ためしよみ:アニメーターの老後

  • 一 筑肥線
  • 二 舷梯げんてい
  • 三 死体洗い
  • 四 赤いクジラ
  • 五 リン・ミンメイとプレスリー
  • 六 盟友の遺産

一 筑肥線

 タイムマシンがあったら、未来へ行きたいか、過去へ行きたいか。  そう問えば多くのひとが「未来へ」と答えるだろう。  だけど未来へ出てしまえば、本人は過去のひとだ。その一方で、もとの世界は未来へと歩み続ける。故郷を捨てたものは、生涯ずっとその過去を背負う。本人は『過去』を捨てたつもりでも、本当に捨ててしまったのは『未来』ではなかったか。  五年ぶりの故郷へと向かう途中、名村英敏は博多バスターミナルのビルを見上げた。昭和のままの路面電車が走ると嘯いた博多の街は、練馬より少しだけ賑やかに見えた。  定刻通り十一時すぎにターミナルに着いたバスを降りて、町に不似合いな古びた靴で地下鉄の階段を探した。せめて地元には不便なままでいてほしかったのに、改札では Suica がそのまま使えた。郷愁はどこへ消えたかと改札の便利さに毒づいてみせて、午前十一時半、地下鉄に乗った。  列車が地下を抜け、筑肥線へと乗り入れるころになると、新しいビルに隠れて懐かしい街並みが姿を見せた。実家に帰るたびに切り取られてきた景色がまだかすかに面影を残している。色褪せた記憶を車窓に並べていると、やがて海が現れた。空と海、水平線で分けた二色の青は、旅の思い出の一枚になった。  唐津を離れて三十年になる。刷新された車両の向かいの席では、学生服のふたりぐみがスマホを覗きあっている。少年たちは目の前に座る男が、数々の有名アニメの原画・作画監督を務めた男だとは知らない。懐かしい地元の言葉にも、居心地の悪さを感じた。都会に馴染んだわけでもないのに、田舎にはもう居場所がない。他人の生活圏の隅でSNSの文字を拾っていると、弟からのメッセージが画面に閃いた。 「いまどこ?」  滅多に使わぬ文字入力に戸惑っていると電話が鳴る。メッセと同じ言葉を繰り返す声に、被せて答えた。 「ちょうど加布里かふりのあたり」  学生時代に見慣れた駅が窓の外を走る。夏になるとよく海水浴の家族連れを見かけた駅だったが、唐津から出ることのない弟にはピンと来ないだろうと、「――糸島の先」と加えた。  学生時代、  ――家族と行った海水浴場が筑肥線のどこかにあるの。  そう語った旧友の口元を、加布里の駅を通るたびに胸に浮かべていた。  ――加布里じゃないかな。電車で三十分だよ。  ――へぇー、こんど行ってみたいな。  小学生のころの話だ。唐津で生まれた名村英敏にとって、わざわざ海水浴に遠出する感覚はわからなかったが、筑後から転校して来たその子にはまだ海は特別だった。中学を出てからは顔も合わせなくなった。ただ「こんど行ってみたいな」と聞いた言葉だけは、粗い記憶の網の上にも残っていた。 「とにかく急いで。車を出せるひとがいないから駅でタクシーつかまえて」  故郷まであと三十分。 「いや、いいよ。歩いて行く」  電車は山の裾を海に縫い合わせる。 「ああ、まって」弟は苛立って、ひとことふたこと確認を取って続ける。「わかった。恵子ちゃんが車出せるって。南口のロータリーで待ってて」  弟は妻を、恵子ちゃんと呼んだ。  急峻な山肌に沿う鉄路は、ときに海の上を走った。その現実を離れた感覚を、都会にではなく地元に感じるようになった。そしてなぜか間近に迫った父の死には、感情が動かなかった。  名村英敏の父はつい一年ほど前に膵臓の一部を摘出し、それからも入退院を繰り返していた。先が長くないことはわかりながら、名村英敏には実家に帰るだけの金がなかった。今回は弟から三回も立て続けに電話が入り、涙声で訴えられ、追い込まれた挙げ句の決断だった。あくる朝、制作進行とバイト先に一週間の休みを宣言し、預金を二万下ろした。運良く深夜バスの安いチケットが取れて、その日もぎりぎりまでアニメの原画をこなして、ぎりぎりの時間にバスに乗り、ぎりぎりの旅費でようやく地元の海を右手に眺めた。帰りのチケットを取ったら、手持ちはほとんど消える。それでも実家ならなんとかなる。弟も兄の懐事情を察し、「チケットはこちらで手配しようか」と気を遣ったが、極貧生活が長く人付き合いも少ない名村英敏には、「金はこちらで出す」という意図を汲み取れなかった。弟が取るチケットは金のことなど考えもしない新幹線か飛行機だろう。そんなものをあとから払わされるくらいならと、夜行バスの切符を買った。「気圧の変化が苦手で」と繕い、弟もそれを見栄と悟ったが、それ以上は口を出さなかった。冷凍してきたペットボトルはすっかり温んでいた。名村英敏は最後のお茶を口に含み、軽く口を濯ぎ飲み干した。空になったペットボトルの蓋を閉じると、故郷がまた一歩近づいた。  アブラゼミの声の降りしきるなか、駅舎を出ると名村恵子の姿があった。青いプリウスのボンネットが更に大気を暖めている。その熱源の中へと逃げ込んでエアコンのツマミを回すと、細い風が小うるさく吹き付けた。名村恵子がギアをドライブに入れる。フロントガラスに下げたお守りの影が名村英敏のシャツを過ぎり、車の速度とともに室温も正気を取り戻した。  おとうさんは――名村恵子は義理の父をそう呼んで――もういつ事切れてもおかしくない、とここ数日の病状を語った。  何度か覚悟した、先週電話したときも最後かと思った、今日はお兄さんが来てくれたから奇跡が起きるかもしれないと深刻な顔を繕うでもなく語る声には、むしろ心地よいリズムさえあった。ハンドルを握る左手の付け根が時折きゅっと凹んで、手の甲に筋を浮き立てる。アニメのキャラにすると白目を描かないタイプの顔だと、名村英敏は何枚かのスケッチを起こした。弟夫婦には高校生の息子と、中学生の娘があり、「下の子が漫画を描いているので、そんな絵じゃ通用しないって、お兄さんから言ってあげてください」と言われ、戸惑った。後輩には常々、『そのときの感情を絵にする』、『表情で伝える』、と指導して来たが、いまの名村恵子の顔は描きようがない。アニメでこの表情を描いたところで何も伝わらない。悲しみでも諦めでもない感情が、本来の屈託のない性格を通して作った表情は、その声色まで含めてようやくひとつの印象を伝えてきた。父はもう死んでいるのだ。少なくとも、名村家のなかでは。彼らはもう十分な予行練習を重ね、舞台袖でいざそのときを待っているのだ。とうぜん泣くだろう。大粒の涙を流して。では、はたして自分はと、名村英敏は自問した。  土曜日の市立病院は表の玄関が締まり、勝手口から中へ入った。  名村恵子は病室の番号を告げると、車を停めてくると踵を返し、初めて訪ねる病院の裏口の暗い扉をひとりで引いた。電気の消えた廊下は心細かった。冷たい壁に足音が響いて、ところどころ開かれたドアがひとの気配を放ったほかは、どの部屋もひっそりと息を潜めていた。看護師とすれ違うとき、アリバイを作るかのように病室をたずねる。番号が示す二階の病室へは廊下の青いラインを辿るように言われたが、暗い室内でその青はほとんど黒に見えた。その黒い線を陽の光がところどころ青く浮かび上がらせる。帰郷前の電話で、弟を激高させたことが名村英敏の胸につかえていた。その後も幾度か電話はしたが、言葉数は少なく、実際にどんな顔をして、どんな言葉を切り出せばよいのか。思案しながら青いラインを踏んだ。名村英敏は――そして弟も――小さいころにつかみ合いの喧嘩をしたときのことを思い出してはいたが、謝り方を思い出せなかった。おそらくデンセンマンを見て、8時だよ全員集合を見て、寺内貫太郎一家を見て笑って忘れたのだと思う。病院の長い廊下の消失点は、いままでに描いたいくつかの原画を思い出させた。あるものはここを走り、窓から飛び出し、あるものは車いすで新しい門出に立った。思えば架空の他人の話ばかりだ。  病室の扉を開けると、弟がひとり椅子に座り、うつむいている姿があった。名村英敏には、泣いているのだとわかった。弟はすぐに頬を拭い、「お父さん、兄ちゃん来たよ」と、呼吸器につながった父に声をかけるが、父の反応はなかった。 「聞こえとると?」名村英敏がたずねると、 「聞いとるて。どっかで」と、弟は部屋の天井の方を指さして見上げた。  魂はもうその肉体にはなかった。一時酸素飽和濃度がずいぶん低下して、仮に息を吹き返してももう名村英敏の顔も、弟の顔も識別はできないだろうと教えられて、ようやく涙がこぼれてきた。小さいころは喧嘩しても、テレビを観て笑って仲直りしていたのに、あわせて百歳となった兄弟はふたりで静かに泣いて仲直りした。そういえば父に怒られて、仕方なく仲直りしたことも幾度となくあった。ポットを抱えた母が病室へ戻り、名村英敏を見るなり涙をこぼした。はたして涙の意味は。演出の意図は。名村英敏が戸惑っているうちに母は胸のそばにまで来て頭を垂れる。途切れ途切れの言葉は、「お父さんの最後に、あんたに会えて良かった」と伝えたが、涙の理由はそこまで単純でもなかった。数年ぶりの故郷、病室での再会。仕事も趣味もアニメのことしかないのに、何を話せば良いかわからなかった。父との思い出を辿ると「アニメを見るなとは言わんが、《パタリロ》と《みゆき》だけは勘弁してくれ」と言った言葉が思い出された。  名村恵子が病室に戻り、ほどなくして孫のふたりも顔を見せ、それを待っていたかのように弟が看護師を呼びに行った。甥と姪とのぎこちない挨拶。漫画を描いているという中学生の姪には名村英敏への憧れがあった。看護師と医師とが駆けつけて、脈を取り、酸素飽和度をカルテにつける。弟夫婦の交わす言葉のなかに、親戚の名前がいくつか挙がった。もう次の準備が始まっている。名村英敏が疎遠になってしまった親戚も、唐津の名村家とはずっと繋がり続けていた。その複雑にからまった相関図の一角が、心電図のなかで最後のときを刻んでいる。喜びも苦しみもあった人生はやがて電話の声だけ、送られてくる年賀状だけになり、いまは鼓動だけになった。 「お父さん」  思わず口に漏らすと、弟が静かに振り向いた。  ――放蕩息子が帰ってきたよ、お父さん。  弟の表情がそう語ると、名村英敏は涙を払うように被りを振って、笑顔を取り繕って見せた。空調と看護師の走らせるペンのほかには音が消えた部屋で、綴ろうとした言葉は胸の中に凝った。ただ涙ばかりがこみ上げる。名村恵子がハンカチを目に当てると、姪はその母の手を取り、同じようにハンカチを目に当てた。 「人工呼吸器を外しますか」  担当医が母に問うと、母は「あんたが決めて」と名村英敏の顔を覗いた。弟の顔を覗くと、名村英敏と同じように涙をこらえ、うなずいていた。なんでおれが――口にしたいのはやまやまだった。大学を中退して、上京してアニメーターになった。ひとかどの人間になるはずだったが、ウィキペディアに名前もない。もう五十二だ。この先芽が出ることもないだろう出来損ないになぜかその役が回ってきた。姪を漫画の道から引き戻すのに説得なんか要らない。「ヒデ叔父さんみたいになるぞ」とだけ言ってやればいい。  保谷のアパートを出たとき、「最後を看取る」という言葉が、父の最後の瞬間を決めることになるとは思っていなかった。それでも、弟にも母にもその重荷を背負わせるわけにはいかない。名村英敏は静かな声で、長男に課せられた責務を果たした。いままで期待され、それでもずっと逃げ続けてきた責務だった。

