うみねこまりな(2)鬼の棲むところ

第二章 鬼の棲むところ
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第二章 鬼の棲むところ

 江藤茉里奈は豊島区の有名私大を出るとすぐに弁護士事務所に採用された。実家を離れて四年、東京での暮らしにも慣れていたはずだったが、五月にはもう欝を患うようになり、夏になる前にはその職を辞した。しばらくは電車にも乗れなくなった。実家へ帰ることも考えたが、自分が何者かを知るまでは親元に戻りたくなかった。高校、大学と、とくに目指すものもなく、弁護士事務所は二十ほど受けた就職先の中のひとつ、自分を選んだ企業の中で、最も待遇が良いところを選んだつもりだった。  次の年、小学校教諭の免許を取った。しばらく忘れていたが、小学校の先生になるのは幼い頃からの夢だった。勤め先は満員電車を避けて、アパートのある練馬で探したが折り合わず、考えあぐねるうちに、都会への嫌悪ばかりが胸を占めた。ようやく職を見つけたのは、日本海に面した小さな港町。引っ越し代と、家賃の半分を町が補助してくれると知り、自分の活躍が期待されているように思った。そこでなら、やっていけるかもしれない。いくつかの映画やドラマのシーンを思い出して、笑みが零れた。  新潟に来てからは、集落から少し外れた一軒家に住んだ。すぐ近くに住む大家の立花良美は気の良い人で、多いときは日に2~3度江藤茉里奈の家を訪ねた。都会から先生が来るということで話題になり、引っ越しの片付けも終わった週末、顔役の家で歓迎会が開かれた。顔役には以前に挨拶をしたことがあった。元市議で、息子は現市長の秘書を務め、次の市長選への出馬も内定している。固く手を握って、四年生になる孫の健二をよろしくと頼まれたが、江藤茉里奈の担任は五年生になった。  四月、五月と、江藤茉里奈の家にはたびたび近所のひとから野菜や鮮魚が届けられた。届けたものはおおかた立花良美と立ち話をしてゆくので、江藤茉里奈が玄関の鍵を刺すとき決まって、今日は小林さんがなにそれを届けてくれたそうよ、三島さんからお魚が届いているはずだから冷蔵庫に入れてね、と声がかかった。部屋に入ると勝手口の板の間に野菜入りの、あるいは鮮魚入りの箱が置かれている。付け届けのあった日は電話帳を開き、お礼の電話を掛けた。番号がわからないときは、果物ひとつ、菓子のひとつでも持って立花良美の家まで出向き、今日の出来事を話をして、「そう言えば」と切り出して、番号を聞いた。  勝手口の鍵は窓から手を入れればだれでも開けることができた。最初は不用心だと思ったが、窓の鍵を閉めて出かけると立花良美が良い顔をしなかった。納屋には知らない人の軽トラが留められていた。町のものに悪いものはいない。勝手に部屋に上がり、野菜を置いていくものはあったが、その逆はなかった。一度、町の男が帰宅前の時間に勝手に部屋に上がり込んでいたが、そのときは顔役の裁定で、鍵を掛けていなかった江藤さんも悪い、という話に落ち着いた。このとき、江藤茉里奈がすぐに荷物をまとめだしたので、『都会育ちの人だから鍵を掛けるのはしょうがない』という話に落ち着きはしたが、忍び込んだ男が責められることはついになかった。  それから、若い女の一人暮らしは危険だからと、立花良美は気を回すようになった。週末の会合にもよく誘われ、地域の発展のためと言われると断るにも断れず、町有地の整備の話や、公民館の電子化の話、独居老人の世話の話など、概ね男たちだけで決める会合で、お茶を淹れ、その後片付けをした。会合が終わると、帰り道で立花良美はよく参加者のことを話した。山本さんの家は三代続いた農家の長男で、南向きの土地や畑がある、島田さんは江戸時代の庄屋からの分家で、隣町に工場がある、どちらも好青年だが、この町の女たちは見る目がない、田舎者はみんな都会に憧れて、そこで男に騙されて帰ってこない。そう零しながら、島田家の土塀沿いの道をたどり、その塀が途切れた林の奥を、「この前いった、あれ」と、小さく指差した。立花良美は顔も向けずに、眉をしかめる。指差した先には、古い土蔵が見えた。  その話はつい先日、公民館で聞いた。何代か前の島田家の当主に隣町から輿入した嫁が、鬼を生んだのだと。だれにもいっちゃだめよといいながら、そこにいるものたちと顔を寄せて、声を潜めて、それぞれが知る話を出し合い、鬼の様子、嫁の処遇、島田家の因縁などを、一つの紐に撚り上げた。  江藤茉里奈の大学時代の専攻は法学だった。一方で、社会学、民俗学にも秀で、『生贄とコモンロー』というテーマでゼミ論を書いた。犯罪や秘密の共有から共同体の結束が生まれ、それを隠蔽し、内包する形で法が整備されていく。デニス・ポートマンはその論文を高く評価した。 「藩主様に仕えた鬼の話があるじゃない。そのDNAが今も遺伝で出てくるらしいのよ」  眉を寄せた立花良美の説明に、そこに集まった顔が頷きあう。