- イントロダクション
- 序
- 第1章 アリア
- 第2章 ひきこもりの始まり
- 第3章 フウラ
イントロダクション
この物語は、わたし、
神崎弓がひきこもり生活から抜け出して、アニメーターになるまでのお話です。抜け出すというか、アニメーターというのはひきこもりの一種かもしれませんが、でもそれで世間は喜んでくれるんだからちょろいものです。親と喧嘩なんかしていないでさっさと絵を描いてればよかったのだと思います。でも、ひきこもりだったころのわたしの絵は、今思うと尻から火が出そうなくらいへっぽこでした。わたしがふつうに絵を描けるようになったのはなんと言っても、なむりん師匠のおかげです。まあ、ふつうというのは少し謙遜した言い方で、ふつうのひとからしたらかなりのものだと思います。自信はあります。とは言え、アニメーターになってからというもの、周りのレベルが高すぎて、いったいなにがふつうなのかちょっとよくわからなくなっています。
と、わたしのお話はさておき、さきほど出てきたなむりん。改めて紹介いたしますと、このひとは、名村英敏というわたしの師匠です。実在します。ここ、大事なところなのでもういちど書きますね。実在します。そこそこの歳……もうおっさんというか、お爺さんですね。でもなんか本人がなむりんでいいって言うので、なむりんになっちゃってます。タツノコプロってみなさん知ってますか? 古いアニメスタジオなんですけど、そう、ガッチャマンとか、タイムボカンとか作ってた。そこでアニメーターをやってたひとです。それからフリーになって、名探偵コナンとかルパン三世とかの作監とか演出とかやってたらしいので、わたしからしたら大先輩、本当なら雲の上のひとですね。いま……2032年4月の時点ではもう引退して、実家近くのヤクザに子飼いにされてるらしいです。それもまあ、わたしのためにそうなってしまったってのもあり……って、そんな話はいまはどうでもよくて、わたしが言いたいのは、このお話がその、なむりんのお話の続きだということです。だから物語にはなむりん――名村英敏師匠も出てくるし、その師匠のまりりん、青木真理子師匠も登場します。ちなみに、まりりんという愛称は彼女の自称ですけど、あのひとなむりんより4つか5つ上だったと思います。
20代の頃のまりりんはわたしに似てたって、なむりんが言ってました。要はわたしも原田知世ってひとの若い頃に似ているということらしいです。アマゾンプライムで見て、遠くはないかなとは思いましたが、まーなんてゆーか、近くもない感じ。あんなに細くはないし。で、まりりんも実在します。
ちなみになむりんのお話は、昔の知り合いが勝手に本にまとめたらしく、『アニメーターの老後』というタイトルでキンドルで売られています。書いたのはタツノコプロ時代の後輩で、一条一ってなまえでその物語にも登場しますけど、なんでおまえは本名じゃねえんだよって笑いながらピキピキしてました。あろうことか表紙も描いてくれと頼まれたらしいけど、断ったって、まあ、そりゃそうでしょう、と。
まあそっち――『アニメーターの老後』は、なむりんのお話なので、地味で、苦労ばかりで、古めかしくて、それでいて業界歴は長いもんだからだらだら長いというパッとしない物語だと思いますが、で、そのお話の終盤、わたし、神崎弓と出会い、さて! このひきこもりの原石をどう磨き上げるか! みたいなところで終わっていまして、わたしがこれから語るお話はその続きです。まあ、原石っていうか、石ころみたいなぞんざいな登場でしたね。ここだけの話、すごいお荷物扱いされてるのは、薄々感じてました。
というね。なむりん的には、この物語のタイトルは『続・アニメーターの老後』なんでしょうけど、いやいや。ちょっとまってよ、って話ですよ。もういいよ、昭和の話は。わたしの話をしようよ、わたしの。
だってなむりん、自分のこと語るの下手でしょう?
師匠のこと最高の物語にできるの、わたししかいないんだから、ここはわたしにまかせてよって、運命の導き的なあれで、わたしの出番が来たって感じです。
なんだ、続き物の後半かよ、なんて思わないでくださいね。物語なんて、すべてほかの物語の続き。そしてまたほかの物語につながっていくものなんです。
たしかなことはひとつ。
バトンはいま、わたしの手にある、ってこと。
序
順番として、どこから切り出そうか迷ったんですが、まず話しておきたいと思ったのは、わたし、神崎弓が東京武蔵野市にあるとあるアニメスタジオの面接を受けたときのことです。
そこはなむりん師匠の先輩たちが中心になって立ち上げた、設立からもう何十年も経つ老舗です。母体となった国分寺のスタジオのなかでも群を抜いた人たちが作った、なむりん師匠もここの仕事を請け負うときは覚悟が必要だったというエリート中のエリートが集うスタジオ。あのころはわたしがそこに入るのが、わたしとなむりん師匠の共通の目的になっていました。
まあ、それまではいろいろとあっち行ったりこっち行ったりはしてるんですけど、目的が定まってからは一直線でしたね。自分でも上達したって実感はあるし、なむりん師匠も「ゆみりんだったら間違いない」とは言ってくれてたんですけど、でも、師匠がひーひー言ってたスタジオですよ? わたしなんかがほんとに? みたいな感じで、ちょー緊張して門を叩きました。門を叩いたっていうか、呼び鈴鳴らしました。ぴんぽーん、ユミだよー、伝説作りにきたよーって。応接室に通されて、そこで映画の予告編2本分くらい待たされて、ようやく面接官のふたりが現れました。初対面で名前はわかりませんでしたが、あとで杉山さんと福田さんの凸凹コンビだと知りました。このふたりがどっちもお茶目で愛らしいことは入社後にわかったんですが、このときはもう、神々のまえですっ転んだ迷える子羊みたいな感じで超絶に緊張していました。
挨拶して、自己紹介して、3ターン目に杉山さんから例のお決まりの「多くのスタジオの中から当社を受けたいと思われた理由はなんですか?」との質問が出て、もう、例のやつキターって感じですよ。そのとなりで福田さんはペラ数枚の応募書類を眺めて、こんだけかよって、不満そうに口を尖らせてましたね。これはなむりん師匠の作戦で、応募には5枚しか作品を入れてなかったためです。わたしは、杉山さんからの定番の問に答えました。
「わたしに絵を教えてくれた先生の憧れのスタジオでした。最初からここを受けるのを目指して猛特訓しました」
と、何度も練習してきたセリフを吐きました。ところが。
「猛特訓(笑い)」
と、その言葉に受けたのか、杉山さんが笑いながら復唱しました。
わたしは「ほほう、その先生というのは?」と聞き返されるのを期待していたんですけど、猛特訓のほうを拾われてしまって、これは痛恨の作戦ミスでしたね。それでも用意した回答を読み上げるしかないと――
「わたしの師匠は国分寺のアニメ技術研究所の出身で、名村英敏さんっていうんですけど、ご存知ですか?」
やや強引に持っていってしまったんですけど、だってしょーがないっしょ。緊張してたんですもん。
「わかんない。聞いたことはあるかもしれない」
と、杉山さんは首をひねり、後ろを通りかかった別の人――西田さんですけど――に、
「なあ、名村って人知ってる?」と尋ね、わたしの方を向いて「アニメーターだよね?」と確認。「そうです。研究所時代は動画のはずです」と返すと、西田さんは少し頭のなかから記憶をたぐりだして、「ああー」と口にしました。なんかこう、人差し指で空中のボタンをピンポンピンポン押しながら、「いたいた、いた気がする、そういえば」と、ピンポンピンポンピンポンピンポン。研究所時代の師匠は、芳しい成績ではなかったというし、そのころの話はあんまり聞きたくなかったんですが、そもそも覚えてるひとがいないという予想外の有様でもう、苦笑するしかないっていうか。でもなんか、このへんで緊張がすーっと抜けていきましたね。
わたしが、「名探偵コナンやルパン三世の演出もしていたみたいです」と言うとやっと、「演出の名村さん!」と、福田さんのほうが思い出してくれました。アニメ業界って系列で分かれてて、コネで知り合いを頼ることも多くて、交わらないひととは本当に交わらないからねー、みたいなことを笑いながら話して、そのどうでもいい談笑の笑みが途切れるあたりでおもむろに、「で」って杉山さん。話題を戻してきました。
「で?」
わたしはスケッチブックを1冊、机の上に置いてたんですけど、それを指さされて、「そちらのスケッチブックは……」って。
もう、きたーっ! って感じです。
緊張は瞬時にピークに達しました。
「これは、師匠がこれだけで勝負しろって言うんで、今回はこれだけ持ってきました」
本当は見せたい絵はいろいろあったんです。でも師匠に言うと、「そういうのは PIXIV の URL 貼って見せたらそれでいい」というので、本当にもう、その1冊だけの勝負でした。
「おお。師匠、厳しいねぇ」
いや、ほんと、マジで。
「でも師匠のお墨付きの自信作なんだ」
ほんっと、マジで緊張しました。心臓飛び出るかってくらい。結果はまあ、あのときのわたしあっての、いまのわたしというか。予想を超えた反応を頂いて、わたしのなかでは超絶照れくさい伝説として全わたしに語り継がれているんですけど、まあ、あの緊張を乗り越えたわたしはもう無敵ですよ。
そこで開いたスケッチブックのことについてはおいおい。最後にばばーん! みたいな感じで公開するとして、突然ですがここで、お知らせがあります。
なんとこの夏、わたしの総作監した映画が公開されるのです。
じゃじゃーん。すごい。すごいですねぇ、わたし。
で、その試写会には3人を招待するつもりです。
今日これからお話するのが、その3人になります。
ひとりはもちろん、なむりん師匠。
もうひとりはなむりん師匠の先生でもあり、わたしもいろいろとお世話になったまりりん師匠――青木真理子先生。
そしてあとひとりは、アリア。
何者だアリア!
どっから出たアリア!
