序章 空から落ちた日
病室の窓の切り取られた空は、とても小さかった。
夏の高い太陽は壁に沿って落ちて、夕陽ばかりが部屋に忍び込む。
オレンジ色のドアに、ノックの音。顔を上げると、ほんのりと夕焼けに染まった高山さんの姿があった。
白髪混じりの髪。刺繍の入ったシャツ。「空は退職してから始めたんだよ」って言ってたから、そろそろ七十だと思う。DJ、コラムニスト、レコード会社の取締役を務めた、僕からしたら雲の上のひと。そのひとが、「
照井くんほどのひとでも事故を起こすんですから、空は怖いですね」と、僕を持ち上げる。
「いえ、僕なんかまだ……」
パラグライダーを始めたのは大学に入ってすぐの頃。まだ三年とちょっと。それと、彼女の死からまだ一ヶ月。少し自暴自棄になってたのかもしれない。消えてしまいたかった。この世界から。
そんなことをうまく言葉にまとめられず、
「なんか、みんなに迷惑かけちゃって、僕、生きていてよかったのかなぁ、って……」
この一ヶ月、ずっと自問してきたことを、つい口にしていた。
「よかったもなにも、本当にほっとしましたよ、照井くんが無事で」
高山さんは少し大げさに言うと、「こんな話があるんですよ、照井くん」と、指を鳴らしてみせた。
語ってくれたのは、大怪我から復帰したロックミュージシャンの話。事故で左腕を失ったドラマー、ステージから落ちて複雑骨折を負ったギタリスト、それから、自転車事故で骨移植の大怪我を負ったヴォーカル――三番目に出てきた『U2』という名前には、僕も聞き覚えがあった。
「最初のふたりは、照井くんの若さだと知らないかもしれないけど、どちらもロック史に名を残す偉大なミュージシャンですよ」
僕はなんとか、笑顔だけは返して、
「でも、僕はもう、空はやめようかと思います」
考えもなく口にしていたけど、高山さんの笑みが絶えることはなかった。
「そうですか。残念です。でも相談だったら、なんでも乗りますよ」
僕はその言葉にも、愛想笑いを返すのがせいぜい。
事故は一昨日、だったと思う。とくにフライトの予定はなかったけど、胸の虚ろを埋め合わせたくて、富士の裾野にかすかに駆ける風に乗った。だけど風は、ほんの一片の高揚を与えることもなく、静かに吹き去った。
静かに高度を下げながら、それでもどこかに風が見つかる気がして、あと百メートル……いや、あと十メートルでも先へ飛べたら、また上昇気流をつかめるのに――遠い雲に手を伸ばしているうちに、気がつくとラインが木の枝に触れて――そこからのことは覚えていない。
「いまは怪我を治すことが先ですよ。焦りは禁物です」
「そうですね。でも――」
僕の怪我が治ったところで――
「もう、いないんですよ。いちばん大切なひとが」
このさき僕は、なんのため生きていけばいいのか。
鼻先で涙をこらえる僕に、高山さんはゆっくりとうなずいて、口を開いた。
「人生に目的なんかありませんよ。ただ、結果があるだけです。ただ、生きていればいいんです」
柔らかく紡がれたその言葉を、僕は両手に受け取って――
「亡くなった彼女のためにも、照井くんは生きてください」
高山さんはそう言ってくれたけど、でもそれだけのことが、今の僕には辛すぎて。
彼女とはもう、三年会ってなかった。
正直にいうと、その間、二回失恋して、彼女のことも忘れかけていた。
「あの日、アパートの部屋に戻ると、鍵が開いていたんです」
一ヶ月前のこと、いまなら話せる気がして――
「そこに並んだ小さなスニーカーを見ても、だれかの悪戯だとしか思わなくって、シャワールームの方で水音が聞こえたんで、いったいだれが忍び込んだんだ、だったらこっちから脅かしてやろうって、ドアを開けて、そしたら、血まみれの床に彼女は倒れていて、そのとき、僕、どんな表情だったと思います?」
そこまで語るとポロポロと涙がこぼれ始める。
僕の顔を見て、高山さんは静かに首を振る。
「笑っていたんですよ」
僕の胸からあふれ出す慚愧を、高山さんは丁寧に拾い集めた。
そしてその悲しみと、やりきれなさとを飲み込んで、改めて口を開いた。
「だけど照井くん、いつか天国で、そのひととまた会うんでしょう?」
天国で……?