江藤茉里奈は、この町の深いところに足を踏み入れたことを悟った。やがて、彼女自身も何かしらのイニシエーションを通過することになる。秘密を共有したいま、罪を共有するのも、そう遠くはない。  この地方では、鬼の話はよく聞かれた。女が罪を犯すと、鬼の子が生まれる。どこかに鬼が生まれれば、その秘密は地域で共有される。土蔵に隠して育てることもあれば、神の手に送り返すことも、母子ともに村から追い出すこともあった。そこに手を貸すものが増えれば、後ろめたさは消える。罪が罪でなくなれば、ひとは己の理性を信じることができる。そうしてひとびとの理性が取り繕われることで、日々の平穏があった。その平穏の輪郭は知識によって定まった。たとえばDNAという言葉がその輪を広げもしたが、ここではまだ、知識は慣習に従属していた。  立花良美の言う『鬼』が何を示しているか、明確にはわからなかった。鬼の解釈については、民俗学でもいくつかの説がある。ただ概ね、自分たちとは違う異質な存在が鬼とされた。そういう意味では恩師のデニス・ポートマンも鬼なら、よそものである江藤茉里奈も鬼だった。いつ彼らの敵意が自分に向くかはわからない。鬼は子どもたちが見るアニメで、あるいはその遊ぶゲームの中で主人公の敵となる。その因果は、この社会が何千年も受け継いできたものだと、子どもたちは知らない。おそらくは、それを描く側も。立花良美が眉を顰めて「島田家の嫁が鬼を生んだ」と話すことと、子どもたちがゲームで無邪気に鬼を討つこととは地続きだった。 「怖いですね、鬼だなんて」  そう答えると、「そうなのよ、怖いのよ」と、立花良美は肩を震わせてみせる。  江藤茉里奈は自分が鬼であることを悟られないために、こうして何かを一枚ずつ剥ぎ取っていくしかなかった。  初めての卒業生を送り出したあと、江藤茉里奈はまた五年生を担任することになった。向井裕貴が転校してきたのは、その直後、六月のことだった。  江藤茉里奈と同じように、東京から越してきた向井裕貴は、越後弁に戸惑い、言葉を喉に通すのをためらっていた。板書された名前を見て、「ひろき?」「ひろたか?」と生徒たちが私語を交わすのを聞きながら、もじもじと紹介されるのを待った。  都会から越してきたから殊更おしゃれだと言うわけではなかったが、ふだん通りに押し入れから、あるいは物干しから、パッと目についただけの服を着て来たものと、転校の初日、校長先生にも挨拶するからと正装した母に釣り合う衣装を着せられた向井裕貴とでは、自ずと差が生まれた。その服が、『東京』という音の響きでキラキラと輝いた。  サッシの窓には少し錆が見えたが、木造の校舎のなかでは窓だけが真新しく浮いていた。教室の後ろの黒板は古く、少し小さく、ところどころにひび割れがある。かさの黄ばんだ天井の蛍光灯、きしむ床板、ランドセルの棚、何もかもが新宿の小学校とは違い、その何もかも違う環境の中に馴染んでいる生徒たちの姿は、更に遠いものに思えた。 「向井裕貴です。東京から来ました。よろしくおねがいします」  あえて通っていた学校名は言わなかった。なのに、「向井くんは新宿区立花園はなぞの小学校から来ました」と、江藤茉里奈が言ったおかげで、「新宿!?」「花園!?」と声が上がった。ほんの一瞬でただの転校生が、大都市新宿のお花畑から来たメルヘンな転校生に変わった。  いままでの学校と新しい学校と、算数の教科書以外は同じだった。その算数の教科書も、江藤茉里奈が卒業生に声をかけて、お下がりを貸してもらえた。ページにはところどころ落書きがあって、向井裕貴は授業中、その隣に新しい落書きを書き加えた。新しい教科書が来たら返すことになっている教科書の、その返す相手は中学1年生だったが、向井裕貴は同い年の友達と文通するような気持ちで落書きを重ねた。  二週間もすると、それなりにではあるが新しいクラスにも馴染んだ。パソコンの授業は専門の先生ではなく、江藤茉里奈が教えた。前の学校では、担任はパソコンのことが何もわからず、向井裕貴のほうが得意になって教えることもあった。向井裕貴はパソコンがあれば旧友にメールが送れると思ったが、その方法まではわからなかった。古い友だちと、新しい友だちがクロスフェードしていくなか、その狭間、何もない溝に陥りそうで、怖かった。  親の都合で勝手に転校が決まったことには腹を立てていた。同じクラスに好きな子がいたことを母親には言わなかったが、口論するうちに察したようだった。その子のことは片思いだけど、向こうからも時々声をかけてくる。交際というものがどういうものかはわからなかったが、その子がいると思うと学校へ行くのも楽しかった。  朝一番に教室に入ると、その子も必ず同じ時間に登校して来て、しばらくふたりでノートに書いた落書きを見せあった。その子となら噂になってもいいし、からかわれてもいいと思えた。  