二 舷梯げんてい

 それからすぐに葬式の段取りになった。特に覚悟もなく家を出てきた名村英敏には喪服の準備もなかったし、借りるにしても先立つものがなかった。「喪服はどげんすっと」と母に聞かれて戸惑っていると、「うちにお父さんのがあるから」と、故人の喪服を着せられることが決まった。名村英敏はあまり験を担いだり霊的なものにこだわったりはしない質だったが、いま亡くなったばかりの父の喪服を着ることには抵抗を感じた。しかし拒絶するとしたら、自分で喪服を買う、自分で喪服を借りる、などの行動が必要になる。上策ではない。しかも必要なのは行動力ではない。金だ。それがない以上は覚悟を決めるしかない。いや覚悟すら必要なく、金がないのだからそうなる。  父の喪服で父の葬式に出る――  霊的な云々を抜きにしても奇妙ではないかと、名村英敏は感じた。  葬式は弟が手配し、祖母の葬式がそうであったように、通夜も告別式も実家で執り行うことになった。弟のレクサス、その妻のプリウスの二台、山の手にある実家へと走った。バイパスへ出てサンバイザーを下ろすと車内には安堵の雰囲気があった。振り返れば、昼過ぎに乗ったプリウスには異形の緊張が満ちていた。いまごろその名村恵子も子どもふたりを乗せて、静かなエアコンの風のなかでこれからのことを話しているだろう。ウインカーを上げてゆっくりとハンドルを回しながら、 「お母さん、喪主なんだけど――」と、弟が尋ねると、その問も言い終えぬうちに、 「跡取りやけん、英敏に任すたい」と、母は答えた。 「いやちょっと待って」  名村英敏は笑いながら返した。冗談で言ったのではないだろうが、冗談だということにしたい。 「なんでおれが」  今度は口に出た。  喪主は母が務めるものだとばかり考えていた。何年か前に受けた仕事で葬式の場面があったが、そのなかでも喪主は配偶者だった。故人の妻がスピーチの途中で泣き崩れるカットを描いた。問い返しても母は考えを変えなかった。家督を継ぐものが喪主になるのは当然の慣わしだと、弟もそれに同意したが、名村英敏に家督を継ぐつもりはない。そもそも家督が何を意味しているのか。「いや、家督って言うけど」と、口にしてみると、これほど日常会話で聞かない単語もない。それにそもそもというなら、それが本当に慣わしかどうかもわからなかった。 「法的には兄ちゃんが家を継ぐことになるから」  そう聞いて、なるほどとは思ったが、さすがにそれは申し訳なかった。家のことなど放り出して東京に出た。いまのいまにしても親戚に葬式の連絡をしているのは弟夫婦で、自分はなにをして良いかもわからず手をこまねいている。そんな自分が継ぐ家督とは? が、そうは思っても、胸のなかをかすめるのは「家を継いで売り払えば、生活が楽になる」だった。もちろん、母が住む家をいますぐ売り払えるわけがない。だがその母もすぐ八十になる。考えてはならない思いばかりが溢れてくる。跡取りだからという理由で喪主を引き受けるとしたら、やがてそれらは現実の選択肢になる。  弟は地元の流通企業に勤めて長い。いまでは部長の地位にあり、全商品の仕入れを統括している。結婚後は家も建てた。不況の煽りがあるとは言え、ここまでに築いた人脈も大きく、資産もあり、信用もある。生活にも健康にもなんの不安もない。両親にとっての不安は長男の名村英敏だった。地元に残っていれば就職も斡旋できただろうし、家も継がせられた。縁談を持ちかけるものも少なくなかったが、東京へ出たまま帰って来ないのでと断っていた。今更就職でも縁談でもないだろうが、『まっとうな人間』になって欲しいという母の思いがなくなったわけではない。もちろんそれは父の悲願でもあった。  東京を好きになれない理由のひとつが日没の早さだった。こちらでは七時を過ぎたいまもまだ日があり、五年ぶりの実家では犬が吠えてきた。母は、食べるものはすぐに用意できると言ったが、弟はピザを頼んだ。それとビールを四ケース、顔見知りの酒屋に注文を出した。送られてきた写真でしか見たことがない『もみじ』と名付けられた柴犬は、名村英敏が近づくと声を落とし、最後は母の影に隠れた。  実家ももう年老いた。そこに貼り付いた景色は古い映画の一場面だった。テレビも冷蔵庫も静かな寝息を立てて立ち止まり、蝉の声が遠くに響いていた。年金で暮らしているはずだ。株もあったが、少しずつ取り崩していると聞いた。このさき車を買い換えることも、遠くへ旅することもない。不自由することはもうないのだろう。仏間には祖母と祖父、叔母、あとは幼くして死んだ叔父にあたるひとの遺影があった。  母が箪笥から出してきた礼服は樟脳の匂いと白い紙に包まれ、袖を通すと入らないではなかったが小さく、不格好だった。ウエストがぎりぎり入ったので、これで通夜と告別式を乗り切れなくもない。母は裾を下ろす気で縫い物の用意を始めていたが、その格好を見て手を止めた。 「やっぱり無理があるかしら」と母が言うと、「下取りの服があったら、何千円引きになるらしいし、買ってくるといいよ」と、弟が加えた。 「いいよ。裾だけ下ろして」  弟には兄に金がないことはわかっていたが、直接それを言うと兄が気を悪くすることもわかっていた。 「借りて来ようか。田中さんだったら体格変わらんち思うし」  名村英敏にとって、田中や井上はありふれて覚えても仕方のない名前だった。 「いいよ、これで。田中さんだって御焼香に来るんでしょう? 貸せないよ」  このときも名村英敏は、どの田中さんのことかよくわかっていなかった。 「あのひとやったら二、三着持ってるって。四人兄弟だよ、あそこ」  世話を焼かれるのは好きじゃなかった。だけど「しょうがないな、買ってくるよ」と言えば空気を悪くする気がした。父の礼服の裾をひっぱって、「これが家督を継ぐってことだろう?」と言うと、呆れ声で「違うよ」と返ってきて、名村恵子が吹き出した。  名村英敏が小学四年生のころより祖母、名村シヅは入院しており、お盆と正月に家に帰るほかは自転車で十分の総合病院で過ごしていた。小遣いが足りなくなったときに病室を訪ねると、決まって千円もらえ、中学生になった名村英敏少年はそれでアニメ雑誌を買っていた。  祖父は早くに他界し、祖母も病院暮らしであったため、それなりの大きな屋敷に家族四人と犬とで暮らした。盆正月には親戚が集まり、その宴会を開く十分な広さの客間と、車何台かを停める敷地とがあった。父には兄弟姉妹が多く長男でもあり、その子名村英敏も小学生から中学生にかけて慶弔の行事をよく目にしてきた。思えば、ひとの葬式に出た経験の大半は二十歳までに集中している。  名村シヅが入院していたのは、長期入院患者ばかりの病院の六人の大部屋で、たまに訪ねると同室の仲間同士楽しそうに笑いあっていた。名村英敏が五年生のころ、大阪で暮らしていた叔母の名村良子が胃癌になり、叔母もまた同じ病院に入院し、それからは年老いた母と娘とで二人部屋で過ごした。叔母の名村良子は名村英敏が小学六年のとき、名村シヅはその後大部屋に戻り高校の一年のときに他界した。  一般的には二十歳を超えてからは、弔事よりも慶事が増えるのだろうが、仲間のうちに結婚式をちゃんと挙げるものは少なかった。同棲し、いつの間にか入籍するものがたまにいて、それも知らぬ間に別れるものだから、久しぶりに会う友人との会話にはひどく気を使った。スタジオの事務方のスタッフ、先輩や管理職の知り合いなどにたまに慶事があっても、招かれることは稀だった。弔事も同様、名村英敏にはその噂が伝わるだけで、わざわざ葬式へと出向くことはなかった。冠婚葬祭はむしろ作品のなかのものだった。学生時代に経験した大家族の宴会を思い浮かべながらレイアウトを起こし、表情を決めていったが、翌日のビール臭くなったトイレでがっかりすることもない祝宴はそらぞらしいファンタジーだった。  スタジオにいたころ、大物の漫画原作者が他界し、大きな寺で告別式が催されたことがあったが、その際も遠くで故人を想うだけで終わった。原作した漫画は数多くのアニメにもなった国民的な作家で、ニュースにもなった。名村英敏も幼いころより憧れ、伝手を介せば会場へ入るくらいはできたのだが、かつてそのひとの原作で漫画を描いた同じスタジオの先輩が「行かない」と首を振ったのを見て、いろいろと考えた。 「本当に行かなくていいんですか?」 「行かないよ、あんな奴の葬式なんか。死んでせいせいしたよ」  まだアニメーター二年目のことだ。あの大作家がコンビを組んだ漫画家からそんなふうに思われてたことも、葬式に行かないという選択肢があることもそのときに知った。  大学時代の盟友橘悠一たちばなゆういちが福岡の病院で若くして死んだときもそうだった。漫研の先輩から連絡が入り、連絡先を知る同期数人に声をかけたが、最も親交のあったひとりからは「そんなに親しくないから」という理由で参列を拒否された。名村英敏から見ればふたりは十分親しく見えたし、住む場所もそう離れてはいないのだけど、漫研には何かしら派閥的なものがあったことも感づいていた。漫画・アニメの世界で派閥の領袖に納まるということは、画力があることと同義で、すなわち名村英敏とは無縁の複雑な人間関係がそこにあった。  絵は平和裏で文化的なものだったが、たまにその絵で殴り合うものがいた。いや、本来そこに絵は関係なく、ただ馬が合わないものがいただけの話なのだろうが、絵の上手い奴には取り巻きがあり、妙な扇動力があった。おかげで上手い絵を描かれるとつい、敵か? 味方か? と構えるのが絵描きの性分であったが、目立った絵も描けない名村英敏は、どこにいても煙たがられることなく、微笑ましく受け入れられた。その盟友の死にあたって名村英敏自身は、福岡へ帰る金も時間もなく、それと天秤にかけて葬式への出席は見送った。とんぼ返りだとしても最低でも五万。死んだ人間に弔意を示すためだけに。橘悠一は福岡でアニメのスタジオを作ったほどの人物で、名村英敏からも溢れた仕事の依頼をしたことがあったが、「その作品は好きじゃない」との理由で断られた。忙しい、条件が合わないならともかく、好きじゃない。だったらいいかと名村英敏は思った。名村英敏も葬式は好きじゃなかった。 「コンビニはある?」  弟に聞くと、答えよりも先に、「ああ、うん。車を出そうか?」という返事が返ってきた。 「いや、ちょっと歩きたいから」と車を断り、家の前の坂道を降りた。  小学生のときに通った生け垣の抜け道に入ると、その出口は霊園の看板が塞いでいた。その看板裏に脱ぎ捨てられたストッキングとゴムとがあった。だれかがしけ込んだあとだ。ここで致したら何箇所蚊に刺されるかわからないと思ったが、あるいは男の方は蚊に刺される程度は覚悟の上で、女は二重に被害者だったのかもしれない。いや、でもゴムが落ちているということは、男には理性がある。あるいは車のなかで致して、ゴミだけ捨てたのかもしれない。何が起きたのかはわからない。すべては他人の物語なのだから知る術もない。そんなことを考えながら、喪主を務めて、家督を継いで、やがて母が死んで遺産がすべて入ってくるのなら、喪服の一着を買うことも悪くないと思った。  山を降りるとすぐに繁華街に出る。そこから海までは歩いて二十分。唐津の名前は全国で知られているが、小さな町だった。礼服を買いに駅前の呉服町まで出ようかと思ったが、コンビニにたどり着くころに日が落ちた。唐津くんちで知られる唐津神社は、呉服町の少し先にあった。その唐津くんちの祭の日、毎年同じ位置に松葉杖が置かれていたことを思い出した。灯籠の足元、陸から船に舷梯げんていを渡すように架けられた松葉杖を見ると、名村英敏はその指す方向に意味があるような気がして、祭のことなど忘れてその先の景色に思いを馳せた。祭を思うといまも、威勢のよい掛け声と歓声に紛れて、傷痍軍人のアコーディオンの音が思い出された。松葉杖の傍らには、日本軍の古びた軍服を着た義足の男が座り、腕をついていた。看板を立て、筆文字で名前、階級と、戦役地とが書かれていたが、少年がその文字の意味を解することはなかった。ところどころにほつれのある軍服の異様な姿に恐怖を感じながら、一方でその異質さは少年の心のなかに否応なく手を伸ばした。わたあめ、ひよこ釣り、カルメ焼き屋と並ぶなか、母は「金魚すくいがあるね」とその先を指差して、まるでそこには何もないように通り過ぎた。中学に入り、高校に上がり、ひとりで縁日に訪れてハッカパイプの屋台を探したときには、もうその姿を見つけることができなかった。

