2021年9月13日

昭和58年の宇宙移民 残留者・岬沙也加

昭和58年の宇宙移民 番外編 残留者・岬沙也加

私を宇宙に連れて行って

 通い慣れたライブハウスは、壁のポスターまですべて頭に入っていた。
 昨日はなかったポスター、はじめて見るフライヤー、それも連続した時間の中で目にすると音を奏でる。VoGtBaDr、並んだ名前から音の傾向を探る。まだ音楽プロデューサーのまねごとをしていた頃。営業で訪ねた静かなホールにも、いろんな音が鳴り響いていた。
 啓介が生まれて足が遠のいていたライブハウスは、フライヤーもポスターも刷新されて、もうあの頃の音楽は聞こえなかった。新しい世代の、新しい音楽、聞き知らぬ奏法の曲がグルーブを疾走らせる。過ぎた日の笑い声を木霊に聞くような懐かしさと、そこに紛れたかすかな疎外感。
 開演前、幹夫と言葉を交わす。
 あの頃と同じ、他愛もない話。
 ふたりの目の前の果実が、何も言わずそれを聞いている。
 静かなイントロから、一曲、二曲とプログラムが進む。
 前半のセットを終えて、休憩時間に入ると、狭い化粧室の前には人の列ができる。
 見知らぬ友だち同士のお喋りが、聞くともなく耳に入る。
 ――ギターかっこ良かったよね
 ――あれ、ライト・ハンドでしょう? ヴァン・ヘイレンがやってるやつだよね
 そう。ヴァン・ヘイレンで一躍有名になったライト・ハンド奏法。でも幹夫のほうが少しだけ早いんだよ、ヴァン・ヘイレンより。
 人生にはいろんな可能性があった。あのまま幹夫をプロデュースすることもできたかもしれない。だけど、私は私の人生を選んだ。いや、選んだんじゃない。無数の私が絶滅して、いまの私ひとりがなんとか生き延びた。だから、後悔はない。この生き延びたたったひとりの私に託すしかない。
 トイレのドアを閉めると、喧騒はマイナス3dbデシベル
 胸の中の声が聞こえる。
 ちゃんと言えるかどうかわからないけど、今日は言うつもり。

 ――私を、宇宙に連れて行って――

1 メルクル

 学校の校舎の向こうに、始めてオーロラを見た日。昭和42年。私はまだ高校生だった。
 青白く光る夜空を見上げて私は――勝った――と思った。
 私が鉄槌を下すまでもなく、みんな死んでいく。
『死だけは公平だ』と言っただれかの言葉にずっと違和感があった。死は公平なんかじゃない。決まって弱いものを狙ってやってくる。それがどうだろう。いまやっと死は強き者に牙を剥こうとしている。持つ者からは奪い、持たざる者の悪夢を終わらせる。あいつらが私たちから奪って築いた幸福が終わる。やっと。やっとだ。やっと人類に死が訪れる。そのときめきは私の胸いっぱいに広がった。
 人類滅亡が予見されたのは、五年まえ。
 私はまだ小学五年生。あの日から不安が社会を覆い、犯罪は増え、人々は働くことを辞めた。不安のなかでの小学校卒業。意義のない高校受験。だけど否応なく繰り返される日常のなかで、いつしか絶望は空気に変わっていた。ひとびとはまた仕事に就いて、お金を貯めた。
 その矢先のオーロラだった。
 ――にゃあ
 星空から見下ろす私の足元、メルクルはしっぽを立てて、一声だけ鳴いた。
 明日からまた犯罪が増えるよ。メルクル。
 ――だけど沙也加
 うん、なあに?
 ――世間には絶望が渦巻いているだろう?
 ――きみら女子高生がうっかり外を歩くと、ひどい犯罪に巻き込まれるよ
 わかってる。このさきどんな苦労をするかなんてわからない。
 また取り付け騒ぎも起きるだろうし、トイレットペーパーだって売り切れる。
 だけど、私の勝ち。
 地球の滅亡とともに、みんな死ぬ。

 あれから更に五年。
 私は二十歳、メルクルは十三歳になった。
 地球は未だ滅びず、自暴自棄になったひとたちは、自暴自棄な五年を過ごした。
 私は自暴自棄になって受けた大学に奇跡的に受かって、自暴自棄に上京、自暴自棄にひとり暮らしをはじめ、自暴自棄に男の部屋に転がり込んでいた。