引っ越しが決まったのが5月、その前から準備は進んでいたが、向井裕貴に知らされたのは、新潟の母の実家に帰ることが確定したあと、その日は一日、泣きながら母を責めた。ただ、そのときはまだ、父もともに暮らしていた。父の目の前では母を責めないようにした。  転校を前にして、クラスメイトとの間には少しずつ距離が生まれた。転校の前日まで何も変わらないつもりでいたのに、一週間前にはもう、週末のサッカーの予定には自分が入っていなかった。ましてや夏休みの話となると、自分だけがぽっかりと浮き上がっていた。朝起きるのが遅くなった。登校時間も少し遅くなった。朝、教室のドアを開けると、もう半分くらいの生徒がそろった教室で、意中の子は静かに席に座っていた。  最後の登校日、早めに家を出た。胸の中にぼんやりと『告白』という言葉を浮かべながら教室に入った。教室には、その子のほかにあと数人の友人がいて、その子はほかのだれかと話していた。その子が向井裕貴の姿を見留め、声を出すよりほんの一瞬だけ早く、親友に肩をつつかれた。 「今日で最後だよな」  不意のことに、ああ、うん、と頷いて、「夏休みになったら一度東京に帰ってきてもいいって、お母さん言ってたから、一緒に遊びに行こう」と、その親友とだけ約束した。  新潟に来て、向井裕貴は電車が好きになった。踏切の警報が鳴り始めて、電車が通り過ぎて、また遮断器が上がっていく様子を、自転車にまたがったまま眺めるのが好きになった。意中の子が最後に話していた相手のことばかり思い出される。彼女はきっと、あいつのことを好きになって、自分のことなんか忘れるんだと思った。 「夏休み、東京へ行けなくなりました」  友達に手紙を書いて、母親と祖父母にその旨を伝えた。  遠慮しなくてもいいのにと取り繕う母に負担をかけたくなくて、新しいクラスにもっとちゃんと馴染もうと思った。自転車で友達の背中を追いかけて、長い石段を上った神社の境内にちょっといやらしい大人の本を隠した。病院や役場をはしごして、備え付けの漫画を読んだ。捨てられてたプレイステーションをテレビに繋いで遊んだ。いつしか向井裕貴は五年生のリーダーになっていた。親友もできた。その親友の石崎勝から、クラスのだれそれがおまえのことが好きらしいとも聞いた。それからその子のことを意識するようになって、だけど目があうたびに、思い出される顔があった。ひとりで浜に出て、砂の上に好きだった子の名前を書いた。その名前が、波で少しずつ消えていくのを、ひとりでじっと飲み込んだ。  自転車に乗って、踏切を渡り、浜辺へと続く草むらに自転車を停めると、砂浜の中ほどに人影をみかけた。風で髪がぐちゃぐちゃに揺れているけど、それが江藤先生だとすぐにわかった。ウミネコが舞う空の下、座禅のようなものをしている。先生は夕日が落ちるまでそれを続けて、立ち上がった。向井裕貴は意味もなく自転車に乗って逃げ出した。家に帰ると、玄関の前にあったアロエの鉢植えが割れていた。  明けて水曜日の朝、向井裕貴は校長室に呼び出された。  応接のソファに座らされると、目の前には4つの石が置いてある。 「見覚えはあるかね」  校長が聞いてくる。  わけもわからず、「どこの石ですか?」と逆に尋ねると、校長が呆れる。 「知らないなら知らないって言って、向井くん。あとは私と校長先生とで話すから」  傍らにいた江藤茉里奈に言われて、知りませんと答えると、「うん」と先生は笑顔で頷いて、向井裕貴を教室へと返した。その後すぐ、「線路に置き石があった」という話が、向井裕貴の耳にも入った。だれがそんなことをしたのかと訝っていると、どうやらその犯人として自分の名前が挙がっているらしいことも伝わってきた。そう言えばなんとなく、クラスの空気も違っていた。  向井裕貴にやましいところは何もない。だけど噂では、ほぼ置き石の犯人に仕立て上げられている。とぼとぼと家に帰りながら、母が聞いて本気にしたらどうしようと考えた。割れたアロエはプラスチックの容器に植え替えられていた。  8時を過ぎて母が帰って来て、夕食をとる。祖母の作る料理は少し甘ったるかったが、その味にも慣れた。学校での雰囲気を引きずっているのか、食事をしていても何か胸の中に引っかかるものがあった。それで置き石の話を向井裕貴の方から切り出した。 「あれ、僕じゃないよ、置き石したの」  言葉を選んで慎重に切り出したが、それ以上に母も祖父母も穏やかだった。 「ああ、わかってる」と祖父。  母に至っては、「ごめんね、あなたにまで心配掛けて」とまで言い出す。  そこまで聞いて逆に心配になる。だけどそれを根掘り葉掘り聞いてよいかどうかがわからない。木曜日、学校に行くと、上履きに土が入れられていた。  向井裕貴の母、向井恵理はホームページに日記を書いていた。まだ夫の浮気が発覚する前、息子の入学式の前の年から始まり、離婚調停が始まると話題はそこに移る。