うみねこまりな(3)王国のヤギ

第三章 王家のヤギ
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第三章 王家のヤギ

「あんたは土蔵で寝るのが楽しいんだろうけど、みんな楽しんでるときにわたしたちだけ土蔵に閉じこもってるのってイヤじゃない? 『交歓』っていうけど、みんなが何やってるか知ってる? 知らないんだよ、わたしたち」  のちにバレッタと呼ばれる少女は、のちにジュディと呼ばれることになる少女を問い詰めた。きたる『星降祭せいこうさい』の夜に、自分たちだけ『交歓』の儀式に参加できずに、土蔵に押し込められる。そのことに不満があった。それでわざわざ、ていねいに、言葉を、区切って、訊いてみたのだけど、ジュディは銃の整備の手を止めもしなかった。 「卵を生むんだろ?」  卵生の彼女たちは『交歓』と呼ばれる儀式を経て『産卵』する。ジュディは質問の意図を噛み砕くこともなく浮かんだ言葉を口にして、シリンダーの煤を払った。ふぅ、と息を吹いてみるが、毎日整備している銃に煤はない。だけどそれも、ジュディには嬉しかった。 「卵を生む前!」  銃身に写った細長いバレッタが叫んだ。  バレッタの問いの主旨は、あくまでも『交歓とは何か』にあった。あるいはこの瞬間は、ジュディのちゃんと考えた返事を得ることかもしれない。 「交歓だろう?」 「だからその交歓って何って聞いてるの!」 「わかんねーけど、体を使ってなにかするんだろう? だったら出来ることって限られてるよ。組体操みたいなことするんだよ、きっと」 「組体操って! 組体操したら卵を生むの? わたしたちって!」  木星にはいくつかの浮遊大陸があり、そのなかには表面積にして地球の数倍にもなるものがあった。星が違えば大気の組成も重力も異なる。しかしそこに住む者にとって、その比較には意味がない。詩的に言えば、木星と地球とは同じだった。木星で最大の浮遊大陸には海があり、その沿岸には文明が栄え、街があり、また、戦争があった。人類と同じように文明を開花させた彼らは自らを『ラタン』と称した。ラタン、あるいはラタノール。その姿は人類に近かったが、外見はみな若く、多くが十代か二十代に見えた。  そのラタンはいま、古代の民と言われる『セダン人』との戦争の渦中にあった。やがてはラタンを滅ぼすと予見された大きな戦争だったが、多くのラタンにとってはまだ遠い海の向こうの話でしかなかった。  ラタンという語は、地球で『ラテン語』などというときのラテンと音が共通し、デニス・ポートマンは親近感を覚えた。パリのセーヌ川左岸のラタン地区を思わせ、講師時代によく通った神田神保町のあたりが『日本のカルチェ・ラタン』と呼ばれていたことも連想させた。長年愛用したトランペットを手放したのも、そこから遠くない学生街の小さな店。ラタンというその音には匂いすらあった。だけどそのラタンという言葉も世代が下ると印象が変わる。ラタンから江藤茉里奈が思い浮かべたのは籐で編まれた家具だった。ラタンの家具。江藤茉里奈がラタン人を語る時、その脳裏には籐のソファに腰掛けたカトレイシアの姿があった。デニス・ポートマンの脳裏には同様に、神田カルチェ・ラタン闘争で学生運動をするカトレイシアの姿があった。彼らと戦争をしている『セダン人』にしても、デニス・ポートマンは普仏戦争の激戦地を思い起こし、江藤茉里奈は車のセダンを思い起こした。デニス・ポートマンは学生時代の江藤茉里奈に、名前が持つ音の印象がその理解に影響を与えうる、という社会学の講義をしたことがあったが、それはいまのふたりにもあてはまっていた。  そしてその出生の異なる異星の民の姿は、なぜか人類に似ていた。  後にデニス・ポートマンが江藤茉里奈に語った言葉によると、ラタン人、セダン人ともに、そのルーツは海王星にあった。また、人類も同様に海王星にルーツを持ち、さらに遡れば外宇宙より訪れた高次の生命体に端を発した。高次の生命体と聞き江藤茉里奈はすぐに完成された文明、その永遠の繁栄を思った。