2 マーフィ

 日曜の朝、カレーを食べた。
 子供のころ、一日置いて冷めたカレーは好きだった。妹もそう。友だちもみんな。中学生になってクラスで聞いたら、私も、じつは私も、と声が上がった。
「冷めたカレー、みんな好きだって言ってたよ」
 うちに帰って、母親にも話してみたのだけど、反応は鈍かった。
 東に向いた窓のカーテンの隙間を縫って、朝の光が白い三角形を描く。その先端が私の枕元を離れるころ、鳥のさえずりも消える。車の喧騒に驚いた鳥は私のなかに逃げ込んで、胸の隙間に身を震わせる。私の巣は、ほころんだ青い掛け布団。目を覚ますと、隣で寝息を立てていた彼の姿はない。
 彼――富樫雅文とがしまさふみが、仕事でこんな早い時間に起きることはない。おそらくバイクで海へでも行ったのだろう。また今日もキーホルダーなり饅頭なりを買って、夕方くらいには帰ってくる。そう思って、冷蔵庫の伝言板に目をやっても、一週間まえの私の文字が残っているだけ。
 きれいに片付いた何もない部屋には、寂しさが忍び込む。伽藍堂の部屋でテレビとステレオセットだけは豪華だ。私の古いテレビと違って、電源を入れるとすぐに画像が現れた。テレビの上には日立ポンパ鳥の人形がひとつだけ置かれている。
 バイト先の酒屋のケースに板を置いただけのテーブルで、冷めたカレーを食べた。テレビの朝のバラエティが大げさな笑いを響かせる。アンテナを新調して、鮮明なカラーの画像が出たとき、おおーっと口から漏れ、小さく手を叩いたことを覚えている。だけど、テレビは嘘ばっかり。テレビのなかのひとの笑顔、仕草、話し方、私がそれに溶け込むことはきっとない。朝食を終えて洗い物をしていると電話が鳴った。
 合皮のカバーのついた受話器を取って、
「はい、もしもし、富樫です」
 と、彼の名字を名乗る。
 いつの間にか彼の名で電話を取ることにも慣れた。そもそも私の部屋には電話がない。だから自分の名前で電話を取ったことがない。電話の中の私はいつも富樫だった。
「あ、沙也加ちゃん? 富樫くんは?」
 声の主は菰田こもださん。その声が受話器のスピーカーをビリビリと鳴らす。
「たぶんツーリングだと思う」
「ああ、そう……。どうしようかなあ、昨日あれほど念を押しといたのに……」
 たぶん――という自分の言葉を復唱して、ほかの言葉を探してみるけど見当たらない。電話のコードの余分な巻きをほぐしながら、彼について何も知らない自分が情けなくなる。黒いコードの一部はひび割れて、細い赤白の線が見えた。
「すみません」
「やだ、沙也加ちゃんが謝らなくてもいいわよ、頼んでるのはマーフィなんだから」
 私も、彼の友だちもみんな、富樫雅文のことはマーフィと呼んだ。
 マーフィは彼の投稿時代からのペンネームで、出版と放送関係の一部ではそれで通った。ちなみに私のペンネームはメルクル。こちらは無名。私がまだ16の頃、マーフィとメルクルはとある音楽雑誌の読者投稿コーナーの常連だった。リアルで会ったのは、大学に入ったあと。上京して、出版社に遊びに行って、そのとき。彼は大学を出ると、どこかのレコード会社を受けて、それを蹴って出版社に入り、読者投稿のコーナーを受け持って、単行本を出して、その後放送作家になったと知らされた。彼は七つ上。編集部を介して連絡をとって、最初に顔を合わせたときにはもう意気投合していた。
 雅文が頼まれていたのは、ワイルドダックという新しい会社の件。事務所を探しに不動産屋へ行くので、付き添うことになっていた。彼でなければいけないのは承知しながらも、どこか申し訳なくて、「私がご一緒しましょうか?」と口にしていた。
 ワイルドダックは女性ばかりのテレビクルーの会社。まだ立ち上げたばかりで法人登記も済んでいない。私の彼、半同棲中の富樫雅文が社長に就任することに決まっている。ただ彼自身は、女性ばかりの会社で、お飾りとして据えられることをあまり歓迎してはいない。座っているだけでいくらかの給料が出るからと説得はしてみたものの、座っていることすらろくに出来ない。こうやってすっぽかされるたびに菰田さんには頭を下げた。そしてそのたびに、それでも彼が必要なんだと、味の薄いスープのような笑顔で諭された。
 不慣れなメイクをして、髪をとかして、こんなことならちゃんと美容院に行っておけばよかったと思う。ひと前に着ていける服も二着しかないし、それも着古してよれている。鏡に写った姿は雑誌で見たシルエットとは違う。時計を見て、改めてアイロンを掛け直した。
 菰田さんの車で、何件かの不動産屋を回ると、「女性ばかりの会社だと大変でしょう?」と、行く先々で言われた。菰田さんはもう慣れたもので、それで表情を変えることもない。
「社長も女性の方ですか?」
「いえ、社長は男性です。業界にも顔が利くひとで、すでにもういくつかの番組と契約しているんです」
「それは良かった。女社長では銀行も良い顔はせんでしょう」
「そうなんですか? まだ銀行のお世話にはなっていないもので」
 どこへ行っても同じ話。そこから資本金の話になり、タニマチがいるいないの話になり、結婚は? 出産は? といった質問を経て、「だけど社長さんが男で良かった」という話に戻ってくる。
 ワイルドダックの事務所は、菰田さんが決めた。社長の決裁が必要だからと、図面のコピーをもらって不動産屋をあとにしたが、雅文に判断を仰ぐことはなかった。
 女性ばかりの会社の、お飾り社長。
 この仕事を雅文に紹介したとき、菰田さんたちとは親しくもなかったし、安定した仕事が入るのなら――くらいにしか考えなかったのだけど、今になって本当に申し訳なくてしょうがない。どうして私は、あんなクズと半同棲みたいなことをして、仕事まで世話をしてやって、裏切られなきゃいけないのか。助手席に座って、水飲み鳥のように何度も謝った。
「会社が安定したら、雅文は追い出して、あとは菰田さんがまとめてください」
 恐縮して申し出たけど、首を縦に振ってはもらえなかった。
「マーフィのコネには助けられてるし、放送作家としての評判は悪くないわよ。名前を出しただけで会ってくれる人も少なくない」
 そう聞くといままでの恐縮も忘れて、こんどは誇らしくなる。私が『ハガキのロック』のコーナーでポイントを争った男だ。その男がいま、テレビ業界で顔が利くと言われている。私はその男といっしょに暮らして、職と生活の面倒を見ている。ここ半年ほどめぼしい契約はないけど、菰田さんの言葉は慰みになった。
 青山通りから外苑西通り、さらに路地に入ると昔ながらの町並みのなかに、時折新しいビルが見える。地球の滅亡が囁かれだしてから建てられたビルもすくなくない。
「人類って、本当に滅亡するんですかねえ」
 窓の外をながめながら、菰田さんに訊いてみた。
「どうだろうね。きっと国の上の方が頑張ってくれるわよ」
「頑張ってなんとかなるものなんですか?」
「まあ、頑張らないよりは。頑張ったほうが、死んでからの後悔も少ないんじゃない?」
 私が地球人類の終焉に浮かれているときも、彼らはこうやって新しいビルを建てていたんだ。時折、踊らされていた自分を哀れに感じる。あるいはすべて、嘘だったのかもしれない。
 信号待ち。ハンドルに手をかけて菰田さんがちらりと視線を投げる。
「人口、増えてるんだって」
「えっ?」
 ギアを入れて、車はゆっくりと進み出す。
「人類って自暴自棄になると、人口増えるんだね」
 どうせ死ぬのに。なんて愚かなんだ。人類って。
「神様がそうやってバランスを取っているんだよ。頭数を増やしてやったぞ。さあ、考えろ、って」
「そうかなあ……」
 そういえば菰田さんも、スカートをひらひらさせた繁殖するタイプの人間だった。いつもいい匂いがするし、私とは違う。
「……バカなだけだよ。人類」
 事務所の図面のコピーを持って彼の部屋に帰った。
「ただいま」の声に返事もない。
 部屋の灯りをつけて、郵便物を机に置いて、やかんに水を入れる。換気扇。ガスの火を灯していると、ふと寂しさが溢れてきた。
 彼がいないんだったら、自分の部屋に帰ればよかった。
 部屋には私の湯呑、私の歯ブラシ、着替えが少しあるけど、彼がいない部屋は他人の部屋と同じ。くつろげる場所はここじゃない。
 冷蔵庫のボードに書き置きを残した。
 もう終電も近い。

3 楠浩二

「じゃあ、初恋は名前も知らないその子なんだ?」
「いや、初恋なんかじゃないですよ。6歳ですよ、まだ」
「いやいや、6歳でも、あるじゃないですか、保育園の先生を好きになったー、とか」

 大学の二年、二十歳になった頃にマーフィと半同棲みたいな生活が始まった。
 何度かテレビの撮影現場も見せてもらったし、もしかしたらいつか放送作家の仕事がまわってくるかもしれないとも思った。嬉々として番組のアイデアを語ったこともある。バラエティ番組でラウンドガールみたいなものをしないかと誘われたことはあったけど、水着の仕事だったので断った。私の身長は一六五。ラウンドガールはともかく、モデル事務所に登録しておけば、何かのきっかけでテレビに出るのも夢じゃないと勧められた。だけど私は、肩の高さが左右で違う。
 それに、作品で勝負したかった。ショート・ショートやコントや人情噺を書き溜めていたし、私はそれがマーフィに劣るなんて思っていなかった。マーフィも素直に褒めてくれたし、大学にはちゃんと通いながら企画や短編を書いた。アイデアは次々と湧いて出た。そうこうしているうちに回ってきたのはラジオ企画、『あのひとに会いたい』のヤラセのリスナー体験談だった。
 こういう思い出がある、こんなときに世話になったひとがいる、そういうものを――でっちあげでいいから何か書いて欲しい――というのが依頼内容。雅文からその話を聞いて、目の前に花が舞った。チャンスが回ってきた。ここから私の快進撃が始まる。そう思ってすぐにペンを握ったものの、自分で好きに書くのは得意だったはずなのに、お題を出された途端、何も書けなくなった。
『あのひとに会いたい』
 頭のなかで思い描いてみるのは、
 ――むかし、海で溺れかけたとき助けてもらって……だったり
 ――高校時代、バレー部のキャプテンに憧れていた……だったり
 どこかのドラマや漫画で見たようなパターンの焼き直し。
 ひらたく言えば、駄作ばかり。
 そう言えば、私以外のひとたちが普段どうやって生きているか、何を考えているか、私は知らない。消えてなくなれと願った世界で、他人がどう生きているかなんて興味がなかった。
 それでも私はすがりついた。学校でもそのことばかり考えた。時間はいくらでもあった。卒業できなくても、それまでにテレビの仕事に就くつもりだったから、授業はどうでも良かった。それなりの仕送りがあった。食費は彼の財布から出したから、バイトなどしなくてもそこそこ自由にやっていけた。
 どうせ人類は滅びる。
 私は好きなことだけやって生きて、そして、死ぬ。
 買い物に出て、晩ごはんの材料と、ハイライトをふたつ買って、マーフィがいないマーフィの部屋に戻って、原稿に向かう。彼の没になったコントを読んで、煙草に火をつけてみた。はじめての煙草は喉に絡んで、咽た。思わずこぼれた涙が、不安を連れてくる。大学を出るのはまだ二年以上先。でも、そのあとはどうするんだろう。
 日が落ちる頃、わくわくしながら異常気象のニュースを見る。世界はどんどん綻びていく。あるところでは寒冷化が進み、あるところでは地盤が崩落して、私の二年後の暗闇に歩調を合わせるように、世界は滅びていく。
 そうだ、滅びろ。みんな苦しめばいい。泣けばいい。
 なのにその一方で、生の不安は収まらない。万が一生き延びたとき、私はどうすればいいんだろう。世界は滅びる。その終焉を見守るって覚悟を決めたのに、なぜなんだ。何にも起きなれなければ、自分だけ死ねばいいだけじゃないか。だけどそう考えると涙が溢れて来る。
 自分だけ死ぬのは嫌だ。それじゃ負け犬のようだ。みんな死ねばいいんだ。みんなで死ぬんだ。でも妹には死んでほしくない。妹と――いるかどうかわからないけど――その彼だけは助かって、新しい時代のアダムとイブになってほしいなんてことも妄想した。だけどそれもその後の苦労のことを思うと悲しみに変わる。みんな滅んでしまえば悲しみもないのに、だれかが生き延びると考えると、その生活を想像して泣いてしまう。人生ってのは、本質的に悲しみなのかもしれない。
 滅びろよ、さっさと。世界。
 滅びるって決まってからが長いよ。世界。
 結局、ネタなんか出なかった。
 それでも、この仕事だけはものにしたかったから、私はうっかり自分のことを書いてしまった。それをラジオで、自分の口で話すなんて思ってもみないで。

