第四章 峠のマシロイ一家
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第四章 峠のマシロイ一家
軍港にサイレンが響いた。 海羚領は南の海洋につきだした半島にあった。東西に二里、南北に三里ほどの半島の先に白壁の家が並ぶ港町があり、海峡を挟んだ海上に、東西半里ほどの城砦化した島があった。その城砦に海羚の心臓、トライバル家の屋敷がある。 海峡の東西に築かれた防波堤が内海を形成し、港町から城砦へは船で渡る。軍港はその島の足元にあった。 響き渡るサイレンが海峡を往く船を左右に分ける。埠頭へ、あるいは沿岸近くへと船体を寄せる大小様々の船から、軍港の海兵たちの姿が見えた。あわただしく軍艦に乗り込み艫綱を外すと、その船体はゆっくりと埠頭から離れる。灰色に凪いだ海に波紋が広がり、十五隻の海羚艦隊が次々と帆を上げる。商船には見られぬ独自の様式。戦争などどこか遠い国での出来事だと思っていた市民にとっては青天の霹靂だった。軍事演習か、あるいは石霜の儀礼的な招集か。うち主力艦の三隻は反重力帆を広げ空へと浮揚する。その巻き上げられる錨から散る水滴が小さな虹を作った。 《虚ろ》と《枯葉》はヤギを追い回し、昼の日差しの落ち着く頃にこれを捕獲していた。 ふたりはこのヤギを保護したつもりだった。 墨壺の領内で王家のヤギに何かあったら問題になる。あるいは逆に、これを保護すれば海羚領主より礼を取れるかもしれない。森に入り、傷だらけになったヤギを抱いて、入江への道をたどると、その先に海羚の艦隊が見えた。主力となる三隻の浮遊艦は墨壺の入江上空に待機している。その先の海上にも軍の艦艇が見えた。 ――入江が封鎖されている。 ふたりは顔を見合わせるが、馬の音を聞き咄嗟に茂みに姿を隠した。 入江の海賊には独特の匂いがあった。『海ヤギ』と呼ばれる獣の脂で固めた香草を肌に塗り、またその香草で衣服を燻す風習があった。潮焼けとダニの付着を防ぎ、海水も弾く万能の塗布剤として機能したが、体臭と混じり、異様な匂いを放った。その臭いに気がついたのか、ふたりが身を隠した近くで馬が立ち止まる。彼女たちに罪はなかったが、一度隠れてしまうと身を晒すことはためらわれた。乗り手は海羚の兵。彼女たちは蹄音でそれがわかった。入江の馬、峠の馬とは違う、軽く小気味の良い足音。その音を聞いて良い思いをしたことはなかった。海羚の馬はいつも入江に不幸をもたらした。《枯葉》の脳内には、海羚の祈祷師の話が思い出されていた。 親代わりのモートから何度も聞かされた話だ。二十年前の海羚との小競り合いのなか、海羚の祈祷師が墨壺の動きをことごとく予言し、作戦を潰した。海羚への反撃の狼煙を上げたモートの兄ノートは、海羚兵の手を逃れて森のなかに潜んでいたが、祈祷師の手で引きずり出された。いまでもその祈祷師が海羚にいる。当時の祈祷師ばかりでなく、その術は代々受け継がれている。小さな窪みのなか、隣では《虚ろ》がヤギを抑え込んでいる。もし《虚ろ》の力が強すぎて、ヤギが命を落としでもしたら、その瞬間に祈祷師の目がこの場所を見つけ出す。 恐怖は呼吸の口を閉ざし、体を震えさせる。その恐怖を押さえながら、糸のように細い息を続ける。地面と背中の間に這う虫を感じながら、呼吸を失ってどれほどの時が経ったか。体中の酸素が抜けて肌が紫色に変わる頃、馬は走り去った。《枯葉》がヤギの呼吸を確かめると、ヤギは小さく「メェ」と鳴いた。 街道を迂回して、切通の崖の上へ出ると、入江を見渡すことができた。入江の桟橋には海羚の船が停泊している。 「お姫様が乗ってきたのかな」 《虚ろ》は気楽に口にした。 「カトレイシアは旗艦に乗ってると思う」 そう言って《枯葉》は空中に待機する三隻のうち、真ん中の船を指差す。 「見つからないかな、私たち」 「うん。