「天国で、いつかまた会って、話をするんですよね、そのひとと。そのときに、どんな話ができるか、考えてみませんか?」
高山さんの、静かな優しい声が、窓からの風に揺れた。
「それまでに、どんな生き方をして、どんな事があったか。それを彼女に伝えるとき、――もういちど生まれよう、この世界に――って、そう言えたら、ステキだと思いませんか?」
僕は……
「――やっぱり人生はつまらなかったよ、君の選択が正しかったよ――でもかまいませんよ。それは照井くん次第ですから」
心なんか、殺したはずだったのに……
「そのひとにかける言葉を探すための人生ですよ。これからは」
その日の夜は、泣きながら眠りに落ちた。
第一章 蝕の始まり
酔が回った田中先輩は、うちの部署のプリンターのよう。
時折不意に止まっては、また不意に動き出す。
「だからあ」
僕は肉をつまみながら、その言葉の続きを待つ。
「急に俺が正義に目覚めたりしたらさあ、どう思うよ?」
何度目だろう、この話も。
だれかが取り忘れた書類のように、つい先日も目にした気がする。
「可愛い奥さんも可愛い娘ちゃんも放り出してシリアとかスーダンとか飛んで、これが世界だーみたいなこと言い出したらさあ、アタマ大丈夫かって思うじゃん」
カウンターひとつの小さい焼肉屋で、客はもうふたりだけ。愛想のいいマスターがたまに話しかけてくる。共通の話題といえばプロレスの話。先輩の知人にプロレス誌の編集のひとがいて、そのひとに紹介された店。
「いや、そこまでは言いませんよ」
と、これも何度も言ってるなと思いながら、僕も、肉を。
酔も回り始めた柔らかい焦点のなかに先輩の左手、第二関節のあたりに毛が生えて、ほっそりとした薬指には結婚指輪が見える。
「俺はさあ、ジャーナリストじゃないんだよ」
肉をたいらげ、そしてビール。
「ニュース週刊誌に記事書いてますってだけの、めんこいお父さんだよ」
うん。めんこいかどうかはともかく、まあ、わかりますよ。
先輩は口を曲げて笑って、空になった僕のコップにビールを差し出す。
この赤ら顔のおっさんにも、去年、娘が生まれた。奥さんには本当に申しわけないと、何度か腕時計を指差してみるけど、いやいやいや、あと五分、次の特快に合わせるから、まだ肉が残ってるから、と。
「テルイちゃーん。そうやってタンポポ生やしてるけどさあ」
ビール瓶を傾け、僕の一房だけ黄色く染めた髪を先輩は揶揄する。
「うっかりした時間に帰ると、いま寝かしつけたとこなのに起きたらどうするのとか言われちゃうでしょう? だからこうやってちょっと時間をずらしてんじゃない」
ちょっとずらすって、どうせずらすんだったら前にずらせばいいのに。
「またそういうことを言うー。定時にお疲れ様ーって、そんな空気じゃないのいい加減わかってるでしょ? 今年何年目よ、ほうどうぶー、
照井健はー」
上のひとはすぐに何年目なんてことを言い出す。僕はまだ入社して三年、田中先輩の五年後輩だったと思う。レジャー誌に希望は出してるけど、だれに気に入られてるんだかずっとゴシップ誌。ちなみに先輩が自虐的にそう呼んでいるだけで、報道部なんて部署はない。名実ともにジャーナリストじゃないんだ、本当は。
SNSでジャーナリストを名乗ってる連中は多いけど、僕は気後れする。それを名乗ってしまったら本当にジャーナリストとして記事を書かなきゃいけない気がして。学生時代からやってたブログだって、いまは就職した時のエントリーも消して、ただ休日に出かけた山のことだけ。表紙はパラグライダー。いまもたまに飛ぶことがあって、先輩もよくコメントをつけてくれる。
「ジャーナリストってのは生き様としてそれを選んでるひとのことよ。俺ら違うじゃん」
できるだけ僕が見ないようにしていることを、酔った先輩はあっさりと口にする。
「世間はちゃんと報道しろとか、不正を暴けとか言うけどさあ、お前がやれよ。そう思うんだったら。こっちにはねえ、残念ながらそーゆー社会正義みたいなものはないの。おぜぜを稼ぐためにやってんの、おぜぜを」
右手で作ったおぜぜの印。
「おぜぜ!」
復唱して僕も作って見せるおぜぜの印。
「だいたい何がジャーナリズムだよ。自社の膿も報道できんと。俺の周りなんか特ダネしかねえよ」
先輩は空になったコップを置いて、「テルイちゃーん」と、ビール臭を吐き出す。
「いいんだぞ、お前。俺のこと、軽蔑して」と、笑顔を見せて、「べつにいいんだよ、俺は。軽蔑されても。幸せだから。だけどー」ここで少し間を置いて、「お前はー」また止まって、「ちがーう」
完璧な酔っ払いっすね、先輩。
「お前は彼女もいないしー、なんならこないだ失恋したばっかりだしー」
いや、それは。
「幸せでもない、野心もない、どー、すん、のっ、って、話でしょう」
先輩は虚ろな目でコップを眺める。
「どっちか選ぶんだよ、さっさと。幸せになりたいのか、社会のために身を捧げんのか」
いや、選ばなきゃいけないのかな、それって。
「先輩の仕事は凄いと思ってるんですよ、いつも。上げてくる記事なんか惚れ惚れしてますし」
ずっとその背中を見てきた。照れを隠した笑いの下の素顔も、すべて。
「そりゃそうだ。ちゃんと見習えよ、おまえも」
先輩は決していまの仕事には満足していない。心の奥底では、いまもジャーナリストになろうともがいている。
「ええ、わかってますよ、先輩」
それに応える先輩の言葉はもう、ろれつも怪しく聞き取れなかった。
「とりあえず明日の代休は奥さんに楽させてあげてください、先輩」
マスターに目配せすると、「田中先輩! そろそろ暖簾を」と時計を指してくれる。
三鷹の北口、肉焼きじゅんちゃんを出て、駅へと歩きながらタクシーをつかまえる。