「その隣のベッドの子も小児麻痺だったの?」
「うん。それはそう。お母さんにも聞いた」

 やっと克服した幼い日の傷を、思い出したくはなかった。
 いや、克服なんかしてない。やっと忘れたんだ。それなのに。

「でももう、メルクルさんの障害はほとんどわかりませんよね?」
「ええ、でも、まっすぐ立つと肩の高さが違うし、足の太さも違うんですよ、左右で」
「そうなんですか?」

 小学校の低学年の頃、松葉杖が手放せなかった。
 四年生から松葉杖なしでも歩けるようになったけど、運動はダメで、歩くときもびっこをひいていた。男子からはいじめられた。いじめがひどくなると、女子も距離をおくようになった。
 小学校を卒業して、となりの校区の中学へ通って、高校も県外の高校へ通って、東京の大学に入った頃に障害も目立たなくなり、ようやく過去を断ち切れた。つい二年前の話だ。今も水着は着れないし、夏になっても長袖。スカートもロングしか穿かない。モデルのオーディションなんか糞食らえだし、走ること、ひとと並んで立つことにすら恐怖を感じる。克服なんかしてない。ラジオで話したら、またクラスの連中が嘲笑を浴びせてくる。克服なんかできるわけがない。だけど――メルクルだから。私は岬沙也加じゃない。投稿家のメルクルだから。そう言い聞かせて必至にマイクの前に留まるけど、それでもどんないじめを受けたかは話せなかった。

「まあ、いろいろありましたよ」
「いろいろって、たとえばどんな?」
「まあ、いろいろ」

 限界だった。
 昔の自分のことを思い出すと死にたくなる。
 でも今は違う。死ぬのは私じゃない。みんな死ぬんだ。人類滅亡の日がわかるなら、その前日に私が殺しに行きたい。あの日、まぼろし探偵の替え歌で私を揶揄したクラスの連中全員、死ねばいい。
 ――後半は、何を喋ったか覚えていない。
 収録が終わるとディレクターが声をかけてくれた。
 顔色が悪いけど大丈夫? タクシー呼ぼうか?
 その声は聞こえていたけど、頭のなかで意味を拾えなかった。
 それからどうやってタクシーを拾って、どうやって乗ったか、頭が真っ白になって何も覚えていない。部屋に戻ると、雅文はトランクスにランニング姿で《スターむりむりショー》を見ていた。
 背中から抱きついてながめたテレビのなかの由美かおるは綺麗だった。でも彼女だって私のクラスにいたら、あの歌を歌っていた。だれの顔を見てもそう思う。世界中のだれもが、私のクラスにいただれかの顔に似ている。この笑顔は、本当は私のことを笑っているんだ。このひとたちは、みんな。
「どうだった? 収録」
「うん。楽しかった」
 親しくなれば心を開くなんてのも嘘だ。
「良かった」
 汗に浮いたメイクの上を涙が流れる。
「自分を切り売りしてたら、身がもたないよ」
 彼の背中が、私の心臓に声を伝わせる。
 それでも私は傷ついてるだなんて、悟られたくなかった。
 傷つかないよ。プロなんだから。
「煙草ちょうだい」
 彼は咥えていた煙草をつまんで、肩越しに私の口元に差し出してくれた。
 煙草を好きになったきっかけ。これもいつか話すことになるのかな。

 放送の三日後、菰田さんからの電話。
 ラジオ局に《私が探していた子》から電話がかかってきた、と。
 ある程度は予期していたことだった。
「松本ディレクターが、《再会編》を録ってもいいって言ってるんだけど、どうする?」
 私が探していた子。会いたい気持ちと、忘れたい気持ちは半々だった。
 名前も知らない彼は、私と同じ苦労をしてきたかもしれないし、そんなこと何も気にせずに乗り越えてきたかもしれない。会えばいろんなことを思い出す。
「このまえの収録、大変だったんでしょう? 松本さんも無理はしなくていいって言ってたし、断るなら断ってもいいのよ」
 でも、それでも私は顔をつなぎたかった。
 この腐って果てていく世界の中で、今日、明日生きていられるのは、いつか私が書いたコメディがだれかに届くと信じているからなんだ。いつかバカみたいに視聴率を取って、ざまぁ見ろって言うんだ。
 私はせいいっぱい明るい声を作って、
「もちろんやりますよ」
 そう応えて、受話器を置いた。

 事前の打ち合わせは、帝国ホテル。
 その日のために、三着目のよそ行きの服を買った。
 ロビーでの待ち合わせ。
 そこに現れたのは、背が低く、杖をついた、顔もすこし歪んだ青髭面の男だった。
 落胆した。
 彼は柄物のジャケットを羽織って、足元は運動靴。ネクタイは曲がって、ショルダーバッグを斜め掛けにしている。外見だけで何かを判断できるわけはないのだけど、彼がこの外見のせいでいじめられ、卑屈になり、いまも世間と折り合いをつけられずにいることは容易に想像できた。
 男は、松本ディレクターの「お待ちしていました」の言葉に、頭を下げた。
くすのきです。楠浩二こうじ。沙也加さんと同じ昭和27年生まれ、22歳になります」
 少し枯れた声が裏返る。
 私の胸の中には嫌悪感が広がる。
 こいつもきっとクラスではいじめられていたんだ。
 今もきっとそう。みんなから嫌われて性格も歪んだまま、私のことを同類だと思って連絡を取ってきたんだ。私と傷を舐め合うつもりで。だけど残念ながら私はもう、次のステージにいる。あなたはもう、私の過去なんだ。単なる取材対象だよ。――彼は杖を置いて腰を下ろして、メニューを読んで、バナナジュースを頼んだ。
 コーヒーだろ、ここは。メニューさえ見ないでしょう、普通は。非常識な。
 彼の行動は癇に障ったし、私のせいでこんな素人と会わせてしまったことを、申し訳なく思った。
《再会編》の収録は来週の今日。楠浩二への取材はもうひととおり終えていて、収録台本も上がっていた。簡単な挨拶を終えて、収録の話へ移る。
「冒頭の『季節の挨拶』はまあ、『秋らしいこと、しましたか?』とか振るんで、読書の秋でしたーとか、食べてばっかりでしたーとか、適当に応えてもらったら、あとは小池くんのほうで拾ってもらいます」
 小池くんというのは番組のパーソナリティ。若いけどずいぶんこなれた感じのひとだった。楠浩二は台本の文字を追う。
「番組のなかで初対面という体で行きますんで、ここで楠さんが登場します」
 説明を聞きながら、遅れて「ああ、はい、わかりました」と口にして頷く。
 私は、ラジオの台本がこういうものだとは知っていたけど。ただ――
「感極まる沙也加」
 その文字の上に指を置いて、松本さんの顔を覗いてみた。
「そうそう、なんかこう、ハァ~みたいな、息を飲む感じでお願いできたらなぁ、って」
 感極まる、か……。うんざりしていると、
「そういうことまで台本で決まってるんですね」
 楠浩二が言葉を差し込んだ。
「決まってるというか、ガイドみたいなもので、無視するひとも多いですよ。打ち合わせでは、ああハイハイとか言いながら、本番ではめちゃくちゃなこと喋るひととか」
 早口で喋る松本さんに合わせて、この会話の流れなら、と
「あー、じゃあ、私も無視しちゃおうかな」
 と、口にしたけど、松本さんの言葉がすこし途切れた。数秒の間。
「あー、それもいいねー、小池くんを困らせてやってよ。けっこうハプニング好きなんだよ、リスナーって」
 冗談めかして返してくるけど、声のトーンは変わっていた。
 松本さんの胸の中の不穏な感覚が伝わってくる。何かやらかしたかもしれない。そう思って、あらためて視界の隅に楠浩二を捉えてみると、彼は恐縮して小さくなって、愛想笑いも消えた顔にストローを刺して、場の空気に戸惑っていた。
 そこにあったのは、いじめられ、傷つけられ、自信をなくした男の無様な姿だ。こんな男に会ったところで、感激なんかしない。本音を言えば、「がっかり」だ。彼の姿は、私が断ち切った過去だ。だけど――
「あ、でも、感激しましたよ。十五年ぶりに会えて。うれしかったです」
 咄嗟に繕ったその言葉で、彼の醜い顔は綻んだ。
 そして、改めて思った。
 私は彼よりも一歩先にいる。だから、いいんだ。このままで。私はこのままテレビやラジオのなかの、嘘の笑いができるひとになる。
 台本のページをパラパラとめくって、読み合わせが『お互いの過去を語る。お互いに相手の歩んできた軌跡を知り、言葉を交わす』の部分にさしかかると、松本さんは改めて、「ここ、大丈夫?」と気遣ってくれた。
 大丈夫。私は大丈夫。
「ええ、作家志望ですから。いざとなったら私の物語をその場で作っちゃいます」
 収録までの一週間。自分の部屋には戻らず、雅文の部屋に入り浸った。私の異様な雰囲気を気遣ってか、雅文もツーリングへは出かけず、ずっとその肌を貸してくれた。

