、記憶はずいぶんと戻ってはいたが、まだ《虚ろ》にとって「ジュディ」という名は棟梁の妻の名だった。  次に呼ばれるのは自分だと思っていたバレッタも、「バレッタ・アッシュコート・クラムラン」の声に戸惑った。獄吏は呆れたように息を吐いて、また同じように「古雨に濡れた枯葉・バレッタ・アッシュコート・クラムラン」と呼び直した。  牢を出ると湿った廊下があり、天井近くに空いた窓からは光が溢れ、波の音が聞こえる。ジュディとバレッタは素肌の上に手渡された布を掛けて歩いた。滴る水に濡れた壁、床板は湿り、足を置くと軋みをあげて沈む。海羚の灯りには獣脂の匂いもない。覚束ない足取りで階段を上ると、窓の向こうに青水江の町並みがあり、そこには町の守り神、《スポロカ》の姿があった。 《スポロカ》の体高はラタノールたちの背丈の十倍を超えた。茶褐色の甲殻を持つ巨像。バレッタはこの姿を、墨壺の入江の崖から遠くに見ていたことを思い出した。胸に港町への憧れが蘇る。肩に掛けられた布は柔らかく、持ち上げて唇につけてみた。幽閉され、どこにも逃げ出すことのできないなか、その感触は安らぎを与えた。 「オレたち、どこへ連れて行かれるんだ?」  腰綱を握った獄吏にジュディが尋ねると、男の口からは静かな答えが返ってきた。 「簡易法廷で、カトレイシア様の裁定を仰ぐ」  要は裁判が開かれるらしいが、そういえば王家のヤギを追い回していたことをぼんやりと思い出した。ジュディは「ふーん」とその返事を受け流して、質問を重ねた。 「入江の連中はどうなった?」 「二十ほどの死者が出たと聞いているが、大半は無事だ」  廊下の突き当りの部屋に入り、カトレイシアが姿を現すまでの間もまだ、ジュディは質問を重ねた。 「棟梁はどうなった?」 「モートは無事だが、ここにはいない」 「どこにいるんだ?」 「俺達の関知することじゃない」 「カニジャ、マオド、ベルルス、ダルジュール……」 「ひとりひとりの名前を挙げられてもわからんが、側近の何人かはその場で射殺されたと聞いている」 「ふーん」  宗主国石霜の配下には二十を下らぬ自治領があった。  海羚のように古い領主がある土地ならば、自治権を与えられ、領主には伯爵の位が送られたが、明確な主を持たぬ土地、あるいは石霜傘下に入ることを拒んで主を討たれた土地には『公吏』が派遣され、直轄領となった。遠方にある場合には、王家の血縁のものが派遣され、『大公』に統べられる『大公領』となり、自治領よりも大きな権限を持った。  入江の集落《墨壺》の棟梁モートは、爵位では准爵にあたり、海羚の一地区の長として認められていた。ただその立場にあっても、王家のヤギを傷つけることは大罪にあたる。本来ならすぐに裁きを受けるはずだが、裁判が開かれることもなく、その身柄は東の自治領グドに預けられた。  カトレイシアが姿を表すと、バレッタは立ち上がり敬意を表したが、ジュディはただ座ってカトレイシアの歩く姿を眺めていた。カトレイシアの後ろにはふたりの祈祷師がついていた。双子と思しきふたりは、体を揺らすことなく静かに歩いた。この裁判には、カトレイシアと祈祷師、獄吏のほかに有力者の立ち会いもない。非公式なものだった。  カトレイシアは審問官の席についた。 「ジュディ・クラムラン、バレッタ・アッシュコート・クラムラン、そなたたちに准騎士の称号があることを知らず、現地で処刑したことを謝罪する」  そう言うとカトレイシアは、深く頭を垂れてみせた。  ジュディとバレッタは、カトレイシアが頭を下げたことにも戸惑ったが、それよりも『准騎士』の言葉が胸に残った。 「准騎士?」  ――と、思わずその口に漏れると、カトレイシアが、「大騎士モート・クラムランより名を拝受したのだから、准騎士となる」と説明してみせるが、ふたりには貴族の階級の話はよくわからなかった。石霜の爵位が片田舎の海賊にまで適用されることにも違和を覚えた。  海賊の娘ふたりには、騎士という言葉はずいぶん綺羅びやかなものに聞こえた。ふたりが騎士を思い浮かべるときは城や衣装がともに浮かんだ。かたや自分たちは獣脂で燻した無骨な服を着て、粗末な小屋で海ヤギの皮を剥いで暮らしている。  バレッタがそれを言うとカトレイシアは「卑下するな」と制した。 「海賊も騎士団もやっていることは同じだ。今回のモートの愚行を除けば、墨壺の船団にはずいぶんと助けられている」  戸惑いながら「私も准騎士ですか?」と聞いたバレッタに、カトレイシアは「そうだ」と返した。そしてあらためて、椅子に背を預け、本題を切り出した。 「そなたたちにはいずれ、正式な裁きを受けてもらうことになる」  不意に聞こえた裁きという言葉が、海賊たちの舳先を変えた。その風を読むように―― 「裁きというのは?」  慎重にバレッタは訊き返した。 「大騎士モートが王家のヤギの耳を切り落としたことは調べがついている。