この物語の終盤、木星での戦争の終結のあと、江藤茉里奈は海王星を訪れるが、そこにあったのは太陽系外からもたらされた高度な文明の遺構だけ、生きた文明に触れることは叶わなかった。その後、江藤茉里奈は地球へと戻り、向井裕貴と再会を果たすが、その口から海王星での体験が語られることはなかった。  石霜せきそうの王国のはずれに、海羚かいれいという小さな自治領があった。海羚はひとつの町ほどの小さな国であったが、海に面し、交易の要所として栄え、国力は石霜の自治領の中では抜きん出ていた。宗主国からの街道は内陸を通り、いくつかの峠を超えて海羚の西端に繋がっている。かつてその峠々には、山賊が出没していた。  今ではよく『国境線』という言葉を耳にするが、古来、国境というものは線ではなかった。役人や軍が駐在するところには国としての秩序が敷かれるが、広い国土の中にはその同じ色に塗りつぶせぬところが多く存した。とくに国境ともなると、両国で境を定めたところで、街道を少し外れてしまえば『どこでもない場所』が広がる。そこにはいわゆる山賊、無法者が居着くのが常だったが、彼らは多くの場合、長い年月を経て、そこに派遣された国の役人と癒着し、国の権力と同化していった。もともと国と山賊の間に違いはなかった。山賊と国とが手を結ぶのは平和裏で合理的な統治過程のひとつ。その無法者同士が取り交わした文書を『和平文書』と呼んで庶民はありがたがるが、それは決して欺瞞ではない。もともと国とはそういうものだった。  それに国がまだ未熟なうちは、その国境の曖昧さも重要な役割を担っていた。戦争、あるいは愚かな政策の犠牲となったものたちに、住む場所と食べる物とを与えたのは、国境の『どこでもない場所』だった。国の支配がやがて網の目のように全土に及んだとき、ひとは国の暴力や愚かさから逃げる場所を失う。  宗主国石霜と自治領海羚の最大の違いは、『いつ町になったか』だけだった。先に栄え、先に町になり、先に都市国家としての体裁を整えた石霜は宗主国となり、石霜が外敵に備えて城壁をこさえる頃にまだ日々の漁に出て網を投げていた海羚は、やがて占領され、その支配下で自治領となった。いまの海羚は、石霜が都市国家となったときよりも大きい。こと経済面での影響力は無視できぬものになっているが、未来永劫、その立場が逆転することはない。  その石霜と海羚の間に、《墨壺》と呼ばれる入り江があった。山の尾根の深くまで食い込んだその入り江は、海賊たちが根城にしていた。  墨壺の集落も、もとを辿れば小さな漁村だった。陸地と同じように海の上にも縄張りを定め、近隣の漁民に対抗するすべを身に着け、縄張りを横切る無法者を追い『通行料』を徴収した。石霜と海羚の違いと同様に、海羚と墨壺との間にあるのもまた、『いつ町になったか』程度のものでしかなかった。ふたつの国に挟まれて、己の生活を守るうちに、その行為は『海賊』と呼ばれるようになり、いつしか自分たちでもそれを内面化するようになっていた。  その墨壺の海賊の棟梁モートには、ふたりの娘がいた。  ひとりは《虚ろの暗がり》と言い、二十年前に襲撃した船から奪ってきた子で、両親を殺してしまった手前、仕方なく自分の手で育てていた。  もうひとりは代々モート・クラムランの家に下働きとして仕えてきたアッシュコート家の娘で、《古雨に濡れた枯葉》と言い、こちらも両親を数年前に事故で失い、棟梁のモートが手ずから育てている。ふたりにはまだ、正式な名前がなかった。  ラタンの繁殖期は一年に一度だけ訪れた。ただし、一年に一度の繁殖期は小規模なもので、そこで生殖行動をするものは少なく、多くは七年に一度の大繁殖期に合わせて生殖行動を行った。大繁殖期には、『星降祭』と呼ばれる祭りが催され、そのなかでひとびとは交歓に耽った。  この習俗からラタン人のほとんどは七の倍数づつ離れた年齢になり、生殖も七の倍数の歳で行った。ラタン人は極めて成長が早く、生まれてから一年でほぼ大人の肉体を完成させ、早いものは七歳で大繁殖期の星降祭に参加した。