……って言われそうですけど、わたしの姉です。
まあ。いろいろ迷惑かけたんで。
ねえ、アリア。
ようやくデュエットはひとりだちできたよ。
心配ばっかりかけてごめんね。
第1章 アリア
姉とは5つ離れてたせいか、そんなに喧嘩することもなかったし、仲のいい姉妹だったと思います。だから、姉が中学進学のお祝いに任天堂のゲーム機を買ってもらったときも、自分に買ってもらったみたいに嬉しかったですし、あれ、だれからだったか忘れたけど、たぶん祖父からだったと思います。進学祝いのはずなのにリビングのテレビに繋いであって、父も自分でゲーム買ってきて遊んでたし、家族のゲーム機みたいな感じで遊んでいました。太鼓の達人とか、ピクミンとか、マリオカートとか。あと、ボーリングとか、テニスとかもやってた気がします。当然、わたしがいちばん下手でしたけど、わたしがいちばんムキになっていました。いまもそうですね。わたしがいちばんムキになるタイプ。
で、わたしと姉がいちばんはまったゲームが出たのが、その年の夏? ドラゴンクエストXっていう、ネットにつないで遊ぶゲームです。姉は絶対に面白いからと、父に買わせようとしていましたが、そっちは撃沈。しばらく我慢して、お正月にお年玉つぎ込んで買っていました。たぶん、学校で流行ってたんだと思います。姉のクラスで。接続にお金がかかるゲームでしたけど、毎日2時間だけ『キッズタイム』っていう無料で遊べる時間があって、そのときに1時間ずつ交代で遊んでました。そのときの姉のキャラ名がアリア。わたしがデュエット。姉がいない時はキッズタイムを独り占めできましたが、あのころはあんまりひとりでゲームを遊びたいとも思っていませんでした。
で、そのアリア。意味も知らないまま付けたらしいのですが、わたしのキャラも作ろうって段になって初めて意味を調べて、オペラのソロのパートのことだってわかりました。それにちなんでわたしのキャラはデュエットになったわけですど、アリアはウェディっていう海の民の戦士。わたしは森っていうか、和風の国に住んでるエルフの魔法使いでした。
でもあのころたしか7歳? あるいは8歳くらいだったと思います。町の外に出るとモンスターがいて怖かったので、だんだんデュエットで遊ぶことはなくなっていきました。姉のアリアを後ろで見てるのが好きで、クラスメイトとチャットしながらボスを倒しに行ったときも、わたしは隣ではしゃいで見ているだけでした。姉も、その友だちもみんな強くて、憧れていました。「ユミも戦ってみなよ」と、よくコントローラー握らされて、「まずはレベルを上げよう」とか言って町の外に出されたりもしましたが、たびたび死んじゃって――最初に死んだとき、泣いちゃいましたもん。「死んでも教会で生き返れるから」と言われましたが、「死ぬ」って言われるのが、すんごい怖くて。夜寝るときもずっとそれが頭から離れませんでした。
でも、RPGってなりきって遊ぶものだから、それが正しい姿だと思います。「教会で生き返れるから」とか言って死の恐怖を感じなくなったら、それはもうリアルな体験ではないのではないでしょうか。
という臆病なわたしでしたが、ドラクエXでは、七夕とかバレンタインとかに合わせて、町の中だけで遊ぶイベントが開催されることがあって、そのときはわたしもコントローラーを争いました。で、そのころになると、アリアにはアストルティア――ドラゴンクエストのなかの世界に彼氏みたいなひとがいたみたいです。それでだんだんコントローラーを渡してくれなくなってっいったんですけど、その彼氏みたいなひと、クラスメイトだったんだと思います。男子か女子かは知らないけど、アリアと同じ海の民で、男キャラで、同じ戦士でした。あのころのわたしからしたら大人の世界です。中間考査がどうのこうのって話してるのも、すごく意味深に聞こえて、ドキドキしました。小学校2年生の終わりころです。中学生にもなったら男子とキスくらいするのかと思ってました。そういうの、漫画で覚えるんですよね。遠い将来のこと、ってのはわかるんですが、わたしにとって5つ上の姉はもう、遠い将来にいましたから。
それで、「ちゅうかんこうさってなに?」って聞いたら、「うるさい」って。
うわーって思いましたね。その言葉になんかすごい聞いちゃいけない秘密があるのかーって。でもいまにして思えば、成績が悪かったんだと思います。まあ、ゲームばっかりやってましたから、それはそうですよね。
わたしも、学校でだれかドラクエXやってる子いないかなと思って探したんですけど、それがたぶん、池田が絡んでくるようになったきっかけだと思います。あいつはわたしが楽しそうにゲームの話をするのが気に入らなかったんじゃないでしょうか。わたしがヒューザってキャラがかっこいいって言うと、「ヒューザのまねしまーす」とか言って、よぼよぼのジジィが戦うような仕草をしてみせました。まあ、いまでも絶対殺すリストの筆頭ですよ、池田。そういうの、気にしなきゃいいのでしょうけど、なんか妙に腹が立って、つい言い返してました。だって。なんかムカつくし。
「じゃあどこがおもしろいのかちゃんと説明しろよ」
「ネルゲルっていう、すごい強い敵が出てきて――」
「はーい、ネルゲルのマネしまーす。ようきたのう勇者よ、うふぇふぇふぇふぇ」
って、気にするしないじゃなくて、ほんと、腹が立ちました。池田。もう、ほんとクソ。死ねよ。家族ともども3回死ね。
絵を描くようになったのもこのころですね。最初に描いたのはご存知、スライムです。次はドラキーだったと思います、キメラやナスビナーラも描けました。人型のキャラに関しては、自分のキャラ、エルフのデュエットを見ながら描いたのを覚えています。キッズタイムは2時間で、そのうちの半分、わたしの持ち時間をいっぱい使って、テレビに映した自分のキャラの絵を描きました。
ひきこもり時代、なむりん師匠に会ったころは何も見ないで描くのが『ホンモノ』だって思いこんでましたけど、こうやって追っていくと、わたしも模写からはいってはいたんですね。
ネットでトレパク疑惑みたいなことをよく言われてるじゃないですか。トレースして描くのは悪みたいな。それで意地でもなにも見ないで描くってのが信条だったんですけど、なむりん師匠から「まずはトレースして覚えろ」って言われて、そこからですよね。わたしの画力が伸びたって言えるのは。あのとき、トレースしろって言われて、もしかしたら匙を投げられたのかもしれないと思って、まりりん師匠にも相談したんです。そうしたらまりりん師匠の意見も同じでした。まずはトレースしろ、って。いや、もう、意外でした。トレースそんなに大事か! 最初に聞いておけばよかった! って。
で、わたしが絵を描いてると、やっぱり池田がちょっかい出してくるんです。わたしのスライム見て、うんこスライムだって笑って、ほかの男子もそれ聞いてみんなでうんこスライムって囃す。何度か泣いたけど、泣くのも悔しくて、隠れて泣いてました。
屁こき虫って言われたのも、あのころですね。池田はわたしのこと臭い臭いって言うけど、自分じゃわかんなかったし、「わたしじゃない」って言い返してました。最初はだれかがオナラをしたのをわたしのせいにされてるんだと思ってましたし、体臭のことを言ってるって気がついてからは、長めにお風呂に入って、しっかり洗うように気をつけて、だから臭いのはわたしじゃないって言い返してました。
このころの記憶は、どれが先でどれが後だったか、いまいち混沌としているんですけど、いずれにしてもアリアとデュエットの冒険は、そう長続きはしなくて、姉の高校受験が始まるころにはコントローラーを握ることもほとんどなくなっていました。姉が中3だから、わたしが小学4年生のころですね。まだひきこもるまえ。わたしも学校でKARAとかきゃりーぱみゅぱみゅとか歌う子でした。
中学に入ると、いちばん仲が良かった子と別のクラスになって、ほとんどひとと話さなくなりました。こういうとき、友だちが少ないと不利ですよね。というか、友だちが多い子って、どこに行っても友だちちゃんと作るんです。わたしは別に友だちなんてどうでもいいとは思ってたけど、でも、敵じゃないって思えるひとは欲しいと思ってました。
ふつうのひとからしたら、敵だなんて大げさだって思うかもしれませんが、そういう子とわたしの見てきた世界は違うんだと思います。そんな子は可愛くて、身なりもきれいで、喋りだってスマートなんです。誰からもいじめられず、ちやほやされて、環境が変わってもすぐ友だちができる。わたしからしたら、それだけでもう選ばれし者たちですよ。教室で絵を描いてて、男子が覗いてきても隠す必要なんてないんでしょう?