三 死体洗い

 名村英敏は地元の高校を出ると博多の先にある大学へ通うようになった。即、漫画研究会に入り、雨の日はゴエモンを蹴飛ばし、そこで出会ったのが後の盟友、橘悠一だった。向こうからしたら名村英敏は凡庸な漫画好きにしか見えなかっただろう。周りに比べると目立った絵も描けなかったが、上京してアニメーターを長く続けるうちに親交は厚くなっていった。  その知り合ってすぐのころ、橘悠一が見せた投稿用の漫画に名村英敏は衝撃を受けた。タイトルは《あるびゃーと》。橘悠一のアルバイト体験をベースにした漫画で、自分でも幾度か漫画を描こうとしたことがある名村英敏は『線の密度』に驚いた。漫研はあくまでも漫画研究会で、漫画やアニメの専門コースではない。ごく一部がプロを目指すほかは、ただの漫画好きの集まりだ。名村英敏もしかり。そのなかで見た橘悠一の漫画はプロのクオリティだった。『線が多い』ばかりではない。集中線が密で、その線にかぶさる前景の鉄塔がホワイトで丁寧に抜かれ、すべてのコマに背景が描かれている。画力も構成も凄まじく、名村英敏にも、また本人にも絶対に賞を獲るという確信を持たせた。「マガジンに投稿するかサンデーにするかで迷っている」と、橘悠一はだれかれともなく話していたが、その反応でひとをふるいにかけているようにも見えた。ジャンプはバトルものが多く、ストーリーで見せるならサンデーという感覚があり、「ジャンプは?」と口にするものには失笑を返していた。ヤンキーものならマガジン、ひと癖ある王道はチャンピオン。ジャンプは作風がバトルであるだけではなく、そこに勝負をかけることがすでにバトルだった。  最終的に少年サンデーに投稿した《あるびゃーと》は佳作止まり。「こんなものが?」と思えるような拙い絵の漫画が入選をさらっていった。  ――いろんなアルバイトを見るのは面白いが、作者個人の体験を語るだけで、全体の物語やテーマが見えてこない。  ――画力、構成ともに優れているが、同程度のライバルは無数にいる。まずは技工よりも、伝えるべきことを明確に。  と、評価された佳作漫画に登場するいくつかのアルバイトのなかに『死体洗い』があった。  名村英敏は二階のかつての自分の部屋で眠りにつきながら、橘悠一が父親の遺体を洗っている姿を思い浮かべた。  実家の部屋は、名村英敏の上京後は弟が使っていたこともあり、当時の面影は少なかった。布団を敷いて寝ていたのに、いまはベッドが置いてある。浅い眠りから醒めて見渡すと、部屋の片隅には弟が一時期凝っていたギターアンプ、エフェクターとケーブルが入ったダンボールがあった。壁を見るとロカビリー系の古いポスターが飾られていたが、アニメージュの付録の《マクロス》のポスター一枚だけはそのままになっていた。カーテンに切り取られた日差しが色あせたポスターを照らす。このところ朝はなぜか六時過ぎに目覚めるようになっていたが、その時間にすでに階下から味噌汁が香った。ジャージのまま部屋を出ると、階段の三段目が相変わらず軋んだ。  味噌汁と卵焼きの簡素な朝食を取るとすぐに、葬儀の業者のトラックが見えた。代表ひとり、作業者三名、門を入ると縁側の掃き出しの外で帽子を取り、お悔やみを述べた。客間と居間の仕切りの襖を外して二階へと上げると、三人の業者が手際よく祭壇をこさえ、花と提灯とで飾り付けた。故人は北を枕にして寝かせるのだと身振りを交えて説明し、宗派によって葬儀の飾り付けや手順に差異があるとの説明を聞いたが、名村英敏は菩提寺の名前も宗派も知らなかった。すぐに弟も来て、葬儀社のひとたちと挨拶を交わした。地域の流通関連の部長ともなれば顔も広い。会話は旧知の仲のように見えた。遺体もすぐに来ると、時計を見せた。おそらく父もいまごろ、バイパスの歩道を病理解剖の傷をおさえて歩きながら、時計をのぞいている。  盟友橘悠一が描いた漫画のなかでは、抱え起こされた遺体が『ぐろろろろろろ』と吠えながら目を剥いてしなだれかかってきた。何事かと思ったら痰が喉を下がっていく音だったというオチがつくが、あれから三十余年、それが医学部で行われているという検体洗浄の話なのか、葬式の際の湯灌だったのか、定かな記憶は消えていた。  死体洗いの話は、当時はあまり聞かなかった。二〇〇〇年代からぽつぽつと聞かれるようにはなるが、それもまた十年もすると都市伝説だと言われるようになった。もともと尾鰭がつきやすい話ではあった。橘悠一の漫画もずいぶんとデフォルメされていたが、名村英敏にしてみたら漫画とはそういうものだった。それが誇張されたままにひとに伝わり、やがて都市伝説で片付けられるようになるのは、不可解でもあり、可笑しくもあった。 「いやぁ、過ごしやすい季節になりましたね」  ――件の死体は最後には、自分でタオルをもって背中を流していた。  名村英敏の死体洗い考は、とあるライトノベルのOVAオリジナルビデオアニメ化から深みにはまっていった。その監督をした平野豹馬と名村英敏は旧知の仲で、原画を頼みたいと電話がきて、渡されて目を通した原作小説のなかに、死体洗いの話があった。  国分寺のスタジオにいたころ、名村英敏と平野豹馬はどちらも浮いた存在で、互いに話すこともなく、名村英敏は平野豹馬のことをボソボソと早口でしゃべる虫のような生き物だと思っていたし、平野豹馬は名村英敏をただ『臭い男』だと思っていた。その話は後に聞いたが、「当時はみんなそうでしょ。風呂なんか入らないし」と、名村英敏は笑って受け流した。平野豹馬の体臭は覚えてはいないが、存在が異様だったことは印象に残っている。スタジオで多くのスタッフは机に設定のコピーやキャラ表を貼っていたが、平野豹馬の机にだけは作品とは無関係な好きなアニメの切り抜きと、近くの小学校で撮ってきたらしい体操服写真が貼ってあった。変態と言われて喜ぶタイプの始末に負えない変態だった。アニメという仕事をあてがっていなかったら何をしでかしたかわからない男だが、ある種の限定的な才能はあった。人望はない。スタジオの分裂などで「だれについていくか」という選択を迫られることがよくある業界のなかで、明らかに選ばれない人間だった。しかしそこは変態が功を奏す世界、数多いた同僚のなかで平野豹馬だけが独立後も頭角を現した。その変態から「死体洗いのバイトって、本当はいくらもらえると思う?」と聞かれたのが二〇〇四年。それより二十年も早く死体洗いを描いた知り合いがいることを少し誇りに思ったものだが、この二年前に盟友橘悠一は糖尿病で他界していた。死体洗いを調べるうちに創作では一九五七年、大江健三郎の《死者の奢り》が初出であるという記述にたどり着き、以来、小説をあまり読まない名村英敏が、大江だけは読むようになった。  父の遺体が玄関を開けるころ、名村英敏は呉服町を目指した。  喪服を買えば更に一万から二万の出費になる。下取りのスーツがあれば何千円か割り引かれるらしいが、その融通をひとに頼める性格なら田中さんから借りるという話を断ってなかった。いままでの人生でいちばん稼いだ月は、作監もこなした月の八十万。ただそれは望めば手に入るという仕事でもない。締めの関係で先月から繰り越されたぶんが含まれていたし、運もある。名村英敏にはキャリア途中に五年近いブランクがあり、そのころに収入はガクンと減った。いまでは月々二十万から三十万といったところで、フリーでやっているとそれすらも途切れることがあった。デジタル作画に苦手意識を持っており、それを若手に指導されたくもないと、ある時を境にスタジオに属することもやめた。それにおそらく『苦手意識』ではなく、実際に『苦手』で、この年になって克服できるとも思えなかった。『実力はあるが、数をこなさないひと』でありたかった。仕事ぶりを見られてはただの『実力もなく、数もこなせないひと』の烙印を押される。いまはたまたま知り合いの制作進行が仕事を回してくれているが、主戦力としてカウントされているわけでもない。ここぞというカットはもう回ってこないし、作監の仕事もない。ましてや絵コンテ、演出。原画にしてもいつ見限られるかわからない。それは死んでいることと何が違うのだろうか。その『死』を悟られないように、弟に車も頼まずに、八月の暑い盛りに繁華街まで歩いた。  日が傾くころになると親戚や知人が集まり始める。名村英敏より若いいとこにとって、名村英敏は遠い存在だった。気楽に声をかけてくるのは叔父叔母で、「孫に《プリキュア》を描いてやってくれ」だの、あるいは「《セーラームーン》を描いて」だのと注文を付けた。《プリキュア》すべてを覚えているわけではなかったが、スマホで髪型やパーツを見ればあとは下書き無しで描けた。たまに下書きすることもあったが、下書きとペン入れの線はほぼ同じ場所を通った。 「すごい! それ、縁日でやったら?」  何枚か絵を描きながら、さんざん親不孝して身につけた技術をひけらかすことの後ろめたさを感じた。とは言え、馴染みのない親戚の輪に分け入るには、酒か取り柄が必要だった。通夜というのは故人を偲ぶためのものだろうが、名村英敏にはだれかと偲び合いたい思い出もない。胡座をかいて親戚の話を耳に入れながら、坊さんの到着を待った。  ――英敏が喪主を務めることで、名村家の本家は健在であるとアピールすることができる。長く東京から帰らなかったが、失踪したわけでもなんでもない、家を継ぎ、名村家を守るのだ――  というような話をほとんど記憶にない遠い親戚が口にした。  ――テレビでも名前が出た。あの映画もこの映画も英敏くん抜きには世に出てなかったわけだ。その人物が名村家から出た――  いやいや、そこまでのことではと謙遜すると、まあそう言わずとビールを注がれる。 「そういうのが親孝行なんだよ、英敏くん。わかるか? 父ちゃん死んだとは残念やったばって、よう帰ってきた。あの世で誇りに思うとらす」  親戚らしきひとがうんうんと頷くと、となりの別の親戚らしきひとが肩をはたいた。 「なんば言いよらすとね。まだあの世には行っとらんばい。そこにおらすたい」  肉体が役目を終えても、その魂は四十九日はこの世に留まる。父はまだ耳をそばだてている。そのなかで親戚らの口から出る、  さすが英敏くん――  あちこちに名前の出とらす――  の言葉をどう受け取れば良いか戸惑った。  いまも父を見返した感覚はない。数多の天才を目の当たりにし、萎縮してばかりの人生だった。いまだに他のスタッフのカットに驚愕させられる。  ただそれでも傍から見れば、名村英敏も恵まれた、そして才覚のある人間だった。初作監をやったときもただ何気なく「作監やらせてくださいよ」と口にしただけだった。苦労したとは言っても金の苦労だけ。それすらも従兄弟たちに比べれば容易い。家族を養うために学生時代からバイトをしたわけでもない。大学も勝手に辞め家出同然に上京したが、その後幾度かの仕送りを受けている。そしてなお親に感謝したことはない。いつか大作家になって、自分にかかった養育費を返して縁を切るのが夢だった。最後の仕送りから三十年が経つ。感謝したならばその気持は永遠だろうが、返すつもりの金なら時効がある。  死化粧した父親の顔は見たくなかった。通夜の前、幾度もその棺を覗く機会はあったが、来客と話したり、装花を直すふりをしてかわした。  通夜が始まる。二十歳で地元を離れた名村英敏にとって、通して通夜を体験するのは今回が初めてだった。幼い日の通夜の夜は、名村英敏といとこたちはテレビのない二階でラジオを聞いて過ごした。喪主として送る通夜の夜は、いままでに思い描いたこともない、悲しみでも寂しさでもない感情が目に留まった。ちいさい子どもは退屈しのぎに渡された親のスマホに夢中になる。八月の暑いさなか、汗を拭う弔問客を迎えるたびに「こんなときに死ぬバカな親で申し訳ない」という気持ちが溜まり続けた。  それは棺で横になっている父親にしても同じだった。  ――無作法な息子で申し訳ない。もう少し生きてなんとかしたかったが、まことに無念だ。  名村英敏の父はそう恐縮しながらも、心のなかではそんな息子を自慢に思っていた。