ただしそこには、『真の名前を得ること』という条件があった。  真の名前がいかにして得られるかと言えば、保護者の胸先三寸で、《虚ろの暗がり》と《古雨に濡れた枯葉》が人生で三度目の大繁殖期を迎えようとしながら、未だ真の名前を与えられずにいるのも、保護者代わりのモートが認めないというほかに理由はなかった。 「わたしたちたぶん、一生真名なんてもらえないよ」  ため息とともにそう漏らす《枯葉》は、生殖行動に興味があった。  繁殖したいわけではなかったが、夜空に灯籠を飛ばして神に祈るという星降祭の夜を土蔵の中で過ごすのには飽き飽きしていた。 「灯籠を飛ばすんだよ? 空いっぱいに。見たいと思わない?」  交歓へのほのかな憧れを言い換えるように吐息を漏らした。 「いいじゃん。繁殖したってしょうがないよ」  あと半時ほどで、モートの使いで国境まで出なければいけない。銃を使うような事件は滅多に起こらなかったが、《虚ろ》はいつも事件を夢見て銃身を磨いた。 「繁殖したいんじゃないんだよ。土蔵が嫌なの。土蔵が」 《虚ろの暗がり》を、《枯葉》は『迷い猫』と呼んだ。このときも、「迷い猫とは違うんだよ、わたしは」と、口をとがらせて付け加えた。迷い猫の由来は、まだ幼い頃に棟梁がそう呼んでいたからで、以来《枯葉》には《虚ろ》が猫のように思えていた。その迷い猫は暗い場所が好きで、よく狭い場所に潜り込んでは眠りこけていた。 「あんたは土蔵で寝るのが楽しいんだろうけど、みんな楽しんでるときにわたしたちだけ土蔵に閉じこもってるのってイヤじゃない? 『交歓』っていうけど、みんなが何やってるか知ってる? 知らないんだよ、わたしたち」 「卵を生むんだろ?」 「卵を生む前!」 「交歓だろう?」 「だからその交歓って何って聞いてるの!」 「わかんねーけど、体を使ってなにかするんだろう? だったら出来ることって限られてるよ。組体操みたいなことするんだよ、きっと」 「組体操って! 組体操したら卵を生むの? わたしたちって!」  ラタンの間では、生殖に関することは秘匿され、公に話されることはなかった。多くのものが星降祭ではじめてその本番を体験した。  銃の手入れを終えて砦の外へ出ると、降りしきる虫の音があった。  夏の暑い盛りになると騒ぎ出す虫たちだったが、午前と午後とで主旋律を担う声が変わる。その朝の旋律が終わる虫の音の凪の頃に、ふたりは城門を出た。棟梁のモートより頼まれたのは、国境の見張り塔への伝令だった。異常の有無を確認するだけの仕事だったが、信頼のあるものにしか頼まなかったし、務まらなかった。  墨壺の入江の背後には切り立った崖が構え、その斜面の全面を木立が覆っている。木立の影となる地面にも草は深く、その草を払うと丸太で組まれた階段が見える。崖の一部には石垣が組まれ、細い坂道の階段はところどころで崩れる。ふたりには馴染みの道だったが、それでも息は切れた。午後の虫が鳴き始めると、太陽の熱は乾く。 「あのさあ」 「えっ? なあに?」 「オレ、真の名前、もらえるらしい」  自らを『オレ』と称するのは、海賊モートの手元で育てられた《虚ろの暗がり》だった。粗野で礼儀を知らず、ガサツで、銃火器をいじるほかには大した趣味がない。 「へぇー。よかったね」 《虚ろ》が言った言葉の意味を、息を切らした《枯葉》はちゃんと受け取れてなかった。耳のあたりに触れて落ちてきた何か。それを手のひらに掬って眺めてみて、ようやく意味がわかった。 「……名前!? あんたが!?」 「そう。ジュディ・クラムラン」 「クラムランって! 棟梁の娘になるってことじゃない!」 「いまでも娘だけどね。なんか違うのかな」 「入江のクラムラン家の娘よ!? 海羚国でいうとトライバル家のお嬢様でしょう!?」 「オレがお嬢様ぁ!?」  海賊モートにも家族はあったが、《虚ろ》を拾う前にすべて失っていた。すべては隣国トライバル家との小競り合いが原因だった。そのモートが、正式に《虚ろ》を養子にしようとしている。