みんながみんなお互いのこと知らない同士なら、まだ良かったと思うんですけど、そうじゃないじゃないですか。仲良く話しあってるひとはいて、自分もその輪に入んなきゃいけないようなプレッシャーとか、入ってもどうせ馴染めないんだよなっていう諦めとかいろいろで、あと、池田と仲がいいやつとは話したくなかったし。まあ、池田は隣のクラスだったんで、まだましだったかな。
入学式のあと、席につくと、まえの席の尾花さんが話しかけてきました。彼女はとてもいい子で、人付き合いの垣根も低くて話しやすかったんですけど、でもちょっと苦手でした。会話するときのインターフェイスが大きいっていうか、画面いっぱいの巨大なカーソルでぐりぐりされてる感が、わたしにはちょっと。お話の内容はべつになんともないんですけど、まずはお通し、出身校を聞いて、「じゃあ、だれとかさんといっしょだ」「◯◯って子が転校して来なかった?」みたいな話をして、話題は過去から現代へ、「わたしは卓球部に入るつもりだけど、神崎さんはどんなことが好き?」って聞いてきて、わたしはそのころマリオカートってゲームにはまってたから、ゲームって言っちゃったんだけど、それがあとあとちょっと面倒なことにはなったかな。まあ、面倒ってほどでもないんだけど、あんまり家に友だちを招いたりすることなかったから、「じゃあ遊びにいってもいい?」って聞かれてちょっと戸惑いました。出会って最初の会話ですよ? このカーソルの巨大さ、わかります? 1クリックのダメージ。
マリオカートの面白さを熱弁しちゃったから、まあ、流れとしては当然そうなるんだろうけど、うちに帰って母に週末に友だちが遊びに来るって言ったら、それを口実に居間の掃除させられるし、当日は尾花さんだけじゃなくてほかにもふたり連れてきて、しかも自分の部屋で遊べるならともかく、ゲーム機は居間でしょう? 普段父が座ってる席に尾花さんが座って、その後ろを中野さんがコップ持ったまま立ってまたいでるときの、なんとも言えない不安感。言葉にできないけど、なんか不安。その間、姉は自室に籠もりっきり。父は朝からとっとと追い出してたから良かったんだけど、わたしたちが居間でマリオカートやってる間、母はわたしの部屋でネットやってるって言うから、それもまた不安で。そのときつくずく思いました。ゲームは小学生までだ、って。中学生になってゲーム――とくに居間のゲーム機なんか独占したら邪魔でしょうがないです。――とは言え、わたしと姉のドラゴンクエストはその年の
11月までは続くんですけどね。
学校ではそれから、ゲームの話はあんまりしなくなりました。とくにドラゴンクエストのこと。またバカにされたりしたら嫌だったので、語らないようにしてたし、まわりからたまにドラゴンクエスト・シアトリズム(ドラゴンクエストのキャラを使ったリズムゲームです)がどうのって言葉が聞こえても食いつかないようにしていました。それに、ちょうど任天堂の新型のゲーム機の発売直後で、旧型のゲーム機(しかも新型のWiiUでもなくて、ただのWii)で遊んでるのが少しコンプレックスだったのも事実です。姉も高3で受験生だったし、夏にリリース予定の拡張をクリアしたらドラクエももう辞めるって言ってました。まあ、次のバージョンからはもう旧型のWiiでは遊べないって噂を聞いていたので、引き際だったんだと思います。中学に入って、新しい生活が始まるというのに、なにかひとつの時代の終わりのような気がしていたのは、ひとえにこのせいだと思います。
ひきこもりの原因ってひとそれぞれだといいますけど、わたしの場合はこうやってだんだんと現実が意味を失ってったからなんじゃないかなとも思ったり。ゲームの世界から帰ってこれなかったわけではないと思うんです。わたしのドラクエXのプレイ時間なんて可愛いもんでしたし、姉の後ろで見てた時間のほうがはるかに長かったわけですから。
で、その姉は、人生でいちばん大事な夏を、ナドラガ神との戦いに費やして溶かしました。
「マリーヌが何だというのだぁぁぁっざっぱーーーーん!」
「うっせーわ! さっさと死ねーっ!」
という戦いを何度見たかわかりません。まさにドラクエ三昧の夏でした。姉は、受験する大学も決まって、塾にも通っていたんですが、勝負の夏、キッズタイムの2時間だけはジャージのまま居間に降りてきてドラクエをやっていました。わたしもその時間が楽しみで、外で遊んでいても、部屋にいても、その時間だけは居間に飛んで帰っていました。
とは言え、キッズタイムの1日2時間でしょう? そんなのは受験勉強の息抜きとして、必要な時間じゃない? などと思われるかもしれませんが、甘いです。姉は生粋のバカです。
キッズタイムのみでナドラガ神を倒すのには綿密な計画が必要でした。『パッシブ』と言われるスキルを取得しないといけないし、能力を強化するための『宝珠』も集めなければいけません。姉はスマホで調べた情報をびっしりメモして、キッズタイムが始まったら速攻で『元気玉』をもらい、酒場で仲間を厳選し、オススメの狩り場へと走ってはレベル上げに勤しみ、メモを参考にしながら宝珠を取るためにひたすら狩りを続けていました。そのときの姉のメモを見る限り、わたしには姉が受験勉強をしているなどとても信じられませんでした。
クラスに絵が得意そうな男子がいることにも気が付きました。
矢作くんという、わたしよりも背が低い子でした。小学校の上級から中学校に入るあたりは女子のほうが成長が早いので、これから追い越されていくんだろうなとは思いましたけど、小さい男子ってすごく可愛いって思ってました。矢作くん――ハギは学生服も少し大きめで、これから成長するぞっていう気迫に満ちていて、もしかしたらあのころのわたしにも、そんなところはあったのかもしれません。
ハギが絵を描いているのは、仲の良い子が覗き込んではちやほやしていたのですぐにわかりました。女子同士でも絵を描いて見せあってる子たちはいたけど、男子よりは少なかったように思います。目立ったことをするとすぐに男子がからかいに来るし、あまり大っぴらにはしたくなかったってゆーか、ノートに描く絵っていうのは大好きなキャラなので、それをいじられたくもないし、警戒心がありました。そのときにちゃんと抗弁できるか、できないかが男女の差なのではないでしょうか。究極的には暴力という手段を持つ男子に対して、女子は遠慮せざるを得ない立場にいたと思います。ハギは漫画かアニメのキャラを描いているのかと思ったら、クラスメイトの似顔絵をよく描いていて、それがまたよく本人の特徴を捉えていて、たしかにこれはちやほやされるわと思ったものです。アニメや漫画の絵が得意な子はほかにもいたのですが、そのなかでもハギは特別で、中1のわたしの目から見たら、なかにプロの絵描きが入ってるかのようでした。わたしが美術部に入ったのは、おそらくハギの影響だと思います。
美術部ってのも、正直良くわからなくて、躊躇はしました。小学校のころ美術の成績が良かったかというと、決してそうではないんです。絵ってやっぱりちょっと高尚なところがあって、真面目に形を取って、しっかりと仕上げられるひとが市展とか県展とかでも選ばれるし、わたしには遠い世界だと思っていました。写生でもわたし、空ばっかり描いてましたから。校内で好きなもの描けって言われると、いかに空を広く取れるかを基本にして場所を選んでました。中庭から校舎を見ると、なんだかよくわからない煙突みたいなとこがあって、そこだと半分以上は空を描けて、もうここしかないみたいな感じで。で、美術部っていうのは、そうじゃないひとがいくところ。渡り廊下のまっすぐな柱がパースつけて並んでるようなところで、柱とその向こうの校舎の窓ガラスを丁寧に塗り分けるのが美術部。構造物が画面に入ると、4本柱があるはずなのに、なぜか3本しか入らないとか、右と左とで柱の太さが違うとか、めんどくさいことばっかり想像してしまうんですけど、それを考えないひとがいるのが不思議でした。美術部はまぁ、乗り越えるんでしょうけど、逆にすべてなぎ倒していくひともいて、そっちはまたそっちで――いや、どちらかと言えばそっちのほうが更に不思議でしたね。その究極は松田さんですよ。「わたし、グラジオラスが好きだからここでいい」とか言って座ったとこ、目の前が自転車置き場なんですよ。「ここだと自転車も入るけど、いいの?」って聞くと、「自転車も好き」って、いや、好き嫌いは聞いてねぇ、みたいな。で、結局松田さんは、グラジオラス以外は、ぐちゃぐちゃっとした線のかたまりに色をつけただけのもの描いてたけど、いいのかそれ? って感じ。黒いぐちゃっとした意味不明の背景の前のグラジオラス。いいのか? それで。
松田さんはナチュラルで、あんまりまわりのことを考えない子でした。それでも許されるタイプ。男子にも人気がある子でした。授業がはじまるまえ、「オナラしたひとがいる」って大騒ぎし始めたことがあって、あれもね、わたしが言ったら「くせーのはおまえじゃねぇのか」で終わってたと思う。でもあの子が言うと、まわりも釣られて、「ほんとだ、くせぇ!」「この列かこの列が怪しい」って騒ぎ出して、もちろんわたしがしたわけじゃなかったんだけど、そのへんの臭いを嗅いで回ってる男子もいて、なんかもう、はぁ? って感じ。臭い臭い言いながらわざわざ嗅ぐってどういうこと? で、そいつ、ひとりひとり近くまで来て臭いを嗅ぎ始めて、わたしの目の前に来たとき、反射的に突き飛ばしてしまいました。いま思い返しても、わたしなにも悪くないと思うんだけど、すごく怒られましたね。先生にも、親にも。「向こうは臭いを嗅いでただけでしょう? 突き飛ばしたら暴力だから、あなたが一方的に悪いに決まってるじゃない」って。いまだに1ミリも理解できていません。
クラスで自分の絵を見せたいとは思ってなかったけど、ハギが美術部だって聞いて、わたしも美術部に入っちゃえば、いつかハギにだけは絵を見せられるかなと思って、入部届を出しました。まあ、実際には美術部はあんまり肌に合わなかったってのが正直なところで、ハギもサボりがちだったし、わたしはただ放課後の居場所がないと思ってそこに逃げ込んでただけで、いつまでも仕上がらない石膏デッサンをずーっといじってた記憶しかありませんけどね。
第2章 ひきこもりの始まり
何度かひきこもりになった理由を聞かれたことがるんです。そのたびに答えてたのは、「ドラクエXのWiiでのサービスが終了したから」でした。中1の夏が終わると、姉はちゃんと受験生になって、それからもしばらくは、デュエットにもできそうなクエストをやってみたりしてたんですけど、秋に新バージョンが始まるともうWiiでは遊べなくなって、明けて春、わたしは中2、姉は短大生になると決定的に何かが変わってしまって、学校に行ってもつまらなくて、やることがなくなってしまっていました。あの、びっしりとメモした紙を見ながらドラクエを遊んでた姉が、毎朝化粧をしていました。大学に入ったら祖父が任天堂の最新型のゲーム機、『スイッチ』を買ってくれるかと期待もしていたけど、それもなし。ちなみに、わたしの中学進学のお祝いは図書券で、しかも両親が薦める本を買わされて終わりました。
