ためしよみ:昭和58年の宇宙移民

  • 第1章 搭乗者・古澤幹夫(1)
  • 第2章 小市民・古澤幹夫

第1章 搭乗者・古澤幹夫(1)

 昭和58年8月。  宇宙への旅立ちの前日、日本全土をオーロラが覆った。  北海道から沖縄まで遍く広がった光のカーテンを夏の終りのなま温い風が揺らすと、あと数年で、地球から地磁気が消失します――そう伝えるニュースキャスターの言葉とは裏腹、札幌の時計台を、大阪の通天閣を、そして沖縄、首里城をバックに日本各地から中継されるオーロラは、僕の胸に小さなときめきと別れの寂寞とを刻んだ。  僕と亜実あみは、すでに部屋も引き払い、世話になっている千駄ヶ谷の木村さんのアパートでそのオーロラを見上げていた。裸電球を吊るした小さな庭、七輪でサザエを焼いて、木村さんは僕たちのためにと、余市の蒸溜所で特別に手に入れたウイスキーを開けた。  ストレートで口に含んだモルトに、木村さんは眉をしかめる。 「これから、寂しゅうなるな」  七輪の煙に燻されて、オーロラを溶かしたウイスキーが僕の喉にも滲みた。 「木村さんは知り合いも多いし、すぐに忘れますよ」 「いや、そんなことないて。忘れへんて。沙也加さやかちゃんなんか、友だちがふたりもおらんよなるやんか。俺以上に寂しがるよ」 「でもそういう意味だと、いちばん寂しくなるのは僕と亜実だから」 「まあ、そやな。そやったな」  木村さんはプラッシーのコップを手に持ったまま、菜箸でサザエの向きを揃える。  オーロラの下、ラジオから流れる歌に合わせて、亜実はゆっくりと体を揺らしている。少し色を脱いた、落ちかけたパーマの髪。肩に届いた髪の、先の方だけゴムで結んで、白い麻のワンピースの裾が、亜実の体に遅れて回る。その耳に聞こえているのは、オーロラをかき分けてたどり着いた、昭和という時代の息を切らした喘鳴なのだと思う。探偵ものの映画の主題歌。光を集めて、纏うようなダンス。その指先は複雑で柔らかな軌跡を描く。  地球の重力で踊るのは、おそらくこれで最後になる。深宇宙移民団の船、ニニギ2号は、地上4百キロの衛星軌道上に待機し、いまこうしている間も、1時間半に1回、僕らの頭上を通過している。  出発の当日、新聞を買った。  僕たちと、沙也加と、木村さん。同じ日付、同じ新聞を、この日の記念として。  成田までは木村さんに車を出してもらって、僕と亜実は後ろのシートに座る。フィアットの小さなフロントガラスから見える空は、幾重もの空気の層の向こうに、宇宙の暗闇を沈めている。遠くには飛び立つシャトルの姿が見えて、目で追うと助手席に座る沙也加の横顔に隠れる。 「幹夫たちも、あれに乗るんだよね」  沙也加が指差す。 「そう。今日の午後には」 「そうか。それでもうお別れか」  背中の手の届かないあたりに、昨日からずっと、寂しさがこびりついていた。ラジオから流れる曲は夏の終わりを歌い、亜実は僕にもたれて、車は京葉道路を東へ。成田国際宇宙港へと走る。  少し前まで、成田は過激派の闘争でひどく混乱していた。だけど異常気象が続くほどに、彼らの間にも危機感は浸透し、メンバーは少しずつ脱落、宇宙港としての運用が決まったあとは、足並みが揃うこともなく軍に制圧された。もちろん、軍が本気を出したというのもあるし、世論がそれを許したというのもある。目に見える事件というのは、時代という大きな氷山の一角なのだと思う。滑走路の向こうにある慰霊碑は、いまは軍の管理地。木村さんの知り合いも何人かそこに眠っている。  酒々井しすいのインターチェンジあたりまでは過激派の小屋や看板が目に入ったけども、そこを超えると家も田畑もない。