それはつまり―― 「わたし、あんたのお世話係になるの?」  突き詰めて考えるとそういうことになるのだろうが―― 「そうなの?」  と、《虚ろ》もきょとんとするように、そんな変化があるようにも思えなかった。 《古雨に濡れた枯葉》は、住み込みでクラムラン家に仕えてきた家族に倣い、自分のことを『わたし』と称した。何にでも気が回り、いろんな仕事を卒なくこなしたが、少々心配性がすぎることろがあった。《虚ろ》のことは自分の舎弟のように思っていたので、聞かされた話にすこし動揺した。 「そうなのってあんた、そうなわけないじゃない!」 「いやいや、なんでキレるかわかんない。枯葉が言ったんだぞ」  《枯葉》の長い髪は、風に揺れて絡んだ。《虚ろ》の短い髪は風を切って跳ねた。《虚ろ》は短い下履きが仇となって、よく脛に傷を作った。入り江の仕事は水に浸かることが多く、《枯葉》も普段は膝までの丈のズボンを履いて、山道に出るときにだけ長い丈に替えた。《虚ろ》は着るものにこだわることもなく、サンダル履きの浅黒い足を下草に突き立てて歩いた。坂道を登りきると開けた道に出る。そこからもまだ荷馬車の一台も通れないほどの、細い山道が続く。道端の茂みから出てきた《枯葉》は、服についた草を払った。 「わたしもう海賊なんてやめて、町に出ようかな」  暑さと坂道と虫の声が、《枯葉》を憔悴させていた。 「おっ、いいね! ふたりで何やるの?」  厚手の服は日差しや虫、木の葉や枝の擦り傷から皮膚を守ったが、そのぶん体力を奪った。《枯葉》は更に長身の銃を背負い、銃弾が詰まったショルダーバッグを抱えている。涼しい顔をしている《虚ろ》を恨めしく見上げた。 「あんたも来るのー?」  うんざりとしてみせたその語尾は延びた。 「決めてないけど、行くよ」  それを払うようにあっさりと返す。陽の光は木の葉に遮られ、降りしきる虫の音を明暗の斜線で分ける。ときどき思い出したように風が吹いては、足元から立ち上る湿った木の葉の匂いを運び去った。 《枯葉》が言う町というのは、海羚の港町、青水江アフミエを指した。海羚はトライバル家が統治し、青水江はそのお膝元、海賊モートにとっては敵の町だった。とは言え、抗争があったのはもう20年以上も昔のことで、今では入り江の海賊団がトライバル家の護衛も請け負っている。憧れと同時に、抵抗があった。ふたりは煌々と輝く青水江の町の欠点を、胸の中に探した。青水江の人は冷たい。青水江の料理は臭い。青水江の商店は詐欺ばかり。 「それに青水江に行ったら、名前はだれにもらうんだ?」 《虚ろ》は問うた。  なにも知らないんだな、この子は。そんな顔を木陰に揺らして《枯葉》は息をついた。 「海羚では、自分の名前は自分でつけるんだよ」  世間知らずのふたりはそう言葉を交わしたが、町へ出るとして、本当の心配は名前ではなかった。墨壺の入り江しか知らない彼女たちは、町へ出てどうやって住む部屋を探すかも知らない。もちろん、仕事も簡単にはみつからない。だけどそんなことには考えも及ばず、漠然とした不安と嫌悪のなかで具体的な形をもって思い浮かぶのが唯一、名前のことだった。 「でも、オレ、学がないから、どんな名前をつけていいかわかんねぇよ。鬼退治をした主人公くらいしか知らない」  ラタンの真名はほとんどの場合、物語の登場人物からつけられた。それがそのひとの生き様となる。《虚ろ》につけられる『ジュディ』という名は海洋民族に伝わる英雄譚に由来した。英雄たる半神を支えた戦士の名で、同時にモートの死別した妻の名でもあった。彼女らには誇らしく、《枯葉》はそれを羨んだが、まだ年端も行かぬ少女に死別した妻の名を贈ることの意味を、ふたりは理解してもいなかった。 「なんでもいいんだよ、クマでもオオカミでも」 「でも、いきなり『クマ!』って呼ばれるのは嫌だなぁ」 「だからなんでもいいんだってば」 「枯葉はどうすんだ? 考えてあるの?」 「私は……『銀輪のエウロパ』とか……『紅蓮の龍炎』とか……」 「じゃあ、オレは?」 「水辺のヤドカリ」  話しながら山道を歩いていると、遠くに銃声が聞こえた。  森の喧騒を抜けてかすかに伝わった音を聞いて、何羽かの鳥が空に羽ばたく。 「銃声? だよね?」 「うん。火薬じゃないね。魔法銃かな」 「じゃあ、トライバル家?」 「狐狩りでもしてんだよ。トライバル家のお嬢様が」 《虚ろ》が呆れたように微笑むと、《枯葉》は海賊の顔を見せて、空に吠えた。 「こんなところで狐狩りだなんて! ふざけんじゃないよ、トライバル家ーっ!」  それに応えるように、十数発の銃声が木霊した。