生きる理由って言ったら変かもしれませんが、人間って楽しいことがあるから生きるんだと思います。それがあっさりと剥ぎ取られるって知ると、なにかこう、人生そのものが疑わしいと思えるようになりました。特に学校。学校のつまらなさって異常だと思います。ゲームと比べるまでもなく。学校っていうか、友だち。みんなバカだと思っていました。
つまり、学校に行かなくなったのは、中2のころからです。最初に学校を休んだ日は、本気で体調が悪くて、朝から吐き気がして休んだんですけど、わたしの登校拒否の1日目は? と問われたら、その日だと思います。一応、病欠になってると思います。そのあとも何度か休んでて、同じように気持ちが悪かったこともあるし、ただ行く気がしなかっただけのこともあるけど、理由はぜんぶ病欠になっていました。しばらくは。
母は「学校でなにかあったの?」と聞いてきましたが、とくになにもありませんでした。いじめ? のようなものも、もしかしたら向こうはそのつもりってひとはいたかもしれませんが、わたしはとくに、なにも。成績のことがプレッシャーになってるとかも、もしかしたら深層心理ではそうなのかもしれませんが、とくに。逆に、理由があればそれを克服すれば学校にも行けるようになるんでしょうけど、ないから困ったものです。ラスボスのいないゲームが永遠に終わらないように、わたしの不登校も終わらないんです。短大生になった姉はもう制服を着ることもなく、朝にバタバタと鞄を用意することもありませんでした。木曜日は授業がないとかで家にいて、その日にわたしも学校を休んでみたんですが、姉は居間のゲーム機に触れることもありませんでした。
これで学校の美術部が少しでも面白ければ張り合いになったのかもしれませんが、たまに顔を出しても話題に入っていけないっていうか。アニメの話、漫画の話なら少しはわかりましたが、アイドルの話、ドラマの話となるととんとついて行けず、ましてやどの男子がかっこいいなど、いったいどんな目で見ればそんなたわけたことを言えるのかとうんざりしたものでした。
不登校が板についてくると何度か家庭訪問されて、先生は「気分が良いときだけでいいから学校に来てみては?」と言ってくれて、その言葉を聞いて、「開放された」と思いましたね。学校って、気分がいいときだけでいいんだ、ずっと気分が悪かったら行かなくてもいいんだ、って。そのころはまだ、不定期に学校に行くことも、たまに2時間目から顔を出したりすることもあったんですけど、もうこうなるとだめですね。教室に入ると、異物が紛れ込んだみたいな空気になって、結局は保健室に行って、午後には家に帰るというパターンに陥ってました。わたしがよく保健室に行くものだから、「学校に行くと気分が悪くなる」という病状が与えられてましたが、気分が悪くなるというより、精神的に堪えられなくなる、が正解でした。そわそわして、落ち着かなくて、大声で叫んでうずくまりそうでした。やればよかったんだと思います。いま思えば。
家族がわたしを無理に学校に通わせなかったのは、いじめを疑っていたのが大きいように思います。母や姉から「学校でなにがあったの?」とよく聞かれましたけど、要は「だれかにいじめられてるの?」ということのようでした。いじめられてたら、そいつ殺しに行くし、ひとつの目標にはなったと思いますけど、それすらもないから行きたくないというのが本音です。まあ、池田のことは殺したかったけど、2年になっても隣のクラスだったし、急に殺されてもわけがわからないだろうし、それに本当に殺してしまったら本当にいじめられてたみたいになって、それも嫌だし、それよりは部屋にこもって池田殺すゲームでも妄想してたほうが楽しかったです。休みの日に姉が勉強を見てくれて、それはまあ、姉の教え方が要領を得ているのもあって楽しかったんですけど、本当はドラクエで遊びたかったです。姉がドラクエで遊んでて、わたしはその後ろで見て、「ブチスライム湧いたよ!」って教えたかったです。そしてそれを学校で言えたら最高だったんだろうなって思います。
中2でクラス替えしたあと、いちどだけ放課後の美術室に行ったことがあります。中2になってハギとは別のクラスになって、向こうもわたしが不登校になったって聞いていたんだと思います。微妙な空気が流れていました。ぶかぶかだった学生服が、いまではもう少し小さいかもってくらいになって、背の高さも抜かれて、「背、伸びたね」っていうと、照れ笑いしてました。ま、いまだから言いますけど、ハギだけがわたしを学校に引き止められたんだと思います。わたしも少し期待していたっていうか。でも世の中って、そんなにドラマチックに動くわけでもないですね。「じゃあ」ってひとことだけ言って、先に帰って行きました。
姉がブックオフでWiiFitっていうフィットネス用のゲームを買ってきたのは、わたしのひきこもりも堂に入った初夏でした。わたしの不登校は、家族のライングループで対策が練られていたようで、姉がそのゲームを買ってきたときも、ああ、わたしを運動させる計画が始まったんだな、って冷めた目で見ていました。
それでも、ひさしぶりに遊んだゲームは楽しかったです。ゲーム機が来てすぐのころ、家族でコントローラーをまわしてボーリングやテニスを遊んでいたときのことを思い出しました。父と姉がテニスの試合をしてるときに後ろを通って、コントローラーを思いっきり頭にぶつけられたことがありました。「大丈夫?」って、ちらっと見ただけで姉は試合を続けて、そしてあろうことか父を負かしてて、わたしは痛いのそっちのけで盛り上がってました。ひきこもってからはとくに、ゲームはしちゃいけない気がして離れてたんですが、やっと楽しいひと時がもどってきて、大げさかもしれないけど、溺れかけて死にそうになっていたときにやっと息が出来たみたいな喜びがありました。
ただ母はこの、ゲームで運動不足を解消する計画には反対だったみたいです。「ゲームで遊んでもいいの?」と聞くと、「いいけど、WiiFitだけね」って返事が返ってきました。もちろん、嫌な顔をして言ったわけではなく、「不登校でも娯楽は必要よね」とでも言いたげな笑顔を讃えて言ってくれたんですけど、要は、わたしの体力が落ちないように、WiiFitだけはしょうがなく、っていう意識が見えちゃって、これはもうWiiFitも楽しめないなって、そのときに思いました。とは言え、家にいても退屈なだけだし、なんどか立ち上げて遊んではみたんですけど、でもこういうゲームの楽しさって、みんなでやることじゃないかと思うんです。ひきこもって父も母もいない居間にのこのこ降りてきて遊ぶWiiFitって、シュールすぎると思いませんか?
姉が勉強を見てくれるのも、裏で家族でラインして決まったんだろうなと思うと、疎外感が有りました。自分ではじめたひきこもりで言うのはおかしいんですけど、あのころのわたしは、どちらかと言えばそっちをやりたかったんじゃないかと思うほどです。つまり、姉がひきこもって、わたしが両親とラインして対策を練って、実行する。――じっさいにそうはなりませんでしたが――そういうことを考えると、だんだんゲームもそらぞらしくなっていくのを感じました。姉に見てもらう勉強もそうです。わたしはもうお膳立てされた世界で生きていくだけ。世界からは切り離されたんだなぁって、そんな寂しさを感じました。
こうやって家族がどんな意図で動いていたかなんてことを考えるのは、わたしがカンが良いからなのですが、ずっと昔、少年の失踪事件があったことを皆さん覚えておられるでしょうか? 家族旅行中にふと目を離すとまだ就学前くらいの長男がいなくなっていたと、ニュースになりました。わたしはそのニュースを見てすぐに狂言だとわかりましたが、多くの人は「母親がウソをついている」「少年はもう死んでいる」などという的外れの推理をしていました。だけどわたしは、少年は1週間程度で帰ってくるだろうと予測し、事実その通りになりました。
わたしがこの事件を狂言だと見抜いたのは、わずかにテレビに映った母親の挙動でした。わたしから見たら、常人ではなかったんです。心身症か、あるいは精神遅滞のようにも見えました。この母親の映像が報道されたのは初期の1回だけ、そのあとはころころと供述を変えるさまが報道され、それで世間のニワカ探偵たちはこの母親を真犯人と睨んだのですが、その背景にはもっと深い物語があるのだと思いました。
わたしの推理はこうです。この家庭は、母親と幼い息子を近づけられなくなるような状況に陥っていた。息子を母親から引き離すために、母親を納得させなければいけない。そのために父親は狂言誘拐を計画し、知人を巻き込んで実行に移しました。母親はこれで息子のことは諦め、すぐに忘れるだろうと踏んでいましたが、そううまくことは運ばず、事件は大きく報道されることになります。これがニュースの第一報です。息子は協力者の部屋(おそらく息子もよく知っているひと、母親のことを以前から相談していたひとで、親戚筋の可能性が高いと思います)に保護されていましたが、事件が大きくなると協力者も「こんなはずではなかった」と考えます。そこで警察に相談しますが、他方、母親の問題もあります。事件の全容を表に出すわけにはいきませんから、マスコミ対策としてのシナリオが必要になります。そこで少年はひとりで勝手にどこかに行き、無事に保護される、という筋書きが生まれます。そしてこれを各自治体に根回しし、同時に関係者にも聞き取りをして進めるために3日、事件発生から1週間で少年は意外なところで保護される――。結果は、みごとわたしが予想した通り、ネットではもうみんな少年は死んだと諦めたころに、森のなかの小屋で発見されました。
この予想は当時遠回しにひとにも話しましたが、母親のことだけはどうしてもぼかした言い方になりました。いま思えば、わたしがこう推理できたのも、わたしの環境が大きいのだと思います。ただ、自分のことになるとどうしても靄がかかったように見えなくなっていました。家族はみんな、父も、母も、姉も、ひきこもったわたしのことを気遣って、裏で口裏を合わせて動いているのだと思っていました。
「弓はずっとうちにいてくれるの?」
と、父に言われたときは、なにか得体の知れないおぞましさを感じたものです。
「ずっとうちにいるの」ではなく、「いてくれるの?」ですよ?