「なんかでけえニュースねえかなあ。俺のジャーナリスト魂が目覚めるようなヤツ」
「ですよね」考えずに相槌を打ったあと、ふと思い出して、「あ、そういえば明日、日蝕らしいですよ。インドネシアあたりから太平洋にかけて。日本からもほんの少し欠けて見えるらしいです」
「そっかあ、じゃあ、一緒に見に行くかあ」
「行きますかあ」
しなだれかかってくる先輩を国分寺のアパートまで届けたその翌日。
第一報は国際線の運行停止のニュースだった。
速報もされずSNS情報が先行し、テレビのニュースはしっかりと朝のドラマが終わるのを待って、その後のバラエティ番組のなかでようやく「羽田、成田、ともに全便運行を見合わせています」と速報で伝える。「原因はいまのところ発表されていません。いやあ、早く復旧するといいですね」と女性キャスターは深刻な顔を繕い、「続報が入りましたらお知らせします」と男性キャスターが締めた後は、ミラクル洗濯術のコーナーに移っていく。
テレビだけは必死に日常にとどまろうとしている。
現実で起きているのは世界規模でのネットワーク障害。携帯電話も不通の地域が増え、テレビの向こうにも混乱が見えるようになる。ミラクル洗濯術から一時間後、急遽ニュース速報が流れ、特別放送に切り替わった。その伝えるところでは、全世界規模での通信障害の発生、同じく世界規模での航空機の運行停止。それ以上の情報は入っていない、とのこと。
何か良くないことが起きている――
雑誌記者でなくてもそう直感した者は多かっただろう。
SNSは輻輳からトラブルが増え、テレビのチャンネルを回しているうちに朝九時半を回る。代休を返上してオフィスに行けばここよりは情報が入る。だが、電車の運休の速報も次々と入ってきている。そしてこの緊急事態に、なぜか胸は高鳴る。そこに先輩からの電話。
「津波が来る。もう沿岸地域は浸水してる。いまはそこを動くな」
津波?
「待ってください先輩、いったい何が起きているんですか?」
津波だったら報道を控える情報でもない。発生が予測できた時点で速報が出る。
「わからんが、神保町の連中がみんな言ってる。実際に足元の水位が上がり始めてんだと。大地震のニュースもないし、水位はどんどん上がってるが津波なのかなんなのか、どの程度の規模かもわからん。それと、ハワイのラジオ局が全滅。たぶん、原因は同じだ」
「世界規模ってことっすか?」
「ああ、津波が本当だったら、すぐに電気が止まる。それまでにモバイルバッテリーぜんぶ充電しておけ」
電話を切ると同時にテレビで津波警報が流れ始める。河口など遡行可能なところでは波高は十メートル以上、範囲は日本全域。
――川に沿って内陸まで波が押し寄せる可能性があります、海から離れている場合でも決して警戒を怠らないでください――
二度、三度と繰り返す。
一〇時よりテレビは一斉に津波の報道に切り替わり、全国各地の被害が伝えられる。
午後になるとネットには津波や地下鉄水没の映像も上がる。無関係なフェイクも多い。それでも、沿岸地域がどんどん海に呑まれているのは間違いない。また、今回の津波は通常の津波とは違って水が引かない。一部のテレビ局は玄関が水没し、その様子を伝えている。
夕方、気象衛星からの映像が流出。一切の先入観をなくして見れば『太平洋に巨大な大陸が生まれた映像』だが、普通に考えれば偽造、あるいは画像処理のミス。そしてお決まりの、コラ画像の反乱。巨大な大陸がゲームの地図に置き換えられたものや、昔のカルト教団の教祖がコラージュされたもの。ただ今回に限っていえば、報道管制に危機感を覚えたジャーナリストからの発信も多い。信頼できる複数のアカウントが、皇族が自衛隊のヘリで東京を脱出したことを伝える。
二十時過ぎ、先輩からの電話。
「深夜二時から会見がある。全世界同時らしい。国連での発表があって、そのあと日本の総理大臣が会見する。場所は入間だ」
「入間って、埼玉の?」
「報道はされてないけど、都心はもうかなり浸水している。しかも水が引かないどころか、海面はまだ上昇してるらしい。それで記者会見は入間の自衛隊基地でやるんだって」
「先輩も行くんですか?」
「デスクに頼んでるけど、もっとちゃんとした記者が選ばれるみたいだ」
「僕は行けませんか?」
「そりゃ無理だろ。頭にタンポポ生やしてちゃ」
コンビニへ行くと、飲み水と食料品はほとんど姿を消していた。カップ麺もスナック菓子もない。食玩付きのグミがあったので、とりあえずそれを買った。
「間もなく、国連発表の中継の後、政府による記者会見が開かれます」
テレビは全国の被害を伝えながら、五分おきにアナウンスする。
そして深夜二時、国連本部のあるニューヨーク現地時間で十三時、国連事務総長の会見が始まる。会見は世界同時中継、同時通訳で、日本のテレビ局も全局これを中継、その他、ラジオ、ネット配信、ほぼすべてのメディアがリアルタイムでこれを伝える。
会見の内容は次の通り。
グリニッジ標準時 四月十九日 二一時十五分、ハワイ諸島を含む太平洋上空に大陸が出現。その大きさは東西に五八〇〇キロ、南北二七〇〇キロ、面積は北アメリカ大陸に匹敵する。
大陸外縁部は海面から約五〇〇メートル浮き上がっており、浮遊しているかにも見えるが詳細は不明。
大陸出現によると思われる重力変動で、世界規模の水害が発生している。ハワイ島とはあらゆる手段を使ったが連絡は取れず、消滅した可能性も考えられる。
大陸の内部に関しては航空機を用いた調査を試みたが、平野部に侵入したところで全機消息を絶ち、情報は得られていない。衛星からの写真に関しては現在専門家による検証が行われている。