《小川に遊ぶ日の木漏れ日》、カトレイシア・トライバルは、その日はじめて自らの手でひとを殺した。殺されたのは、野草園の管理をする下働きの男で、カトレイシアとは階級が七つ離れていた。 「大丈夫です。彼の階級なら、お嬢様が罪に問われることはありません」  側近のペタルは表情も変えずに言った。  もちろん――  カトレイシアもそう思った。  ――わたしが罪に問われることなどない。  忌々しかった。男の足元には搾乳したばかりのヤギの乳が入った鉢が傾いでいる。あろうことかこの男は、宗主国石霜より預かったヤギの乳を絞ったのだ。怒りは収まらなかった。もっと苦しんで死なせればよかった。こんな下等な民に乳を搾られるヤギがどんな思いだったか。カトレイシアはペタルに言い放った。 「この遺体を屋敷に持ち帰り、蘇生させ、もういちど処刑します」  城からのお付きのものたちは儀礼地である野草園には入らず、外に控えている。そこまで戻れば馬車もある。ペタルとふたりこの遺体を引きずって行けば、この男に拷問を加え、再度処刑することができる。 「いえ、それでは二度この男を殺すことになります。二度目の処刑は伯爵の罪が問われることになってしまいますが、構いませんか?」  ペタルの問いかけにカトレイシアはすぐには答えを出せなかった。  毎年、多くの民を石霜に徴兵されていた。北の舟戸谷ふなとやの自治領は石霜に取り入り、その過半を免除されている。石霜より預かった王国のヤギを四百頭まで繁殖させたとも聞く。かたや海羚は疫病でヤギを失い、血統のあるヤギはこのヤギで最後になる。ヤギの繁殖もできず、領主が罪を犯したとなっては、いかに経済力のある海羚と言えどもその立場は揺らぐ。そも、金で買った爵位と揶揄されている。伝統のあるヤギを繁殖させねば、他自治領の領主たちを納得させることはできない。  ならば、と、カトレイシアは静かに息を吐いた。力の抜けた手で魔法銃を連射設定に変えると、またひとつ息を吐いた。銃床を肩に当てるとその怒りはすべて魔法銃に吸い上げられていった。柔らかく目を細め銃爪を引くと、男の遺体に十数発の砲撃が炸裂する。連射の衝撃は空虚な胸を内側から揺さぶる。千々に乱れ溢れ出た感情を、とんとんと箱を叩くようにして、また小さな胸の中に戻した。轟音が暴れ轟くなか、男の体は炎に砕け、香ばしい肉の匂いを含んだ白煙があたりを覆った。カトレイシアがその匂いに咽て、白煙を払い、男だったものの痕跡に視線を落としてみると、そこにはもう乳の入った忌々しき鉢はなかった。同時に、宗主国石霜から預かったヤギも、そこにはいなかった。  カトレイシアは漆黒の銃床を肩から外した。  銃には『ピグメント』が塗布されていた。ピグメントは使用者の放つ生体波を高効率で魔力に変換する。由緒ある家には代々伝わり、カトレイシアが使用する《クランベリー》を最大出力で使用すれば、戦艦をも落とせると言われている。その銃を、哀れな野草園の下働きの男に連射したのだ。とうぜん遺体はあとかたもなく消えるし、ヤギも逃げ出す。  旅人の足でおおよそ六十四歩の距離を一丁と数えた。その丁を重ねた六十四丁を一里と数え、それは地球人類の感覚で言えば3キロに少し足りない距離になる。墨壺の入り江から見張り塔までは半里の距離があった。その日の見張り塔には、五人の海賊がいた。  四本の木で組まれた櫓に階段はなく、帆船のマストにあるような足掛けが点々と続いている。