たぶん、ですけど「うちにいるの?」だと迷惑してる感が出るから「いてくれるの?」と言ったんだと思いますけど、いや、それはちょっと気持ち悪いでしょう、と。あるいはそうやって気持ち悪がらせて家から追い出す作戦なのかもしれません。警戒しながら耳を傾けていると、話題は意外な方向に流れていきました。
お正月前、父が下関のほうまで鯛とハマチを買いに行くというので、わたしから一緒に行きたいと申し出た日でした。不登校歴も半年くらいになって、その日は、母と家にふたりきりになるか、父と車でふたりきりになるかという選択でした。もちろん、部屋にこもって一歩も外に出ないという選択肢もありましたが、母ははっきりとわかるくらいピリピリしていて、トイレに出た一瞬に顔を合わせるのさえ辛いほどでした。直接話すとどうしてもこじれるので、姉のラインを介してやりとりすることが多かったのですが、母としては3年生からは学校に通ってほしいという思いを持っていたみたいです。3年生になったらクラス替えもあるし、ちょろっと紛れ込んでも行けるだろうくらいに考えてるのかもしれませんが、まあ、無理ですね。半年不登校やったらもう、復帰なんて3千メートル級のハードルですよ。
そのころの父の役割は、あそこに行こうか、こっちに行ってみようかと、わたしの興味を誘うことだったのだと思います。「北九州空港に写真を撮りに行こうかな」「めかり公園に足を伸ばすけど、めかり饅頭と抹茶大福、どちらを食いたい?」と、わたしに聞こえるところで姉とよく話してました。これももしかしたら、わたしの思い込みかもしれません。父にはなんの意図もなく、家族のことから目を反らしていただけの可能性もあります。まあ、いずれにしても、わたしの考えであって事実なんてわかりはしないのですが、事実として言えるのは、その日「黒井で正月用の魚を買ってくるよ」にうっかり乗ってしまったということです。
黒井というのは、下関の北の方にある黒井漁協養殖場のことです。高速を下関で降りて車で小一時間ほど走ったところにあるのですが、有名な観光スポットではなく、たぶん地元のひとにしか知られていない穴場なのだと思います。まあ、漁協で養殖場ですからね。近くには下関フィッシングパークという施設があって、そちらは観光地としてもそこそこ有名だと思います。ただ、釣れるのがアジやカレイやサバなど、小さい魚がメインになるので、ガッツリと鯛やハマチとなると漁協に一日の長があります。ただしこちらはフィッシングパークと違って、釣りは楽しめません。一応短い竿に紐がついたもの――釣り竿と言うには足りない、バカが作った釣り竿みたいなもの――に餌をつけて魚を上げるのですが、糸を垂らしたら自動的に食いついてくるので、ドラクエの釣りよりも簡単に上げることができました。
わたしの家は
苅田にありました。北九州はわかりますよね? その、隣です。福岡では太宰府や大牟田や柳川、久留米は全国区で知られていますが、苅田はほぼ無名です。旅好きの人ならピンと来るかもしれませんが、昔は苅田からフェリーが出ていました。九州の玄関口とは言いませんが、勝手口……いや、勝手口にも満たない、忍者の隠し通路的なポジションで、いまは北九州空港があります。北九州空港はわりと最近できた人工島で、北九州の友人は、あれは小倉だと言い張りますが、苅田から橋を渡って行くので、苅田が本気を出せばあそこは落とせます。苅田です。
北九州、とくに八幡のあたりは、昔は『煙突の街』だったと聞いています。無数の煙突が立ち、もくもくとあがる煙は空を覆い隠し、祖父の更に祖父の時代くらいになると、それも誇らしかったのだそうです。そのころは苅田の町もいまより寂しく、ただただ地平線まで田畑が広がっていたそうですが、まあ、いまも小倉や門司に比べればのどかな田園風景が広がっていることに違いありません。そんな苅田の景色も、祖父に言わせれば『小倉が染み出してきた』のだそうで、苅田のアイデンティティはやっぱり、北九州の肩に寄りかかってるような気がします。いっそ北九州市になるときに6番目の区になったらよかったのにと思います。
その苅田にもいまは高速のインターチェンジがあるんですが、父は国道を北上し、小倉のインターチェンジから高速に乗ることが多かったようです。黒井の養殖場へは小倉で高速に乗ると、関門海峡を超えて、下関で降りて向かいました。高速は関門橋の利用のため乗っているようなもので、下関からは海沿いの道をひたすら北上しました。黒井の漁協には、お正月用の魚を買いに行くことが多く、わたしが目にする日本海はいつも荒れて、雲も低く垂れ込めていました。その日も例に漏れず、助手席の窓の外に広がる海には風が幾重もの白いレースを編んでいました。広げたレースに花瓶を置いて皺を寄せるように、波は陸へと打ち寄せ、電線が風にたわみ、震えていました。父はわたしの不登校の話には触れずに、祖父のフェリー会社に就職した従兄弟の話、出張先で食べたカニの話、門司港で開かれたイベントで芸能人を見かけた話などをしていたように思います。わたしはいくつか笑って返したり、「そうなんだ」「たいへんだね、大人って」みたいなことを返したりはしましたが、話の中身はあまり聞いていませんでした。
その日はとにかく、風が強かったことを覚えています。駐車場でドアを開くと、風にドアが引かれるような勢いでした。電線は羽虫のような低い音をうならせ、雨粒が不定期にバラバラと横から降ってきました。でも、冬の日本海はこれが普通なのかもしれません。傘は無理だと察して、父はフード付きのジャケットを羽織り、わたしのぶんもトランクから出して持ってきてくれました。たしか大昔に、家族で釣りにでかけたときのものです。わたしの赤いジャケットはもう小さく、姉の黄色いジャケットを渡してくれました。トランクの匂い、あるいは塩の匂いなのか、それが硬くなったビニールの布地に貼り付いて、ところどころに白い染みを浮かせていました。ゲートの付近に立ったポールには、おそらく風向きを見るためだろう吹き流しがあったのですが、ぱんぱんに卵を讃えたししゃもが断末魔に痙攣するように震えていました。ジャケットも下手すると飛びそうになるなかで、「これ、だいじょうぶなのかな」なんて言ってボタンをとめていると、またこれが不思議なもので、嘘のように雨風は収まっていきました。収まる寸前の風もやっぱり断末魔の魚のようで、不意に吹き荒れては収まり、またちょっと吹いては収まる、という不定期なサイクルで萎んでいくのですけど、風がなくなるとやっと道路に染み付いた魚の臭いが鼻に届きました。これが風の断末魔の匂い。それでもまだ思い出したようにビチビチと暴れる。苅田も海に面していて、海には馴染んできたんですけど、冬の日本海ってやつはなにを考えているのかさっぱりわかりませんでした。
信号を待って岸壁のほうに歩くと、雨風に侵食されてところどころ大きくえぐれた足元のコンクリートは高波に濡れて滑りやすくなっていました。たまに吹き付ける風は冷たく、その風がちぎり取った波濤もまだ、時おり頬を濡らしました。だけどもう暴風雨というほどでもなく、レストラン――とカタカナで看板に書かれた食堂――からぞろぞろとひとが出てきたので、雨風は一時的なものだったのかもしれません。
「今日は鯛は1尾も釣れてないよ。ハマチしか上がってない。どうする?」
鯛とハマチを1尾ずつ釣って帰る予定が、腰までの長靴を履いた漁協のひとからそう言われました。魚にもどうやら、釣られたい日と釣られたくない日があるようで、今日は鯛にとっての釣られたくない日だったようです。
養殖場は大きな防波堤に囲まれたなかにありました。岸壁を少し離れるとテトラポットの護岸があり、その先は自然の岩壁が切り立ち、幼いころここで姉と、わたしと、両親とで岩登りをしたことがありました。ここへは何度か来たことがあります。父が「まえに来たときより、海面が高い」というので「きのう雨がふったからじゃない?」というと、「海の水は雨じゃ増えんぞ」と笑われたことが思い出されます。雨では海の水が増えないということを理解できなかったので、幼稚園か、小学校の低学年のころではないでしょうか。頭のなかで雨の水がどこへ行くのか、しばらく考えていました。
この日もたぶん、雨のあとで水面が高かったのだと思います。
「じゃあ、わたしが鯛を釣る」というと、漁協のひとは「そうかい、お嬢ちゃんが挑戦するのか」と、
50センチほどの釣り竿を渡してくれました。「お父さんはハマチを釣って」と、ふたりそれぞれに竿を受け取りました。前回訪れたのはもう5年ほど昔になるかもしれません。あの日は姉が釣りに挑戦し、わたしは後ろで見守っていました。いけすには鯛もハマチも一緒に放されていて、餌によってどちらがかかるかが変わりました。大きさは概ねそろっていたのでしょうが、それでもものによって大きかったり、小さかったりがあり、大物を釣り上げるとまわりの人たちも湧いて、びちびち跳ねては〆られる魚を見て姉とふたりでぎゃーぎゃー騒いだものでした。
その思い出がはしゃぎまわる場所で、まずは父から釣り糸を垂らしました。すぐに掛かりがあり、なんなく引き上げて、ハマチをゲット。入れ食いってのはこのことだと思います。養殖の課程で、釣られるときの心得も学んでいるのでしょう。
「目の前にエサが降りてきたらどうする!」
「全力で食いつきます! サー!」
「それに釣り針がついているとわかっていてもか!」
「サー! イエッサー!」
陸に上がったら、釘の飛び出た棒で脳天に一撃を喰らい、彼の人生はそこで終わりました。
次は鯛。わたしの番です。さて、どうなることかと釣り糸を垂らしてみると、なんと、すぐに掛かりが来ました。今日一尾も上がっていいない鯛がついに上がるのか? 漁協のひとが驚いて振り向きました。わたしもなんてゆうかな。釣りは初めてなんだけど、さすがわたし、才能の宝庫、みたいな感情がぱーっと湧いてきて、よっしゃ! 来いや! 鯛っ! とか心のなかで叫んで糸を引いたらハマチでした。
「鯛のエサだったとしてもか!」
「サー! イエッサー!」
彼の人生も脳天一撃で〆られて終了しました。
トランクにクーラーボックスは積んであったのですが、ハマチは入らず、売店? で発泡スチロールのケースを買って、氷をたくさん入れてもらって、頭に穴の空いた2尾の勇敢な兵士をそこに寝かせました。トランクにはずっと昔使った水中メガネ、シュノーケル、足ひれ、グラスロッドの釣り竿があって、それをどかして場所を作りました。どれもたぶん、5年ぶりくらいに目にしました。父はきっと車で釣りに行くたびに目にしているのでしょうけど、わたしが求めているのって、このなくしちゃった5年の時間みたいなものなのだと思います。