四 赤いクジラ

 名村英敏は寿司をつまみながら、名村シヅの通夜の際には精進料理が出たことを思い出していた。弟が手配した料理は魚ばかりか鯨も並んでいる。母が盛り付けているところを見たのだから今更驚くことでもないのだが、弟に聞くと「いまは葬式やけんちいうて精進料理ばっか食うっちゃ限らんけん」と、酢みそのかかった湯かけを口に運んだ。ここ最近の通夜・告別式では、故人が好きだったもの、ゆかりのあるものを振る舞うケースが増えていると言う。テーブルの上にはなまこ酢、からすみ、酒蒸しと並ぶ。もちろん、ビールも。 「だったらなんでビール」  名村英敏は下戸だった父を思い、弟に質した。 「飲むとは客やけん。本人にはコーヒー買うたろ?」  テーブルの中央付近に昼過ぎに弟とふたりで買いに行ったジョージアの缶コーヒーが並んでいた。辛党ばかりの客のなかに缶コーヒーに手を伸ばす者はいない。このコーヒーを毎日のように買いに行った思い出も家族だけのものだった。弔問客はビールを酌み交わし、故人を偲びながら、かつて捕鯨で賑わっていたころを偲びはじめた。  酒の入った客は、「なして豆に言われにゃいかんとか」とグリーンピースを腐し、「人間のほうがイルカに殺さるる」とイルカ漁を告発したドキュメンタリー映画を批判した。若いころより無数の鯨を缶詰にしてきた父も棺から身を乗り出して頷いているが、酒と鯨の食い合わせは悪い。「鰻も食うちゃいかんち言うとお」と、人生で三回くらいしか会ったことのない親戚が酒くさい息を吐く。幼少のころ親戚というのは、お年玉をくれて酒を飲んで帰るひとだったが、お年玉をくれなくなった親戚はただ酒を飲むひとだ。ひょっこりと冠婚葬祭に現れる姿は、人間よりも妖怪に近い――と、思いながらもふと―― 「クジラち、赤かち思うとった」  とこぼすと、「赤でおうとるたい。哺乳類やけん」と返された。 「いや、体。黒いクジラ見てがっかりした」  名村英敏は答えるが、妖怪たちはうまく飲み込めていなかった。  森永おっとっとのキャラクターが赤いクジラではあるが、そのおっとっとが発売されるはるか昔、まだ小学校の一年のころに名村英敏は赤いクジラの絵を描いた。もしかしたら幼いころに、赤いクジラのキャラクターを目にしたか、あるいは唐津くんちの曳山の印象があったのかもしれない。「そりゃクジラじゃのうて、タコかカニやろ」と笑った親戚もいたが、名村英敏が曳山を語り始めると聞き入った。一番曳山『赤獅子』、五番『鯛』、七番『飛龍』、十三番『鯱』、名村英敏が好きな曳山はすべて赤かった。 「おれのなかじゃ、十五番曳山は『クジラ』やけん」  唐津くんちの曳山は十四番まで。名村英敏はそれに続く曳山を妖怪たちの脳裏に想起させた。 「ちょっと描いてみらんね。おいが掛け合うてみるけん」  そう言った親戚――親戚なのか父の知人なのかもわからないそのひとが何者でだれに掛け合うつもりか知らないが、名村英敏は「ああ、それじゃあ」と頷いてみせた。部屋からマーカーを取って戻ると、ちょうど酒の入った弟が、「アニメとのタイアップで曳山ば増やす話ば昔聞いたこつんある」と話すのが耳に入った。甥っ子が色めき立つ。目を輝かせて「《ガンダム》!?」と声をあげ、弟は焦って、「ここだけの話やけん。外じゃ言うちゃいかんぞ」と繕った。日本各地に《ガンダム》立像が建立され、ゲームのキャラがマンホールの蓋になる時代、《ガンダム》曳山が登場するのもあり得ない話じゃない。曳山の四番、九番、十番はそれぞれ、義経、信玄、謙信の兜だ。《ガンダム》頭部があっても違和感はない。初代、ゼータ、ダブルゼータ。壮観ではないか。 「いや、おかしかばい。そげんなんでっちゃかんでっちゃアニメにすっこたなかろうが」叔母が割って入ると、「なんば言いよると。英敏くんに失礼やろうが」と、赤ら顔の叔父が話を引き戻した。  故人を偲ぶ話は、湯かけの鯨から、捕鯨、鰻を経て、《ガンダム》、名村英敏の話に推移していた。いつのまにか故人に代わって、名村英敏が地元のひとの輪の中心にあった。  名村英敏はスケッチブックを人の目から隠しながら、赤いペンで色を塗った。そして、「できた」とひとこと。周囲の顔を見渡して、もったいつけて公開したクジラを見て、甥っ子姪っ子は大笑いした。
 小学一年生のころ、図画の時間にこの絵を描いた。 「名村くんの絵です」  担任の教諭が掲げると、生徒たちの目が集まり、 「でも、クジラの色は赤かな?」  の問いにはすぐに「くろー!」「くろとしろー!」と声が上がった。  名村英敏は笑顔をたたえたまま戸惑った。クジラが黒いことも先生の仕打にも納得がいかなかった。  その後名村英敏はすぐに人気者になり、クジラの絵を描いてとせがまれるようになったが、頑なに赤いクジラしか描かなかった。黒いクジラなど考えられなかった。一週間もすると真似をして描くものが現れたが、色は黒かった。可愛げも何もない。しかも名村英敏が口だと思っていた部分は腹なのだと教えるものが現れた。口は名村英敏が口だと思ったものと頭の境目にあると、むかしお父さんが捕鯨船に乗っていたという子が証言した。目の位置もここじゃない、このあたりだ、と口の隅っこを指した。名村英敏の父も水産加工会社にいたし、思い起こせば缶詰に描かれたクジラは黒かったが、それは『食べるためのクジラ』だと思っていた。だが名村英敏のクジラはそうじゃない。黒いクジラを描きたいわけじゃなかった。  名村英敏は好きなものを描きたかった。むしろ好きなものは描かずにはいられないかった。何を描くかはすべて手が勝手に決めた。小学三年のときに犬を飼ったときもひたすら犬を描き続けた。好きなアニメの絵もひたすら描いた。自分で描く前の世界は不完全で、描くことでそれは完成された。欠如した何かを埋め合わせるように絵を描き、幼いころそれは曳山の『鯛』であり、やがてそれは《マジンガーZ》に変わった。 「《ガンダム》は描ける?」  甥っ子が無邪気に聞いてくる。 「描けるけど、《ガンダム》は五千円」  ええーっ? じゃあ《プリキュア》は? 《ドラえもんは》? と聞かれ、すべて五千円と答えると「お父さん五千円ちょうだい!」と、矛先は従兄弟へと向いた。 「じゃあ五千円で《セーラームーン》ば描いてち頼んだら、どげんか絵ば描いてくれると?」  と、従姉妹が聞き返してきた。  佐賀には民放が一局しかないが、福岡の放送をほぼ見ることができた。福岡の民放四局に加えてサガテレビが映ったので、実は福岡よりも幅広くアニメが放送されていた。大学に入り、福岡、北九州、筑後の友人が「《ストップ!! ひばりくん!》