大陸にひとが住んでいるか、あるいはひと以外の知的生命体、あるいはそもそも生物が生息しているかどうかについては、現時点では確認できていない。
このあと記者との質疑応答。米国はこの大陸の領有権を主張するか、航空機は撃墜されたのか、国連軍はこれに対してどんな動きを取るか、などの質問が上がる。
続いて、日本政府による会見も内容は同じ、事務総長の言葉を日本語に置き換えたもの。浮遊大陸が発生したのは日本時間で四月二十日の六時十五分、大陸の西端は東京より東南東約二四〇〇キロの地点であることが加えられた。
思考の糸が絡まり、理解が追いつかない。本当だったら浮遊大陸出現と喜んでもいいはずだが、出現しただけでこの被害が出ている。どうして浮いているのかは不明、いや、浮いているのかどうかも不明だが、世界規模の影響が出ている。これから起きるだろうことは想像を絶する。平野部の浸水で物流は停滞し、経済は未曾有の打撃を受ける。気流も海流も変わり、天候は世界規模での変動に見舞われる。
大陸上空で消息を断った航空機は撃墜された可能性が高く、それなりの文明が存在することは想像に難くない。まずは戦争ではなかった。それだけが安心材料ではあったが、たぶん、それ以上の絶望が待ち受けている。
ふと、そういえば今日は日蝕だったことを思い出すが、そんなことはもう一行のニュースにすらならなかった。
翌日、震度三、四規模の地震が各地で連続し、政府が外出の自粛を要請するなか、僕はバイクで中野坂上のサテライトオフィスを目指した。オフィスまでの道のりはところどころで規制され、普段とは走る車も違っていた。自衛隊を含む緊急車両や工事関係の車両が目立つ。サイレンの音。スーパーに並ぶ車の列。東八道路から人見街道、五日市街道へ。
ウェブ系の編集チームが入るオフィスのミーティングスペース。見知った顔がたむろしている。安定しない回線に苛立ちながらネットを見たり、電話で連絡を取り合ったり。通常の業務は完全に停止し、現状の把握だけに忙殺される。
「テルイちゃん、これ」
先輩が動画を見せてくる。
白い双胴の飛行船のようなものが一機、飛行船とは思えない速度で飛び回っている。
「ロスで撮影された映像。大きさは観光バスと同じくらい。飛行原理は不明、武装も不明、目的も不明。浮遊大陸と関係するんじゃないかって」
いつの間にか『浮遊大陸』という呼称が定着している。航空機はまるでUFOのように空中で静止し、次の瞬間には一気に加速する。双眼鏡のような双胴の飛行船。水筒を二本合わせたような。一応前らしい方向はあるが、後ろにも進むし、九〇度傾いても普通に浮いていられる。
「空軍は出なかったんですか?」
「高度一〇メートルあたりを飛んでるし、レーダーに写ってない可能性が高いな。そもそも高度一〇メートルを領空侵犯と呼べんのかどうか」
話をしていたら、軍事オタクの別の先輩がコーヒーを飲みながら口を挟んでくる。
「この高度で迎撃できるのはヘリかせいぜいサンダーボルトくらいだろう。あるいは地上部隊。機動性からいうとそれも難しい。そもそもこのエンジンが熱を発してなかったら、こいつを追尾できるミサイルはない。機銃を闇雲に撃ちまくるくらいしか対処のしようはないよ」
浮遊大陸に文明があると確定したわけじゃない。戦争になるか、ならないか、みたいなことを聞くのはまだ早いんだろうか。それから……と考えていると、先輩が訊ねる。
「もしこいつらと戦争になったら、勝ち目はあんの?」
そう、まさにそれ。
「ないね」
あっさりと。
「世界最強の軍隊は米軍だ。米軍の作戦で軸になるのは、空母打撃群と遠征打撃群――つまり揚陸艦部隊な。海がつながってりゃ入れることはできるが、つながってなきゃどうしようもない。航空機はことごとく撃墜されてる。地上部隊に至っては手も足も出ない。可能性があるとしたら上空から大陸間弾道弾をブチ込むくらいだろうが、これだって敵の中枢を一気に叩けなかったら反撃されてお終いだよ。一瞬でアメリカが消える」
一息でまくしたてられる。
「戦争って道はないよ。何としてでも話し合いへこぎつけないと、人類は終了するよ」
先輩は動画を何度も再生させ、眺めながらそう零した。
被害を受けた都市の多くは復旧の目処すら立たなかった。太平洋沿岸の都市は壊滅。東京も例外ではなく、地下鉄は赤坂見附駅など、山手線より東京湾寄りの駅は排水が追いつかずことごとく水没、これによって日比谷線や銀座線を始めとするほとんどの地下鉄、並びに羽田空港が機能を停止した。
テレビは国名を冠した放送協会だけがなんとか持ちこたえ、悲惨なニュースを流す一方で、「浮遊大陸を開拓して移民すれば、失ったものよりも大きな利益をもたらす」といった可能性も示唆した。しかし現実を見てみれば報道されていないだけで各国の軍用機がすでに数十機といった規模で撃墜されている。攻撃はミサイルではなく、荷電粒子砲ではないかとの噂もある。ニュースは混沌を伝え、編集部でもよく怒号が飛び交った。
――でも、そういう報道はもうほかのひとにまかせてしまおう。
僕は連日の報道でどこか吹っ切れてしまって、どうせ軍のことも政治や経済のこともわからないんだし、たとえば浮遊大陸に何が住んでるか、みたいなことを追いかけたほうがいいんじゃないかと思って、先輩にそう話すと、
「まあ、当然住んでるのは人類じゃないよな」
と、すぐに返ってきた。
「家畜も俺たちが知ってる牛とか豚とかじゃなくて、爬虫類から進化した、牛に似たモーモーとか、豚に似たブーブーとかだよ」
茶化したような口調ではあるけども、そう、そういうことなんです、と、少し食い気味に受け答えする僕を、制するように、先輩、
「テルイちゃんさあ、俺たち公安にマークされてんの知ってる?」
……って、僕たちが?