ここにもきっと民家はあっただろうけど、すべて取り壊されて更地になった。鉄条網と、軍の監視塔。闘争で何人が死んで、この広大な緩衝地帯を作るためにどれほどの市民が退去させられたことか。そのひとたちの気持ちはニュースを通じて僕の胸にも刻まれている。二十代、若くして落としたその生命が、テレビカメラに向かって叫んだスローガン。最後はだれかの言葉を借りただけのその人生だって、僕と同様の奥行きを持っていたんだと思う。その何千、あるいは何万かの犠牲を踏みつけて、今日、僕と亜実は宇宙へと飛び立つ。 「どんな気持ち? ドキドキする?」  助手席の沙也加が、静けさに曇った空気を払う。 「うん。ドキドキする」  どちらへ聞いているのかもわからない質問に、亜実が答える。 「宇宙に行ったら、俺らのぶんまでしっかり子孫残しいやー」  冗談のように木村さんはいうけど、それが多くの犠牲を出しながら日本人がたどり着いた答だった。崩壊に瀕した地球から、だれが脱出するとも知れないなかで、そのだれかの遺伝子を宇宙に上げるために、多くの命が犠牲になった。 「大丈夫だよ。地球は滅びないよ」  亜実は僕の手を握ったまま、独り言のように呟く。 「まあ、そのほうが助かるけどなー。でもそう思うんなら、なんで宇宙移民すんの?」 「なんで?」  その質問に少し亜実は言葉を探してるようだった。 「僕は単純な興味ですね。宇宙への」  割り込んで答えると、からかうように木村さんがいう。 「宇宙に行きたい理由が、宇宙に興味があるじゃ、答えになっとらんて」  ちらりとルームミラーを覗く目に、まあ、そうですけど――と、僕は笑顔を繕う。  宇宙は唯物論者がたどり着くべき極北なのだと思う。僕にとっては、ひとの意識や心や魂なんてものはすべて物理現象でしかない。すべては脳に蓄積された経験が再帰的に生み出した反射なんだと思う。だけど一方では、物理法則を見出したのは意識で、僕らが意識の表象として構築した世界は、世間の常識とともに変わってきたことも知ってる。僕は科学を信じ、神を否定してはいるけども、中世の時代に生まれていたら天動説を信じていた。唯物論といえば揺るがない基盤の上にあるように聞こえるけれども、それを探る僕らの意識は僕らの社会に規定され、この先もずっと変わり続ける。  だけど――あるいは、だからこそ――宇宙に行けば、そこから切り離されるだろうし、その向こうにもたどり着けそうな気がする。  セイタカアワダチソウの茂る原野。柔らかくハンドルを切りながら走ると、もうその先には駐機したシャトルが目に入る。そしてその向こうにはまた一機、シャトルが飛び立つ。 「宇宙では、肉体はなんの意味もないよね」  しばらく自分の指先を見つめていた亜実が口を開く。 「肉体は、地球で生きるための道具だから。その道具を持って宇宙に行くのって、浮き輪を持って山に行くのと同じだと思う」  僕の脳裏に浮き輪をはめて山の頂に立つ亜実の姿が浮かぶ。 「自分の体の、その無意味さを感じてみたい」  亜実と僕と、考え方は似ている。でも不思議なことに、唯物論者の僕のほうがそれを思考の問題として捉え、感覚的な亜実のほうが肉体の問題として捉えている。 「自分が無意味になるて。普通はそれを恐れるんやけどな」  木村さんの言葉に亜実は、「うん」といったあと、少しいいよどんで、「普通でいいんだったら、宇宙なんか行かないよ」と加える。  非合理的なことを普通はやらない。ずっとそこに留まるだけ。だけどだれかひとりがそこから逃げ出すと、ようやくそこに出口があると気がつく。そうやって世界が広がると、やがてそこも『普通』になる。 「真っ暗で何もない宇宙空間で、私の指は何をするんだと思う?」  