自称レストランは、入り口をはいると左手に干物や雲丹の瓶詰め、海藻類のお土産が並び、ひとの常駐していない薄暗いレジとトイレがありました。右手には『本日の煮魚』が書かれたボードがあって、その向こうが『レストラン』です。いけすで釣った魚をその場で料理もしてくれるそうですが、釣り上げた2尾はお正月用ということで、わたしは海鮮丼、父は煮魚定食を食べました。
父はわたしのひきこもりの話は避けるほうでした。母がわりとストレートで、ぶつかりやすかったので、それを見て手を考えてたんだと思います。母との話にもだいたいは姉が間に入るのですが、その日はわたしの機嫌が良いと察したのか、父が少し切り込んできました。
「江頭さんとこもずーっとひきこもってるだろう?」
いや、もう、切り込むにしても、ですけど。
「で、息子はゴルフがやりたいつってて、親はゴルフをやらせてるそうだ。プロになりたいっつってるから、支援はしてやるつもりなんだと」
父がどういう意図で言ったのかはわかりませんでしたが、そのひとのことはわかる気がしました。その江頭さんの息子さん――たしかわたしの4つ上だったと思いますが、ゴルフに特別な思い出があるのだと思います。なんかこう、社会に出る過程でなくしちゃったものが、そこにある、みたいな。わたしたちがおとなになる過程でなくしたものって、自分のなかにわだかまるんですよね。
父はこう続けました。
「最初に聞いたときはわからなかったが、いまはわからんでもない」
それを聞いて、父にもこの感覚がわかるんだ、と、少し嬉しくなったのを覚えています。でも、よくよく聞いてみるとそれも違っていました。
「俺も、弓がやりたいことがあったら、せいいっぱい支持してやるから、なんでも好きなことをしたらいい」
――と、わかったのは江頭さんの親の気持ちのようでした。
おかげでわたしも、親の気持ち、みたいなものを少し垣間見てしまいましたが、だけど同時に、こうやってずっとすれ違ったままなんだろうなという寂しさも感じました。プロゴルファーなんて、そんなの急になろうとしてなれるものじゃないって、わたしにもわかります。それを認めて、支援するに至るまでには苦労もあったんだろうなぁ、とも。それに、息子にとっても本当にいまもゴルフは楽しいのだろうかとも。
わたしは「ありがとう」とは言ったけど、やりたいことなんてとくにありませんし、話もそこで途切れました。
帰りの車のなかは静かでした。
カーラジオをかけて、父もわたしも聞いたことのない曲が風のない車内に仄かな温もりになってたまり続けていました。
しばらく走って、いつも立ち寄る店で竹輪と天ぷら――これは関東でいうところのさつま揚げです――を買って、道端に止めた車のなかで竹輪を1本ずつ食べました。海鮮丼を食べてから1時間と経ってはいませんでしたが、まあ、竹輪はカロリーも少ないから。それにしてもわたしの胃袋って元気だな。と、思ってたら、姉からラインが入りました。竹輪を置いて、小指で画面タッチして確かめると、グループへの誘い。家族のグループかと思ったら、父と姉だけ、ふたりのグループでした。
姉からのメッセージには「お父さんと相談して、弓にも共有することになった」とありました。
父もスマホを見ていて、竹輪をかじりながら言いました。
「このままじゃ
恵美子がもたないから」と。
恵美子というのは母のことです。
「僕と詩帆だけじゃ、もう支えきれない。弓にもいろいろと知ってもらおうと思って」
いったいなんのことか。聞こうと思ったけど、わたしは知っている気がしました。母はおかしかったんです。最初から。ずっと。
第3章 フウラ
14歳でした。いくらカンが良い、大人の考えが見抜けるとは言っても、それでなにができるわけでもないじゃないですか。もちろん大人だってそうなのでしょうけど、
14歳なんて、自分の悩みさえ消化できない歳ですよ。母と話していると必ず、だれになにをされているの? という話になりましたが、そんな誤解をどう解けば良いかもわかりませんし、カンの良いわたしの読みでは、母がそうやって学生時代を過ごしてきたのだと思います。母の過去になにがあったかは知りません。父がそれを知っているかどうかも。なにも知りたくなかったので、母との間には壁を作るしかありませんでした。
祖父が会長を務める汽船会社は、以前は門司に本社を置いていたそうですが、いまは大阪に移し、神崎家の本家筋、祖父の兄から続く小倉の神崎家は昭和の時代にみな大阪に引っ越しました。門司港から大阪のなんていったかな。なんとかって埠頭までフェリーを運行しているのですけど、これが本当にたいへんだったみたいで、江戸時代から持ってたという山は売り払い、小倉城のすぐ脇にあった土地もバブルが訪れる少しまえに手放したのだとか。「あと3年待っていたら大金持ちだった」が大伯父の酒席でのネタでした。祖父は跡取りではなかったものの、大伯父が会社を継ぐ気がなかったせいで、赤字続きの汽船会社の会長に取り立てられ、それでいま大阪に住んでいるんですが、まあ、人質か生贄みたいなものですね。
苅田は好きな町です。昭和のはじめに建てられた屋敷は、昔ながらの黒い瓦をいただく二階建てで、通りに面しては柘植の生け垣がありました。わたしの肩の高さまであった柘植には小さな葉がみっしりと生え、それを毎年近所の植木屋さんに頼んで剪定してもらっていたのを覚えています。春になると小さな花をつけ、それは躑躅や百日紅のような華やかさのない、新芽とも大差のないささやかなものでしたが、それでもちゃんとミツバチたちは蜜を集めにやってきました。路肩には
50センチばかりの小川が流れ、春にはカエル、アメンボの姿が見られ、鮒の鰓をくぐった水の匂い、ヒメジョオンの足元の土の匂い、どくだみの雑じる草の匂いと、いくつかの匂いの層を抜けて、通学路途中には大きな鳥居があり、それがはたしてどこの神社の鳥居かも知らず、歩道の上の側溝の穴ごとにかけられた金属製のカバーをカタカタと踏んで学校に通っていました。花の名前を覚えたのは、苅田を離れてからです。
中3になるまえの春休みのころだと思います。小学校のころからの友だち、
愛未から「やっほー」とだけ書いたラインが届いたのは。彼女とは中学に入って1年、2年と別々のクラスでしたが、小学生のころは親友と言ってよいほどの仲でした。彼女にはよく絵も見せていたし、お互いに相談事もしていました。不登校になってすぐのころも何度かラインはもらっていましたが、返事は返したり、返さなかったり。この日は「やっほー」とだけですが、わたしの方からも返しました。
「生存確認!」
「おかげさまで」
「もうずいぶん会ってないけど、いつか話そうね。いまじゃなくていいから」
「うん」
それだけのやりとりで終わって、少し寂しさを感じました。「うん」じゃなくて、「いまでもいいよ」だったら、もう少し話ができたのかもしれないって。
朝食に起こされることもなくなりました。昼ころに起きて食卓へ行くと、わたしのぶんの冷めた目玉焼きとプチトマト、茹でたブロッコリーが皿に盛られ、ごはんとマヨネーズ、それから、カップスープ。毎朝ちゃんと用意された食事を見て、どんな気持ちになるか、みなさんわかりますか? それは、『不安』です。母は呆れながらこれを用意したのか、怒っていたのか、そしてこれを用意して、どんな気持ちで、どこへ向かったのか、帰ってきて何か言われないか、おそるおそるテーブルに近づいて、冷めた目玉焼きをご飯の上に載せて食べました。母が気分を害することをいつも恐れていました。ひきこもってからは特にそうです。べつに野生動物のように襲いかかってくるわけでもないのに。母がなにを考えているのか、いつも気になっていました。
二階の部屋に戻りカーテンを開けると、窓の外に中学の制服姿が見えました。時間はたぶんお昼を少しまわったくらい。この時間に帰宅しているということは……と、カレンダーに目をやったのですが、今日が何日で何曜日だったかも怪しいので、あまり意味がありませんでした。巡る月日からこぼれ落ちて生活しているので、カレンダーも古代の石版も変わりはありません。それでもぼんやりとカレンダーをながめていると、「今日は始業式だ」とわかるのだから不思議です。カレンダーからはなんの情報もなく、カレンダーに記すこともなにもなく、部屋にいてもただぼんやりしているだけなんです。学校に行けば落書きもしてたし、ゲームのことを考えたりもしてたけど、部屋にいるとそれもありません。もう死のうかなって何度か考えて、カッターナイフで腕を切ったことがあります。手首は怖かったから、少し上の方。血が流れるのをぼんやり眺めても、自分の痛みと、その傷とがつながらなくて、無性に悲しくなったことを覚えています。痛みよりも、血が肌を這う感覚のほうがリアルでした。すぐに血を拭って絆創膏を貼ったのですけど、母にはバレて泣かれました。泣かれるのは怒られるよりも辛かったです。でもいちばん辛いのは、変化も何もないことでした。だから愛未から「同じクラスになったよ」ってラインが来たときは駆け出したいくらい嬉しかったです。
「矢作くんって知ってる?」
「知ってるけど、どうして?」
「ユミのこと知ってるっていうから」
「彼まだ、美術部続けてるかな?」
「どうだろう。明日聞いておく」
「ありがとう」
「最近どう?」
――手首切った。
言えば良かったんだと思います。どんなリアクションが帰ってこようとも。わたしはただどう返していいかわからなくなって、ボロボロと泣いていました。
「やっほー」
「やっほー」
「昨日はごめんね」
「ごめんって、なにが?」
「いろいろ聞いて」
「だいじょうぶ」
「矢作くん、美術部辞めたって」
「そうなんだ。もったいない」
「だよねー。めちゃくちゃ上手いよね、彼」
「わたしたち、何組になったの?」
「3年2組」
「出席番号は?」
「わたしは
28。ユミのは明日調べてきてあげる」
「ありがとう」
家族が出払って、階段を降りるとき、いつも緊張しました。だれかいるんじゃないかって気がして。それでできるだけ、「お母さん」って声をかけるようにしていました。声が返ってきたら、洗濯物、なり、洗い物、なり、ひとこと言えば「ああそう」と言って、部屋にそれを取りに行ってくれました。まあだいたいは返事もなく、椅子に座って、ご飯を食べてまた2階へと戻ったのですけど、その日はなんとなくゲームをしてみたくなって、久しぶりにWiiFitを立ち上げて、しばらくコントローラー持ってぴょんぴょん跳ねてみたんですけど、ちょっとだけマリオカートを遊びました。ハンドルコントローラーなしで遊ぶマリオカートは難しくて、たびたびコースアウトしたけど、少しムキになっていつもより長くリビングのソファにいました。
その日の夜でした。母が部屋に来て、「ひきこもるんだったら、もっと真面目にひきこもりなさい」って言ったのは。
「わかんない。どういうこと?」
「ゲームで遊ばせるために休ませてるんじゃないの。ゲームは禁止って言ったでしょう?」