が見れない」と嘆くなか、普段から民放一局の田舎者と揶揄される鳥栖や唐津の佐賀勢は違った。「それが葉隠の精神か!」と、橘悠一が言ったが、あながち間違いでもない気はした。そしてなぜかいつも福岡ヅラする裏切り者の鳥栖までも、テレビの話では佐賀にすり寄り得意顔をするのが少々許しがたかった。逆に、鳥栖と筑後川をはさんですぐそばにある久留米が「《ひばりくん》が見れん」と言ってるのもわからなかった。サガテレビはいったいどうやって電波を鳥栖までで止めているのか。漫研で話題にすると、筑後川に電磁的シールドがあるだの、久留米で売られているテレビはカッパが作ってるだの、佐賀・武雄・伊万里の電波がちょうど久留米市上空で打ち消しあってシュヴァルツシルト面を出現させるだのという意見が上がった。こういうことを言い出すのは決まって橘悠一で、「シュヴァルツシルト面! 発生! ぷしゅわーっ」などと言ってとなりの男に攻撃をかけ、攻撃された男は「ぬおおおおーっ!」とか言って苦しんでたりしたが、これもまた漫研ではありふれた景色だった。  漫研での会話は概ねそんな調子で、同じように『絵を描くとなぜ人気者になれるか』を考察したことがあった。漫研メンバーの半分は漫画を描き、名村英敏と同じようにちやほやされた経験があった。  そのなかで、「たとえば」と、盟友橘悠一が切り出した。 「《ガンダム》の絵を描くだけなら、雑誌の切り抜きのほうが上手いのに、なんで描いてとせがまれるのか」  《ガンダム》を頼まれて、雑誌の切り抜きを渡しても相手は納得しないだろう。下手でも描いてやったほうが喜ぶ。その瞬間においては、クラスでちょっと絵が描けるやつが最前線のトップアニメーターを凌ぐのだ。  そしてまた「たとえば」と、名村英敏が被せた。 「クラスメイトに描いてもらった《ガンダム》と、隣の校区のだれかわからん奴が描いた《ガンダム》って、価値は違うんかい?」  当然だ、そりゃあ違うだろうと意見が揃った。たしかにクラスメイトが描いた《ガンダム》には、上手下手では説明しきれない価値がある。では第三者から見てどうかとなると、どちらの《ガンダム》も違いはない。己にとっての正義は相手にとっての云々という与太話と同じく、自分にとって価値のある《ガンダム》も、よその校区の生徒にとっては無価値な落書きになる。逆もまた然り。おそらく、目の前に同じ《ガンダム》好きの人間がいることに意義があり、だからこそ同人誌が売れるのだろう。  また、同人誌の話になると「逆に」と、盟友橘悠一が話題を切り返した。 「知らない人が描いた《ガンダム》を集めて同人誌にするの面白いかもしれんね」  知らない人が描いた《ガンダム》――  橘悠一は、たとえば有田焼きの絵付師七十九歳が孫にせがまれて描いた《ガンダム》、たとえば岩田屋おもちゃ売り場に務める店員二十六歳がポップ用に描いた《ガンダム》、たとえば名村英敏十八歳がアニメーター採用に応募すべく描いた《ガンダム》、と例を挙げ、「笑えると思わん?」と聞いてきた。たしかに面白いかもしれないが、キャプションがなければただの下手な《ガンダム》のオンパレードでしかない。それを面白がれるのはごく一部だ。しかしまた、考えてみればすなわちそのキャプションこそが、『クラスメイトから描いてもらった《ガンダム》の価値』に当たるとも言える。たとえばただの下手くそな落書きでも――将来は漫画家を目指していた井上くんが小学校の卒業文集に描いた《ガンダム》――とキャプションが付いた時点で新しい物語が生まれる。クラスでもずっと将来の夢を語っていただろう井上くんが「漫画家を目指していた」と過去形で言われる切なさ。あるいは、井上くんの画力とのギャップ。その卒業文集を書いたクラスメイトはみな就職し、もう子どもがいるというのに、まったく井上さんちの息子と来たらという底知れぬ背景が、落書きを物語に変える。  盟友橘悠一は、「そこから《ガンダム》という記号を通分して消したとき、そこに残るものってなんだろうね」と、問いかけた。  小学校も三年、四年になると、《ゼロテスター》、《ゲッターロボ》、《コン・バトラーV》、などをリクエストされて描くようになった。クラスメイトはリクエストするばかりではなく、自分でも描いて名村英敏に見せた。《コン・バトラーV》の複雑なパーツはみんな名村英敏の絵を見て真似するようになり、名村英敏が描いたアングルと同じ《コン・バトラーV》が、まるで共通の言葉を覚えるようにクラスに広まっていった。  四年生になると漫画を描くようになって、描くことに新たな目的が生まれた。どんなに人気ものになっても落書きは落書きで、だれかに見せたり褒められたりするのはオマケでしかなかったものが、漫画は見せること、反応を得ることが目的になった。ただ笑っている絵を描くのではなく、どうして笑っているかを描くようになった。友達と共有するものも『笑ってる』ではなく、『どうして』に変わった。そしてそれこそが後に橘悠一らと話した「《ガンダム》という記号を通分して残るもの」だった。そこではもう《ゼロテスター》も《コン・バトラーV》も通分され、意味を持たなかった。  小学校の五年から六年へ、クラス替えなく担任もそのままで持ち上がり、その年の家庭訪問で担任から落書きが多いことをやんわりと指摘された。そしてそれは母親から父親の耳に入り、父親から「授業中に落書きはするな」という言葉になって降ろされた。  ただそうは言われても、ひとの話をろくに聞かないのが名村英敏だった。この歳になると親もそれは見通していて、せめて授業のノートとは分けろと、以来、落書き用のノートを授業のノートとは別に用意するようになった。落書き用のノートは小遣いから買い、授業で使う父親が買ったノートには一切の落書きが許されなかった。結局その後も、授業中にも落書き用のノートに落書きを続けたが、ただひとつ変わったのは、父親にだけは落書きを見せなくなったことだった。  幼いころはクジラの肉の食感が嫌いだった。克服できないままに市場からクジラは姿を消し、いつのころからか特別な機会にだけお目にかかる特別な食材になっていた。  甥っ子姪っ子、正確にはいとこの子、従甥じゅうせい従姪じゅうていはひっきりなしにクジラの絵をせがんだ。赤くて潮を吹き怒りマーク付きのクジラを渡すと、姪っ子が聞いてきた。 「どうして怒ってるの?」  特に理由はなかったが、このクジラが『食べるためのクジラ』じゃないことは確かだ。それにこのクジラは名村英敏の十五番曳山でもある。答えに迷って、 「これから《ガンダム》と戦いに行くんだよ」  と教えると、甥っ子姪っ子はゲラゲラと笑った。