亜実は自分の指先を波打つように動かしながら、答えのない問を投げかける。 「自分の体のことなのに、私、知らないんだよ?」  ここが千駄ヶ谷のアパートだったらきっと、この先もずっと問答が続いたのだろうけど、今日は寂しさがそれを堰き止める。切なさと笑顔を混ぜると、こんな色になるんだって、木村さんの顔が教えて、人差し指を立てて握った手が、ゆっくりとハンドルを回すと、車は緩やかにカーブを曲がる。移民船に積む荷物はもう預けてある。亜実と僕の手には小さなカバンだけ。地球にはもう僕らの資産は何もない。車に乗っている間はまだ、帰る場所がある気がしていたけど、この小さな空間を出てしまうと、残るのは不安だけ。  ゲート前に寄せて、ドアを開けると草の匂いが駆ける。  たったいま僕は地球から――人類という大きな器官から切り離されたんだ。  まだ宇宙にも出ていないのに、亜実がいった『体の無意味さ』が、僕の実感として浮かび上がる。おそらく思考もすぐに人類から切り離される。この手が、この足が、もう何の意味も持ち合わせていないような不安。それを見透かしたように亜実が手を握る。お互いの不安に蓋をするように。 「車を停めてくる」  と、木村さん。  亜実と沙也加とで話しながらターミナルビルへ入り、僕はそのあとを追う。  搭乗手続きの窓口にはカップルが並ぶ。概ね二十代。時折それよりも上の層が混じる。シャトルには1便あたり2百人が搭乗、これが成田から60便、その他の空港から50便。4日をかけて総勢2万人以上が移民船に乗り込む。成田は広大な敷地のほとんどがシャトル専用として運用されていて、羽田の混雑に比べると、ずいぶんとのんびりしている。  手続きを終えて、木村さんと再度合流。喫茶室へ入り、お茶を飲んで。 「これからも続けるんですよね、千駄ヶ谷でのパーティ」 「もちろんもちろん。来月もやるんやけど、宇宙からでも参加OKやで」  そういうと木村さんは思い出したようにビデオカメラを取り出して、肩に担いだ。 「なんか、最後にみんなにメッセージ残していかん?」  時計を見ると、僕らの便までは少し時間がある。亜実の顔を覗くと、小さく頷く。  ビデオを回して、僕はただ通り一遍のあいさつ。亜実はひとりひとりの知り合いにメッセージを送り、感極まって涙をこぼした。 「それじゃあ、地球のことはおまかせします」 「ああ、心配いらんよ。心置きなく繁殖してきたらええよ」 「道具のようにいわないの」  遠慮しながらもあけすけな木村さん。容赦なく冷たい視線を送る沙也加。地球ではこれからも、この日常が続いていく。  搭乗案内のアナウンスが流れ、沙也加は亜実に言葉をかけて、ハグして、手を握る。沙也加が見送りに来たのは僕じゃなく亜実だった。亜実もうっすらと涙を浮かべている。これでもう二度と会えないし、連絡もできなくなる。いつかどこかで死んだところで、お互いに知るすべもない。お盆に帰ってくることもないし、もしかしたら死後の世界よりも遠いのかもしれない。  僕も沙也加と握手を交わす。僕が失うものすべてを預けるような気持ちで。  こんなにまっすぐに沙也加と見つめあうことって何年ぶりだろう。  でも、あんまり長いと亜実が妬くから。握手の手の緩むほどに、寂しさに覆われる沙也加の顔を、振りほどくようにして搭乗口に向かう。木村さんと亜実。木村さんと僕。ハグを交わしていないのは、沙也加と僕だけ。搭乗口前でもう一度振り返り、手を振って、新幹線より二回りほど大きいシャトルに乗り込む。  小型の旅客機程度の室内の、運良く窓際の席。亜実を窓際に座らせて、僕はその肩越しに外を眺める。亜実はすぐに、僕が涙を流していることに気がついて、ポーチからキュービィロップを取り出してくれた。ふたつ入った色違いのドロップのひとつを舌のうえに放り込まれて、亜実とひとつずつ口に含んだ。  半分まで溶けた頃に、亜実が顔を寄せてくる。 「交換こ」  亜実と出会って、まだ3ヶ月。  ふたりは、宇宙へ行く。