「いやあ、最近はもう、すっかり秋めいてきまして、秋といえば食欲の秋だったり、読書の秋だったりしますが、メルクルさんにとっては、どんな秋ですか、今年の秋は」
「あー、なんていうか、呆れ果てたの『あき』ですかね」
「呆れ果てたの秋!」
「秋晴れ! って感じですかね」
「呆れ果てたというと……具体的に、何に呆れました?」
「会いたいひとがいるーってラジオで言っただけなのに、見つかっちゃったー、とか」
「いや、呆れちゃダメでしょう」

 無茶な受け答えをしても、小池さんはうまくまとめる。私が何か仕掛けても転んだりはしない。むしろ私の方が転びそうになる。芸能界の端にいる若いアナウンサーすら、私の想像を超えた即応性を持っている。そういう世界なんだ、ここは。
 台本をめくって、序盤は前回のおさらい。小学校に上がりたての頃、小児麻痺で入院して、同じ病室に同じくらいの歳の子が入院していたという話から。
「――それで、放送の直後に電話が来まして」
「直後に!?
 注文通りに驚いてみせて、
「病院名とか、入院時期とか聞いて、これがもう、どんぴしゃり」
「ドン・ガバチョ!」
 アドリブも入れてみる。
「いや、ひょっこりひょうたん島じゃなくて」
 このあと、どのくらいのテンションで驚けばいいんだろう。ちゃんと驚けるんだろうか。そんなことを考えながらプログラムは進行して行ったけど、私は自分で思っていたよりは演技がうまかった。
 そして彼、楠浩二の登場。
「ハァ~」
 事前に言われていたように、大げさに息を飲んで驚いてみせた。
「どうですか? 覚えている彼ですか?」
 顔なんか、ろくに見てもいなかったんだけど。
「ええ、面影があります。そうでした。こういう目で、ずっと本を読んでました」
 楠浩二は、私のテンションに戸惑っていた。
 でも私はあなたとは違う。ちゃんとラジオ用の顔ができる。声を出せる。
 ふたりの間に一本の線を引いてみせると、小池さんが楠浩二のプロフィールを語り始める。出身地、生い立ち、小学生時代から、中学、高校を経て……
「――それでいまは、デザイン学校で?」
「ええ、絵本作家になろうと思って、デザインの勉強を……」
「絵本!?
 そこは私も本気で驚いた。
 小さい頃の苦労をひとに伝えたいと思ったのがきっかけで、自分と同じような苦労をしてきたひとを何人も見てきたから、そのひとたちに。それに、入院中に一番勇気づけてくれたのが絵本だったから、と彼は話した。
「メルクルさんもたしか、作家さん志望でしたよね?」
 私も……。私もそう。だけど、私に何を語れるだろう。
「あ、いや、私は作家じゃなくて、世界征服」
「世界征服? ひょっこりひょうたん島で?」
 小池さんはどんな突拍子のない話でも拾ってくれる。私はといえば、そんな話でごまかしていないと、胸の中の寄るべからずの暗がりに落ちそうな気がしていた。
 そして小池さんが、例の話を振り出す。
「退院後は、それぞれどんな感じで過ごされていたんですか?」
 その問いに、楠浩二が「ああ、」と口を開きかけて、遅れて「それじゃあ、楠さんから」と小池さんが促す。私は胸のなかで、用意してきた私の物語を復唱する。無難にまとめた苦労話でお茶を濁して、こんな話はもう忘れてしまう。
「ええっと……」
 楠浩二が口を開く。
「僕は後遺症で足に障害が出て、松葉杖が手放せなくなって、いまもそうなんですけど……でもおかげで友だちが増えて、それはそれで良かったと思っているんです」
 思考が止まる。
「ほう! 友だちが!?
 小池さんがラジオ用の声で驚く。私の心臓は素の動揺を隠せない。そんなこと、あるわけがない。楠浩二の声が、胸のなかの物語を揺さぶる。
「幼い頃に団地住まいで、両親が団地の子の親と付き合いが深くて、みんな僕のことを気にかけてくれたんです。階段では手を貸してくれたし、帰りもみんないっしょに」
 頭のなかが真っ白になっていくのを感じた。
 嘘だ。ありえない。
 いくら否定しても胸の中のざわめきが消えない。
 彼はいじめられてなんかいなかった。家庭も裕福でエリートだった。高校も進学校じゃないか。彼が言う『デザインの専門学校』も学校名は出さなかったけど、見当はついた。私からしたらエリート中のエリートが行く学校だ。彼の話はもう半分以上が私の耳まで届かない。
「……さん?」
 小池さんの声が私の方を向いている。
「メルクルさん?」
「あ、はい」
「いまのお話を聞いて、いかがですか?」
 動悸が止まらない。私はただ必至に涙をこらえている。ひとこと絞り出そうとする言葉が、ひっくと息を飲むような音になる。呼吸が止まる。吐けばいいのか、吸えばいいのか、言葉を……私の物語を……そう思っても何も喉に上がらない。小池さんが戸惑っている。あのこなれた小池さんを、私は困らせている。助けて。まずい。涙が流れた。
「ひょっこりひょうたん島、見てました、僕も」
 楠浩二が、とっさに口を開いた。
「いいですねえ。僕も見てましたよ、ちっちゃい頃ですけど。メルクルさんも見てました?」
 小池さんもそれを拾って繋いでくる。でも私はダメ。
「ええっと、ちょっといまメルクルさんがパニックになったみたいで……」
 マイクの向こうの読者に案内しながら、スタッフにしきりに指示を出している。止める? 止めない? 曲を流そうか? いや、それは待って。
 楠浩二も焦りながら言葉を探している。
「あの、ごめんなさい。僕いま、いいことばっかり話しました。本当はそうじゃないです。だから沙也……メルクルさんの気持ちもわかるんです」
「そうなんですか?」
 小池さんはスタッフにサインを出して、楠浩二に続きを促す。
「辛いこともいっぱいありましたよ。でもそれはまだ話せなくて。でもそれはいつか、絵本作家になったときに書こうかなぁ、書けたらいいなぁって」
 もうダメだ。私はダメだ。ここでもし「じゃあ、メルクルさんもそういう気持ちで作家に?」なんて聞かれたら心臓が止まる。私はただのバカだ。世間を切り刻んでやりたいだけのクズだ。何やってもダメだし、つまらない優越に浸ってひとのことを見くびる最低の人間だ。逃げ出したい、こんな場所から。世界なんかなくなれ。いや、なくなるのは世界じゃない。私なんかもういなくなれ。涙腺が決壊する。顔を覆った両手の隙間から、どんどん涙が溢れてくる。
「あ、あの、曲をリクエストしてもいいですか!?
 楠浩二の声が聞こえる。
「きょ、曲を!? あ、はい、どんな曲でしょう?」
「こんな秋にどんぴしゃりの曲」
「おおっ!? どんぴしゃりの!?
「ドン・ガバチョの未来を信ずる歌」
「あー、ええっと、それってレコードになってます?」
「それじゃあ歌います! 手拍子お願いします!」
 そう言うと楠浩二は手拍子を打ち、《ドン・ガバチョの未来を信ずる歌》を歌い始めた。