「浮遊大陸に渡りそうな人間リストに含まれてる。俺が行くわけねーしよう、全部お前のせいだからな。まあ、行くんだったら力貸すけどさあ」
そういうと先輩はフフッと笑う。先輩との付き合いも長い。こんな口調だけど真剣に考えているだろうことはわかる。多くのジャーナリストは浮遊大陸の情報を欲しがっているだけで、行きたいなんて思っていない。
――行かなきゃ始まんねえのにな。何やってんだろうな俺たち。
いつか肉焼きじゅんちゃんで交わした言葉を思い出した。
「でも、どうやって行くんですか?」
先輩は視線を落としたまま、手持ち無沙汰に青い保湿剤のチューブを弄んでいる。
「俺が聞いた話だとミクロネシアから飛行機だな」
田中先輩はたぶん、何もかもちゃんと調べあげている。公安にマークされてるのは『僕たち』じゃなくて、おそらく先輩だ。
「大陸近くまで来たらパラシュートで降りるんだってよ。上空を飛ぶと撃墜されるから、斜め上の方から、こうやって、こうな」
先輩は左手と保湿剤とを飛行機とひとに見立てて、ひゅーと言って滑空させる。
「出発地点はグアムからでもいいけど、米軍の監視が厳しいから、まずは船でミクロネシアの孤島に渡るんだと。帰りは予備のパラシュートでぴゅーんだ」
漫画みたいに言う。僕が笑い飛ばせばきっと、先輩はまた娘ちゃんの話をはじめる。
でも。
「ちなみにミクロネシアからどのくらいの距離なんですか?」
先輩は保湿剤を机に置いて、手に薄く伸びたクリームをまた丁寧に伸ばし始める。
「ミクロネシアからは三〇〇キロっていったかな? グアムからだと距離は忘れたけど、米軍の監視が厳しくて難しいんだと」
詳細な地図をもらって調べてみると、浮遊大陸の端から三〇キロほどのところにピンゲラップ島というのがあるのがわかった。赤道直下でもあるし、そこまでだったら耐寒装備なしでも飛べる。
先輩が言うように、大陸の端からパラシュートでというのは、現実的とは思えなかった。でも行きはスカイダイビングで、帰りはパラグライダーでなら、みたいなことを考えて先輩にメッセを送っていたら五日後、「ジャーナリストにならないか?」との返信。直後、着信音。
「スポンサーにお前のこと話したら、すごい興味持ってさあ。『葉っぱ一枚採ってくるだけになるかも』って話したんだけど、それでもいいって。ギャラはおまえ、聞いて驚くなよ? 葉っぱ一枚のリターンで八〇〇万。もちろん旅費はぜんぶスポンサー持ちだ。やるしかないだろ、これ」
スポンサーの件は初耳だった。物好きなひともいるもんだと、他人事のように受け流しながら、ふと気がつくと先輩も僕もなんとなくはっきりとした合意も取らないまま上陸計画を進めていた。契約書はないけど先輩の知人が間に入ってくれるとかで、「私が入るからには、有耶無耶なことにはしない」と、物真似しながら教えてくれた。
出発の期日は妙に差し迫っていて、チケットは当日受け渡し、旅行日程も当日知らされるという怪しい計画だったが、いつの間にか後戻りもできなくなっていた。
持って行くのは、水筒と携帯浄水器、携帯食、通じないけどカメラ代わりにスマホ、サバイバルナイフ――
「蚊に刺されないようにしろよ。まあ、蚊じゃないかもしれんけどさ」
と、窓辺で缶コーヒーを飲みながら、先輩。アパートの近くのマイナーな銘柄しか入ってない自販機のコーヒー。利用するひといるんだ、あれ。
虫に刺されたときの薬と、気休めで虫除け――
「予防接種とか受けといたほうがいいですか?」
「どんな細菌やウイルスがいるかもわかんないんで無駄でしょ。抗生物質持っていくといいよ、気休めに」
あとはタオル類、ビニールシート、ライター、懐中電灯、耐水性のマッチ、発電機付きラジオと、発信機、ゴーグル、マスク、防寒着。
「だから、何やってんだよお前さっきから。葉っぱ一枚でいいんだぞ? 大陸の端っこに着陸して葉っぱむしって、五分で飛び降りたらいいから」
「わかってます、そのつもりです」
と、口には出すけど本心じゃない。
「テルイちゃーん」と、少し真剣な目で、「いや、わかってないでしょ。五分にしては準備大げさだろそれ」と問われて、僕も少し正直に。
「もし安全なようだったら、少し奥まで行ってみようと思って」
「いや、それやられると、いつ回収に行っていいかわかんなくなるから」
「一日だけ待ってもらっていいですか?」
「俺に聞かれても困るよ。そういうのはお前が自分で交渉してくれよ。俺もう怖くて何も助言できないわ」
言おうかどうしようか迷ったけど、
「葉っぱを採るまでの五分はサラリーマンとしての五分ですよ。そこからの僕は、ジャーナリストなんです」
それに先方だって、それを望んでますよ。
先輩は少し黙って僕の目を見て。