五 リン・ミンメイとプレスリー

 明けて、葬儀、告別式、火葬と終え、名村英敏と弟は実家の縁側で缶コーヒーを飲み、名村恵子と従姉妹とは厨房の片付けをした。喪主として通夜から関わってきた名村英敏にも洗い物の量は見当ついてはいたが、自分がそこに加わることはなかった。缶コーヒーを飲み終えて、それを厨房のゴミ箱に入れる際に「なにか手伝うことはある?」と聞くと、「よかよ、お客さんやけん、座っとって」と従姉妹に返された。喪主がお客さんのわけがない。それが総意でもないだろうが、それでもそこに割って入るほどの社交性は持ち合わせなかった。その従姉妹の夫にしてもこの場にはいない。それを差し置いて本家の長男に家事をさせることに引け目を感じたのかもしれない。田舎の社会は、どこかにひびが入るとどんな割れ方をするかわからない。名村英敏は一週間後には東京へ帰る。居間へ戻ると弟がテレビをつけた。夕方のニュース、バラエティ、再放送のドラマとチャンネルを変えて、「なにか見たいものがあれば」とリモコンをよこした。しかしもう地元のテレビ番組など覚えていない。《サマーウォーズ》というアニメーションの一場面を思い出しながら、「野球は?」とリモコンを受けると、「まだ早かろたい」と呆れられた。 「それじゃ、CM」  名村英敏が言うと、弟はまた苦味のある笑みを頬に貼り付けた。 「また、地方CMはおもしろかち言うてバカにすっとやろ」 《サマーウォーズ》では、女ばかりが家事に追われ男が居間でテレビを見る旧態然とした法事の描写が批判を浴びたが、いまの名村英敏はその主人公だった。  文学というのは大きく写実主義か浪漫主義かに分かれる。文学がそうであれば物語によって成り立つアニメもそうだろう。ただ、アニメは圧倒的に浪漫主義が多いように思う。《アンパンマン》や《プリキュア》が報われずに死んでいくようなことはそうそうない。《デビルマン》は写実主義だったように言われるが、それも名村英敏に言わせれば裏返した浪漫主義だ。ヒロインが大衆に惨殺される場面などは特にそう感じた。英雄の活躍と、敵の暴虐は同じものだ。写実主義の《デビルマン》があれば、主人公は《デビルマン》に変身もできないし、ヒロインの美樹とはろくに口も聞けずに悶々としたまま過ごしただろう。自分は悪魔だ、人間に守るべき価値はないと嘯きながら、何もできずに美樹にだけは承認を求める化け物が、真に写実主義の《デビルマン》だ。  他方、《君の名は。》で一躍名を馳せた新海誠は、初期は写実主義だったように思われる。《言の葉の庭》、《秒速5センチメートル》と、カタルシスの得られないリアルな作品で認められ、この夏に公開された《君の名は。》ではついにハッピーエンドを描いた。名村英敏も試写で見て、「新海誠も大人になったね」と知り合いに語った。  また、《時をかける少女》や《サマーウォーズ》を監督した細田守はよく新海誠と並び称されるが、細田守は一貫して浪漫主義だったと思われる。あるいは、ドラマに対して浪漫か写実かというスタンスを持っていなかった。件の《サマーウォーズ》における脚本家奥寺佐渡子さとこの筆致には写実性があった。死亡フラグが立ってすぐの逝去シーケンス、一切煽りのないフローは見事だった。《おおかみこどもの雨と雪》にしても同様、有無を言わせぬ残酷な展開は、オーディエンスを殺さん気迫があり、息を呑ませた。これとふんわりしたイメージとの、食い合わせもあるのかもしれない。細田守が監督すれば、ゾラの《居酒屋》だろうが、スタインベックの《怒りの葡萄》だろうが、大江の《飼育》だろうが、《おおかみこどもの雨と雪》のあの作風になる。オーディエンスは絵から推測するものによって脚本を解釈していた。もちろん、アニメは絵で完成するものだから、その受け止め方で正しい。  逆に、あの手のアニメの絵柄だとすべてが浪漫主義になると考えることはできるだろうか。たとえば《おおかみこどもの雨と雪》の絵が《笑ゥせぇるすまん》や《墓場の鬼太郎》であったらどうだろう。絵から写実性が失われると同時に、物語は写実性を得ることになりはしないだろうか。  となれば、物語の理想化はキャラクターデザインによると言えるか。たとえば、《君の名は。》と同じ田中将賀まさよしがキャラクターをデザインすれば、それはすべて浪漫主義になるか。……さすがにこれは否だ。田中将賀のキャラクターデザインには、《あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。》、《心が叫びたがってるんだ。》という作品があり、そちらは写実主義に近い。となると、キャラクター起因説は否定せざるをえない。だとすれば、果たしてこの写実と浪漫の違いはどこから来るのか。  名村英敏は絵コンテやレイアウト、原画は描くが、脚本は書かないし、キャラクターデザインもしない。もし作品が『写実主義であるか浪漫主義であるか』が脚本かキャラクターデザインに起因するとしたら、それに関して名村英敏はなんの責任もないし関与もできない。だが逆に、そこに原因がなく、作画や絵コンテの問題だとすると名村英敏の責任範囲になる。  写実主義であればそれは現実を切り取ったのだから、批判されようがどうしようが問題ない。確固たる信念を持って世に送り出せばいい。もしそうでなかったら――これが浪漫主義的な文脈で解され「そんな理想を描くのは愚かだ」と批判されたら、その『愚か』という言葉はだれに向けられたものなのか。  サマーウォーズのキャラクターデザインは貞本義行さだもとよしゆきなる名村英敏よりも先輩にあたる人物だが、先の例から、写実主義か浪漫主義かの区別はキャラクターデザインには拠らないことが導かれている。ならば《サマーウォーズ》の奥寺佐渡子の脚本が浪漫主義であったかというと、決してそうだとは言い切れない。《おおかみこどもの雨と雪》にしても、彼氏役が大泉洋やムロツヨシだったら、『ダメな男に引っかかった女の話』としてそれほどの批判は浴びていなかっただろう。むしろ主題が浮き立ったようにも思える。つまり、批判を浴びたのは脚本でもキャラクターでもない。  ――だとしたら、批判されたのはおれじゃないか。  名村英敏は《サマーウォーズ》には参加していないが、とある少年少女向けのアニメではモンスターを捕獲する主人公たちの後ろでキャンプの準備を進める少女たちの原画を描いた。実際にいま女たちが法事の後片付けをしている声を聞きながら、名村英敏は弟とテレビを見ている。これと同じ光景を子どもたちに向けて描いた。シナリオにそう書いてあったので、描かざるをえなかった。だがあのとき、ヒロインの心境をどう捉えたか。どんな目で主人公を見ていたか、どこまで考えて原画を描いたか――  思索を巡らせていると、 「お母さんひとりになるけん。ここは」  弟が不意に漏らした。  弟は海の近くに家を建てて親子四人で暮らしている。この賑やかな後片付けが終わると、明日からまた母はひとりになる。そう話すそばから、焼香の客がまた訪れて、名村英敏と弟で頭を下げた。葬儀は終わったが、まだすべてが片付いたわけでもない。卓袱台にはまた装い直した惣菜とコップが並べられる。客人が線香をあげ終えると、居間に座り、また故人を偲ぶ話が始まる。  ――残念やったね。  ――悲しかろばってん、しっかりせにゃいかんよ。  そう励まされるが、名村英敏のなかにそれほどの悲しみはなかった。  父が死んでせいせいしたわけではない。  悲しみとしては確かなものがあったが、喪失感よりも、何かが精算されたという思いが大きい。あるいはそれを世間では「せいせいした」と言うのかもしれないが、半世紀の人生で初めて経験したこの感覚に、そんな簡単な名前がついているはずがなかった。  父はずっと、地元の水産加工業のネットワークの入り口あたりで、名村英敏と社会の間に立ち塞がった。何をするにも、その門をくぐる必要があった。名村英敏は目をそらし、腰をかがめて、いつもその声に怯えていた。  中学のころ、好きな子の親から身辺調査されていた件もそう。  あのころはまだそんな事実など知らずに、なぜその子、上野深雪が自分のことを避けるようになったかと悩んでいた。誕生日にプレゼントを投函しただけなのに。上野深雪は名村英敏の話題が出ただけで走って逃げるようになっていた。その上野深雪のことを好きになったのが、小学六年。ちょうど叔母が癌で亡くなる二週間前のことだった。  六年生、小学校最後の年、夏休みにはいる前後からは毎日のように病室に通った。行けば決まって、アイスクリームを買ってきてと、叔母と祖母と自分のぶん、三百円を渡された。叔母にしても、毎日顔を見せる甥が日々の慰みになったのだろう。勉強を見るつもりで国語や社会や算数の教科書を開かせたが、最後に落書きのノートを見るのも忘れなかった。