ここにはいないほうがいい」 海羚が軍を動員した理由はヤギを探すためだったが、ふたりは知る由もなかった。ただ、冗談では言った。 「もしかして、このヤギを探してるんだったりして」 「ヤギ一頭に主力艦隊を!?」 「ま、ありえないか」 ――学のない海賊にとってはありえない話だった。だが石霜の歴史を考えると疑う余地もない話だ。石霜の発展にヤギは欠かせぬ存在だ。いつしかそれが神聖視され、とくに王家の血統のヤギはすべてのヤギの源流として崇拝された。神話のなかでヤギは英雄を助けた。乳を与え、悪が英雄を魅了したときにはそれを祓った。左の耳に斑のあるのが王家の血統。そのヤギの毛で編んだ外套を羽織るものだけが石霜の城の二の門をくぐることができた。このヤギを繁殖させることが各自治領の文化を測る物差しともなった。ヤギが増えれば国も潤う。その年にいかにヤギを繁殖させたかで自治領の階位が決まった。そこには無益な争いをなくすという意図もあった。地位を巡る無駄な競争も、贈収賄もなくなる。たとえば石霜に百人の人足が必要になったとき、無駄に言い争うことなく割当を決めることができた。 しかし、現在ではその立場も固定して軋轢を生んでいる。運用後に形骸化して害を及ぼすのは、制度というものが必ず持つ運命だった。 ふたりが保護したのはその諸々の問題を抱えた《王家のヤギ》の、トライバル家に割り当てられた最後の一頭だった。 たった一頭になったヤギは、種付けするにも足元を見られた。血統のある牡ヤギを求めると、法外な金を要求された。かといってうかつな牡ヤギを選べば、その仔に耳の斑が継承されるとは限らない。半年に一度の繁殖期にその機会を活かすべく、トライバル家の至聖所に育った薬草を与えに来た、そのときの事故だった。 街道の脇の茂みに身を隠したまま、夜が来た。 「昼間の砲撃、入江が相手だったのかな」 焚き火すらない野宿の静かな夜。《枯葉》が訊ねた。 「どうだろうなあ。可能性はあるけど、もしそうだったら墨壺は滅びてるよ」 「じゃあ、ヤギを探してるだけ? 軍艦で入江を取り囲んで? 砲撃はなんだったの?」 「わかんない。入江に帰る?」 入江に帰りたいのはやまやまだったが、《枯葉》は自分で何かを決めたことがなかった。このときも、《虚ろ》が何かを決めるのを待っていた。帰るにせよこのまま彷徨うにせよ、いずれにしても不安があった。 「ヤギはどうするの?」 「捨てていく」 「捨てていったの、祈祷師にバレたらどうするの……?」 不安げに尋ねると、しばし間をおいて「わからない」の答えが返るが、《虚ろ》の目には不安の色はなかった。その不安のない目を見ると、不思議と《枯葉》の不安も緩んだ。 その夜はふたり、ヤギを囲んで眠った。 翌日、山狩りが始まる。 《枯葉》と《虚ろ》は意を決し、墨壺の入江への帰還を決めていた。 まだ日の光も柔らかな刻、ふたりは崖上の尾根を伝い、入江の裏手につけていた。《枯葉》とヤギを隠し、入江へは《虚ろ》ひとりで入った。山狩りの者たちが出払った隙を見て、棟梁の屋敷の裏口に立ち扉を叩いた。モートは一晩姿を見せなかった娘がこうして裏口から帰ってきたことで、今回の件に娘が関わっていることを察した。 「《枯葉》は?」 モートの問に《虚ろ》は視線だけで応え、外へと促した。 崖の中ほどに、かつて牢獄として使っていた洞窟があった。ランタンの小さな明かりを灯し、モートはもうひとりの娘、《古雨に濡れた枯葉》の顔を見つける。その傍らには傷だらけになった王国のヤギの姿があった。 「よく戻った」 ヤギの傷を目の当たりにしながら、モートは絞り出した。 「トライバル家の軍艦は、これを探しているのか?」 《虚ろ》が訊ねると、モートは静かに頷いた。見留め、「それじゃあ、これを返せばこの件はおしまいだな」と続けたが、今度はモートは頷かなかった。ランタンの火が揺れるだけの静かな時間が広がると、娘ふたりの表情から笑みが消えた。 「この傷はおまえたちが負わせたのか?」 