「カッコつけんじゃねえぞ、タンポポ」
それから何か、言おうとした言葉を誤魔化すように「フフッ」って。
できるかぎり軽いものをと思ってピックアップした荷物は、それでも三〇キロになった。リュックはパラグライダーのハーネス、いわゆる座席部分とのリバーシブルになっていて、その中身はパラグライダーの本体。
こんなものを背負ってスカイダイビングができるかどうか、本当は慣れたひとに確認した方がいいんだけど、計画は極秘、機材も新たに購入したらマークされるから、という理由で手持ちのものしか使えず。計画の杜撰さに少し不安になるけど、
「そのリスクまで含めた値段が八〇〇万」
と、先輩。
それ、実質的に僕の命の値段ですよね。
*
「うまく大陸に飛び移れなかったら、そのまま海上まで降りて着水して下さい。目視で確認できますので、海上に待機してるチームがすぐに回収に行きます」
事前に受けていた説明をオペレーターから再度伝えられるけれど、その声の半分も風が持ち去る。足元には漁船の航跡もない、ただ広いだけの海。その上をいくつかの雲が流れている。
「テイクオフ5秒前です」
サムズアップ。
オペレーターの持つ旗が下がる。
浮遊大陸上空、正確には少し斜め上の海上、高度三八〇〇メートルから飛行機を飛び出す。機体のなかにまでほんのりと引きずってきた日々の生活、その最後の足枷が風のなかに消える。
眼下遠くに浮遊大陸が広がる。外縁部の高度は一六〇〇。高度二二〇〇でパラシュートを開くため、フリーフォールの時間は三〇秒から三五秒。この間に浮遊大陸上空まで滑空する。風に乗るともう、飛び出した時の落下の感覚はない。僕はただ風に乗っているだけ。身体を大陸に向けると、風が僕を運ぶ。
外縁部には森が広がり、その奥は草原。草原には小川や小道がある。その奥には湖も、小さな集落らしきものも見て取れる。事前に写真では見ていたけど、実際に目にする感覚は違う。アドレナリンが脈打って首筋を上る。この感覚。大声で叫んでも風がすべてを巻き取っていく。高度はどんどん下がっていく。携帯食料は三日分、浄水器は米軍仕様のものをミリオタの先輩に用意してもらった。考えている間にも高度は下がっていく。パラシュートが開く。電子機器の電源はぜんぶ落としてるけど、万が一ここで発見されたら謎の攻撃で撃墜される。でもそんな恐怖は走り出す興奮が掻き消す。地上の仔細な様子が見えてくると胸のなかの鳥たちが騒ぎ出す。普通の草原。普通の木。普通にひとが歩いていてもだれも驚かない普通の景色。その異様さ。不慣れなパラシュートを操って、外縁部からあまり離れない草地に降りる。
見渡すと、風が心地よい。地上と代わり映えしないといえば代わり映えしない世界。恐る恐るスマホの電源を入れて、風景と、足元の草と、石と、地面、何枚か写真を撮って、アルバムを開いて眺めてみるが、何もかも普通だ。圏外で電波はつながらないけど、心のなかの先輩がすぐにコメントをつけてくる。
とても八〇〇万のギャラが出る写真じゃねえな――
はい、僕もそう思います――
顔文字付きでレス。苦笑。汗。
バックパックを台にしてスマホを置いて、撮影しながらパラシュートを畳んだ。空気も薄いし、息が上がる。五分で降りるはずだったけど、もう三十分。
足元の草にはほのかな懐かしさがある。いつだったか、草の茎を折ったときに指についた白い汁の匂い。シャツで拭いて、指の匂いを嗅いだ。あれがいつ、どこでの記憶だったか。地面に沿うように低く方々に這いずった茎の節から、目を閉じると春の匂いがする。
虫は多い。コバエのような大きさで、飛び方もコバエ。田中先輩が言ってたように爬虫類のハエ、ハエに似たハエハエかもしれないけども、見た感じはコバエ。このコバエによるものかどうかはわからないけど、すでに数カ所虫刺されがあり、腫れてきている。
時計を見ると十三時過ぎ。単に八〇〇万手に入れるだけだったら、この足元にある葉っぱをむしって、どこか離陸できそうな斜面でもみつけてパラグライダーを広げたらいい。だけど、内陸の方を見ると草原。その向こうには湖だってあるし、集落だってある。もしかしたらそこに住んでるのは爬虫類のひと、あるいは魚類のひとかもしれない。「どうして確かめてこなかったんだよ」って言うでしょ、先輩。先輩でも行くでしょ、ここまで来たら。
高い山の薄めた霧のような空気を胸に流し込み、肺で湿らせて吐き出して、道もない荒れ地をよろめきながら歩く。まずは海を見ておこうと思ったけど、もう少し見通しの良いところを探さないと、肝心のピンゲラップ島は見えそうにない。空気も薄くて、喉のあたりを押さえられるような息苦しさがある。