最近では新潟の実家に帰ってからの生活が投稿されていた。  ――空が広い!  コンビニがめちゃくちゃ遠い!  まだ19時なのに、店がぜんぶ閉まった!  向井恵理の旧姓は富岡といった。この町で生まれ、小学校、中学校と通い、高校を出ると同時に上京し、東京の大学に通い始めた。大学を出たあとは東京でデザイン事務所に就職、結婚し、子を儲けたが、夫の浮気が発覚し、去年離婚が成立、親権を得て地元に帰ってきた。地元には彼女を覚えているものも多かったが、知人と顔を合わせるのを避けるように、仕事はふたつ離れた町に求めた。  ――あなたは○○○人目のお客様です!  と書かれた数字の下には色付きで文字が流れる。向井恵理のホームページには真新しい表現が用いられていた。学校でもデザイン事務所でも地味で目立たなかった彼女の、少し浮かれた文章が顔文字とともに流れてくる。  いまでは個人でホームページを持つものも少なくないが、彼女が始めた頃にはまだ希少だった。昔からのパソコン通信メンバーや、MAC好きのデザイナー、IT関係者くらいしかいなかった。最近では海外で呼ばれてるように『ブログ』と呼ばれることも増えてきたが、向井恵理は一貫して『ホメパゲ』と呼んでいた。ログを遡ると、夫の顔はマジックで塗りつぶされてアップし直されていた。学生からデザイナー、主婦、母親になり、住む場所も調布から新宿、新潟へと移ろった向井恵理にとって、ホメパゲは唯一の揺るがざるアイデンティティだった。とくに掲示板は大切な交流の場だった。同じようにホメパゲを持つものの間で相互にリンクし、メッセージを書き込んだ。そこに、町役場のパソコンから書き込みがされたのが二週間前。  ――エリのページですか? 富岡さんですよね。黒田彩香です。覚えてますか? 今は横森ですけど。自分でページを作れるなんてすごいです。こんど私にも教えて下さい。  その翌日、向井恵理は掲示板を閉鎖。  ――サーバの調子が悪いみたいです。ごめんなさい。  ページを遡ると、妙高高原で草スキーを楽しむ姿があった。まだ就学前の息子を連れて、夫の写真はマジックで塗りつぶされてウンコのシールが貼られていた。自分を裏切った夫を許す気はなかったが、それと同じように、地元にも嫌悪感があった。富岡という姓で、呼ばれたくなかった。とくに、この町では。  心配性の高江雪乃は富岡家の近くに住み、向井恵理と同じ小学校に通った娘がいる。娘とふたり、引っ越しの挨拶に来たのがもう30年前。もうすぐ還暦を迎える。 「お久しぶりです。今年はちょっと作りすぎちゃって」  と、梅干しの瓶を持って訪ねて来た。部屋へ上がるよう促されるが、いえいえ、すぐに帰りますから、と、土間で立ち話を続ける。 「娘さん、良かったですね、帰ってこられて」 「いえいえ、出戻り娘でお恥ずかしい限りです」  そんなとんでもない、と合いの手を入れたあと、上越市に嫁いだ自分の娘の話を始める。このところ連絡もよこさず、電話が鳴るのも年に一度、米を送った時だけと嘆いてみせる。本題でもないだろうその話に、富岡貞夫はにこやかに相槌を打つ。  空気が十分に和んだころに、高江雪乃は切り出した。 「エリちゃんは大丈夫ですか? 町の悪口をインターネットに書いてるって言われてるけど、あのエリちゃんに限って、ねえ」  年老いた夫婦にはインターネットのことはよくわからなかった。ただ眉をしかめ、娘が帰ったら質しておきますと、求められている返事を返してその場を逃れると、翌日は威勢のよい小林寛太が訪ねてくる。娘さんがこの町を嫌うのはわかる。だからといって、インターネットに悪口を書くのもどうか。顔役に挨拶もなし。それで、別れた旦那からはいくら養育費が出ているんだ。そう言えばあんた、工場の誘致に反対したが、いまはどうなんだ。  とりとめのない話に富岡貞夫は合いの手をいれる。いやいや、それはまあ、不徳の致すところで、それはもう、おっしゃる通り。 「しかし災難だったな、追ん出した娘が、こんな歳になってコブ付きで帰ってくるとは」  ちょうど帰宅した向井裕貴が、玄関のドアを引く頃に、話も終わる。 「かわいそうに。こんな話に巻き込まれて」  野球帽の頭を、小林寛太はポンポンと撫でて玄関を出る。向井恵理の母、富岡みゆきは悔しくて涙が止まらなかった。その悔しさを何度か自分の娘にぶつけもした。向井裕貴は泥に汚れた靴を自分で洗った。  置き石を疑われた日から二週間がたった。親友の石崎勝を問い詰めたけど、靴に泥を入れたのがだれか、置き石で自分を陥れようとしているのがだれかは、わからなかった。だけど石崎勝は、その犯人を知っていたし、向井裕貴は、親友がそれを隠していることも勘付いていた。母親のホームページにきっかけがあるだろうことを、石崎勝の口から聞き出せたけど、それを母親にも、祖父母にも質せなかった。  それから向井裕貴は、踏切に近づかなくなった。靴に泥を入れたのがだれかもわからず、石段の上の溜まり場へ行くのもためらわれた。