不意のモートの息に、ランタンの火が瞬く。 「そうだ。でも、それでこのヤギを保護することができた」 モートの問いに《虚ろ》は自信を持ってこたえた。 「ああ、それは良かった。ご苦労だった」 労いの声に《枯葉》の表情にも少し笑みが戻ったが、その笑みを受け取ることなく、モートは続けた。 「だが、伯爵は許さんだろう」 その声は鈍く響いた。 「伯爵?」 《虚ろ》にはそれがだれを示すのか俄にはわからなかったが、カトレイシアを指していた。《枯葉》ともども、ふたりは彼女を『お嬢様』と呼び習わしていたが、実情はトライバル領の領主、伯爵だった。まだ十三才。父を戦争で失い、母は病気療養という名目で幽閉されている。 「どうするの? 私たち」 泣きだしそうな声で《枯葉》が訊ねる。 だがモートはそれに答えず、ため息をひとつ捨ててナイフを抜いた。そして《虚ろ》に目配せする。 「抑えろ」 モートが視線を投げた先には《枯葉》とヤギがいる。《虚ろ》は迷わず《枯葉》の首に腕をまわして抑え込んだ。 「ごめんね、枯葉」 こうやって『罪人』の処置に手を貸すのは四人目だった。罪人がどんな罪を犯したかも知らず、《虚ろ》が呼ばれ、こうして手を貸してきた。《枯葉》は何が起きたのか、いや起きるのかと戸惑うが、すぐに自分の首が刎ねられるのだと悟った。しかし両の手にはもうその腕を振りほどく力が入らない。 「うそ……?」 その口に小さく漏れると、涙が溢れた。目の前が真っ白になって、続く声もない。幼い頃からの父親モート、妹の《虚ろ》との日々が脳裏に浮かんでくる。必死にその意味を探す。自分の人生の楽しかった瞬間を選りすぐり、咀嚼し直してみるが、そこにいつもいた《虚ろ》が残酷に自分の首を締め付けている。どうして殺されるのかもわからない。 ――ごめんね、枯葉 その言葉で終わるんだ、ふたりの関係、私の人生が。 「バカ、そっちじゃない」 ため息をついて、モートが言い放つ。 「ヤギだ」 髭のある顎をしゃくって指示すると、《虚ろ》は慌ててヤギを抑え込んだ。その隣で《枯葉》は気を失う。 モートは王家のヤギの斑のある左耳を切り落とし、《虚ろ》に命じた。 「マシロイ一家に伝令だ」 《虚ろ》は痛みに暴れるヤギを押さえながらも、神妙な面持ちで姿勢を正す。 「このヤギを人質にして、海羚の支配から抜け出す。事が終わるまで、娘ふたりとヤギを預かってくれ。そう伝えるんだ」 その後、《虚ろ》はジュディ・クラムランという名を正式にもらった。同時にまた《枯葉》もバレッタ・アッシュコート・クラムランという名をもらった。長年クラムラン家に仕えてきたアッシュコートの家名に加え、クラムランの家名も加えられた。これはクラムラン庶家、すなわち分家を意味し、血のつながらない《枯葉》にこの名が与えられるのは異例のことだった。 《虚ろの暗がり》ジュディ・クラムランと《古雨に濡れた枯葉》バレッタ・アッシュコート・クラムランは左耳のないヤギを袋に詰めて、崖道を上った。 「あんた、バカなんじゃないの!?」 道すがら、バレッタはジュディを責めた。 「ごめんごめん、枯葉の死体を差し出してごめんなさいするのかと思った」 ふたりはまだ、もらったばかりのジュディ、バレッタで呼び合うことはなかった。 バレッタは先程のジュディの愚行に腹を立てていたが、どこかで『海賊はそういうもの』だとの諦めも感じていた。娘ひとりの命を差し出して集落が守られるのならそうする。そうやって生き延びてきたのが墨壺だった。逆に言えば今回は苦しい道を選んだのだ。娘ふたりを差し出すことなく、伯爵家に対抗する道を。 「もしオレが、同じ目にあったときは、躊躇なく殺していいよ」 ジュディは履き慣れないブーツを履かされて、足元を気にしながら山道を上った。 「何言ってんのよ、バカ」 「海賊って、そういうもんだろう?」 「わたしたち、モートの娘でしょう? 