「でも、WiiFitはしていいって」
「今日、なにで遊んだか言ってみなさい」
母はわたしがマリオカートで遊んだことを知っていました。なぜかはわかりません。ゲーム機に履歴が残っていたのか、監視されていたのか。わたしはただごめんなさいごめんなさいと謝るだけで、「謝るくらいなら学校に行きなさい」と言われても言い返せなくて、姉にも目配せを送ったのに助けてもらえませんでした。あとになってラインが来ました。
「ゲームをさせると学校に行かなくなるって、お母さん、最初から反対だったんだよ」
「ゲームは関係ないと思う」
「わたしもそう言ったんだけど、証明してって言われた」
このころがいちばん辛かったかな。このあと、大阪の祖父の家に移ってからは、ここまで辛いことはなかったと思います。あ、いや、そうでもないな。ただ向こうには話せるひとがいたし、苅田とは違う苦しみがありました。でもいずれにしても、たかが不登校ですよ。たとえば、いじめとか家庭内暴力とかで殴られたりしてたら、もっと辛いと思うし、ひきこもりなんて最悪わたしが学校に行けばいいだけっていうか、学校だってそんなにひどいとこじゃないはずだって思って、「あした学校に行く」って、愛未には決意表明のラインを送りました。姉にも。
朝、ずいぶんと早く目を覚まして、壁に吊られている制服を見てると動悸がしてきました。昨日はお風呂でいつもよりしっかりと体を洗ったけど、もう寝汗をかいてて臭うかもしれない。布団もずっと敷いたままだし、その匂いが染み付いてるかもしれない。従姉妹の家に従姉妹の家の匂いがあったように、わたしからはわたしの部屋の匂いがしてるはずだと思いながら、一応ぜんぶ新しい服に着替えて、いまさらだけど布団を畳んでみて、そこにできた1メートル半の畳のスペースを見ると、なんとなく決心が付きました。制服に着替えて、階下に降りると母は今日は早番だとかで姿がなく、姉が食事の用意をしてくれました。母はたぶん、わたしと顔を合わせたくなかったんだと思います。あるいは、せっかくの決心を邪魔したくないと思ったのかもしれません。わたしもほっとしました。門を出ると、少し離れたところで愛未が待っていて、手を振ってくれました。
坂道から見下ろすと、桜が見えました。きっともう葉桜だと思います。愛未の鞄はもうだいぶ使い込まれていて、わたしの妙に真新しい鞄が少し気恥ずかしく思えました。「大丈夫?」と聞かれ、少し立ち眩んではいましたが、「大丈夫」と応えました。取り壊されて更地になったばかりの茶色い土の上で、サビの浮いた重機が口を開いたまま居眠りし、その足元に土の匂いを拡散させていました。まだブロック塀のいくらかはそこに残され、苔むした肌をわずかに残す壊れた肩から飛び出した鉄筋は
30年ぶり、あるいは
40年ぶりの風に晒され、歩道に落ちた粘土質の土の塊のいくつかは靴底のラバーのパターンを写し、大地への帰還を夢見ていました。わたしも、大丈夫そう。そのときはそう思いました。
洋食屋の、レンガでしつらえられた低い花壇の、花にまだ早い小さな木立のような紫陽花と、寄植えの多肉植物の少し赤らんだ穂先と、電柱へと伸びる斜め
45度の黄色い樹脂のひび割れと、2年前にも見た景色がいまもそこでわたしを待っていました。白いモルタルのマンホール。アスファルトとアスファルトの間にはみ出す黒いピッチ。石造りの鳥居。姉が通っていた高校の塀を左手に見ながら歩いて、フェンスの向こうに朝練の野球のユニフォームを見るころ、耐え難い吐き気に襲われました。
「大丈夫?」
愛未の問に答えられませんでした。
金属バットのキーンという高い音が耳に食い込むと、立っている足元が急にものすごく遠く思えて、見てるはずの景色がもう見えていない、わたしが焦点をあわせるたびに地面はぐるぐると逃げていって、「ユミ!」「大丈夫
!?」という愛未の声が遠くに聞こえるなか、わたしの視界は闇に捉えられていきました。
気がつくと、病室のベッドにいました。気がつくと……というのは少し変な言い方で、体が目覚める前に夢のなかで気がついていました。わたしは学校へ行こうとしているのに、道はぐるっと一周してもとの場所に戻って、姉や母、愛未やハギがそれぞれにわたしを責めて、舞台はいつの間にか病院に変わり、みんなパタパタと走り回り、そのときにはもう病室のベッドにいることは気がついていました。廊下にひとの声が聞こえて、目を開けても天井の模様に焦点があわなくて、天井は迫ったり離れたり、しばらくあたりを見渡していると、「がんばったね」って、姉の声が聞こえました。
「もうすぐお父さんが来る」
少しだけわたしのリアクションを待ったあと、姉は言いました。わたしがゆっくりと2回瞬きをするくらいの間がありました。
「外傷はないって。でも念のため1日入院していってもいいって、先生言ってた」
病室で目を覚ましたのは、まだ午前中でした。倒れてから
30分も経ってなかったのだと思います。それにしては長い夢を見たし、体にもぎしぎしと疲労が溜まっていましたが、ずっと部屋のなかにいて急に歩いたのも良くなかったのだと思います。父もお昼前には駆けつけてくれて「お母さんは?」って聞くと苦笑いしていました。母は厳しい人でしたから、どうせ仮病だと思われているんだろうなと思い当たりましたが、ふと、姉と父もそう思っているかもしれないと、不安がよぎりました。
「あのね、お父さん」
「うん?」
「仮病じゃないよ」
「わかってるよ」
「お母さんにも……」
「わかってる」
病院を出るときに鞄を返してもらって、スマホを見ると愛未からのラインが7つ溜まっていました。
「ごめんね、無理させて」
「家に電話して、留守電に入れておいた」
「いまお姉さんから電話があった。すぐに向かうって」
「落ち着いてからでいいので、連絡して」
「あ、無理にじゃないよ。その気になったらでOK」
「みんなユミのことが大好きだよ」
「I love you!」
泣いちゃった。なんでこんなに涙出るんだろうってくらい。
夕方、父の車で家に帰ると、リビングで母が泣いていました。姉が寄り添って、わたしたちが帰ると同時に母は寝室へと上がっていったので、はっきりとは言えませんが、たぶん泣いていたんだと思います。姉はわたしに振り返ると、眉を互い違いにした笑顔と困惑を混ぜたような顔を見せました。そういえばずっと昔、同じように母が泣いていたのを見たことがあります。父が博多のビジネスショウに向かう際に、会社の若い女性を車に乗せて行ったときのことでした。母はそれを浮気だ、浮気でなかったとしても許せないと言い、部屋には隣の江崎のおばさんが来ていて、いまの姉と同じように肩に手を置いてなだめていました。まだ小学校に入ったばかりでした。わたしにとって大人が泣くというのはたいへんなことなので、父はとんでもないことをしでかしたのだと思いました。車の助手席に若い女性を乗せるということがどれほどのことなのか、わたしには判断できませんでした。わたしは車というものを移動手段以外の特別なものとして見たことはないので、目的地が同じであれば電車代も浮くし、合理的なことのようにも思えました。だけどいまは、漫画やドラマで『男の車に乗る』というのが特別なことのように語られるのを何度か見ました。要は、ひとそれぞれなのだと思います。でも、ひとそれぞれということは、父も母の気持ちを理解する必要があったのだと思いますし、きっとそのすれ違いを放置し続けてきたことが問題なのだろうと、あとになって考えました。たとえばそれは、そのビジネスショウ1回の件が仮に浮気でなかったとしても、妻に対する行動としては総合的には浮気と呼べるものではなかったのだろうかと。そんなことを思い出していると、姉は耳元で小さく、「ユミのせいじゃないから、気にしないで」と言いました。でもそれは、父が浮気したか、していないかと同じようなことで、本当はわたしの罪はもう、決定的ななにかに達しているのではないのかとも思いました。
まあこれも、車が男女の仲にとって特別なものかどうか、そんなことを考える歳になるまえに母と父の件を目にしたわけですから、父が浮気をするはずないと信じるために、車は移動手段にすぎないってじぶんに言い聞かせてるのかもしれないし、あんな光景を目にしなかったら、どの車に乗る男の子がカッコいいみたいなことを言っていたかもしれません。
祖父が訪ねてきたのは、それから一週間ほどしてからでした。祖父はわたしがひきこもって、もう1年ほど学校に行っていないことを知っていました。玄関に入るといきなり階下から「ユミー! じいちゃん来たでー!」と声がして、降りていくべきかどうか迷いました。もう六十過ぎのひとだから、ぜったい古臭いひとじゃないですか。学校に行けってぐちぐち言われるに決まってると思って、部屋から出ないで帰るのを待ってました。でも、あれぇ? と思いました。昼過ぎに来たから、ジジィ、自分の会社のフェリー使わないで飛行機で来たな? って。フェリーを使っているとしたら朝に着いて、夕方くらいにはうちを出るはずだけど、飛行機だったら何時に出るつもりか読めません。まあ、考えてみれば、赤字航路とはいえ、大会社の会長ですし、フェリーで片道
12時間かけて来るはずもないんですが、じゃあ、フェリーってなに? みたいな。
「ユミ、部屋片付いてる?」
姉からのラインでした。
「どういう意味?」
「おじいちゃん、会いたいって」
「待って。無理」
「降りてきたほうがいいよ。お土産もあるし」
こういうとき、すごく困るんです。わたしは部屋にこもってるだけで、中身はそんなに変わってないんですよ。病気になったわけでもないし、少し沈んでるとは言え、ひとと話せなくなったわけでもない。なのに相手は、「ユミは不登校でひきこもりだ」って聞いて構えちゃってるわけでしょう? 少しは具合が悪いフリ(なんで?)しなくちゃいけないのかなとか、どんよりとした声出さなきゃいけないのかなとか考えてしまいます。だって、堂々と現れて、こいつ、学校行く気もないくせに偉そうだなぁって思われたら、どんな言葉が飛んでくるかわからないし、だからちょっとだけ沈んだ感じで、「こんにちは」とだけ言いました。リビングには父と姉と祖父。母はいませんでした。
「お母さんは?」
どちらに聞くでもなく尋ねると、口を開いたのは祖父でした。
「あれは、俺に会いたないんちゃうかな」
うわーって感じ。簡単な挨拶を交わした直後がこれでした。その祖父の言葉に父は急いで取り繕っていました。
「いや、そうは言ってないでしょ」
まあ、このあたりのやりとりで、自動的にどんよりした気持ちにはなったのですが。お母さんは美容院の予約があるからと言って出ていったと、父は言いました。テーブルの上には姉が言っていたお土産があって、それが部屋中にホカホカとした甘塩っぱく煮詰められた獣の匂いを充満させていました。姉はわたしの顔を見ると、「明日の準備があるから」と席を外し、目配せされるので仕方なく腰を下ろすと、祖父が「恵美子さんがあんな事件を起こすとは」と口から漏らしました。