4 古澤幹夫

「ちゃんと卒業できたら、正社員で雇うよ?」
 雅文がろくに働かないのが申し訳なくて、私はよくワイルドダックの手伝いに入っていた。その実質的な社長、菰田さんに正社員に誘われて、ここにいればコネも広がると思って、少し出遅れたけど綿密な単位計画を練り始めた。
 ワイルドダックはカメラクルーを中心とした会社で、ほかにも菰田さんの伝で企画やマネージメントなども引き受けていた。マーフィの名前を頼って来る仕事も少なくなかった。雅文の手に余る仕事はフリーのライターに回し、憧れの仕事は卒論に集中しなければいけない私の頭上を超えていった。でもいまは大丈夫。このままでいい。私は、卒業後のことを考えて、免許を取った。現場へもたびたび駆り出され、簀巻座という謎の舞踏集団の撮影ではレフ板を持った。
 私はほとんど自分の部屋へは帰らず、雅文の部屋に寝泊まりするようになった。雅文は夜遅くまでバーや居酒屋で飲んだ。仕事も学業も充実はしていたけど、慰めて欲しいときに慰めてくれるひとはいなかった。
 楠浩二とはその後何度か会って、クリスマスの少し前に告白され、オーロラが美しく舞うイブの夜は、彼と過ごした。
 クリスマスの日、部屋に帰ると一人でケーキを食べ尽くした雅文がいた。無精者の雅文がクリスマスの飾り付けをして、私の帰りを待っていた。いままであんまり愛されていた感覚はなかったけど、裏切ってみて初めて、もしかしたら彼も私のこと思ってくれてたのかもしれないと思った。
 心から申し訳ないと思った。だからこそ、このまま関係を続けるわけにもいかない。その場で別れようと切り出したけど、
「沙也加は俺の弟子だよ。別れるとかそういう関係じゃない」
 と言って、腕をたぐり寄せられた。
 ――弟子だったらいいか。
 煙草の臭いの吐息に咽て、快楽に身を任せながら、今度は浩二になんて説明しようかと考えて、考えて、大海を泳ぎながらの思考はまとまるはずもなく、次の日、浩二に別れ話を切り出して、私って本当にクズだなって思った。
「やっぱり、雅文とは別れられないから」って。
 浩二は雅文のような強引さはなく、喫茶店でお茶を飲みながら、じゃあ仕方ないね、自暴自棄にならないでね、って言われて別れたけど、一週間後くらいかな。雅文がいない夜、寂しくなって電話を掛けた。
 まあ、本当に私ってクズだなって思う一方で、高校時代の自信のない私ってなんだろうって思った。モテるとかモテないとかはあんまり意識しないほうだったし、気にしないようにはしてたんだけど、そういうのは関係なくって、「ボーリングに行こうよ!」というのと大差ない感覚で関係って結べちゃうものなんだなって。でも、私が変わったってわけでもない。自信がないから人にすがるんだと思う。《あの人に会いたい》の案を考えていた頃の私が見たらどう思うだろう。
 ――もう自分で飛ぶことは諦めたの?
 そう自問しながらも、それからよくいろんな子とボーリングに行くようになった。それが当たり前になると、自分がクズだなんて感覚もなくなっていった。だから正直に言うと、古澤幹夫と会ったときだって、最初に思ったのは、「どうやってこの子を落とそう」だった。
 簀巻座のプリマ、中江亜実とはよく飲み明かした。
「ダメなんだよ私、だれかいないと」
 このときやっと、親しくなると本音って出るものなんだな、と思った。
「わかるけどさ。マーフィをダメにしてるのあんただって言われてんだよ?」
 酒の力も大きい。
「知ってるー。菰田さんも言ってたー」
 でも、私ごときでダメになるんだったら、最初からそれだけのものでしかなかったんだと思う。マーフィ富樫がダメになったら、メルクル沙也加があとを継げばいい。
 その亜実から、千駄ヶ谷で定期的に怪しいパーティを開いているひとがいると紹介され、身ひとつで乗り込んでコネを広げた。煙草とは違う煙の臭いも覚えたし、大人のお薬も口にした。
 単位はすこし足りてないのに。学業に専念するなんてこともできなかった。この頃はもう作家になるための活動より、ワイルドダックの一員として飛び回ることが楽しかった。深夜番組にスタッフを派遣し、雅文の台本をチェックして、スタジオを押さえ、機材を保守した。
 そんななかで知り合った古澤幹夫はアマチュアバンド、マルコフ・チェインズのギター弾き。飄々としたポーカーフェイスで、超絶なテクニックを見せた。
 マルコフ・チェインズの音はガチャガチャして聞くに耐えなかった。方向性もパンクだかヘヴィメタルだかわからない、ヴォーカルにも色気のない、要は取るに足りないバンドだった。そのなかで幹夫だけ、ルックスが良かった。いや、ルックスはともかく、マルコフ・チェインズの味は、彼の縦横無尽な演奏によるものが大きい。音楽性も哲学生もなにも感じさせないバンドのなかで繰り出される幹夫の厭らしい指使いは、音楽というよりはかくし芸だった。
 でもこの芸があればこそ、彼らを深夜番組のコーナーに押し込むことができた。彼は左手のハンマリングだけで器用に音を出して、高速でアルペジオを奏でた。
 念のため菰田さんに
「うちでマネージメントしても良いですよね」
 と確認すると、
「まあ、手始めの実験台としてなら」
 という返答が帰ってきた。
 彼らにはまだ、バンドとしてのアイデンティティはなく、ただ時々集まって演奏しているグループに過ぎなかった。いまなら古澤幹夫ひとりを引き抜いても、遺恨は残さずに済む。
 新宿のバーで、彼に話した。
「あなただけだったら、うちでデビューさせられる。でもほかは無理。それでもバンドでやりたい?」
 すこし身を乗り出す幹夫を見て、雅文の部屋に転がり込んだときのことを思い出した。
 私はだれかに認められたくて、デビューしたくて、それで雅文にすがったんだ。肉欲はあった。だれかに認められたかったし、男性に興味もあった。もちろん、不安や恐怖感も。だけど恋愛感情なんてなかった。肉欲と、出世欲と、承認欲と、性的な興味と、ライバル心と、胸のなかで混ぜ合わせたら、いつの間にか恋愛感情になっていた。
 私の胸の底の肉塊は、幹夫のことも同じだと思っている。またひとを見くびっているのだと思う。デビューをちらつかせたら、彼はなびく。私にすがる。私は認められて、それで私は満たされる。
「沙也加さんは、僕のギターをどう思いました?」
 幹夫は燦光に煌めく瞳を私に向ける。だけどこの場合、おだてれば良いのか、正直に足りてない部分を話せば良いのか。その温度感はまだつかめていないけど、おだてるのは苦手だ。
「宴会芸だと思う。まだ色がない」
「色?」
「味がしない。喜びも、苦しみも、悲しみも、何もない。それじゃダメだよ」
 思ったことをストレートに口にしてしまうのは学生の頃から。ずっとそうだった。何も考えずに合いの手だけ入れれば済むような話にも、つい真面目に答えて、よく話の腰を折った。
「それでもデビューできるんですか?」
「宴会芸でいいんだよ。テレビに出るのは。本物はもっと別のところを目指す。だから本物を目指すんだったら、テレビなんか選んだらダメ。そうなったら、あなたの音楽はいつまでも見つからない」
 それから、どんなバンドが好きか、何を聞いて育ってきたか、しばらく話した。
 まだ二十歳になったばかりの彼は、水割りに少しだけ口をつけて、オレンジジュースを頼んだ。
「スクリュードライバーで」
 バーテンに声をかけて、
「ちょっとウォッカ入るけど、いいよね?」
 幹夫に確認を取ると、
「ええ、ちょっとだったら」
 と、おずおずと答えた。
 幹夫は音楽を語る。好きなバンド、好きなジャンル、好きなライブハウス。だけどたった三年長く生きただけ私の経験が、彼を遥かに上回った。もちろんそんなものも、三つ上の先輩には遥か及ばないのだけど。
「ロックを聴くようになったのって、何がきっかけですか?」
「ラジオが好きだったから。幹夫は?」
「同じです。中学に入ったときラジオを買ってもらって、それでずっと」
「どんなギタリストが好き? クラプトン? ジミヘン?」
「ああ、どっちも好きです。でもいちばんはリッチー・ブラックモアかな」
「ディープ・パープルの?」
「そうです。あと、エース・フレイリー。キッスの。なんか、自分といちばん似てる気がする」
「ほう! 音からわかるの?」
「ええ、なんとなく」
 他にもいくつかバンド名が挙がったけど、概ねハードロック・ヘヴィメタル系。私の趣味とはすこし傾向が違った。
「岬さんはどんな音楽が好きなんですか?」
「サムラ・ママス・マンナってわかる?」
 幹夫は首をひねる。
「そこから、ソフト・マシーンに行って、サード・イアー・バンド」
「イギリス系ですか?」
 このあたりのマニアックな話が通じる相手はそんなにはいないし、彼もあまり興味は示さなかった。
「そう。あとはデヴィッド・ボウイかな。わかりやすいところでいうと」
 プログレ中心に聞いていた私のなかで、ボウイだけは特別だった。当たりまえ過ぎて、あまり口にはしなかったけど、《屈折する星屑の上昇と下降、そして火星から来た蜘蛛の群》は、私の好きなアルバムの五指に入った。
 深夜二時を過ぎた頃、店を出てタクシーを止めた。
 彼の部屋は善福寺。タクシー代を心配するので、
「じゃあ、うちにおいでよ、代田だから」
 そう聞いて「えっ?」と、言葉を詰まらせる、そのリアクションにときめいた。
 タクシーの後ろの席で、「彼女がいたらごめんね」と、最初の段階を超えた。
 二週間ぶりに戻った自分の部屋からは、私の知らない私の臭いがした。