ふと、空にウミネコの姿が見えて、江藤茉里奈のことを思い出した。  海岸へ行くと今日も、ウミネコが舞う空の下で、江藤茉里奈が瞑想していた。その背中を見て向井裕貴は、支援員の手も借りずにパソコンを扱っている姿を思い出した。涙が零れた。 「助けて」  波の音に紛れて、小さな声が口に漏れた。  江藤茉里奈は学生時代、デニス・ポートマンから呼吸法を習っていた。舌の形、動かし方、リズム、これらをコントロールすることで変性意識に入ることができた。ゼミを終えてからはすっかり普通の生活に戻っていたが、恩師が旅立った場所で何度か蓮華座を組み、呼吸を整えているうちに、昔のコツを思い出してきた。  最初は、恩師のあとを追うつもりで瞑想を始めた。だけど何度か試すうちに、恩師に起きたことが現実か夢かわからなくなった。そのうち、そんなことはどうでもよくなった。ただ、呼気が尾骶骨のムラダーラ・チャクラから、頭頂のサハスラーラ・チャクラへと抜ける喜びだけを感じた。  木星にいる存在とのチャネルが開いたのは、向井裕貴が転校してきてすぐの頃だった。薄く目を開いた先に、その幼い姿は見えた。名を尋ねると、『小川に遊ぶ日の木漏れ日・ハシジロ・カトレイシア』と名乗った。デニス・ポートマンのことを訊ねても知らなかったが、ミノーラという別の大陸に住む魔女が、地球人を召喚しようとしていたので、それに関連するのではないかと教えてくれた。 『地球人を召喚』と聞こえた言葉の意味が、俄にはわからなかった。 「召喚って、どうして地球人を召喚するの?」 「わたしたち、ラタノールと、ミノーラのセダン人は、まったく違う文化を持っていて、その力は拮抗していた。文化が違いすぎて、お互いに理解することもできなかった。だけど地球人は、その双方を理解する。地球人を触媒にしたら、お互いの力を手に入れることができる」  そう説明するカトレイシアの口調は幼く、小学6年生程度の子だと実感した。  そのカトレイシアが、「悲しみが来る」と、不意に漏らし、江藤茉里奈は彼女の身になにか起きたのだと思った。 「どうしたの?」 「とても悲しんでるひとが、来る」  次の瞬間、江藤茉里奈のうしろで「先生助けて」と、向井裕貴の声が聞こえた。  江藤茉里奈が振り返る間もなく、向井裕貴はその場で膝をついて泣き始めた。江藤茉里奈は、肩に手を置いて、もう一方の手で向井裕貴の腕のあたりをさすった。 「大丈夫。先生が代わりに泣いてあげるから、もう泣かないで」  このとき、江藤茉里奈も向井裕貴を取り巻く状況はそれなりに理解していた。彼女自身ももうこの町から、この学校から逃げ出したくて、あまり深入りしないままここまで来ていた。 「また来るね、カトレイシア」  そう言うと、江藤茉里奈にだけ見えていた幻影は、小さく微笑んで姿を消した。江藤茉里奈の声は向井裕貴の悲しみに溢れた胸に、絵筆の水滴を落とすように小さな違和を広げた。 「行こう、向井くん。先生がみんなに、ちゃんと話すから」  江藤茉里奈が向井裕貴の家を訪ねたのは20時近かった。ちょうど仕事から戻った向井恵理と鉢合わせ、事情を話した。その日は食事を呼ばれ、夜遅くまで話した。置き石をした犯人、アロエを割ったもの、靴に泥を入れたものの名前を、向井裕貴以外の四人は知っていた。だけど四人とも口にしなかった。  別れ際、玄関口で江藤茉里奈は「それでも、話してみます」と言った。向井裕貴の祖父はその背中を見送った後、「都会育ちの女は気が強くていかん」と、静かに漏らした。  次の日、江藤茉里奈は顔役の孫、西澤健二を職員室に呼びつけた。校長にもその意図はわかっていたが、何の証拠もなく市長秘書の息子を呼びつけたことで、肝を冷やした。  江藤茉里奈は淡々と、置き石の件、アロエの件、靴に泥を入れた件について知っていることを話すように質した。西澤健二はこの質問のすべてに知らないと答えた。職員室の外に向井裕貴の姿が見えて、西澤健二は目が合うと、挑発するように江藤茉里奈につばを吐きかけて見せた。向井裕貴は職員室に駆け込んだが、すぐに取り押さえられた。  その夜、世話焼きの立花良美が江藤茉里奈のもとに見合い写真を持って訪ねてきた。 「結婚する気はありませんから」と断ると、「向井さんのところもそうだけど――」と切り出し、この町で独り身でいることがどういうことかを淡々と語った。言葉を濁していると、立花好美は強く、釘を差すような口調で質す。 「あなたは、どうするつもりなの? この町のひとになるの、ならないの? 役場がいくらお家賃補助してくれてるか知ってるでしょう? みんなあなたに良くしてあげてるじゃない。あなたのためを思って言ってるのよ? あなたがこの町に残れる、最後のチャンスなのよ?」  大げさな言い回しに、これみよがしに溜め息でも吐いてみせようかとも思った。立花好美のロジックの綻びを、理詰めで問い質してもいい。