ノートをめくりながら、好きな子はいるかと聞かれたことを覚えている。当時はまだひとを好きになるという感覚もなく、何を聞かれてるのかわからなかったが、それが訪れたのも、ちょうどそのころだった。気がつくと上野深雪のことを好きになっていた。  葬儀はその子の誕生日に重なった。昭和五十一年十一月、文化の日の翌日。恋をしてまだ二週間は、誕生日になにかイベントがあるような間柄でもない。叔母への報告もできないまま、そう言えばあの子の誕生日だったと思いながら、通夜の夜と葬儀の日を過ごした。  遡って十月、運動会も終えた体育の時間、マラソン大会の練習で周回数を数えるペアを組んだのがきっかけだった。男女それぞれ身長順に並んで決めていくと、名村英敏は必ず上野深雪とペアを組んだ。その上野深雪が名村英敏と組むたびに「良かった、名村くんで」と言うのを聞いて、少しずつ意識するようになった。  十二月、叔母の四十九日も終えるころには、名村英敏の絵をいちばんよく見るのは、上野深雪になっていた。絵を描くことでしか世界を認知できない名村英敏が、上野深雪のために絵を描くようになった。  一月、小学校最後の二ヶ月が始まる。最後の席替えで、担任が好きなひとと班を組んで良いと言ったので、名村英敏と上野深雪は迷わずに同じ班を組んで、そこに仲の良い友達が集まってきた。名村英敏は《宇宙戦艦ヤマト》をパロディーした『宇宙戦艦クジラ』を描いた。  二月、上野深雪は私立の中学の受験に失敗。名村英敏はそれを本人の口からではなく、噂好きの別の生徒から聞いた。  三月、卒業。長い握手を交わした。  四月、晴れて中学生になるが、上野深雪の制服を着た姿が大人びて、声をかけることが躊躇われた。まわりではだれがだれのことを好きだという話が飛び交って、気後れした。  五月、クラスメイトといるところに上野深雪が話しかけてきたが、親友にからかわれるのが嫌で校舎の壁に背中を付けたまま聞いた。麗しの上野深雪と話したのはそれが最後だった。  それから絵を描かなくなった。  唐津市立第一中学校で、麗しの上野深雪のクラスは国語の田中巌たなかいわおが担任した。田中巌は特に女生徒から評判の悪い傲慢で頑迷な男性教諭で、名村英敏はその性格に自分の父親を重ねて見ていた。上野深雪は不幸にも、一年、三年と田中巌のクラスになった。  その上野深雪に告白したのは、中三になってから。  十一月、三年間温めてきた思いを手紙にしたためて、誕生日のプレゼントを添えて、塾の帰りに本人の家のポストに投函した。手紙には「明日の昼休み、図書室で会えませんか」と添えた。次の日、共通の友人田中隆たなかたかしを介して返事の手紙をもらったが、そこには「受験まえなのでこういう話はやめましょう」とあった。「試されてるような気がするので図書室へも行けません」――とも書かれていたが、その日はけじめとして図書室で待った。  それから上野深雪に避けられるようになった。友人田中隆から「おまえの話題が出ただけで走って逃げられた」と知らされ、ショックを受けた。その後もなんどか話すことはあったらしく、「嫌いじゃないとは言うとった」と、伝えてはくれたが、救いにはならなかった。  横暴な田中巌教諭のとある授業中、《小さなお茶会》と言う漫画に出てくる詩をノートに書いていたことがあった。  ――とお夢咲ゆめさく こころ野辺のべの きみにまで  ――こえるように 鈴僕すずぼくる  詩の横に傍点がふられ、そこだけ拾って読むと『ときめくこころのきみにキス』になる詩だった。その落書きを田中巌に見つかり、「名前は?」と聞かれた。教え子の名前くらい覚えておけよと思いながら、「名村です」と答えた。そこにはなにか、上野深雪の父親に見つかったかのような気まずさがあった。  中三の二月、親友田中隆とともに受けた第一志望の高校に落ちると、その田中隆が悲壮な顔をして打ち明けた。 「おまえの内申書くとき、おれと井上に聞き取りされた」  名村英敏は胸の中の骨をひとつふたつ抜かれるような空疎な痛みを感じた。耳に入った言葉をもういちど繰り返して、もういちど胸に詰め直した。 「おれのせいで落ちたとかもしれん。みんなのぶんそうやって書くと思ってたけど、おまえだけやった」  担任から、仲の良いあなたたちのほうが知っているだろうからと、交友関係や恋愛のことまで聞かれた、と田中隆は説明し謝ったが、理解が追いつかなかった。嘘はつけないから上野深雪のことも話したと田中隆は言った。説明を重ねられても戸惑うばかり。内申書を書いたのが自分と同じ高校を受験する田中隆で、田中隆はその高校に受かって名村英敏は落ちた。そんな不公平なことがあるだろうか。もしこれを父親が知ったら学校に怒鳴り込みかねない。そんな光景は想像もしたくない。自分で抱えるしかないが、何を抱えさせられたのかもわからない。抱えたのは名村英敏ばかりではない。田中隆もそうだ。  ――このずさんな身辺調査は上野深雪の親の依頼だったが、もちろん本人は知る由もない。横暴な田中巌が名村英敏のノートを見て名前を聞いたのも、それがあったからだ。あの詩を見たとき、田中巌は名村英敏が麗しの上野深雪の誕生日にプレゼントを投函したこと、それで上野深雪の親が抗議していることを知っていた。国語教諭にとって、授業中に詩を書く生徒ほど愛おしいものはなかった。それは横暴で傲慢な田中巌教諭にしてもそうだ。結果、田中巌は名村英敏に好意的な論調で報告をまとめたが、名村英敏当人はもちろんそんなことは知らない。他方、親友の田中隆も井上亮も何が起きたかは知らない。ただひとり麗しの上野深雪当人だけはこの事情――自分の父親が学校に名村英敏の身辺調査をさせていること――を知り、名村英敏の話題を避けて逃げ回っていた。それを名村英敏はただ嫌われたとばかり思って傷ついていたが、いちばん辛かったのは上野深雪だった。  その中三の事件から名村英敏の人生の歯車はずれ始めた。上野深雪にしてもそうだっただろう。己がきっかけなのだから名村英敏自身は仕方ないとして、上野深雪の人生も変えたかもしれないことは深く悔やまれた。  それから行きたくもない高校に通い、いつか家を出てどこかで野垂れ死ぬことだけを夢見るようになった。田中隆は名村英敏が落ちた進学校を蹴って、福岡の私立高校へ通った。それももしかしたら、内申書の件が原因かもしれない。高校の三年間は生きた屍のようだった。友達も作らなかったし、絵を描くこともなかった。  高三のときに家出したことがある。なけなしの金で博多へ出て、駅前のベンチで野宿しているところを保護された。いまも酒席で当時を振り返る親戚がいて、そのたびに弟は息を呑んだ。名村英敏は幼少のころより情緒に不安定なところがあり、家出をきっかけとして弟もそれを知るようになった。それからの名村英敏は腫れ物を触るようにして扱われてきたが、そうやって距離を取られることで名村英敏はいくぶん落ち着くようになった。  このまま行きたくもない大学に通いたくはない、就職もしないと伝えると、担任からも親からも、進学も就職もしないなら何をしたいのかと問われたが、あえて選ぶとするなら、死にたかった。  あれからもう何十年のときが流れた。地元を逃げ出し、東京でようやく自分の物語を築き、父がこの世を去り、地元での思い出の半分は精算されたように感じた。 「あのさあ」  ぽつりぽつりと訪れる弔問客との会話のなかで、何を察したのか弟が口を開いた。 「部屋に一枚だけ《マクロス》のポスター残しとうやん」 「ああ。うん」 「あれ、父ちゃんが一枚だけ残しといてくれち言うけん残しとうとよ」  そう聞いて、咄嗟に声が出なかった。名村英敏はただ口の端で笑った。 「おれのポスターもお気に入りばってん、一枚残していけち言われてそんままにしとう」  あの父にそんな感傷的な側面があるとは思わなかった。――英敏のポスターが一枚だけ残っとるばってん、おまいはなんば残していくとか――と、そんな不器用な聞き方だったという。名村英敏の嘲りを含んだ笑いに眉を潜めて、弟は続けた。 「上の子が東京海洋大学ば受けるち言うとる。国立大やけん、受かってくれたらうれしかばってん、ひとりで東京に出すち考えると、やっぱ考ゆるたい」  名村英敏は所在のない手を二本目の缶コーヒーに伸ばした。 「大丈夫よ。おれが二十歳でなんとかなったっけん。十八と二十歳ちゃ、そげん変わらんよ」  慰めにもならない慰めに、 「息子はよかたい」  弟は胡座をかいたまま腕を後ろに付き、「なんとかなるもん」と煙草の先を揺らした。 「ばってん、下の子も東京ん出たかち言うたら賛成しきらん。女の子やけんさ。なんがあるかもわからんもん。そこまで考ゆっと――切のうてしょんなか」  テレビの情報バラエティの笑い声がカチャカチャと部屋の空気をかき混ぜるなか、口の端に漏れた言葉は静かに沈んでいった。