「興味があったら電話をちょうだい」
 名刺を渡して別れて、幹夫からのアクションを待った。
 数日後、「バンドの曲じゃなくて、僕の曲を聞いてください」と電話がかかってきた。
 渋谷で待ち合わせて、行きつけの喫茶店へと向かう。幹夫は人混みを躱して歩く私を、子犬のように追いかける。
「マルコフ・チェインズってどういう意味なの?」
「マルコフ連鎖っていう言葉があって、そのことですけど、知りませんか?」
「知らない。幹夫くんって頭いいの?」
「どうだろう。知識は狭いけど、それなりには」
 彼が東工大に通っているということは、あとで知った。
 ライオンという喫茶店で彼のテープを聞いた。彼のヴォーカルは頼りなかったけれど、次々と現れる色とりどりのフレーズには心躍った。それになによりも、歌詞が良かった。宇宙的で、神秘性があって、哲学も感じた。ロック界を見渡すと、ジギー・スターダストだ、ドアーズだ、と何かしら宇宙づいている。彼が好きだと言ったエース・フレイリーにしても設定としてはジェンダル星から来たことになっている。それと同じ匂いを感じさせながら、その奥には日本語歌詞がもたらす情緒があった。
「この歌詞は幹夫が書いたの?」
「あ、それはマルコフ連鎖による自動生成」
「自動生成?」
 幹夫は大学のコンピューターを使って、稲垣足穂の小説から歌詞を自動生成したんだと語った。足穂の《ヰタ・マキニカリス》のデータを入力して、それをランダムに結合させて歌詞にしたのだ、と。
「でも、ランダムって。それで歌詞になるの?」
「プログラムを作って走らせると、コンピューターはずっと吐き出し続けるんですよ。自分でもわかってない文章を延々と。その中から意味のある部分を探すんです」
「足穂を選んだのはどうして?」
「先輩が入力したデータがあったんで。あと、宮沢賢治と、梶井基次郎と、安部公房と……ぜんぶ違う印象の文章になるんですよ」
 そういえば、デヴィッド・ボウイも同じような手法で歌詞を書いたと聞いたことがある。それでもランダムはランダムだろうと訊ねると、幹夫は言った。
「人間もランダムな作用で生まれたんですよ。だから小説を切り刻んで、ランダムに紡ぎ直したら、そこから人間が生まれてくるかもしれないじゃないですか。僕はただ、探すんですよ。言葉から生み出された、次の時代の人間を」
 なるほど、と思った。確かに、ランダムに吐き出されただけにしては、幹夫の歌詞はまとまりがあった。
「たとえば『宇宙はオレンジの海の骸』って、コンピューターは意味を知らないんですよ。僕が見て、はじめてその意味がわかって、僕の中にもはじめてその映像が浮かんで、それが音になる。そこに生まれるのは違う宇宙なんです」

 それからすぐ、菰田さんがワイルドダックをやめて、実家へと帰った。
 富樫雅文との間のトラブルだと、噂話で聞いた。男と女の関係があったとか、なかったとか。ひとの噂なんて嘘か本当かわからないし、気にしたってしょうがない。仮に雅文が菰田さんと何かあったとしても、私だって浩二と二股をかけているし、幹夫とも定期的に会って、お互いの欲求を満たしている。それに、菰田さんが実家に帰ったってことは、別れたってことでしょう?
 そうは思ったけど、
「菰田さんと何かあったの?」
 と訊ねて、帰ってきた言葉は、
「おまえだっていろいろやってるだろう」
 だった。
 悔しかった。悔しがる権利もないけど、悔しいものは悔しい。
「私がどうだろうが、関係ないじゃない!」
 ついかっとなって、声を上げた。
「菰田さんがいなくなって、会社がバラバラになったらどうするつもりなの!? 正社員だけで20人いるのよ!? みんな露頭に迷えばいいっていうの!? 雅文が社長をやってくれるの!?
 と、言ってもしょうがないことを言って、
「うるさいよ! おまえにとって、俺ってなんなんだよ!?
 と、言われてもしょうがない言葉が返ってきた。
「じゃあ、私はなんなの?」
 なんだこの会話。
 冷静に考えるまでもなく議論にも何もなってないとわかっていながら止められない。雅文の口から出てくるのも似たような言葉。議論になりようもないから、ほかの言葉をぶつけるしかない。その日はむしゃくしゃして、幹夫に電話を掛けて、幹夫はつかまらず、浩二の部屋に駆け込んで酒を煽った。
「大丈夫? 何かあったら力になるから、ヤケを起こさないでね」
 そう言ってくれる浩二に、
「私、雅文とは別れるかもしれない」
 と口走った。
 でもそれも口先だけ。ワイルドダックは富樫抜きでは回らなかったし、仕事の話をつないでいるうちに、「またやり直そう」という話になって、断りきれずに殺風景な彼の部屋に戻った。またふたりでパズルのピースを合わせる。私が上になると、テレビの上のポンパ鳥と目が合う。電源をポンと入れると、すぐに画面がパッとつく。それだけの部屋に、私は戻ってきた。

 菰田さんがいなくなってから、ワイルドダックの事務方の舵取りは私がすることになった。正社員になって一年が過ぎた頃。たしかに雅文は、作家さんとして使うのは悪くなかった。
 幹夫は何かと理由をつけて私の部屋に来るようになった。
 連絡もなしに来るものだから、約束がある日は幹夫をひとり部屋に置いてでかけて、そのまま朝まで飲んでいることもあった。
 亜実とふたり、三鷹にできたロイヤルホストでビールを煽りながら、幹夫のデモテープを聴かせると、亜実もその歌詞には魅了された。
「幹夫のことが一番好き」
 そういうと亜実は、
「ほかのふたりとはどうするの? 別れるの?」
 と訊ね返す。
「幹夫を幸せにしてやれる自信がない」
 というか、正直にいうと一対一のつきあいが怖い。ひとりを失えばすべてを失う。そこから引き返そうと思ってももう戻れないわけでしょう?
「いや、でも、いまの三股が彼にとって幸せなはずだってないんだから」
「それはそうなんだけど」
 自信がないのは事実なんだよ。一対一でちゃんと愛し合える自信が。雅文とも浩二とも、そんなに真剣な付き合いじゃない。別れようって言われたら、ケッとか言って、捨て台詞でも吐いて部屋を出ればそれでいい。でも、幹夫は違うんだよ。なんでこんなに夢中なのか、自分でもわからない。
「男って、どう思うと思う?」
「どう? どうというと?」
「三股かけてる尻軽女から、『ほかのふたりとは別れるから、ちゃんとお付き合いしましょう』って言われたら」
「それ、実質プロポーズだよね?」
「いや、プロポーズまでは行かないんだけど」
「行かなくないよ。プロポーズだよ、それは」
 亜実はおどけて笑ってみせる。
「沙也加は結婚に憧れてるんだよ」
「そうかなぁ」
「しかも沙也加のなかにあるのは、彼の煙草を買って帰って、晩ごはんの準備して待ってるような、昭和のお母さん像。古風な子なんだよ、本当は」
「違うよ、それは。ぜったい」
 でも、仮にそうであったとしても、そうやって育ってきたんだ。しょうがないよ。あるいは、だからこそ逃げ出したいっていうか。
 それで亜実のアドバイスに従って、少しづつほかのふたりとは距離を置いて、精算して、――『自分はもうクリーンだ、昔の私はいろいろあったけどいまは違う』と言えるようになってから、ちゃんと告白する――という路線で行こうと決めた。
 部屋に帰ると幹夫がいる。
 冷めたカレーを食べて、シンクに皿を戻して、テレビを見てる。
 うちのテレビは14型のモノクロ。画面が出るまで30秒はかかる。彼は振り返り、「おかえり」って、テノールの声が私を蕩かす。いつか告白するんだと決めたせいか、急にその存在が大きくなった。昨日まで感じなかったときめき。それを隠したくて、そっけなく振る舞って、
「お留守番ご苦労さま。いい子にしてた?」
 そう声をかけると、私の体をその腕に絡め取る。
 息を切らせた天井の向こうに星空を見たあと、彼を駅まで送って、亜実に電話して、「この調子で行ってみる」とは言ったものの、その一週間後には浩二の部屋にいた。
 少しづつでいい、急に「幹夫だけだよ」なんて言ったら、向こうも戸惑うから、なんて思いながら、三股の関係はそれからも続いて、二月ふたつき三月みつきもすればそれも普通になる。
「幹夫のことがいちばん好きだよ」
 枕元に見下ろして囁いてみると、胸に置いた手のひらに声帯の振動が伝わる。
「うん。知ってる」
「本当に?」
 私は息を切らして、ひとりで揺れるレスポール。
「本当だよ」
「ほかの男には言ってないんだよ? わかってる?」
「わかってる」