あんな事件――それが何を意味するのか、父の顔を覗くと申し訳無さそうに、「弓には言ってないんで」と肩をすくめて見せました。あーもう、なにそれって、そういうところじゃないのかな、わたしが閉じこもるようになっちゃったのは。祖父も少し気まずかったのか、出しかけた言葉を慌てて飲み込んで、お茶で流し込みました。わたしは「事件ってなに?」とは聞けず、ふたりのどちらかが口を開くのを待ちました。
「ちょっと、傷害事件があって。朝方だから、弓はまだ寝てたと思う」
話してくれたのは父でした。わたしは混乱して、母が加害者なのか被害者なのかもまだつかめてなかったと思います。
「でもまあ、相手に後遺症は残っとらんのやろう?」祖父が尋ねました。
「腕を2針塗ったくらいで」父が答えました。
「目や耳じゃのうて良かったわ。向こうの親御さんには?」
「向こうの?」
「宗像のほう」
「いや。それほどおおごとでは」
ふたりはわたしには直接話してくれませんでしたが、どうやら通学中の生徒に母が怪我を負わせたらしいことがわかりました。立ち止まってわたしの部屋を見上げている生徒がいたから、手に持っていた清掃用のトングで追い払って、そのときに。もう2ヶ月もまえの話だとか。だけど2ヶ月まえだったら、わたしと姉と父のライングループはできたあとです。なのにその話は知らされていませんでした。わたしに気を遣ったのだろうとは思いますが、姉と父とでは抱えきれないからとわたしも加わったのに、結局わたしは信頼されていなかったんだと考えざるをえませんでした。
その話が一巡して、祖父は「学校には行けないんか」とわたしに尋ねました。その意味は、わたしが学校に行けば解決する、ということだとわかりました。わたしが俯いていると父が「行こうとしたけど、無理だったんだよな」と、わたしの目を覗き込んで、口調は優しかったけど、結局はわたしのせいなんだ、わたしが悪いんだという思いが胸の中に吹き上がりました。わたしだけなんか、いつもこんな。
しばらくの沈黙のあと、「急なことでびっくりするかもしれんが、ユミちゃん」祖父が少しおどおどした様子で切り出しました。大丈夫。わたしもう、なに聞いてもびっくりしない。
「しばらく大阪で暮らしてみるのはどないや」
もう、びっくり。
まあ、青天の霹靂ですよね。言葉の意味がどこにもつながってないっていうか、なにを言われてるかもわからない感じです。大阪で暮らすと言っても、その大阪も、祖父の住む家も思い描けないものですから、頭のなかはもうただ真っ白ですよ。真っ白い闇のなかにじわじわと自分の感情だけが浮き上がってきて、それと対峙するしかありませんでした。わたしがいなければこの家族は円満に暮らせるのだという、悔しさや悲しさ、もどかしさ、それに申し訳無さでいっぱいになりました。捨てられるんだ、わたしは。やっかいの種だから、取り除かれるんだ、って。
「無理にっちゅう話やないよ。少しだけ考えてくれれたらええねん」
わたしの挙動がおかしかったのだと思います。祖父は慌てて取り繕いました。父は黙って手に持ったコーヒーカップを眺めてるだけ。
「わたしとお母さんだったら、うまくやっていける」
混乱のなかからなんとか絞り出した言葉がそれでした。本当にそう思っていたかどうかはわかりません。言葉が先に出て、それを追いかけるように気持ちを繕いました。
「お母さんがああなったのは、お父さんのせいだから」
それを父と、その父である祖父のまえで言いました。でもまあ、偽らざる本音です。
「お父さん、博多のビジネスショウに女のひと乗せて行ったよね? お母さん、泣いてたよね? ずっとお母さんのこと放っといたよね?」
そう訴えると涙がポロポロと溢れてきました。別にこんなこと、話すつもりでもなかったし、考えたこともなありませんでした。ただ、自分がゴミのように捨てられることが耐えられなくて、必死にしがみつこうとしたのだと思います。父の口から、最悪のひとことを聞いたのはその直後でした。
「迷惑かけたとは思ってる。浮気はあれ以来してないよ」
継ぎ足そうとしていた言葉がまたバラバラと溢れていきました。浮気じゃない、よくあることだって、何度も自分に言い聞かせてきたのに、浮気だった。本人が言った。じゃあそれをどんな言葉で責めればいいのよ、わたしは。しかもそれでもまだ、浮気は言葉の綾だと信じ込もうとしているわたしもいて、目の前の景色が意味を失って、バラバラに砕け散るようでした。
「もうやだ! こんな話!」
二階の部屋にいるはずの姉に聞こえるように、大声で叫びました。だけど二階からはなんの反応もなし。そこからはもう、泣くしかないというか、あらゆる記憶も感情もすべて混ぜっ返されて、自分が泣いているというほかは何もわからなくなっていました。
「傷害事件のことだまっててごめん」
姉からのラインに気がついたのは翌日でした。
「わたしがいなくなればいいんだ」
ほかにもっと言葉があったと思います。よりにもよって、どうしてそんな言葉を選んだのか。
「だれも言ってないよ、そんなこと」
そういえば愛未は門から少し離れて立ってたことを思い出して、もしかして母の暴力を知っていたからなのかもしれない、もしかしたら怪我をさせたのは愛未だったのかもしれない。だから、「みんなユミのことが大好きだよ」って言葉をくれたんだ。
「お母さんに相談して決める」
祖父に引き取られる件、姉にはそう伝えました。姉はおそらく、それだけはやめたほうがいいと思ったでしょう。でもわたしはそうするしかありませんでした。だって、母がいないところで、父と祖父の間で決まったことにそのまま乗ってしまったら、母が可愛そうです。そのときはそう思いました。
それからの母はわたしを避けているようでした。朝、少し早く起きて母に話そうとしても、忙しいからあとにしてとあしらわれるばかり、夜もそうです。お風呂には入ったの? 洗濯物溜まってるでしょう? その隙きを見つけて言葉を割り込ませようとすると、「なあに? 言いたいことがあるなら言って」と苛立った様子を見せて、そうやってわたしの口を柔らかく塞いでいるようでした。ラインで知らせる手もあったとは思います。だけどあの母がわたしの文字をどう読むか想像ができず、躊躇われました。
「大阪に行く」
姉にラインしました。祖父が来た日から一週間ほど経った日でした。少しやけになったのもあり、姉の反応を知りたかったのもあり、なのにそう伝えた瞬間、それは既定路線になってしまいました。
「ごめんね、相談に乗ってあげられなくて」
あのときわたし、大阪になんか行きたくなかったんだと思います。
「お母さんのことをよろしく」
「わかった」
それから父とも話しました。祖父が訪ねてくることはありませんでしたが、ラインで話して、気持ちを伝えました。ラインでのやりとりは、直接話すより落ち着いて話せました。祖父は屋敷の周辺、最寄りの駅、商店街とコンビニとわたしのために用意した部屋の写真を送ってくれました。近くには映画館もあると、わたしがひきこもりだってことをすっかり忘れてしまったかのようでしたが、それを読むとわたしもいまの生活を忘れられるような気がしました。引っ越しの日取りを知らせてくれたら、飛行機のチケットは用意すると祖父が言うので、わたしは「フェリーで行きたい」と返事をしました。母とも話したかったのですが、それはわたしが門司港を発つまで叶いませんでした。
ダンボールに荷物を詰めているとき、押し入れのなかから羊のぬいぐるみをみつけました。小さいころに買ってもらった記憶があります。ビーズが入ったふにゃふにゃしたぬいぐるみで、「めーめー」と呼んでいたのを思い出しました。そういえば、ドラゴンクエストXで、わたしの出身国の姫ポジションのキャラがずっと羊の人形を抱いていたことを思い出しました。そのキャラはフウラという少女なのですが、彼女の人形は頭にケーキを模した帽子をかぶっていて、ケキちゃんと呼ばれていました。わたしが見つけたぬいぐるみは、ケーキの帽子はかぶってませんでしたが、わたしは彼女をケキちゃんと呼ぶことにしました。
ケキちゃん。
あなたはめーめー改め、今日からはケキちゃんです。
苅田から連れていける友だちはあなただけです。
どうかわたしが挫けそうになったとき、勇気づけてください。
わたしがフウラみたいな強い子になれるよう、見守ってください。
旅立ちの日、祖父の家に住んでいる木村さんというひとがわたしを迎えに来てくれました。木村孝江さん。父の従姉妹にあたるらしく、小倉神崎家のひとだと聞かされましたが、それ以上のことはわかりませんでした。
門司港までは下道を通り、日豊本線沿いの県道を北上して埠頭へと向かいました。電車に乗ったのはもう遠い記憶で、母と宗像の実家へ行った日の景色が思い出されました。あの日は祖母がいっしょに電車に乗っていました。わたしと姉とでずっと窓の外ばかり見ている姿を、ずいぶんあとになってからも話のネタにされました。いまも会えばその話になると思います。赤い屋根のファミレスを過ぎると、そこが自転車で到達した最北端。愛未とふたりジュースを買って飲んだ百円自販機。タカエさんが「ここを真っ直ぐ行くとわたしの実家です」と、小倉方面を指さした十字路を折れるとあとは車ばかり。お正月に車でよく連れてこられたコメダ、スシロー、ジョイフルと、べつに異世界に行くわけでもないし、いつでもまた帰って来れるのに、ひとつ店が通り過ぎるごとに悲しみがこみ上げてきました。
港に着くと、もう大きな船が停泊していました。父と姉とわたし、それとタカエさん。母は姿を見せませんでした。
「無理しないでね。いつ帰ってきてもいいからね」姉はそう言ってくれました。
わたしがケキちゃんに手を振らせて「大丈夫。天命の戦乙女がいっしょだから」というと、「フウラをよろしくね」と、姉は察してくれました。
「なにかあったらわたしが責任持って追い返しますから」と、タカエさんが言うと、父は「よろしくお願いします」と頭を下げました。
船に乗り込んで甲板に出ると、そこは埠頭からずいぶん高く、姉と父の姿を探すのに手間取りました。姉が手を振るとまるで、門司の街、北九州の街、この景色のすべてが手を振っているようでした。わたしが失うものが多すぎる。わずか半月前まで予想だにしなかったのに、すべてがわたしから離れていく。でも、必ず帰るから。船のエンジン音が高鳴ると、船体はゆっくりと埠頭を離れていきました。まっすぐな波のない水面が船と艀の間に広がって、門司のパノラマがゆっくりとわたしの周囲を回りました。そして母にラインを送れなかったこと、いまのいまでさえ躊躇い、何も出来ないことを悔やんで、それが悔しくて、わたしは欄干に手をかけたまま膝を折りました。