六 盟友の遺産

 母は名村英敏に遺産を継いで欲しいと言って譲らなかった。  自分は老い先短いのだから、そのたびに相続税がかかったのではたまらないと細い声で漏らしたが、父親が残した遺産は相続税控除の範囲内だった。東京でこれだけの屋敷があれば億は超えるだろうが、唐津だ。それに名村英敏が相続するとしても名義だけ。住むわけでもなく、ただ固定資産税のぶんだけ支出が増える。弟は「デジタル化したら唐津でも仕事は出来るっちゃなかと?」と聞いたが、名村英敏はデジタル化でこぼれた案件の駆け込み寺だった。安定した仕事は大手がグロスで受ける。そこからさらに下請けに配るものはあるが、名村英敏は昔ながらの知り合いが唯一の窓口で、夜にアパートのドアを叩けば翌朝にも上がるようなあり得ない仕事ぶりが命脈だった。アニメや漫画でおなじみの謎の旧テクノロジー老人が名村英敏なのだ。  ちゃぶ台の麦茶に雫が流れて、ミンミンゼミが鳴いた。母が思い詰めるので、時折話題を変えながら話を進めた。言葉が途切れたときに切る手札も残り少ない。 「東京でも稀にクマゼミが鳴くけど、夕方に一匹だけとかわけわからん鳴き方する」  という名村英敏の言葉を、弟は重い空気を払うために話題を替えようとしていると受け取ったが、母親は英敏はそういう子だと思い、流した。  あれこれと話した結果、固定資産税は母が年金から、あるいは貯金を取り崩しながら払うことになった。弟が払っても良いと申し出たが、それも忍びないと断り、そういうことならと実家の名義は母のものになった。それでも母が、「詐欺がきたら断りきらんかもしれん」と言うので、表札には名村英敏の名前も出すことになった。それで詐欺が撃退できるかどうかはわからないが、母を納得させることはできた。  母の口からは、「それじゃ未亡人のごたる」という言葉が聞かれた。語義的には未亡人で間違いはなかったが、母の言う『未亡人』はそれとは違っているようだった。  諸々の手続きを終え、東京へ帰る前に行くところがあった。  名村英敏は盟友橘悠一の遺稿を鞄に忍ばせてきていた。橘悠一が他界してもう十四年になるが、家族の手に返したかった。  以前に届いた年賀状の住所は福岡市中央区大濠。まだそこに住んでいるかどうかはわからない。縁のあった福岡のスタジオに知り合いがいたので、そこでたずねようかと思ったが、去年閉鎖されていた。その知り合いの所属先を調べると、いまは世田谷のスタジオになっている。職歴はネットのアニメスタッフのデータベースで追えるが、肝心の本人にはツイッターもフェイスブックもない。スタジオ社長のツイッターアカウントはあるが、知りたいのは橘悠一の家族の住所だ。DMダイレクトメールを打つのも遠回りすぎてためらわれた。しかもその理由が『遺稿を手渡したい』ではセンチメンタルが過ぎて、柄に合わなかった。  地下鉄の唐人町で降りると、明治通りと名のつく広い通りに出る。そこから南へ、背の高いビルがゆったりと並ぶ通りに入ると、ビルにまぎれて二階建てのアパート、古い一軒家と、いくつかの時代を継ぎ接ぎしたような景色に均一なアスファルトの舗装が伸びた。電線の絡まる交差点をふたつ折れて、目当てのマンションを見つけ、橘悠一が暮らした部屋を見つける。表札を見ると、橘悠一の妻の名と、橘悠一の漫画に登場したヒロインの名が並んでいた。橘悠一は娘に自分の漫画のヒロインの名を付けていた。年賀状にその名前を見つけたときは苦笑いを浮かべた。奥さんは知っていてこの名前を受け入れたのだろうか、いずれ娘本人が知ったときどう思うだろうか――と思ったその子ももう高校生のはずだ。女ふたりの所帯を急に訪ねるのは不審だとは思ったが、今更思ったところで、行動の抑制が効く性格でもなかった。  エントランスホールにはテンキーの並んだインターホンがあった。部屋番号もわかるし、使い方も書いてある。ただ少しだけ決断力がない。ホールのエアコンは音だけが威勢よい。迷っていると汗が流れてきた。この汗で初対面のひとと話をするのかと考えると、少し冷静になった。会っても話すことはない。ものだけ渡せば良いのなら、茶封筒に入れて郵便受けに放り込めばいい。いまもここに住んでいるとわかったのだから東京へ戻ってから郵送してもいい。とは思うものの、盟友橘悠一の生活圏まで来たのだ。名村英敏の胸には、やがて未練に変わるであろう感情の芽があった。せめて痕跡を残したい。郵便受けに投函していくにしてもなんのコメントもなしとはいかない。持ち歩いている原画用紙があった。筆記具もある。名村英敏はスマホで近くのドトールを探してみたが、橘悠一のマンション周辺はドトール空白地帯だった。致し方なく少し高そうなカフェを見つけ、アイスコーヒーを頼んだ。  名村英敏のもとにVHSのテープと企画書とが送られてきたのは一九九七年だった。橘悠一の遺稿と書いたが、未発表の作品でもなく、最後の作品でもない。名村英敏が手にしていたのは、天才橘悠一が生涯で唯一残した作品のパイロットフィルムと企画書だった。  学生時代の橘悠一の絵は、手塚治虫や石森章太郎の時代のひととよく似たタッチで、目立った個性も癖もなかった。《あるびゃーと》にしても、その後描いて投稿した作品にしても、画力は並外れていたが個性という点では弱かった。だが、このとき送られてきたパイロットフィルムのキャラクターには強い癖が見られた。  橘悠一の絵に癖が出始めたのは、大学生活も一年目を終えるころ。ちょうど漫研の一年先輩、天才田中稔たなかみのるが小学館の新人漫画賞を受賞し、その後とんとんびょうしにデビューまで進んだころだった。実はこのときもう橘悠一は中退を決意し、学校には来なくなっていた。  名村英敏たちが漫研に入ったとき天才田中稔は二年、すでに上級生やOBにも知られた存在で、部室にはその絵が何枚も飾られていた。そのうち橘悠一が強いライバル心を抱くようになるが、そのさまを名村英敏は間近に見ていた。  名村英敏と同世代の漫研メンバーに、ほかにもメジャーデビューを果たした漫画家がふたりいる。ひとりは講談社系の週刊誌にデビュー、マラソン漫画を描き、もうひとりは天才田中稔と同じ漫画賞でデビューを果たし、有名特撮作品のコミカライズを手掛けた。歴代で言えば更にほかにもいるだろうが、同じ世代でこれほどの漫画家を輩出した漫研も全国で類を見ない。あのころの漫研には化け物が揃っていたのだ。  橘悠一が漫画を描かなくなり、アニメに傾倒し、最終的にはアニメーションの専門学校に移籍したのもそれが原因だった。少なくとも名村英敏の目にはそう映った。同時に絵柄は従来のオーソドックスなものから、癖の強い前衛的なものに変容していった。それは、天才の放つ狂気のなかで、凡庸な橘悠一が纏ったささやかな武器に思えた。  橘悠一からビデオが送られてきたとき、上京から十年以上が経っていた。無数のプロの絵を見てきたし、名村英敏自身もそれなりの地位にあった。添えられた手紙にはこれを東京で売り込みたい、福岡発の作品として発信したいと書いてあったが、中身は流行した《エヴァンゲリオン》をなぞらえただけのものだった。あの《エヴァンゲリオン》のような作品を自分たちでも作れるということを伝えたかったのだろうが、その方向性に共感はできなかった。たしかに地方のプロダクションでスタッフのモチベーションを維持するには、有名作品を目標に掲げるのが早かっただろうが、それに心を動かされるものは少ない。橘悠一自身の個性と才能を発揮できたときに『福岡発の作品』として発信できるのだ。橘悠一にはその才能があると名村英敏は思っていた。なのになぜそれを通せなかったのか。  家出までした名村英敏が大学に通うようになったのは、家族の過干渉がなくなったことが大きい。あれ以来家族も教師も進路のことを言わなくなった。博多で野宿したとき、駅前の地図で志賀島までのルートを調べた。進路のことは漠然としていたが、計画したことを止められないのが名村英敏の性分でもあった。博多から徒歩で志賀島へ。計画を練る途中で、その道すがらに大学があることを知り、願書を出した。実際には、なんでも良いから理由が欲しかった。親が進学を薦めたという以外の。  大学へ入って、漫研に入ったころも名村英敏は《ガンダム》を描けなかった。名村英敏の画力が伸びたのは、天才ばかりが揃いも揃ったあの漫研にいたからだと言える。拙いながら漫画を描くようになったし、それで昔の感覚も取り戻し、ひととも話すようになった。プロデビューした三人はともかく、同期の橘悠一にしても名村英敏にとっては雲の上の存在だった。橘悠一がアニメに傾倒するとともに、名村英敏もアニメに惹かれ、天才田中稔が雑誌デビューとともに上京する姿を見て、無謀にも名村英敏も上京を決めた。そのころにおいても盟友橘悠一の実力は名村英敏を凌駕していた。上京後に手紙や電話で交流を重ねる間も橘悠一は憧れの存在だった。  ビデオを受け取ったとき、名村英敏はまだ原画マンだった。絵コンテや演出を担当するのは更に五年ほど経ってからになるが、その名村英敏から見ても明らかに作品のクオリティは低かった。技術にも不安があったが、その点は演出、あるいは制作進行上の問題を整理していけば克服できるように思えた。アニメ制作では『色打ち』『背景打ち』という色彩設計や背景設定との打ち合わせが重要になるが、そこが機能していないように見えた。だけどそれは解決できる。最大の問題はプロモーションビデオなのに、何を売り込みたいのかが見えないことだった。「《エヴァンゲリオン》のような作品をオリジナルで作りたい」ならば、途方もないクオリティのものを見せない限り承認は降りない。自分たちにできることを示し、何が足りないか、何を補えばよいか、それで何が完成するかを提案すべきだ。  添えられた手紙で「どう思うか」との質問を受けた名村英敏は思ったことをすべて書いた。自分だったらこうすると絵コンテもつけた。作品は面白さで惹きつけて、最後のもっともユーザーがショックを受けたところに、本気で通すべきテーマを乗せる、その一言で勝負すべきだ。だのにビデオは素人くさいエンディングテロップで終わる。そこに並んでいるのは、脚本、絵コンテ、監督と自分の名前ばかりだった。  念のために知り合いのアニメーター、演出家にも見せたが、反応は同じだった。 「《エヴァンゲリオン》をやりたいのはわかるが、やってどうするんだ」「全国で五万人くらいが同じことをやってる」「プロがひとに見せる作品じゃない」  そう聞いて名村英敏自身が恥ずかしかった。  橘悠一にとって名村英敏は、上京してなにかの間違いで原画マンになった成り上がりでしかなかった。クジラしか描けなかった日のことを覚えているし、それが《名探偵コナン》や《魔法陣グルグル》の原画をこなしているのは、ひとえに日本のアニメの凋落を示していると感じていた。構図を決めて設定通りに絵を描けば、だれにでも最前線の原画マンが務まる。その程度の認識だったし、ある意味それは真実だった。まわりに比べれば名村英敏の技術はぜんぜん足りていない。まかせてもらえるカットも限られていたが、それでもアニメの最前線で十年以上も戦ってきた。  感想をしたためて送ると、それに対する橘悠一からの返事は途切れた。送られてきたビデオには「これで東京に打って出たい」と添えられてていたし、ほぼ全否定されて絵コンテまで同封された返事には相当なショックがあっただろう。ようやく返事が来たのは二ヶ月ほど経ったころだった。  ――厳しい指摘ありがとう。だけど福岡のいまの環境で作るにはこれが精一杯でした。スタッフの半分は僕が教えている専門学校の生徒です。スタジオAの田中くんにも参加してもらっていますが、ノーギャラで仕事の合間にやってもらっています。撮影は専門学校のカメラを借りてやりました。名村くんの評価は低いようですが、この作品の完成をもって、スタッフの間には『九州にいてもこれだけのことができる』と自信をつけた子も多数います。  名村英敏の作画が映画館でそれなりのクオリティで見れるのは、原案から最終のフィルム出力まで通した製作体制があるからだ。この業界のだれもが、半世紀にわたり培われてきた仕組みの上で勝負している。仮に名村英敏が同じようにアニメを作ろうとしても、同じ轍を踏むか、あるいはもっとひどく脱輪するしかない。  橘悠一のその作品は九州ローカル紙ではニュースにもなった。九八年には完成し、小規模ながらビデオとしても発売された。九七年の名村英敏の辛口の評価のあと完成にこぎつけるまでは精神的にも苦難の道だっただろう。製作のバックアップがあれば転んでも金の問題だが、橘悠一は手弁当で参加したスタッフ、教えてきた生徒たちとの関係もあり、どんな傷を負いながらもゴールするしかなかった。そんなことを考えて、名村英敏は橘悠一の妻への手紙を仕上げることができないまま、十九時ちょうど、夜行バスに乗った。  名村英敏は全力で批判し、橘悠一はそれを全力で完成させた。そこにあるのはただ熱い友情のはずが、気持ちはざわついたままだった。もっと話すべきだった。人生を賭けたであろう作品へのコミットが、手紙一つで終わったことを名村英敏は悔やんだ。  幾年か経て、作品はニコニコ動画で公開され、数多の心無いコメントに塗れた。  そこに晒されていたのは、『知らない人が描いた《ガンダム》』だった。

ここまでで全6章のなかの1章になります。続きはKindleでご購入し、お楽しみください。

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