棟梁が肚決めたんだから、あんたも肚括りなさいよ」 ほんの一刻まえにジュディに殺されかけ、ついさっきサンダル履きのまま崖を登ろうとするジュディにブーツを履かせた。ジュディはバカだから自分がしっかりしないといけないと、バレッタは思った。 「わかったわかった」 ジュディは何も考えず、笑って答えた。 「ぜったいわかってない。ぜったい何も考えてない」 ジュディへの文句は尽きなかったが、バレッタは名前がもらえたことがうれしかった。これで星降祭の夜も土蔵で過ごさずにすむ。いよいよ来年の今頃には『交歓』を経験できる。ジュディが抑え込んだヤギが絶命しないかと心配してた昨日とはうってかわって、袋に押し込んだヤギのことも気にならなかった。 山道を抜け出し街道を横切るとき、山狩りの海賊仲間と出くわした。海賊は「やあ、お嬢さん」と発したあと、しげしげとふたりが抱えた袋をながめた。袋は不審にもごもごと動き、メェという鳴き声を漏らす。 「虚ろの暗がり・迷い猫・ジュディ・クラムランだ。たったいま棟梁より名を拝受した」 ジュディが言うと、海賊は姿勢を正した。 「同じく、古雨に濡れた枯葉・バレッタ・アッシュコート・クラムラン。正式にモート・クラムランの娘になりました。よろしくおねがいします」 はじめて名を名乗った。マシロイ一家への伝令の途中だと伝えると、海賊は袋の中身を訊ねることもなく道を開け、道中の安全を祈った。街道を渡り北の森の小径へ分け入ると、嬉しくて仕方がなかった。浮足立っていた。ときおり山狩りの海賊の姿が見える。そのたびに新しい名で名乗りを上げた。 「ヤギは見つかったかーっ!」 「いえ、まだ見つかりません! 探索を続けます!」 ヤギの袋を背中にかついで、ときおりメェと鳴くヤギの声が聞こえる。ふたりは山狩りのふりをしながら、峠のマシロイ一家の隠れ里を目指した。 「ヤギー! どこにいるんだー!」 「隠れてないで出ておいでー!」 「メェー」*
マシロイ一家の里は峠の関所にほど近い小さな谷にあった。 細い川が流れ、その両側に沿うように家々が並ぶ。上流に向かって右手側には開けた土地があり、その奥に家長ミンゾ・マシロイの屋敷があった。街道、関所は通らず、森の小径を抜けた。すれ違う幾人かに里を訪ねる用件を尋問されたが、墨壺の棟梁モートの娘であることを告げると、仔細を訊くこともなく通された。そうしてジュディとバレッタが屋敷にたどり着き、奴子に用件を伝える頃には、ふたりの話はすでに家長マシロイにまで届いていた。改めて用件を伝え、面会を求めると、屋敷へ通されるまでしばらくの時間がかかった。 屋敷の奥へ通されてからも、マシロイの登場まで時間があった。ジュディの傍らには袋詰されたヤギがいた。バレッタが、さすがにそろそろ出してやりたいと、紐の結びを緩めようとしたとき、マシロイが現れた。ジュディとバレッタは敬礼し、先にジュディ、続けてバレッタと名乗りを上げた。ふたりはそれぞれの名を誇らしく思い、その思いは声に、表情に現れた。 ジュディが自分たちふたりとヤギを暫く匿って欲しい旨を伝えると、マシロイは怪訝な顔を見せた。トライバル家に反旗を翻そうというのだから、当然の反応であるが、名を拝受したことに浮かれたジュディとバレッタには、その心中を察することができなかった。が、胸の中にあった自信もすぐに、戸惑いに席を譲った。 「して、ジュディ殿」 マシロイがジュディの目を覗いた。 「ジュディという名はモート殿の先だった妻の名と聞く。いかなる手柄に対して、その名は与えられたものか、お聞かせ願いたい」 マシロイにしてみれば、モートが拾ってきた娘ふたりに真名が贈られたことすら寝耳に水。海賊の習俗には明るくはなかったが、ジュディ、バレッタ双方が格式のある名であることはわかっている。 ジュディは質問への答えを返す。――今はまだ手柄はない――と、屈託のない声を響かせ、その名をもって前線に赴くことが決まっていると述べた。