電車で旅をしたとき、とぎれとぎれに目の前に描かれる海岸線。トンネルとトンネルの間、息継ぎをするように開かれる空。駆け抜ける木々。電線は低く、高く、また低くと流れ、そしてまたトンネルが風の音色を変える。車しか走らない街道のトンネルを、バックパック背負ってとぼとぼと歩いた時の、壁面の水のしたたりと。
周縁部に沿って歩いてみると、少し先に不自然に白い球状のものが目に入る。
ああ、雪が残ってるんだ。
そんなことを思いながら少し近づくと、すぐに胸のなかに大きな違和が広がる。それは均質な球形で濁りもない明らかな人工物。乳白色のプラスチックのようなドーム、直径は三メートルほどだろうか。テニスコートほど離れた距離から見るとそれは硬質なものではなく、柔らかく、濡れているようにも見える。球体の白い薄皮の下には、孵化直前の何かの卵のように生体的な姿態が透けて見えて、それが蠢き、ところどころ光を放っている。思考は立ち止まり、恐怖以外の感情がひとつずつ消えていく。目の前にあるものはいままでに見た何にも似ていない。考えがまとまる前に足がすくんで、全身の神経が恐怖に毛羽立つ。色は先輩に見せてもらったロスで撮影された飛行体と同じ。もしこれが人工物だとするなら、米軍機を撃ち落としたのはこいつだ。
だけど胸のなかの恐れさえ黙らせてしまえば、これは良い手土産になる。目の前にあるこれが、僕が命を賭けて求めたものじゃないか。意識の粟立ちを丁寧に均して落ち着かせる。手に、足に、恐怖にも勝る何かを見つけたことを、なだめるように言って聞かせながら、ゆっくりと近づく。
先輩、八〇〇万の獲物、見つけましたよ。
懐から携帯を取り出してカメラを起動すると、白いドームは唸りをあげる。球体の内部の目がこちらに向く。いままでの漫然とした動きではなく、軽い喘鳴を漏らして瞬時にこちらの姿を捕らえ、同時にドーム自体も一メートルほどせり上がり、赤いレーザーサイトを照射する。
空気が帯電したのがわかった。
思わず携帯を手から放すと、球体はそれを見ながら高周波のノイズを唸らせる。
僕の携帯が米軍機が食らったのと同じ攻撃を受けようとしている――いや僕だ、攻撃を避けなきゃいけないのは僕自身だ。両手両足を使ってバタバタとその場から離れると、背後で爆発音が轟き、熱風が僕を押し倒し、草の上を舐めて駆け抜ける。
振り返ると、ガラス質に変色した地表から煤が上がっている。僕の胸を否応なく恐怖が満たす。震える足を抑え、地面に立ててみても、足音もない。耳鳴りだけが、遠くまでこの景色に張り付いている。「次の攻撃が来る」体のあちこちが声を上げるが、僕の意志がまとまらない。
それでも、と走り出すと自分の足音が遠くに聞こえる。さっきの爆音で耳が聞こえない。高地の薄い空気に息が切れる。走るほどに視界は狭まっていく。葉っぱ一枚持って帰ればいい。葉っぱ一枚むしってポケットに入れたら、それで終わりのはずだったのに。息が上がり、走ろうとしても足が上がらず、爪先が石に掛かり、次の一歩がもつれて倒れる。
唇の周りに痺れのような寒気がまとわりついて、ひゅうひゅうという呼吸音が唾液を撒き散らす。いくら息を吸っても呼吸が楽にならない。足の感覚は僕を見捨てた。目に映る景色と身体の感覚がどんどんずれていく。震えが止まらない。手足には麻痺感が広がっていく。
「あああ、もう!」
大声を出して、体を振って、手足にまとわりつく麻痺感を振り払う。拳で二の腕を、脚を叩き、感覚を呼び戻す。死の恐怖がガタガタと僕の全身を震わせている。体はもっと遠くへ逃げようと、焦り、震えているのに、目に入る景色の意味がどんどん壊れていく。
しかも、雨まで降り出す。
濡れて体温を奪われたら死ぬ。
何から何まで僕を殺すという意志で一致している。
かといってどこへ行けばよいかもわからず、ほんの二メートル先へ。戸惑い。あと二メートル先へ。バックパックからごそごそと防寒用にと持ってきた金色のエマージェンシーシートを引っ張り出して、くるまって、震えながら、鼻水を袖で拭って、こんなもので寒さを凌ごうと思ってたんだな、数日前の僕は。なんで迷彩を選ばなかったんだ。血の気の多い異星人でもいたら、これを見てどう反応するか。だけどそれで死んでもしょうがない。バカなんだから。バカな死に方するよ、それは。
本当はテントか寝袋も持ってこようかと思ったんだ。本当は。でもそうすると荷物の総重量がとんでもないことになる。それにこっちで滞在するつもりだってのが先輩にバレる。いま思えばバレても良かったし、その前提で準備を進めておけば良かったんだ。
シートにくるまって、斜面に背中を預けて、ゆっくりと沈んでいくようにして眠りについていると、夜、寒くて目が覚める。
雨はやんでいる。