第2章 小市民・古澤幹夫

 東京から初めてオーロラが見えた日。昭和42年。僕はまだ中学生だった。  進学祝いのラジオで聞いた、ドアーズ、ザ・フー、ヴェルヴェッツと、姉が買ったハード・デイズ・ナイト。お下がりのギターと、安いアンプが鳴らす歪んだ音。小学校の4年生を最後に、恋のことなんて忘れてしまった。  ラジオにノイズが乗る日はオーロラが見えた。  成層圏に降りる青白いカーテンが、太陽からの風を孕んで揺れる。  新聞もテレビも天変地異を予言し、人々は地球滅亡を予感するなか、オーロラの夜空を見上げるのがどんなに楽しみだったか。  あれからもう16年。  ジョン・レノンも、ジム・モリスンも、キース・ムーンも消えた世界で、僕は28歳になった。オーロラは日常になり、そしていま、僕にはたぶん息子がいる。  岬沙也加と出会ったのは、大学生の頃。彼女は3つ年上。洋楽とギターが趣味だというと、サムラ・ママス・マンナというバンドが好きだと煙を吐いた。沙也加にはすでにふたりの彼氏がいて、それは知った上で付き合い始めた。他のふたりの境遇も僕と同じ。代々木で偶然会った時は、お互いに何も感じない素振り、他人よりも更に遠いひとの目をして。  そんな関係が24の時、彼女が結婚するまで続いた。  沙也加の結婚相手は付き合っていたなかのひとり。子どもができたのがきっかけだった。彼女が選んだのは、家事や育児、あるいは身の回りのことを細かく見てくれるタイプ。そのひととは何度か会ったことがある。他の彼氏の顔なんか見たくもなかったのに、子どもが生まれてからはなぜか、旧友のように感じられた。それまでは特に彼女を愛してるなんて感覚はなかった。僕はただ大人びた関係に浸りたかっただけ、いなくなるならもっと早くいなくなれば良かったのに。そう思いながらも、  僕じゃないんだ――  そんな喪失感は拭えなかった。  アーティスト仲間が集まる『千駄ヶ谷の集い』というパーティでも、僕たちの関係はよく知られていた。2歳になる彼女の息子を見たのも、そこで。遺伝子的には僕の子なんだと思う。それは彼女も、その夫も知っている。  集いの主催、木村さんは 「で、本当の父親はどっちなん?」  と、あけすけに聞いて来たけど、それには彼女が、 「本当とか嘘とか、あんまり関係なくない?」  と、返していた。 「まあ、そうやな」  木村さんは少し遠慮したような、申し訳無さそうな顔で笑った。  僕は子どもが好きなわけでも、子どもを育てたいわけでもない。だけど本心では、「本当の父親は僕なんだ」って、その子にいって、父親らしい何かを示したいとも思う。たとえばいまやってるバンドで一斉を風靡して、ある日のライブの控室に彼女が息子を連れてきて、「すごいですね、こういうのに憧れているんです」なんていわれる日が来たら、どんなに気分がいいだろうって。  別れて4年。当時は意識しなかったけど、人生でいちばん好きだったひとはだれかと聞かれたら、彼女の顔が浮かぶ。愛といえるかと聞かれたらわからない。いや、愛なんて抽象的な言葉は要らないんだと思う。ただお互いのことに責任を持って、起きたことと、これから起こることを受け止めて行ければ、愛なんかはいらない。ただ譜面を追うように目の前にあるものを、その時の気持ちで胸に入れて、吐き出し続ければいい。  だけどその呼吸のようなものは、あっさりと途切れた。  