ジュディにはわかっていなかったが、その名をもって人を殺し、墨壺をこの戦いから引けぬ立場に追い込むことが海羚から求められた役割だった。あるいはその名を背負って死ねば、それがラタノールの結束となる。 ジュディの説明を耳にしながら、バレッタの胸は不安に埋もれていった。ジュディはともかく、自分には前線に赴く予定もなければ、戦闘の訓練も受けていない。にもかかわらず、《バレッタ》という英雄を導いた預言者の名を頂いている。身の丈に合う名ではない。自分には何も説明できることがない。 だが――ジュディの話が終わると、マシロイはバレッタに一瞥を投げただけで、同じ問いを向けることはなかった。マシロイはすでに察していた。ジュディは騎士としてひとを束ねる器ではない。モートという男が彼女らの死を利用しようとしているだけの話だ。ジュディの隣では、袋のなかのヤギは眠っているのか、ぴくりとも動かなかった。 マシロイは言葉を選び、切り出した。 「墨壺が海羚と一戦交えることを、我らの里は感知せぬ。戦いたければ戦われるが良い。これはそなたたちの戦争だ。我らを巻き込まないでいただきたい」 この返答にバレッタは戸惑った。 耳の切れたヤギを連れて墨壺へ帰れば、すぐに海羚の祈祷師がその所業を見つける。いまのいまですら海羚の軍が乗り込んでこないとも限らないのに、不案内な森を護衛も希望もなく帰らねばならない。 だが、ジュディは平然と言った。 「わかった。帰る。だけどヤギは置いていく」 屈託のない顔だ。 『わかった』『帰る』『だけど』『ヤギは』『置いていく』 マシロイもバレッタも胸のなかでその言葉を繰り返してみたが、意図がわからなかった。ふたりはそれで何が起きるか思案したが、わからなかった。ヤギは袋の中にいるというが、動いていない。死んでいるかもしれない。仮にヤギが死んでいるとしたら――このふたりを追い返して、ヤギを途中の道に捨てられたら――あるいはその死体を峠の里のものに運ばせたとしたら――マシロイにとってどれも都合の良い話ではない。 「置いていくのはかまわんが……」 マシロイは探りを入れた。ジュディの面を睨みつけたまま、奴子に袋を開けさせた。 「だが、我らに何のメリットがある?」 袋の中には確かに耳の切れたヤギがいた。ずいぶんと弱っているがまだ息はある。このヤギを置いていかれたところで、マシロイ一家には何のメリットもない。 ジュディ、バレッタともに、モートの戦略の仔細までは聞かずに、ただ浮かれてここまで来てしまった。バレッタが自省し黙していると、しばし黙考していたジュディが口を開いた。 「乳が絞れるぜ」 バレッタは逃げ出したかった。ジュディは何も考えていない。バカだ。世の中に、立ち止まるバカと立ち止まらないバカがいると聞いたことがあったが、ジュディは立ち止まらないタイプのバカだ。 「王国の血統のヤギから乳を絞るだと!?」 マシロイは厭らしい笑いを浮かべて訊き返す。腰を上げ、ジュディの前に座り直し、改めて言葉を継ぐ。 「おまえは死にたいのか?」 その湿った息がかかる。 「オレは海賊だ。それが名誉になるなら、オレは死にたい」 マシロイもここまで気持ちの良いバカを見たことがなかった。奴子に鉢を持ち来させ、あらためてジュディに言った。 「絞れ」 ジュディの前に木彫りの鉢が差し出される。 「このヤギの乳で鉢を満たしたら、おまえたちの話、聞かんでもない」 さきほどからバレッタの口からは、あ……、お……と、言葉の断片が漏れるだけで、意志の糸先は千々にほぐれていた。ジュディはバカだ。取り返しのつかないことをしようとしている。だがそれで墨壺とマシロイ一家を同盟させられるかもしれない。だったらやるしかない。細い糸先がまとまると一縷の望みとなった。ジュディは足元のおぼつかぬヤギを立たせ、その乳の下に鉢を据えたが、バレッタが制した。 「待って。