火を煽せるような草や木はないかと月明かりのなかで目を凝らすと、地面はうっすらと黄色い明かりに覆われている。昼間見た草から、細い茎のようなものが伸びて、その先端に丸い胞子がある。それは植物ではなく、菌類にも似ている。いや、植物でも菌類でもない、別の何かなのかもしれない。空には満月が浮かび、見慣れたはずの月なのに、まるで地球じゃない別の星にいるよう。
虫刺され痕は腫れ上がってじんじんしている。中心から直径一〇センチほどが赤黒く固くなっている。あともう少しだけ寝て、明日の朝ちゃんと目が覚めたら、飲み水を探そう。もう少しだけこちらの世界を見てから帰りのことを考えよう。もし目が覚めなかったら、そのときはもう終わりでいい。
息が白くて寝付けない夜の星空は、一三〇億光年の天蓋。
だけど僕の視線がそこに届くのに、ほんの一瞬もかかりはしない。
そしていつ眠りに落ちたのかもわからないまま、ふと気がつくと朝が来ている。
虫刺され痕は七箇所に増え、すべて手と顔に集中している。とりあえず地上に戻ったら八〇〇万もらえる。その金で道具を揃えて、飛行機を借りて、もう一度ここに来ればいい。虫刺されへの対策もちゃんと練ってこよう。
軋みを上げる身体をほぐしながら高台を探す。
帰ろうと決めた途端、寂寞が胸を襲う。諦めという大きな穴。それを両手で塞ぐように抑えて、その底から次々に吐き出される淡い何かを握り潰しながら、重い足を運ぶ。昨日からずっと足元の悪いなか歩き通して、靴も濡れて、滑り、虫に刺された手も首も腫れ上がり熱を放っている。
それでも、バックパックには翼がある。その翼には神経が通い、僕の背中はその動かし方を知っている。それは僕の一部。身にまとえばすぐに、本当の僕に戻れる。
高台、その斜面でパラグライダーを広げる。
ラジオや懐中電灯、太陽光発電シート、防水ケース――軽量化、軽量化、と、一週間あれこれ悩んだのに、一度も使うことのなかったものばかりだ。推定で五キロほどのものをバックパックから出して、エマージェンシーシートにくるんだ。いつか戻って来たときのために、周りの景色を覚えようとあたりを見回したけど、特に目標物はない。まあ、しょうがないか。次に来る機会なんて、ここを諦めるための口実でしか無いんだし。
緩やかな丘の斜面に、虹を描くように広げられたパラグライダー。ラインで結ばれたハーネスと僕。心のなかに、踏ん切りをつけるためのチェックシートがあって、もうほとんどチェックを終えた。
ジャンプ、ジャンプ。
両手を振って、体をほぐして、風はやわらかく、いつでも舞い上がれる。
目の前には大陸の縁の崖があり、その先には海がある。
ひとつ深呼吸をして、その場で駆け足を踏んで走り出す。
空気を抱えたキャノピーの重さが肩にかかり、大腿筋まですべての筋肉に司令が伝わる。
翼が返ってきた。
各々方、準備よろしいか。
放射状のラインが風を切り分ける。
心臓の鼓動の一つ一つが蒸気を上げて僕のなかに力を伝える。
重い地面を、蹴って、蹴って、数歩目でそのつま先は空を切る。
そのまま上昇気流が僕を捕まえる。
浮遊大陸の縁が視界の下方に下がり、その向こうの海がせり上がってくる。
その先にはミクロネシアの小さな島があるはずの海。
僕はそこだけを見て、飛び続ければいい。
振り返らずに、ただ真っ直ぐに。
チェックシートの最後の項目、『振り返らない』。
ここで振り返ったら僕は塩の柱になる。
オルフェウスの妻のように冥界に囚われる。
だけど――
気流はサーマル。吹き上げる上昇気流。
いままで僕にいろんな景色を見せてくれた風が、必ず新しい世界を見せると約束する。
そこには見たこともない町の、見たこともない家の、見たこともない屋根があるだろう。町を縫う水路と、畑の斜面にはとぎれとぎれの階段と、手入れされた石垣、通りを歩くひとの姿も見えるだろう。
このまま大陸内部へと飛んでしまっても、一時間で引き返せばいい。迎えにきてくれる船は一日くらいは待ってくれるだろうし、たとえ少し遅れたとしても去り行く船に追いつくくらいはできるだろう。
チェックシートの最後のひとつ、僕はチェックを保留する。
右手はブレークコードをゆっくりと引き始める。
上昇気流旋回。機体はゆっくりと旋回し、吹き上げる気流を捕まえて高度を上げる。
先輩、僕は振り返ってしまいました。
どんどん、どんどんと高度を上げると、大陸の奥には集落があり、湖の周りに何件か家が並び、桟橋があり、小舟も見える。そこにはひと、あるいはそれに近い何かが確実に住んでいる。そこには牛に似たモーモーがいて、家鴨に似たガァガァがいて、豚に似たブーブーがいる。
遠くに馬に乗った人影が見える。
先輩、帰りは遅くなります。
でも、必ず帰ります。