昭和58年、6月11日、土曜日。  千駄ヶ谷の駅を降りて、息継ぎもできないほどのオーロラの下、星をかき分けながら歩くと、五叉路を越えた少し向こう、古い木造のアパートにはもう10人近いメンバーが集っていた。階下のひとにビールを持って挨拶をして、モツの煮物を分けてもらって。  木村さんは、異質な風体のせいかよく職質されて、薬物使用を疑われて髪の毛も調べられたりするひと。だけど警官のその読みは正しい。木村さんは、トリップできる野草に関しては日本でも五指に入ると豪語する。僕のバンドのテープを聴いて、「ええけど、普通やな」と笑っていた。  部屋には階下の住人からも借りてきたというテーブルが並べられ、手刀を切って輪の中に入ると、腰を下ろすなり隣に座っているひとが劇団のチラシを手渡してくる。 「来週末、スズナリでやるんです」  始めて見る顔でも、ここではスズナリで通じる。この気楽さがみんなを惹きつけるのだと思う。「これ」と、チラシの文字をさして、「水の精、中江亜実。これが私」と、自分の鼻の頭を指さしてみせる。 「中江さん、はじめまして。古澤です」 「ミキオくんでしょう? バンドやってるっていう。ミキオってどんな字書くの?」 「木の幹の幹と、夫で、幹夫。バンドは素人に毛が生えたようなものだけど、テレビにも出たことあるんですよ、何度か」 「聞いた。沙也加から」 「ああ。じゃあ、彼女との関係も?」  中江さんは肯定も否定もせず、ただ僕の顔を見て口角を上げた。  チラシを見て、公演の日時を確認して、 「行けそうなんで、チケット買いますよ」  といえば、連絡先を交換してくれる。 「今日持ってきたぶんはもう配っちゃった。取り置きしててもいいし、ここに取りに来てくれてもいいよ。月金は家にいると思う」  と、紙切れに住所を書いて。 「どんな舞台なの?」 「コンテンポラリーダンスを取り入れた、現代風のやつ」 「山海塾みたいなの?」 「遠くはないかな。詳しいの?」 「いや、海外で賞を取ったっての知ってるくらい」  そう話しながらも、別のグループの宇宙移民の話が耳に入る。ここのところどこへ行ってもそう。僕が小学生の頃に耳にするようになった話。地球資源の枯渇と人口増加、予測される天変地異。火星への移民が計画され、人々はこぞって切符を求めた。その切符はとても高価で、金持ちだけが汚染された地球を捨てて宇宙へ逃げ出すのかと批判されて、国会はいつも荒れていて、どこかの大学では連日の立て籠もりや闘争。 「東京で初めてオーロラが出たのが中1の時かな。2~3年中にはポールシフトが起きるっていわれてたよね」  中江さんは虚ろにグラスを覗いている。 「いま普通だからね。オーロラ」  その後、どこかの人権団体が『すべてのひとが公平に宇宙に行ける権利』を掲げ、国連でも問題になって、合衆国の火星移民第一弾は多種多様な人種、職業のひとが集まった。出発したのが確か昭和46年。2年後の昭和48年には、日本からも火星移民団が出発した。そしてひとむかし前に流行った芸人のように忘れられ、時折思い出されては、酒の肴になった。 「あのひとたちって、まだ火星で暮らしてるの?」 「暮らせてはいるみたいだけど、低重力の影響で受精・着床しないらしいから、次の世代はないみたい」 「そうだってね。帰ってくればいいのに」  おそらく、本人たちがいちばんそれを切望していると思う。  繁殖のあてもない低重力の火星ベースで、食料は自動供給され、地球で作られたテレビ番組を15分遅れで視聴する日々。彼らはそこにいったいどんな喜びを見出しているだろう。受験競争もないし、就職の心配もない。地球からの指示でデータを採取して送信するだけ。  