だけどいまここで壁を作れば、向井裕貴の件が棚上げになる。 「ご好意はありがたいんですけど――」自分を偽り、「まだまだ若輩者で――」と続けてみるけど、続く言葉が出てこない。だけど、向井裕貴を救うことは決めていた。 「ご縁談の件は、いまの問題が片付いてから、改めて。そのときに必ず」 「いまの問題って、富岡さんの?――」 「ええ」 「そりゃ解決してもらわないと困るわよ。あなたの生徒なんですから」  そう言い合っていると、消防の鐘が鳴った。立花好美は構わず話を続けたが、江藤茉里奈は胸騒ぎがした。少し煙がたなびいているのが見える。 「あのあたりは?」  指差して訊ねると、立花好美も振り返り、 「駐在所の向こうかしら。西澤さんのお屋敷のほうじゃない?」  ここからそう遠くもない。俄に慌ただしくなる町の様子が見える。立花好美も「ちょっと様子を見てくるわ」と、その場をあとにした。  江藤茉里奈が予感した通り、向井裕貴が西澤健二の家に火をつけて、ボヤが起きていた。だが、それを目撃したものはいない。  翌日、江藤茉里奈は向井裕貴を職員室に呼び出した。 「あなたは真実を語るひと? それとも、嘘をつくひと? 口をつぐむひと?」  応接室のソファに座らせて、穏やかに問い詰めたが、向井裕貴は何も答えなかった。 「いずれにしても助けるから。あなたのことは」  呆れたように吐き捨てる江藤茉里奈の顔には、ほんのりと笑みがあった。  放課後、江藤茉里奈は海岸へ向かった。向井裕貴はその後を追って、先生が腰を下ろしたその隣に座った。向井裕貴は、先日のボヤの件で問い詰められるかと思ったが、江藤茉里奈は瞑想を始めて、口を開かなかった。 「ここで何やってるんですか、先生」  江藤茉里奈は穏やかに目を閉じていた。 「木星の、カトレイシアという魔女の家系の少女と話をしてる」  言葉の端々に波の音が重なり、向井裕貴は言葉を拾いそこねたのだと思った。零れた言葉を拾い集めて、その中の『木星の』という言葉を、どこに嵌め込んでよいか戸惑っていると、江藤茉里奈は、 「彼女たちの国には法律がないんだって」と続ける。  パズルのピースを手のひらに広げたまま、向井裕貴は言葉の続きを待った。 「ドリームタイムって言ってね、ある種の幻覚を共有していて、その中でいろんなことを解決できるから、法律はいらないんだって。そもそも法律に相当する言葉がないから、最初はすれ違ってばっかりだった」  ――この人は大丈夫だろうか。  正直、それが最初に出た感想だった。あるいは自分が子どもだから、ゲームかアニメの話にでも例えて伝えようとしているのか。江藤茉里奈は蓮華座を組んで、海風に髪をなびかせている。 「今起きてるトラブルなんか、すべてディスコミュニケーションが原因でしょ?」  ここでやっと、江藤茉里奈は目を開いた。 「あ、ええっと、ディスコミュニケーションってのは、コミュニケーションがうまく取れてないこと。だからもしかしたら、それが解決したら、私たちってもっと自由に考えられるんじゃないかなと思うの」  随分と遠回りした話だったが、向井裕貴は、江藤茉里奈が正直に話さない自分を責めているのだと感じた。だから―― 「どうして僕だけ本当のことを言わなきゃいけないんですか」  改めて問い返す。 「健二は嘘ついて、でもバレないから見逃される。どうして僕だけ真実を語らなきゃいけないんですか。僕だって黙ってたら見逃されるんじゃないですか。正直者が馬鹿を見るんですか」  江藤茉里奈は、その言葉が途切れるのを待った。 「どう返事しようかな」  言葉の意味を噛み砕いて、少し遠くを見て考えた。 「難しい言い方もできるし、簡単な言い方もできるけど、あなたはどのくらいなら理解できる?」  そう問われても、どう説明すればよいかわからない。 「そうねえ、松竹梅でいうとどれがいい?」 「じゃあ、松で」  向井裕貴は、松竹梅の順列がよくわからなかった。『いちばん簡単な方』という意味で『松』を選んだ。 「難しいよ。いい?」  いちばん簡単な『松』でもそんなに難しいのかと思いながら、静かにうなずいた。 「ラタノール、つまりカトレイシアの種族には『文字』がないの。どういうことかわかる?」  先生の口から出た言葉は、覚悟したほど難解なものではなかった。 「不便」  とっさに胸に浮かんだ言葉を口に出した。 「そう。でも、それだけかな」  それだけ? 文字がないとたとえば、書き置きができない、本もない、落書き……落書きはあるのだろうか。紙や鉛筆がない。ということは、難しい話も耳で聞いて覚えておくしか無い。 「すごく不便」  言い直してみたが、内容は同じだった。 「私たちは、約束は文字に残す。だけど彼女たちには、文字がない。文字がない社会でも、社会は契約で成り立っている。つまり、言葉が文字と同じくらいの拘束力を持ってるの。私たちは、言葉では嘘をついても、契約書があったら簡単に破ったりはしないでしょう? それは、社会が文字で成り立っているから。