 翌日、事務所に行くと、実家の母から電話が来た。
 その電話で、メルクルの死を知った。

5 ディレッタント

 浩二とふたり、絵本のサンプルを持って出版社に出向いた。
 編集のひとは彼の絵を見て、「ステキですね」「癒やされますね」と言ってくれるけど、それじゃあ出版できますか? という話になると色良い返事は返してこない。
「編集長とも相談しておきます」
 なんどその言葉を聞いたかわからない。それでも食い下がると、
「これだけ作れるんだったら、ご自身で出版されるのもありだと思いますよ」
 などと言われる。自分で出版すればいいんだったら、こんなとこには来ない。
「どんな企画の持ち込みですか?」
「弊社の出版物をお読みになりましたか?」
 いえ、今回は準備不足で、ええ、ごもっともです、小さく消え入りそうに相槌を打って、
「ワイルドダックさんは、どういう立場で絡んで来られるんですか?」
 そう言われて、まあたしかに、ワイルドダックが絡むのは変だと思った。これじゃあ障害者を食い物にしようとしてる怪しい芸能プロダクションだ。私は運転手だけやって、編集部には顔を出さないほうがいいかもしれない。
 浩二の青髭面の顔が鼻水を垂らす。音のするような強いまばたきをしながら、どもった声で、「今日はどうもありがとうございました」と握手の手を差し出すけれど、編集のひとはその手に気づかないふりをした。どこの編集部の反応も似たようなものだった。露骨に嫌な顔をするひともいる。私がそうだったように。
 出版社の玄関を出ると浩二は、ごめん、本当にごめんと、涙を流して謝るけど、謝らなきゃいけないようなことは何もしてないよ、浩二は。
 泣きながらとぼとぼと歩いた外堀通り。車の音にかき消されながら、《ドン・ガバチョの未来を信ずる歌》を大声で歌った。

 事務所に戻ると、ヤクザものが応接に居座っていた。
 社長を出せと言っているらしいが、マーフィとは連絡がつかず。
 仕方なく私が事情を聞いてみると、簀巻座の借金が焦げ付いているので建て替えろ、という話だった。法的にはどんな義務が? とは頭を過ぎったが、そんな話が通じる相手でもなさそうだ。
「いや、でも、いまは社長がいないので、詳しいことは……」
「じゃあ、なんで俺に説明させた!? あんたが判断してくれるんじゃないのか?」
 すでに表には警察が駆けつけているが、手をこまねいて中には入ってこない。
「あんたが判断して決済するって、念書を入れてくれ。そうしたら帰る」
 私が戸惑っていると、
「警察に来てもらってるんですよ!」
 とスタッフが割り込んでくれる。するとその言葉を待っていたかのように、
「民事に警察が介入するのかよ!」
 ヤクザものは表に聞こえるように声を上げる。
 ――しょうがない。
 ドン・ガバチョ大統領には悪いけど、この世界に明日なんかない。
 その場をスタッフに変わってもらって、給湯室に行って、包丁を持って、その手が隠れるようにタオルを巻いた。応接に戻ると、私の手元を見てスタッフが青ざめる。ダメだよ、そんな顔したら。バレちゃうから。
「ああ、あんたか、良かった。この女じゃ話にならねぇ。念書書いてくれ、念書」
 私の足が、ヤクザものに向かうまでの刹那。事務所は水を打ったように静かだった。時が止まっているよう、って文章では書いたことあるけど、こういうことを言うんだ。私は笑顔を絶やさず、胸の中には不思議な高揚感がある。男がちらと私の手を見る。まくし立てていた言葉が途切れ、私の顔を伺う。
 バレたかもしれない。
 それでつい焦って、包丁で刺すときに「死ね!」と言ってしまった。
 刃先は男の腹筋に触れるが、男が体をよじらせるとその先端はシャツを裂いて、体の外にこぼれる。切先は赤い。威勢の良かった男が「ひやぁあああああっ」と変な声をあげておののく。
「鳴いてんじゃねぇ! 死ね、クソがっ!」
 飛びかかった瞬間、表のドアが開いて警官ふたりが飛び込んでくると、ヤクザものはそのふたりの間をくぐる。
「逃げるなあっ!」
 意識することなく、腹から声が出た。
「ひ、ひと殺し!」
 警官ふたり、狼狽しながら私の前に立ちはだかる向こう、ヤクザ者の声が遠のいて行く。
「うるせぇ! まだ殺してねぇ! 人殺し呼ばわりすんなら明日また来いやぁ! お望み通り殺してやらぁ!」
 心臓の音が聞こえる。耳が熱い。凄まじい高揚感。包丁を握った手がガタガタと震えている。
 その後、傷害の現行犯で赤坂署へと連行されて、事情聴取された。被害届が出されたら立件されるらしいが、被害者がだれかもわからず、警官も少し困っていた。事務所のひとがあれこれ手を回してくれたのか、私を迎えに来たのはとある番組の大物プロデューサーだった。

 亜実にも話を聞くと、借金で首が回っていないのは事実のようだった。
 ワイルドダックと簀巻座とは直接の契約はなかったが、協賛企業を通していくつか接点があった。数ある関係先のなかでもうちが狙われたのは、女性ばかりの会社だからじゃないかと警察の人は言った。
 亜実はいつになくしんみりした顔を見せた。劇団員のひとりが覚せい剤で検挙されて、銀行が融資を引き上げて、そこからは火の車。もうどうすればよいかわからないと、被りを振った。
「どうするの?」
 と、聞いたら、
「ストリップでもなんでもやるよ。まな板ショーでも、花電車でも」
 と、力なく答えた。
「それでもいいの?」
「簀巻座の演出だよ? 服を着てるか着てないかだけで中身は変わらないよ」
 って。これだからもう。芸術家ってやつは。
「でも、ストリップはちょっと待って。スポンサー探してみるから。ストリップに行かれちゃうとスポンサーの探しようがなくなる」
「あてはあるの?」
「ないわけじゃない」
 これだけの会話で、亜実は察したようだった。
「幹夫くんを裏切っちゃダメだよ」
「うん。わかってる」
 わかってるけど、もういいんだ。こんな世界。どうせ壊れてなくなっていくだけ。そこにどんな幸せがあるっていうの。そういうと亜実は、
「私はゆっくりと時間を掛けて、世界を修復したい」
 と、静かに漏らした。
 それから、簀巻座のスポンサー探しが始まった。
 番組のプロデューサー、ディレクターを通して、芸術に興味のあるスノッブな金持ちを紹介してもらって、簀巻座のフィルムを見てもらった。その反応は、浩二の絵本を売り込んだときと概ね同じ。それでも、どうしてもと押すと、みなそろって同じものを要求してくる。そして決まって、要求に応えたところで、スポンサーになってはもらえない。
 クソだな、世の中は。
 次に紹介された相手は殺そう。
 そう決めてしまうともう、惨殺死体候補は現れることはなかった。
 でも、簀巻座のスポンサー探しってのも嘘だ。AのためにBをやりたいと強く信じてるときには、たいがい見えない目的Cがある。私はたぶん、芸術がわかる女、そこに魂を捧げる女として自分を売り込みたいだけなんだ。各界の有力者につないでもらって、ホテルのバーで会食して。でもそれも口実か。世界なんか滅びるって、それだって口実だ。生きていく。それも口実。幸せになる。しかり。金持ちになりたい。この世界に君臨したい。ちやほやされたい。服を着てると、嘘を吐かれてるような気がする。
 けっきょく簀巻座はストリップまでいかないギリギリのところに踏みとどまり、一部好事家の口コミ人気に支えられて、なんとか糊口を凌いだ。
 私はだんだんと、自分の部屋で過ごす日が増えた。
 そばにはいつも幹夫がいた。
 こんなクズのような私に、幹夫は優しい。
 汗をかいたあとの、パイナップルにも似た甘い匂い。ふたりの汗が混じった匂い。