地球はといえば、火星移民団からの10年でなにもかも変わった。量子コンピュータと量子メモリの発明を始め、20年前に始まった地磁気異常はどんな自然現象よりも人類に作用し、進化を促した。  宇宙移民の背景も変わって、いまはもう地球資源の枯渇はいわれなくなった。問題はいつの間にか異常気象や砂漠化にすり替わり、移民先も海王星、金星、深宇宙の三択。だけどそれでも、戦争は相変わらず。宇宙船開発に必要な希少金属を奪い合って、無駄にひとが死んでいる。  だけどそんな憂慮すべき事態も、ひとの口に上るときは笑い話。顔の見えない移民団と、どこか遠い国での戦争の話。まれに身近な親戚が火星に行ったひとがいても、酒席での笑い話は言いっぱなし。野暮な話は腰を折るだけ。  でも、何が正解かなんてわからないから、僕自身はニュートラルでいたい。  そういうと中江さんは「私も」と、グラスを向けてきた。  この部屋には、いくつかの星が煌めき、流れていた。そのみなもとは蛍光灯の光の一片なのだと思う。それが中江さんの睫毛にふれて、本物の小さな星に変わる。部屋の中の喧騒はもう、深い真空の向こう。たぶん少し、酔ったのだと思う。中江さんのシャツの首周りが浮いて、鎖骨の線に小さな星が光る。視線を泳がせる。何人の男がこうやってシャツの中をのぞいただろう。 「ダンスはうまいの?」 「うまいよ。小さい頃はバレエ習ってたの」 「裕福だったんだ」 「そう。お父さんに捨てられるまでは」  この日のこの会話が、人生で三度目の、恋のようなもののはじまりになった。  バレエを習っていた過去と、百人程度の小劇場で現代舞踊を踊るいまとが、彼女の中で接ぎ木されて、そのふたつの色に塗り分けられた彼女が、僕の中の特別な場所に座った。 「舞台が好きなの。胸に詰まったものを嘘にして吐き出せる。自然主義とか写実主義とかは嫌い。あれは文芸や芸術を傘にきたポルノ。エリートだけが己の肉欲を文章として昇華できますみたいなもんでしょう。クソだと思う」  見た目の印象と違って、言葉は鋭い。僕も隙を見せないようにとは思うものの、舞台やダンスについて知ってることなんてほとんど無い。それらしいことを聞いて、わかったふりをして頷くだけ。 「私のダンスは何も象徴しない。ただ、痛みを感じたら、その痛みを表現するだけ。理想はタコ。タコになりたい。たぶん何も考えてない。体に触れる感触、あるいは光や匂いへの反射だけで体が動く。その肉体の中で、私はじっと動かない静かな核でありたい。たとえばだれかに愛されるときも、たとえばだれかに殺されるときも、私はただ肉体の喜びを感じるだけの、静かな核でありたい」  その口にこぼれる言葉は透き通っていた。風のない水面を歩くように僕の胸の中に波紋を広げ、水際で返る波紋が文様を織りなす。 「シマウマが食べられる時の恍惚が好き」  たまに、無造作に小石をばらまかれるけど。 「そういうのを、ここで踊りで表現して見せてっていわれたらできる?」  そう訊ねると、皿に盛った料理を箸で刺して、くすくすと笑う。 「まだまだお子様だよね、キミオくんは」  おどけた瞳に、リアクションを失う。おとなだったら、どんな会話をするんだろう。 「まいったな。じゃあ、おとなになったら見せてくれる?」 「無理だよ」 「無理?」 「私たちはもう、おとなになんてなれないんだよ。この地球では」  意味がわからない。会話の筋がつかめなくて、おとなになれない、羽化できない、幼体ホルモン、あちこちに話題を探してみるけど見当たらず、 「セミって、成虫になるの、幸せなんだと思う?」  なんてことを口にしていた。 「それに幸せという名前をつけたいかどうかじゃないかな」  考えもしなかった答えが返ってくる。 