だけど、ラタノールはそうじゃない。お互いに言葉を信頼しなければ、社会が成り立たない。その、強い言葉で結びついているから、ドリームタイムという共通の認識が生まれ――」  ドリームタイムという共通の認識。「ここまでで何か質問がある人」と促されたら聞いてみよう、と頭の中の目立つ場所に付箋を貼る。さっきからこうして付箋を貼っているが、追いついていない。それなのに先生は、かまいもせずに先へ進む。 「――魔法が使える」  貼っていた付箋がバラバラと落ちた。 「私たちは、言葉を信じない限り、次のステップへは踏み出せない。だから先生は、真実を語りたい。どんなときも」  江藤茉里奈は続ける。 「カトレイシアのフルネームは、小川に遊ぶ日の木漏れ日・ハシジロ・カトレイシアって言うの。この中の、『小川に遊ぶ日の木漏れ日』が両親がつけた名前。ラタノールの世界では文字の代わりに、名前が人の気持ちや出来事を記録する。『ハシジロ』は鳥の名前で、幼い彼女の様子を見て名のあるひとが贈ったもの、それが彼女に期待される振る舞い。『カトレイシア』は彼女自身が好きな舞台劇の登場人物から取った名前で、彼女自身が選んだ生き様を表してる。まだ12歳くらいだから名前は3つだけだけど、おとなになるともっと増えるんだって。それに対して私たちの名前は、『親の家の名前』、『親が付けた名前』、以上。名前はただ個人を識別するだけじゃない。その形がそこにどんな文化があるかを示して、私たちはその名前に縛られるんだよ」  名前に縛られるなどということは考えたこともなかった。だけどこの言葉は、付箋に記すまでもなく、強く印象に残った。 「私にはまだ、私自身がつけた名前はない。師匠も私に名前なんかつけてくれなかった。だから、向井裕貴。あなたは、あなたの名前を見つけて」  その日、江藤茉里奈が向井裕貴を問い質すことはなかった。向井裕貴の胸にはただ、「名前に縛られる」ことと、「自分の名前を、自分で見つけなければならないこと」のふたつだけが残った。先生が伝えたかったこととは違うのかもしれないと思うと、少し不安になった。だけど、新しい考え方を手に入れた向井裕貴は、今までと違う人間になったような気持ちになった。  翌日は土曜日。向井裕貴は石崎勝に呼び出された。 「西澤さんのことで話がある」  ようやく親友が何かを話してくれる気になったと、向井裕貴は肩の力を抜いた。  石崎勝とふたり、踏切を渡り、石段の下に自転車を留めて、意気揚々と石段を登る。幼い頃から登り慣れた石崎勝が先行し、そのあとを向井裕貴が追う。一番上まで上り詰めると、西澤健二とその友人が待ち構えていた。すぐに踵を返そうとしたが、後ろからも仲間が出てきた。 「石崎ーっ!」  向井裕貴は親友の名前を叫んだ。 「どういうことなんだよーっ!」  石崎勝は社の裏でその声を聞いていた。だけど、何もできなかった。  向井裕貴は上級生たちにつかまり、ガムテープで手足を縛られる。何発か殴られたあと、目隠しされて、社の中に連れ込まれる。床板をどかすと、隠し部屋のようにして地下室があった。向井裕貴はそこに蹴落とされて、頭を打って意識を失った。  何時間かして、向井裕貴は目を覚ました。顔を振って目隠しを払っても、そこにあるのは時間さえわからない暗闇だった。耳元にはカサカサとネズミが走る音が聞こえる。 「助けてーっ」  叫んでみるが、その声はすべて自分の耳に帰ってくる。 「せんせーい!」  悔しくて涙が出てきた。  石崎はちゃんと大人たちにこのことを言ってくれるだろうか。いや、言うはずがない。だってあいつは共犯だから、言えば自分も責められる。じゃあ、僕はいつまでここに閉じ込められるんだ。まさか、死ぬまで? 「せんせーい!」  その声がどこかに届くなんて、信じることはできなかった。  腕のガムテープを解くころに夜が明ける。板の隙間から光が差し、ぼんやりと部屋の様子がわかる。多くの木箱が重ねられているが、何用の部屋かはわからない。階段らしきものがあり、その上の床板を押して見るが、びくともしない。物が乗せられている感触ではなく、おそらく釘が打たれている。明確に死を悟った。自分の死が迫っているのに、思い出されるのは母や祖父母のことだった。母を悲しませるのは嫌だった。ここで死んでしまったら、父と別れたことすら母は悔やむかもしれない。せめて先生に、本当のことを言っておけばよかった。先生のことを思うと、ふとウミネコの舞う空が脳裏をよぎった。  そして思った。  目を閉じて、このウミネコを追えば、きっと先生に会える。 「――江藤茉里奈、ウミネコ」  無意識に口から漏れると、先生の声が聞こえた。 「向井くん?」  思わず目を開くが、先生の姿は無い。  床板の向こう?  いや、先生の声は耳元で聞こえた。 「呼んでくれてありがとう。いまどこにいるの?」  先生の声だ。