私がやる」 ジュディにヤギの乳搾りなどできるわけがなかった。普段からバレッタの役割だ。ヤギの体格を見て、鉢にいっぱいの乳が絞れるかどうかもバレッタにはわかった。王家のヤギとはいえ、普通のヤギと変わるところはない。昨日今日と手酷い扱いは受けているが、栄養状態もよく、おそらくこれからの妊娠出産に備えて、ホルモンの補助となる薬草が与えられている。乳に手を触れて、これならばいけると確信したが、その手は震えた。 ジュディはヤギの頭のほうにまわり、口元に顔を寄せて、 「大丈夫、怖くないよ。耳のことはごめんな。まだ痛むか?」 と、声をかけている。 「メェ」と小さく鳴いたヤギの足は小刻みに震え、泣いているようにも思えた。 マシロイと奴子が見守る前で、バレッタは乳を絞った。王家のヤギだ。何かあればすぐに祈祷師に見つかる。それでも震える手を押さえ、恐怖を噛み殺した。 乳房を握った指を順に絞ると、溢れ出る乳が器に落ちる。乳の雫に濡れる手にそのぬくもりが伝う。独特の匂いがあり、ひと絞りごとにマシロイの息遣いが上がる。 マシロイは乳を絞るバレッタの指に視線を這わせたまま、そのヤギに『カトレイシア』という名を与えた。マシロイが笑いながらそれを口にしたとき、バレッタの手が一瞬止まった。伯爵であるカトレイシアをいまだお嬢様と呼び習わすバレッタには、無意識の憧れがあった。マシロイがそれを踏みにじる。その踏みにじる足となっているのはバレッタ、自分自身だった。 バレッタが絞ったカトレイシアの乳は、マシロイが一息に飲み干した。 その夜、王家のヤギは、他のヤギが群れるヤギ舎に放たれた。 耳を切られた王家のヤギを、同じように耳を切った白ヤギの群れのなかに隠せば、モートが持つ耳を割符にしなければどれが本当の王家のヤギかわからない。それがモートの目論見だった。だがそうやってヤギを隠した先の作戦は聞いていなかった。 ――百戦錬磨の棟梁が言うのだ。何かあるのだろう。 ふたりは考えていた。 ジュディとバレッタも放逐されることなく、寝床が与えられた。 翌朝、早くに目を覚ましたバレッタがヤギ舎へ様子を見に行くと、耳の切れたヤギは他のヤギと交尾の最中だった。まわりにはあと数頭のヤギが順番を争うように頭をぶつけあっていた。一頭一頭のヤギは大人しいものだったが、交尾の順番を争っていきり立つ牡ヤギの群れには鬼気迫るものがあった。 カトレイシアの名を贈られたヤギは王家の血筋として生まれたというだけで、飢えることも、捕食されることもなく暮らしてきた。求められたのはより優れた血を引いた牡と交尾し、子を残すことだけ。その相手となる牡ヤギも伯爵家が選んだ。ヤギはただ目の前に出された草を食べ、排泄し、時期が来れば交尾するだけだった。 何年かまえの流行病で家族をすべて失った。それぞれ個室を与えられ交流も少なかったヤギにとって、家族の死はどこか遠くの出来事のように思えた。生まれてこのかたずっと室内で飼われ、青い空の下はあまり好きではなかった。野生のヤギは急峻な崖も登り、揺れる吊橋も器用に渡るが、カトレイシアにその経験はない。部屋にいても新鮮な草が与えられる。王家の庭園で草を喰むときも、虫や埃は丁寧に取り除かれていた。保護するものの手から離れると、途端に不安になった。それに何よりも臆病だった。頭には二本の角があるが、使ったことはない。その角も牡のヤギには及ばない。 カトレイシアはヤギ小屋で数頭の牡ヤギを受け入れ、それが今回の自らの使命だと思った。この苦役を終えれば、主人が迎えに来てくれる。館に帰り、仔ヤギを生んで、草を喰んでは乳を与える暮らしに戻る。 蒸した穀物を丸めて固めただけの粗末な朝食が出た。それに黄色く変色した根菜のピクルス。手づかみで食べていると、血相を変えて奴子が部屋に入ってきた。 「ジュディ殿、バレッタ殿、ただちにご退去願いたい」 咄嗟のことだった。言葉を返すべく、急ぎ咀嚼途中の食い物を飲み込むが、それを待たずに奴子は続ける。 