「あーんして」  中江さんは口を開けてみせて、それに倣って口を開けると、星型のキャンディを僕の口に放り込む。同じキャンディを口に含んで、「そっち、なに味?」と訊ねる。舌の上で転がして、「わかんない」と答えると、中江さんも同じように転がして、「私のはたぶんイチゴ」と、舌の先に乗せて僕に見せる。着色料で染まった赤い舌。僕も促されて口を開けると、「そっちはメロン」と教えてくれた。  舌の上でキャンディを転がしてるあいだ、『お子様だね』の言葉が僕のなかで反芻されて、おとならしい何かをしなきゃいけないのかなって思いが、ぐるぐるとめぐり続けていた。 「僕のことはどのくらい聞いてる?」 「沙也加の元彼だったあたりは聞いてる。沙也加とは同い歳なの」  ということは僕の3つ上。印象としては3つくらい下に見えた。 「どう思っ……いました?」  歳を聞いて急に敬語になるのも変か。 「一対多のお付き合いって。嫌悪感とか感じ……ます?」 「いいんじゃないかな。逆に、なんで結婚する時にひとりに絞ったのかわからない。そのまま4人で暮らしてたら良かったのに」 「それは嫌かな。会いたくはないんだよ、他の男とは」  三々五々集まってくるひとたちが、僕のとなり、中江さんのとなりに腰を下ろして、グラスに泡を満たして、僕たちの方へも乾杯の声を向ける。 「そこまでは割り切れてないんだ」 「うん」 「あのさあ」 「なに?」 「いっしょに、宇宙移民団に応募しない?」  急にいわれて戸惑った。僕たちが知り合ったのは、ほんの10分前。 「木村さんが、再募集枠だったら手配できるって。深宇宙組だけど」  彼氏はいないの? いるよ。じゃあ、彼氏と行けばいいのに、というと、彼氏といっても付き合い方は十人十色でしょう、あなただって沙也加の彼氏だったわけだけど、普通のひとが想像する彼氏とはぜんぜん違うよね? といって、また上目遣いに口角を上げる。 「子どももいる」  こちらの反応を楽しむように、少しずつ情報を出してくる。 「そうなの? そうは見えない」 「おなかに」 「ちょっと待って。何ヶ月? 舞台に立つんだよね? 大丈夫なの?」  彼女は少し言葉を探す。 「飛んだり跳ねたりするわけじゃないし、それに痛みや嘔吐感があっても、それを自分と違うものとして切り分けたくない」 「わかった」  ――いや、わかってはいないけど。 「それじゃあ舞台は見に行くよ」 「ありがとう」 「そのあとの話はまあ、冗談としては面白かったと思う」 「冗談じゃないよ。普通に恋なんかしてると、いつ子どもができるかわからない、いつ仕事をなくすかわからない、いつひとに裏切られるかわからない、これはすべて現実だよ」 「だからって」 「逃げたいの、もう。コールドスリープで何十年か寝て起きたら、そこは別の星なんでしょう? 宇宙船に積み込まれた資材で自分たちの好きな国を作れる。今日ここに集まってるひとたちだって、本当はそうしたいんだよ。この国から逃れて、アーティストだけの国を作りたいの」 「実際にやってみたらクソみたいな国にしかならないよ」 「いいよ、それでも。それに私、宇宙に浮かんでみたい。私の肉体が、人類という大きな肉体を脱ぎ捨てた時、何になるかを知りたいの」  そういうと彼女は、星の形のキャンディを鍋に入れた。 「だから、宇宙へ行きたい。こんな星のことは忘れて」  そのあとアパートの裏に出て、ふたりでオーロラを見上げると、オーロラからは歌うような低い声が聞こえてきて、僕は彼女の小さな窓から、心臓の鼓動を探した。

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