 体に変化が現れたのは、それからすぐ。早朝、不意に目が覚めて、そのまま眠れない日が続いた。横になったまま、蛍光灯のひもを見上げて――そういえば小学生の頃、自分のことは男だと思っていたことが胸に浮かんできた。
 私は背も高いし、女らしいとこもない。きっとペニスが生えてないタイプの男なんだ。高学年になって、それなりに体に変化が起きても、そういうタイプの男だと思った。遺伝子の話を聞いても、なるほど私の染色体はXXYで、Xが一個多いから女のような現象が起きるんだなと思った。
 高校を出て、上京して、それなりに自分を女だと認めざるを得なくなったいまも、自分に女としての機能なんかないと思っていた。自分が子供を抱いてる姿なんて想像できなかった。それでも万が一にも子供なんかできたら、認めざるを得なくなるから、気をつけてはいた。それなりに。
 毎月の憂鬱が遅れて、二週間、三週間。もしかしたらと思う。だけど、受け入れるのが怖くて四週間、一月が過ぎた。
 どうしよう。
 何度こうやって蛍光灯のひもを見上げて考えただろう。
 そろそろ決めなきゃいけない。自分のことを知らなきゃいけない。妊娠検査薬を買って、もし子供ができていたら……、できていたらどうする? いや、考えたくない。そんなことは起きるはずがない。
 六週間。薬局へ行かなきゃいけないと思いながら、薬局が視界に入ることすら恐ろしくなる。明日行くから、今日は仕事に行こう。今日ははずせない会議。今日はひとと会う約束。八週間。
 日記をつけておけば良かった。だれの子かわからない。
 三人のなか、雅文か、浩二か、幹夫かで言えば幹夫だ。三人のなかだけならそうなる。
 そのまま三ヶ月が過ぎる。
 もう薬局にも病院にも行きたくない。
 仮に子供ができていたとしても、いや、もう確実にそうなんだけど、何も気が付かなかったふりをして、このまま生みたい。
 というか、滅びろよ、世界!
 あと半年で!
「もしかして、来てないの?」
 朝方、ひとりで泣いていると幹夫に訊かれた。
 ずっと夜をともにしてるし、それは気づくか。
「来てないって、何が?」
「いや、なんでもない。ごめんなさい」
 私がとぼけたら、幹夫はそれ以上追求することもなかった。でももう隠せない。次の日、薬局で検査薬を買って、亜実の部屋に行った。
「なんで私の部屋でそれをやるの?」
 と亜実は呆れたけど、
「怖いから」
 と答えて、もう三ヶ月、あるいは四ヶ月来てないと話すと、彼女は眉をしかめた。
 検査はするまでもなかった。
「妊娠してる。どうしよう」
 親はだれ? 生むの? 生まないの? そう問い詰められるかと思って言ったら、亜実は何も言わずに抱き寄せて、私のかわりに泣いてくれた。
「大丈夫だよ。沙也加のやりたいように決めて。沙也加が子供を生んで、男たちがみんなそっぽを向いたらふたりで育てよう。だから、決めていいよ。心配しないで。沙也加が自由に」
「三人も彼氏がいたのに、頼れるひとがひとりもいなかった。三人もいるせいで。私が優柔不断なせいで」
「違うよ、沙也加。頼っていいんだよ、三人とも。三人だけじゃなくて、この世界全部、頼っていいんだよ」
「でも」

 幹夫には最後に話そうと思った。
 まずは浩二に。
 もう男と女の関係は終わりだって伝えなきゃいけない。
 あの日と同じ、帝国ホテルのロビーで待ち合わせた。
 浩二は杖をついて、深いグレーのスーツを着て姿を見せた。
「ごめんね、大事な話があって」
「僕もだよ。ずっと言おうと思ってたんだ」
 私が浩二の手を取ると、小さく、枯れた声で、「ありがとう」って聞こえた。
 対面でソファに掛けて、バナナジュースをふたつ頼んだ。
 話さなきゃ。そう思っただけで涙が出てくる。「子供ができた」そう伝えるだけなのに、もしかしたら今日で永劫の別れになるかもしれない。私がバカだから。何も考えて来なかったから。
「あのね……」
 一言目が口に出ると、もう次の言葉はしゃくりはじめた。口を開こうとしても、ただ震えるだけ。
「お腹にね……」
 ぼろぼろ、ぼろぼろと、涙が止まらない。
 浩二は身じろぎもせずに聞いてくれてる。私の口からは嗚咽が漏れる。二度。三度。収まるのを待って、その隙きに言葉を接いだ。
「子供がいるの……」
 浩二は頷きながら、私と同じように涙をこぼしはじめる。
「うん。おめでとう」
 おめでたくなんかないよ。世界は滅びるんだよ。そんななかで子供ができたって。しかも、だれの子かもわからない。
 おしぼりを頬に当てて涙を受けた。鼻を通る息が後頭部の痛みになって抜ける。涙に溺れた視界のなか、浩二は前かがみになって、身を乗り出す。
「あの。もしかしたら君はもう、僕のそばを去っていくつもりかも知れないけど、決めていたことだから言わせて」
 きれいに髭をそった口元が、ゆっくりと確かめるようにして言葉を並べた。
「僕と結婚して欲しい」
 意味がわからなかった。頭の中で何度も繰り返して、主語と目的語を探した。だれが? だれと? まさか私と?
「子供のことは驚いてるけど、それは関係なく。もし君が良ければ、そのお腹の子ともども、僕の家族になってほしい」
 私は、声をあげて泣いた。
 浩二は私の横に座って、ぎゅっと胸に抱いてくれた。

6 残留を決めた日

 ひとを天秤にかけたくなかった。雅文と幹夫に話を聞いて、それから決めるのは嫌だった。ふたりがどう言うかで、浩二への返事を変えたくはなかった。
 私は浩二と結婚して、男の子を生んだ。
 生まれた子には、啓介と名付けた。
 浩二と暮らすようになって、私の乱れた生活もだいぶ収まって、世界の崩壊はどこか遠くの出来事になった。来年の干支の動物がどこそこの動物園で生まれたというニュースに続けて、地磁気の異常と南極の氷床の崩落が伝えられる。
 世界のどこかでは戦争が続いていて、食料を奪い合い、とある国では飢餓が多くの命を奪っていった。こうやって少しづつ人口は減っていく。いまの世界人口、四〇億がまかなえなくても、一億なら、一千万ならこの地球で生き残っていけるかもしれない。その一千万は誰かが選ぶわけでもなく、ただ殺し合いの果てに生き残った一千万なのだと思う。そしてその殺し合いはもう始まっている。どこかの商社のエリート社員が、日本のために買い占めた食料で、どこかの国は飢饉に見舞われ、内戦が置きて、人が死ぬ。
 どこかの神社に奉納された草鞋、市民の清掃ボランティア、世界の滅亡。そうやって緩やかな死が生活の中に織り込まれていった。
 私はと言えば、啓介が生まれてから不味くなった煙草をやめてしまった。
 亜実が言ったように、私はお母さんになりたかったのかもしれない。でもうちでは、浩二がお母さん業の半分をこなすし、私の仕事も相変わらず、クレイジーな働き方は良し悪し併せてお父さん的。ワイルドダックはすこしだけひとが増えて、私は社長になって、仕事はハンコと飲みが中心になった。
 気がつくともう、アンテナも延ばしていない。
「岬さんは懐メロしか聞かない」
 新入りのスタッフがそう囁いては笑う。
 啓介が三歳になるころ、千駄ヶ谷の木村さんから「こんど幹夫くん、《江戸のバカ》のライブで飛び入りで演奏するで」と聞いて、何年かぶりにライブハウスに出向いた。
 昭和58年、6月4日。吉祥寺。
 ライブ会場で亜実の姿と、幹夫の姿をみつける。
 親友、中江亜実も私に似たクソだった。あれこれ注文をつけて、幹夫にも注意を促して、でもたぶん、このふたりは付き合うことになるだろうという、妙な確信があった。
 なぜなら、亜実も私と同じように、彼の詞に惹かれていたから。
 彼の詞からは違う宇宙が生まれる。
 私も亜実も、それを信じていた。
 幹夫の出番は後半。それまでは客席の後ろで人熱れに体を温める。休憩の時間を終えて、私が化粧室から戻るころには、幹夫と亜実の距離は半分に縮まっていた。
 やれやれだな。いくつになっても幹夫はネンネだから、クズにばっかり引っかかるんだよ。
 幹夫は出番に備えて、三度笠をかぶって息を整える。
「地蔵に赤いはちまき。それは、隠密同心集合の合図である」
 リードギターのMCとともに後半の幕が開け、幹夫がステージに上がる。
 そういえば、言ってたよね、亜実。
 ゆっくりと時間を掛けて、世界を修復したいって。
 あのときはピンと来てなかったけど、幹夫とならできるよきっと。
 だから幹夫、彼女を宇宙へ連れて行って――

 それからわずか3ヶ月。
 昭和58年、8月27日、ふたりは宇宙へと旅立った。

特別編は本編にも収録されています。ぜひ本編の方もお楽しみください。

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