「墨壺の入江が海羚主力艦隊の攻撃に晒されています。ただちに、ご退去を」 廊下に大股の足音が響く。マシロイが部屋に入り、小脇に抱えていたヤギをジュディたちの前に放り出した。 「ここもすぐに砲撃される。おまえらを差し出して許しを請うてもいいが、ありゃあもうダメだ。この里は捨てる。ヤギを連れて逃げろ」 里を捨てる? 墨壺の入江はどうなる? いったいどこへ行けばいいのか。いくつかの疑問が押しあって、代わる代わるに席を奪った。バレッタが戸惑っていると、ジュディはもうすでに立ち上がっている。ヤギに被せていた袋が見当たらず、バレッタは肩掛けの袋から細い紐を取り出してヤギの首に結んだ。 屋敷の中でもあわただしくひとが動いている。マシロイは奴子ふたりの手を借りて戦装束を纏い、その腰帯を締めながらジュディに視線を投げる。 「もし運があったら」すなわち、生き延びたら――「入江のモートに言っておいてくれ。オレはおまえの愚行を許さん、と」 ジュディにはモートの愚行が何を指すのかはわからなかったが、笑顔を見せて「わかった」と返した。その笑顔を見て、マシロイの口にも黒い歯がこぼれた。 「向こうもまだ、ヤギの居場所は掴んでおるまい。派手に攻撃はしてこんとは思うが、気をつけるんだぞ」 街道を走ると、森には火の手が上がっている。山賊が放ったものか、あるいは浮遊艦から投下されたものか。白煙が潮の匂いをかき消した。入江の方の空に黒煙が上るのが見えた。風を切る爆撃音、煙が上がると、それに遅れて爆音が胸を揺らす。森のなかのあちこちから銃声が聞こえる。火薬銃の音と魔法銃の音が交互に聞こえ、魔法銃が圧する。すでに戦争の渦中にあった。逃げる宛はないが海羚から身を離すように走る。急に引いていたヤギの紐が重くなる。振り返るとヤギが転んで引きずられている。足に大きな傷があり、血が流れている。引きずった腹にも大きな擦傷ができた。 このまま置いていくか―― ジュディは一瞬の迷いを払って、ヤギを抱え上げた。 「王家のヤギだ。いざってときにこいつが命を救ってくれる」 バレッタの目を覗くと、何も言わずに頷いた。 銃声はもうすぐそこで轟いている。 バレッタは長銃に弾を込めた。 風向きが変わると、森を焼く白煙が周囲を覆う。 ジュディもヤギを下ろし、リボルバーを構える。 真っ白く染め上がった世界に響く音は方向性を失い、どこか幻想的だった。どこかに轟く銃声も空いっぱいに広がって、長い残響を引いて聞こえる。そのなかでヤギがメェと鳴く。 メェ。 メへへ。 メヘヘェ。 白い闇が薄れると、目の前にシルエットが浮かぶ。 瀟洒なドレスをまとった、年端も行かぬ少女の姿がある。金の巻毛、首のチョーカーには大きな宝石が留まり、柔らかな生地のブラウスには幾重ものフリルがある。 ふたりがカトレイシアを見るのは、これが初めてだった。 「カトレイシア?」 バレッタの口に思わずその名が漏れると同時に、ヤギは足を引きずりながらカトレイシアの傍へと走った。 呆気にとられていたジュディが名を名乗らんとしたとき、カトレイシアの魔法銃が炸裂。ジュディの肩を吹き飛ばした。声を出す間もなく、ジュディの肢体はその場に倒れる。続けてもう一発。魔法銃が放った魔法弾がジュディの頭を吹き飛ばす。 バレッタは構えていた長銃を捨てて、ゆっくりと手を上げる。 「殺さないで……」 震える口に絞り出すと、カトレイシアはその腹に狙いを定め、打ち砕く。その肉は木っ端のように吹き飛び、下半身を地面に立たせたまま頭から崩れ落ちる。それを見届け、地面に落ちた頭蓋に追撃を加えると、バレッタの頭部は顔面に大きな穴を穿たれ坂道を転がった。 カトレイシアが息を整えると、 「メへへ」 嬉しそうにヤギは鳴いた。⚪
🐹
🐰
🐻
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