その場でそなたらのどちらかが手を貸したはずだ」 「耳を……?」  ふたりの記憶はぼんやりとしていた。ジュディはなんとなく自分がやったのだろうと見当はついたが、バレッタは何かの間違いだと思い、重ねて訊き返した。 「どちらかというのは、私たちのうちのどちらかですか?」  答えるまでもない。カトレイシアはただバレッタを睨み返した。 「どちらが手を貸したかはっきりしたらどうなるんですか?」  同じ視線を向ければ、家臣たちなら口を閉ざした。だが目の前の海賊は礼儀を知らない。カトレイシアはこれ見よがしなため息を吐いた。 「手を貸した方は処刑だ」  風が凪ぐ。バレッタは息を飲んだ。そしてその息を細く喉に通した。 「じゃあ、なんで生き返らせてくれたんですか?」 「准騎士だからだ」  カトレイシアの幼い顔から、抑揚のない言葉が漏れる。 「じゃあ、なんで処刑に?」 「それは裁判が決めることだ」  バレッタの問は的を射なかった。ただ胸に浮かんだ恐怖や疑念に音をあてただけの無益な問答が続き、カトレイシアはそのすべてを切り捨てた。言葉尻を変えただけの問。やがてそれも尽きて、同じ問がまたバレッタの口に上ると、ジュディが割り込んだ。 「オレがやったんだよ、たぶん」  その様子は悪びれもせず、口元は微笑んでいるようにも見える。 「たぶん?」 「棟梁が罪人の首を刎ねるとき、だいたいはオレが傍にいた。枯葉は知らないだろうが、首を抑え込むのは慣れてる」  バレッタは俄には信じられなかった。だけどジュディが首を締める様子が目に浮かんだ。その腕がどう罪人の首を締めたかも知っている気がした。 「わかった。虚ろの暗がり・迷い猫・ジュディ・クラムラン」  カトレイシアは立ち上がった。 「そなたを騎士に叙する。話は以上だ。正式な裁きを待つがいい」  その言葉で、審問は唐突に終わった。  カトレイシアが祈祷師のふたりと部屋を出たあと、ジュディとバレッタの胸に『騎士に叙する』『正式な裁き』の2つが残った。これがふたりを混乱させた。どうして罪を犯したことを認めたのに叙勲されたのか。あるいは罪を認めたからこその叙勲なのか。騎士に取り立てた上で処刑するということなのか。あるいは騎士に取り立てることで処刑を回避してもらえたのか。  ふたりは首をひねってみるが、答えが見つかるわけもない。 「オレ、処刑になるのか?」  背後で腰綱を握る獄吏にジュディは聞いた。  獄吏もやや混乱していたようで、呼吸ひとつぶん首をひねり、答えた。 「いや、処刑は回避された。騎士であれば最悪でも島流しだ」  ほっと胸をなでおろしたのはバレッタだった。 「それに、娘のあんたらに言うことでもないが……」  と、厭らしく口を曲げて獄吏は続けた。 「おまえたちの棟梁のモートがグド領に引き取られて三ヶ月経った。このままグドで若い妻でもあてがわれて、子どもなんかできたら、入江は乗っ取られる。かと言って相手がグド領ワゼノ伯とあっては海羚は動けない。おまえたちに動いて、取り戻してほしいんだよ、おまえたちの棟梁を」  獄吏の言うとおりであれば、カトレイシアはモートを取り戻すつもりでいる。目的は入江の衆を救うためではなく、土地を守るために。だが、海羚が動くわけにもいかず、そのためにジュディを叙勲した。  バレッタは少し考えて、「やっと飲み込めた」と小さな声を漏らし、ジュディは「わかった。棟梁を取り戻せばいいんだな」と目を輝かせた。  だがジュディが、あるいはバレッタも含めて、いまの状況を把握できているかどうかは怪しかった。もうひとりの獄吏も隣で頭を捻っていたので、ここでの話が正しいかどうかまで含めて。  ヤギはすなわち、国力を表した。  ヤギを失った領主は、発言権まで失う。  今回の海羚の内乱を受けて、周辺諸領は海羚解体後の体制を模索しつつあった。  グド領主がモートを保護したのもそれを見越してのことで、先日、ヤギの種付けの日取りを反故にしていた海羚にはこの申し出を断ることができなかった。  グドには強い血統を持った王国のヤギが何頭もいた。  海羚にとっては八方塞がりの状況だったが、ジュディを騎士に取り立てたことで、入江の海賊たちが動けるようになった。名を持つ統率者があれば烏合の衆ではない。その血脈を掛けた戦いの代償を、その名で支払う者がいる。  棟梁モートは、雁巣砦かりのすとりでと呼ばれる城塞に囚われていた。雁巣は幾多の戦火からグド領を守ってきた城塞だったが、いまではグド領ワゼノ伯の別邸として小綺麗に整備されている。  雁巣砦の周囲には牧草地が広がる。石霜より預かったヤギもこの砦に作られた厩舎で飼育されている。万が一海賊が攻め込めば、ヤギも危険に晒される。  カトレイシアはなんとしても、このヤギが欲しかった。

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