助けにきてくれたんだ。  向井裕貴は思わず立ち上がり、低い天井に頭をぶつけ、早口で今の状況を説明する。 「落ち着いて。それじゃ聞こえない。目を閉じて……呼吸を静かに。舌をストローのようにして、私が数を数えるから、それにあわせて息を吸って――そして、吐いて――」  1……2……3……4…… 「そう。呼吸に合わせて舌先を、吐くときは前、吸うときは後ろへ……呼吸を数えて……お尻から息を吸い上げて……頭の天辺から抜くイメージで……」  先生の声に合わせて呼吸をしていると、背骨を力が駆け抜ける感があった。意味もなく涙がこぼれてくる。体中が謎の興奮に震え、次の瞬間、先生の姿が見えた。 「お待たせ、向井くん」 「これはいったい……何が起きてるんですか?」 「何が、とか、そういうことを考えていると消えちゃうよ。まずは受け入れて」  江藤茉里奈は、瞑想による幽体離脱で向井裕貴の居場所を確認していたが、石崎勝を説得して、改めて居場所を聞き出すという手順を踏んだ。町の消防団数人でお堂に乗り込み、向井裕貴を救出、すぐに西澤健二の罪が暴き立てられた。西澤健二は容疑を否認したが、ガムテープに残る指紋を照合する段階になると、すべてを認めた。床板の釘を打たされたのは、石崎勝だった。  その後すぐ、西澤健二は隣町の小学校に転校し、その父は市長秘書の職を一時的に失ったが、ほんの一年でまた元の職に戻った。向井家には、『迷惑料』という名目で幾許かの金が振り込まれたが、この金額を巡っても町の噂は絶えなかった。  だれがどんな意図で動いていたのかはわからなかった。あるものは、向井恵理がお客様ヅラしているのが気に入らなかったと言い、あるものは、富岡家は昔から補助金を騙し取っていたと言い、あるものは、届けた野菜に礼の一言もないのは強盗と同じだと言い、あるものは、縁談話を拒絶されたことに深い恨みを持っていた。  江藤茉里奈は振り返って、「もし理由を探すとしたら、それは鬼を探すのと同じね」と言った。 「私たちがすべきことは、鬼を見つけてやりこめることじゃない。いろんなことを知って、知識の輪郭を広げるの。私たちを苦しめているのは鬼じゃない。鬼なんかじゃないんだよ、私たちを苦しめているのは」  向井恵理は相変わらずホメパゲを続けた。  ――いやあ、いろいろありますよ。やってもいないことで急に殴りかかられたりとか、笑いましたよ。まあ、愚か者をいくら責めたところで、一文の得にもなりませんからね。でもここを読んでいる皆さんは、そういう愚か者じゃないと思いますので、気にしないでくださいねー。  挑発する気があるのかないのか微妙な記事を上げ続け、町とは一切関わることなく、ネットで新しい恋人を見つけて、「血のつながらない妹ができそうだよ、裕貴、どうする?」と、五年生の息子に、嬉しそうに訊ねた。  向井裕貴が六年になると、江藤茉里奈は契約を更新しないという形で、体よくクビになった。契約打ち切りの理由は、向井裕貴を自分の部屋に入れたことだった。それを通告した書類には「みだらな行為が想起される」と書かれていたが、鍵を開けて勝手に忍び込む男のほうがよっぽど問題だと、江藤茉里奈は憤った。 「――それに、セックスはみだらな行為ではありません。人として当然の営みであり、また仮に私とあなたの間でセックスが行われたとしたら、それは単なる児童虐待です」  と、どこへ向かうかもわからない正論を、当の向井裕貴本人に向けた。  そうは言いながらも江藤茉里奈は、町の者たちが思い描く「みだらな行為」よりも遥かに大きなエクスタシーを向井裕貴に与えた。恩師、デニス・ポートマンから教わったヨガの呼吸法は、まだ成熟しない五年生の向井裕貴の体に、未知の興奮を教えた。  江藤茉里奈は、東京へ戻り、しばらくは広尾のシェアハウスに身を寄せることになった。小川に遊ぶ日の木漏れ日・ハシジロ・カトレイシアの国には、戦争の予感が立ち込めていた。敵対するミノーラに現れた『力』が、均衡を崩しているのだという。江藤茉里奈は、それが恩師デニス・ポートマンであろうことを薄々感じ取ってはいたが、口には出さなかった。ただ、「カトレイシアを救いに行きたい」とだけ、向井裕貴に告げた。  その向井裕貴はと言えば、母親がネットで見つけた新しい恋人の関係で、中学からは東京へ戻ることになった。上越新幹線の駅へと続くローカル線の踏切を走る電車を眺めて、公衆電話に百円玉を入れた。  何度か電話しようと試みて、いつの間にか暗記してしまった電話番号があった。  指の震えを押さえつつ、向井裕貴はプッシュボタンを押した。 「中学から東京に戻ることになって、夏休みにいちど、そっちに帰るんだよ。  そのとき、よかったら会わない?」  桜の季節が来ていた。  向井裕貴が新潟で見た、はじめての桜だった。

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