海賊たちは海の上にいるときと同じように軽やかに柱を上り下りし、《虚ろ》と《枯葉》が姿を見せると、フックの付いたロープを投げ下ろした。そのフックを握ると、上にいる海賊たちが一気にロープを巻き上げた。普段は《枯葉》が先に上り、《虚ろ》がそれに続いたが、この日《枯葉》は《虚ろ》に先を譲った。 「これからは、あんたが先だよ。行きな」 《虚ろ》は「おう」と合図を返して、両手にフックを握り、ロープが巻き上げられると、サンダル履きの足でマストを駆け上った。遅れて《枯葉》が見張り台へ上がると、虚ろは東の海羚領に白煙が上がるのを見ていた。周囲の森は、谷と街道に分けられ、それぞれに名前があり、そのなかの《クソの木立》と海賊たちに呼ばれている海羚領に白煙は上っていた。 「銃声もあそこから聞こえたのかい?」 《虚ろ》が尋ねる。 「おそらくそうだろうな。魔法銃だ。相当の出力で連射してる」 「あんなところで、いったいだれと交戦したんだ?」 「わからねぇ。あんな懐奥に入って銃撃戦なんて」  このところ峠の里の一部が、海羚の徴兵に反発しているという。自警団の一部にはそれに同調する動きもある。里の総意としてはまだ海羚から離れるつもりはないが、為政者の意志も肉体たる民が圧すれば変わる。峠の里にことが起きれば、国境が閉ざされる。そうなれば石霜も動かざるを得ない。 「オレたちもいずれ、どっちにつくか、選択を迫られるぜ」 「選択ったって、どことどこが戦争になるんだ?」  海賊の男が口元にその答えを含ませると、《枯葉》が割り込んで応える。 「わたしたちの敵はセダン人でしょう? ラタン同士で戦争してどうなるの?」 《枯葉》の柔らかい声に、ちがいねぇ。そりゃあそうだ。オレもそう言おうと思っていたんだ。どれが本音だかわからない屈託のない海賊の声が続く。  墨壺は海に面し、陸側は峠の里、海羚、石霜の三国に囲まれていた。このなかでセダン人との戦争に血道を上げているのは宗主国の石霜。海羚は徴兵を求められ、カトレイシアも幾度か前線を見聞し、形だけの指揮を執った。カトレイシアの命令で、すでに数百のラタン、セダンが死んでいる。峠の里のマシロイ一家も長男を徴兵され、騎士の称号を贈られて前線に出された。要は称号のついた人質だった。墨壺のモートには息子がないが、《枯葉》と《虚ろ》に名が贈られれば、マシロイの息子同様に騎士として徴用を受ける。すなわち、あとひとつきもすればジュディ・クラムランは騎士として前線に立つ。そこではひとを殺せば殺しただけ評価が上がる。その活躍は里の評価にも繋がり、やがては語り部が伝える物語となる。英雄、あるいは英霊として、いずれにしても、名が必要となる。 「そうそう、オレたちセダンと戦うしかないから、つくとしたら海羚だな」 「ああ、それが筋だが、御館様の決めることよ」  海賊たちの胸の中で、諦観と信頼に区別はなかった。この安心とも失望ともとれない表情が、やがて彼らの言語となる。  伝令の勤めを終え、娘二人が下へ降りる準備を始めたそのとき、街道を疾駆する乗り手の姿が見えた。海賊たちがクソの木立と呼んだ森から海羚へ向けて二頭の馬が土煙を上げる。気を取られていると信号弾が上がった。ちょうど銃撃の白煙が見えたあたりからだ。 「信号弾?」  海賊のひとりの表情が曇る。 「ああ。まずいことになったな」 「まずい? というのは?」 「特別招集の信号弾だ。すぐに海羚の船団が飛んでくるぜ」 「マシロイの連中、おっぱじめやがったな」  木星の一日は地球の半分にも満たなかった。昼の空に輝く太陽もない。ただ太陽に面した大気が励起して光を落とした。 《枯葉》と《虚ろ》が見張り塔からの帰路を半分ほど歩いたとき、目の前に一頭のヤギの姿を見留めた。左の耳に斑がある。ふたりはすぐにそれが石霜王家の血統のヤギだとわかった。 「王家のヤギ……」  一頭のヤギを前に、ふたりは硬直した。

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